帰潮

「お前は当時、もう家を出ていたんだったよな」

「ええ、就職して少したった頃でした」


        *                    *


 コーデリアの変貌は悪夢のように速く進行した。乳房の横、両脇にえらが生じ、肺も変化したためにバスタブに満たした海水の中にいるしかなかった。

 美しかった髪は抜け落ち、鼻梁びりょうが消え顔全体が隆起し、鮫類を思わせる灰色の頭部になった。声帯も変化し、口笛のような音を発するだけ。言語としての意味はあるのだろうが、エミールたちには理解できなかった。

 下半身はさらに奇怪だった。軟体動物のように下腹部は膨れ上がり、触手めいた妖しい器官が数多く生えていた。尻から生えた尻尾が大きくなると同時に足が委縮し、小さいひれ状に変化していた。

 今のコーデリアの姿に、エミールはあることを思い出した――コーデリアを拾って海底火山の噴火から逃げる際、クジラのような大きい影が現れ、直後に。てっきり噴火の圧力だとばかり思っていたのだが。

 あれは、――あるいは――のひとりが助けてくれたのだろうか。もしかしたらコーデリアの……。

 エミールは無力感にとらわれ、家にこもる日が続いた。何もできなかった。何も。


「彼女に会わせてください!」

 リカルドが家に押し掛けてきた。エミールは細くドアを開け、言った。

「見ない方がいい。君には美しい娘の姿のままで記憶していてほしいと思う。お願いだから……」

「何を言ってるんです」

 リカルドは言った。

「どれだけ姿が変わろうと、魂は不変のはずだ。そうでしょう? 

 彼は本気だった。

 しばらく無言の時間が流れた後、エミールはドアのチェーンを外した。

「……入れ」


 リカルドは見た。覚悟していたとはいえ、やはり衝撃を受けた様子だった。コーデリアの肌にそっと触れ、座り込んで嗚咽おえつを漏らした。

 エミールは優しく彼の肩を抱き、言った。

「コーデリアは海に帰そうと思う。彼女自身の願いでもあったし――ここにいてもいらぬ噂が立つだけだからな。君のおかげで心の整理がついたよ。ありがとう」

「僕も手伝います、最後まで」


 計画はその夜に実行された。

 事情を聞いたディランがピックアップトラックを提供し、エミールとリカルドが荷台に子供用のプールで即席の水槽を準備した。

 砂浜に着いていざ最後の別れ――という時、リカルドはこんなことを言い出した。

「すみません、僕と彼女の――二人だけにしてくれませんか」

 エミールとディランは目を見合わせたが、恋人たちの希望を叶えることにした。車から離れた。リカルドが一方的に何か言っていたようだが、聞かないようにしていた。漁師であっても、紳士であることは可能だ。

 満月の大潮。穏やかな波と風。光を反射した月の道は、まるで彼女を迎える祝福のようだった。


 三人の男たちは<海の娘>をその広い、大きな胎内へと還した。


 リカルドは数日後、失踪した。クレジットカードでスキューバ一式を買っていたことが分かったのは、かなり後のことだ。

 四か月後、水死体で発見された。



 コーデリアを海に帰してから一年がたち、ようやくエミールたちにも平穏が戻ろうとしていた。

 しくもコーデリアを拾った、勝手に誕生日と決めていた、その日の夜。

 妙に湿気の多い、蒸し暑い夏の夜だった。

 寝付けずに酒を飲んでいたエミールの耳に、かすかなノックの音が聞こえた。

 エミールは不審がりながらドアを細く開け、外の様子を見た。

 ノックの主とは別の、その声にエミールは倒れこみそうになった。


 


 海水に濡れた地面に残された、見覚えのある物体。

 赤ん坊だった。

「コーデリア! お前なのか!」

 エミールは家を飛び出し、あたりを走り回って探したが、その姿を見つけることはできなかった。

 家に戻って赤ん坊を抱きあげた。

 コーデリアによく似た、可愛らしい女の子が、元気に泣いていた。


        *                    *


「あいつの――リカルドの目は真剣だった。だからこそあんなことに、な」

「アシュリンの遺伝子は調べたんでしょう、父さん?」

「どこまで信用できるかわからないがな、コーデリアのデータとのものが一致したよ」

「妹と……リカルドの子……」

「アシュリンは、だと俺は考えている。あの子も年頃になってするのか、五分五分だろう。それを知るのは神様だけだ。お前の気持ちもわかるが」

「まったく……え? ということは、今日はアシュリンの誕生日だ。ということは……」

「コーデリアが一年に一回、家に帰ってくる日だ。いろいろ魚や貝だの年代物のコインだの、珍しいものを置いていってくれるよ。ただな、あいつは姿を見せてくれん。お前にも会わないつもりだろう。水臭いやつだ――水棲種族だと皮肉ってるわけじゃあないが」

「父さん」

「それともう一つ、言っておかなきゃならん。俺は癌だそうだ。マリアンがひとりになったらな、何かと助けてやってくれ。頼む」

「……何ですかそれは。まったく、好き勝手にやっておいて……ひどいですよ、父さんは……」


「すまんな。だが、最後にもう一つだけやっておかなければならないことがあるんだ」





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る