03. 俺と彼女の関係は謎すぎてよく分からない。
それが、家族以外では一番俺との関わりが深く――いや、最近は家族よりもずっと長く一緒にいるのか――、とっても仲のいい幼馴染みの名前。
心の羽と書いて「このは」と読むんだから、少し珍しい名前かもしれない。でも、いい名前だと俺は思う。
木の葉といいながら秋っぽい要素はほとんどなく、苗字の風と海とを並べてみればむしろ夏全開。
スケールが大きくてとても爽やかな、どこまでも広がる真っ青な海の風景なんかが頭に思い浮かんできて、綺麗だと思う。
ご両親がどんな思いで彼女にその名前をつけたのかも、ある程度想像できるし。いい名前だ。
ただ、実際のところ本人がその通りに育っているかというと、それにはいささか疑問だと言わざるを得ない。
「羽」はきっと空に羽ばたくこと、勇気とか自信とか挑戦とかいろいろと意味は思いつくけど、今の心羽は羽ばたいてるんじゃなく常時羽を伸ばしている、休めているだけのように見える。
あまり人目を気にしないタイプで几帳面でもないから、そういう意味では心が「大きい」「広い」と言えなくもないのかもしれないが、俺からしてみればそれはただ単に適当なだけだ。
一人の女子として、しかもそれなりに恵まれた容姿を持っているというのに、その性格は果たしてどうなんだ……。それはもう、ここ何年かというものずっと俺が常々悩んでいることにほかならなかった。
「ただいまぁ~」
一度下の洗面所に行った心羽が、数分経ってから部屋に戻ってきた。ぱっと見ただけでも、さっきの起きたばっかりの時よりは髪の絡まりとかがなく、見た目がだいぶ綺麗になっている。
勝手に触っても怒られることはないから、俺もさらっとその髪に指を通してみる。するりと肌を撫でる感じが少し心地よかった。
俺は、ハンガーにかかった制服を彼女に手渡しながら言った。
「今週から完全に夏服に移行だから、ブレザーはもう持ってく必要ないな。やっと鬱陶しいのから解放される」
「あれ~、そうだったっけ??」
「うん。……昨日もその前も俺言ってたと思う」
「ふう~ん……ごめん、覚えてない」
「大丈夫。そうだろうと思ってたから」
特に月曜日の朝には顕著なことだが、心羽の記憶は寝るだけで勝手にどこかのポイントでリセットされてるんじゃないか、俺はたまにそう思うことがある。
目が冴えてくればそれも戻ってくるってところが謎だけど。
だいたい俺の弁当を食べる昼休みの始まりから放課後までが、まともにスイッチの入っている時間帯で、そこは逆に驚くぐらい元気になることさえあったりなかったり。
まあ一言でまとめると、俺でも分からない部分がまだあるくらい、彼女は難しいってことだ。
「でも遅くない~~? 夏服になるの~」
「うん、そこは俺も同意するよ」
俺たちが通っている県立の高校、
特徴的といっても、デザインとか形が珍しいというわけではなく、男子と女子で少し色が違うのが面白いという意味。
男子は上がほとんど真っ黒の学ラン、下も同色の長ズボンで至って普通だ。
女子はセーラー服ではなくてブレザーのタイプだが、それがやや赤混じりの色で、渋くないえんじ色と言うべきか、明るさ控えめのワインレッドと言うべきか……そんな色だ。スカートはややネイビー寄りの黒といったところか。
校章は全員つけることになってるとはいえ、男女ともに襟のところに小さい金属製のものをつけるだけだから、一見したら男女で違う学校の生徒にも見えるかもしれない。ただ、女子の中には制服が好みだから入ったという生徒も、結構いるらしかった。
夏服になると、男子は学ランなしで半袖もしくは長袖のワイシャツ、ネクタイはもともとなし。女子はブレザーなしでワイシャツ、その代わりベストの着用が絶対になる。
6月の頭から移行期間には入っていて、登校時には上着を着ていてもいなくてもいいが、少なくとも必ず持ってきてなければいけないという、なかなか面倒なことになっていた。
学ランにしてもブレザーにしても、着なかったらそれはそれでかさばるから、なかなか鬱陶しかったわけだけど。
今週からそれもなくなるから、多少楽にはなる。
それはそうと、心羽の着替えの時間。
今までに何度かというレベルではなく見てきたこともあるし、もう見たからといって何か特別なことが起こるわけでもない。でも、俺は基本的に不慮の事故以外は、そういうものは避けるようにはしている。
だから、今日もいつもの如くなんともなしに部屋から出ようとして――心羽に声をかけられた。
「ねえ、晴希」
「なんだ」
俺は絶賛着替え中の心羽には背中を向けて、とりあえずびっしりと色々なジャンルの本が並べられた本棚でも見て、立ち止まる。
心羽とは互いに背中同士を突き合わせている構図だ。でもあっちは鏡を見ながら着替えているわけで、俺が逃げようとしているのはバレバレだ。
「別にいいのに……晴希なら」
「お前は良くても、俺はあんまり良しとしてない」
「残念」
「何度も言ってると思うけどさ……もうちょっとさ、あれよ。そのへん意識しようよ。年頃の女子なんだからさ」
「うーん……めんどくさ~い」
「はぁ……変わんねえな、ほんと」
俺は、変態ではないと自負している。
部屋に入ること自体は、彼女の生活のために必要最低限な仕事のうちに入るから仕方ない。
けど、避けられるものは事前に避ける――そうして俺は、ときに厳しくときに緩く、柔軟に線引きをしてきた。
そのうえで、「不慮の事故」にあたるケースが何故これまでに何度もあったかというと、それは間違いなく心羽のほうの問題だ。
彼女の感覚がこんな感じでずれていることが、言ってしまえば彼女のほうが俺よりも変態であることが、俺が抱えている中でもなかなか大きな、見過ごせない悩みだった。
「先に降りてるぞ。時間もないし、朝メシあっためておくから。景子さんが作ってくれてるの、あるだろ」
一度は足を止めてしまった俺は、理由をつけて――実際合理的だし、何もなくてもそうするべきところだけど――再び歩き出し、開いたままになっているドアをくぐって部屋を出ようとする。
だがその俺の背中に、またもや心羽の声。
「ちょっと……見てくれない?」
「何を」
「透けてないか」
「……」
下着の話か。だけどそれは意味のない質問だ。
「別に関係ないんじゃないのか。どうせ上からベスト着るんだからさ」
「……そうだった」
うん、やっぱり抜けてる。それでゆるい。
至って普通の、いつもと変わらない月曜日の朝の彼女だった。
♣♠♦♥
ここ風海家は、今のところは心羽とそのお母さんの景子さんの、二人暮らしだ。
俺が三人目の家族になりかけてる感はあるけど(景子さんは既にそのつもりでいるようなところがある)、俺は心羽の幼馴染みなだけだ。この主張に多少の無理があることは分かってはいるが、あくまで幼馴染みだ。
東城家には母親がいないが、風海家のほうはというと、父親の
心羽には、四つ年の離れたの姉である
彼女は夏休みには毎年帰ってくるから俺も顔を合わせるけど、達也さんのほうは、俺が小三か小四だったぐらいの頃に会ったきりだ。
風海家は共働きで、景子さんの出勤がたしか朝の六時半ぐらいとそこそこ早い。
その時間の関係と、それ以上にまず心羽が俺じゃないと起きてくれなくなったこともあって、平日はこんなふうに俺が部屋にあがりこむ結果になっている。
鍵までもたせてもらってるのだから、景子さんの俺に対する信用の厚さには、目を見張るものがある。
その一方で、心羽の弁当を俺に作ってもらってたり、学校でも常に一緒にいて面倒みてもらってたりで、相当な迷惑をかけているからと、景子さんはいつも俺に頭が上がらないみたいだ。
心羽と同様俺を家族として扱おうとするし、お礼だからと言って過剰なくらいの厚意を俺に注いでくれる。
恥ずかしい話、俺もその勢いに押されて、夕食を風海家でご馳走になったり、料理のおすそ分けを大量にもらうことが、最近では結構あった。
たいてい朝は、景子さんが用意した心羽の分の朝食が冷蔵庫に入っているから、それをレンジで温めるだけだ。
今朝はフレンチトーストとベーコンエッグにソーセージ、洋風ドレッシングのサラダ。さすが元調理師学校出身とあって、景子さんの作る料理はなんでもめちゃくちゃ
今は食品関係の、少し別の仕事をしてるらしいけど。
それに比べたら、もともと母親の真似から始めて、ただがむしゃらになんとかやってきた俺の作るメシなんて、きっと足元にも及んでない。
一応合格点というか、並の主婦よりは上手いとの評価はもらえているところだけど、まあ逆に考えればその程度だ。
景子さんがいながら、どうして俺のそれを心羽があれほどまでに求めてくるのか、俺にはいまいち理解できていなかった。
起きたすぐあとから、何故か無駄にお腹を空かせていた心羽が朝食を終えたのが、07時58分。
遅くとも08時05分には家を出て学校に向かい始めるのが目標だから、一応間に合ってはいるだろう。日曜の昨日のうちに持ち物等の準備をしっかりしておいたから良かったものの、意外と余裕はないものだ。
皿洗いと戸締り消灯を終えた俺は、玄関のドアを開け放して靴を履き、既に自転車のロックまで解除した状態で、心羽が上の部屋から降りてくるのを待っていた。
「心羽ー、まだかーー?? そろそろ出ないとあれだぞ」
「――――」
俺の声は届いていて、心羽もなんだか言っているように聞こえるが、声が小さくて何を言ってるかまで聞き取れない。
ふうーっと俺は大きく溜息を吐く。
しばらくして、心羽はあまり大きくない荷物を持って、ゆっくりとした足取りで階段を降りてきた。
「ごめ~~ん、待たせたぁ~」
「うん、行こうか」
「……」
「おーい」
「どう、思う?」
「ふぅ……そうだな」
とにかくさっさと出発しようと思った俺だけど、もちろんその変化に気がつかなかったはずがない。
まだまだ虚ろな目をしている心羽は、何を思ったか珍しく、黒っぽい色のアメピンで左のほうの髪を軽く留めていた。
目立つものではなくても、普段と違えばその違和感の正体にはすぐに気がつく。
そういえば、俺がよく「髪型とかも気にしてみれば」って言ってるから、それでかもしれない。
感想を求めているような口の心羽に、俺は抱いたそのままの印象を素直に伝えた。
「ごめん、ないほうがいいな」
「……??」
「俺は、少しでも引き締まる感じにしたほうがいいと思ってたけど……やっぱり変だな。心羽らしくない」
「だよね」
「うん。多少だらしないほうが似合ってるわ」
俺がそう言うと、心羽は特に残念がる様子もなく、むしろ少しほっとしたような表情になってその小さなピンを外した。たぶん心羽もあまり本意じゃなかったんだろう。
留められていた髪がふわっと少し広がって、開放感というか無防備感というか、いつも通りの雰囲気が戻った。
結局のところ、いつもここに落ち着くんだ。
なにかを変えないといけないと思いながら、実際はこんなほんの小さな変化があるだけでも、俺も心羽もそこに違和感を覚えて、それだけで一日調子が狂うような気がしてしまう。
これだから俺たちは変われない――俺はそれを薄々感じてはいながら、何故か直す気にはなれなかった。
「今日も寝るのか」
「うん」
「分かった。じゃあちゃんと掴まってろよ」
「うん」
考えてみればこれもそう。
一人乗り用の普通の自転車この一台に、俺たちは毎朝二人で腰掛ける。サドルには俺が、荷台に取り付けたクッションには心羽が。
そして心羽は――後ろから両腕をまわして俺に抱きついて、身体ごと全部預けて背中にへばりつき、俺の首の後ろに自分の頭を乗せる。
それはいまだに、一日のうちで俺がほんの少しだけドキッとさせられる、唯一の瞬間とも言ってよかった。
でもそれはまた、代わり映えのしないこの日常を形作っている、ひとつの大事なピースでもあった。
両足にぐっと思いきり力を込めて。
俺はゆっくりと、重たいペダルを踏み込んで前へと進み始めた。
――――――――――――――――――――
注:自転車の二人乗りは、現実では道路交通法により禁止されております。お気をつけください。
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