第二幕 悪役令嬢は可愛げがないので泣かない その1




 婚約破棄からエンディングまでの間で、アイリーンの進退に関係すると考えられる重要なイベントは二つある。一つは自分の死に直結するおうかくせいに関するイベント。

 そして、もう一つはセドリックがアイリーンとの婚約破棄を公にし、リリアとの婚約発表をする夜会イベントだ。

 悪役令嬢のアイリーンは婚約破棄を承諾せず、リリアとセドリックの婚約発表をしようと、ならず者をやとってリリアをゆうかいし、夜会に出席できないようたくらむ。ところがこれは当て馬キャラ──マークスがこれに当たるとアイリーンは見ている──によって未然に防がれる。

 そうとも知らずセドリックとよりを戻そうと夜会に出席したアイリーンは、会場に現れたリリアから告発を受け、ドートリシュ公爵家からも切り捨てられてしまい、平民として下町に放り出されるのだ。アイリーンにとってできれば阻止したい展開だった。

 なぜならば、平民になって生きていけるだけの能力がない。生憎あいにく、前世でもなかった。

 かといって、夜会に出席しないというせんたくも、もう選べない。今朝、一応父親に「やっぱり夜会は欠席しようかしら」とさぐりを入れてみたら、おどろいた顔で「平民になりたいのかい?」と返された。あれは本気だ。あの父親は絶対やる。欠席が同じ結果を生む。

 かといってほかの誰かが起こすかもしれない誘拐事件を防ぐ作戦を念のために立てるのは、リリアに近づくという意味で、誘拐をもくむ行動と紙ひとだ。余計にあやしまれるだろう。

 つまり現状、ゲームのフラグ回避については、具体的に打つ手がなかった。

(でもせめて、クロード様を夜会にパートナーとして連れて行って、こんやくが心の底から嬉しいと周囲にもわかるようにしておくくらいはしておかないと……!)

 そうすれば別のだれかがリリアを誘拐しても、アイリーンの方に動機がなくなる。何が起こるかわからない以上、まず確実に打てる手を打つべきだ。

 あとは、父親からの『損失を取り返せ』という任務もこなさねばならない。

(時間がないわ。──並行で進めるしかないわね)

 そんなわけで、昨日の今日にもかかわらず、アイリーンは森の小道を歩いていた。せいな白のワンピースに、編み上げのブーツ。大きめのバスケットを持ち、パラソルをくるくる回して歩く姿は我ながらかんぺきなご令嬢だと思う。

 問題は、ぐるぐる小一時間、同じところを歩かされていることだろう。

「これが結界というものかしら」

 目印代わりに木の枝に結んでおいたハンカチをほどき、アイリーンはパラソルを閉じた。

 空を見上げてもかげ一つない。うつそうとした木々も、どこか作り物めいて見えた。

「森に入るさくまでは昨日と同じだったのに……誰かいらっしゃらない?」

 ぐるりと見回すと、不自然なまでにしんとちんもくが返ってきた。

 ためしにもう一声、投げてみる。

「わたくしをこわがって姿を現さないなんて、ずいぶん魔王様はおくびようでらっしゃるのね」

 風景は変わらない。だが、気配がした。魔王をじよくされておこったのだろう。

(私にだけ誰も見えていない、とか? ゲームでもそうだったけれど、本当にものに好かれてるのね)

 そしておそらく、クロードも魔物達に弱い。

 アイリーンはしおらしくめ息をついた。

「わかりました、今日お会いするのはあきらめます。でも誰かいらっしゃるんでしょう。出てきてくださらない? おびの品を持ってきたの」

 返事はない。だが、まどいの空気だけはなんとなく伝わる。

 アイリーンは持っていたバスケットのふたを開け、誰もいない空間に向け中を見せた。アーモンドやチョコなどの味をとりそろえた、たくさんのクッキーだ。

 意外なことに魔物が人間の食べ物を好んで食べるというのは、ゲームのおかげで知っている。

「わたくしが作ったの。お口に合うかどうかわからないけれど、もらっていただきたいわ。それとこれを、カラスさんにと思ったのだけれど」

 そう言ってバスケットの内ポケットから一つ、小さなちようネクタイを取り出した。しんの絹のリボンはすべらかで、決して安物ではない。

 それを片手ににっこりアイリーンは笑う。

「昨日も言いましたけれど、カラスのみなさんのむかえは魔王様の評判にかかわります。なので魔物のみなさまにも、品位を持っていただきたいの」

 風景は何も変わらない。変わらないが、戸惑いの空気だけははだで感じた。

「そのためのアクセサリーです。カラスの皆様の中で一番強いまとめ役の方だけでも、これをつけていただけないかしら。魔王様がしんらいしている門番のあかしとして」

 返事はない。だが、門番の証、という声が聞こえた気がした。

 昨日のベルゼビュートのかたうでという応答と同じ、かれたこわいろだ。

「代表で誰か出てきてくださらない? それとも魔王様はそれもおつしやる?」

「人間ノ娘、ヨコセ!」

 ばさあっととつぜん何もない空間からカラスが飛び出てきた。ひときわ大きい。目は魔王と同じ赤、通常ではありえないするどく大きなつめで、わざわざがいこつを持っている。まさか魔物なりのおしゃれなのだろうか。

 アイリーンは地面に降り立ったカラスに目線を合わせるべく、ひざをついた。

「あなたが一番強い方?」

「ソーダ! おう様ノ門番! むすめ、証、ヨコセ!」

「つけて差し上げるからうしろを向いてくださる? あなた、魔王様と同じ目の色なのね」

「魔王様、同ジ!」

 すっかり浮かれきった様子でカラスがくるりと背を向ける。その目の前に、アイリーンは開けたままのバスケットを置いた。

「よろしかったら、好きなクッキーを味見なさって」

「娘、イイ心ガケ。俺様、アーモンド!」

 器用にくちばしの先で一枚だけアーモンドクッキーをとり、ぱくりと食べる。その間にアイリーンは蝶ネクタイを首にそっと回した。

 意外にふわふわしたもう心地ここち良い。

「ウマイ! ウマイ! 娘、みつギ物、持ッテクルダケ、許ス!」

「あらうれしい、あなた、れいな羽をなさってるのね」

「俺様、一番、強イカラナ! 娘、オ前見ル目──グッ」

 びくっと全身をふるわせたあと、ばたんと真横にカラスがたおれた。しゆんかん、視界が開ける。

 明るい森の小道が一瞬でうすぐらい魔王の森に変わる。れた木の上には昨日と同じカラスの群れがいた。ネズミやモグラに似た魔物達もいる。完全にアイリーンが取り囲まれている形だ。

 だがアイリーンは、ぶるぶる羽の先まで震えているカラスをしっかりといだき、パラソルの先に仕込んだかくしナイフをきつけながらゆうに笑う。

「動かないでくださいませ、皆様。おろかな魔物だこと……人間を信じるだなんて」

「人間ノ台詞せりふカ、ソレ!?」

「グ……何、シタ、娘……!」

「クッキーにしびれ薬を仕込んでおきました」

「殺ス! 殺ス、娘!」

「あら、魔王様にめいわくをかけたいのですか? わたくしはドートリシュこうしやく家のれいじよう。わたくしが魔物に殺されたとなったら、魔王様の立場が悪くなりましてよ」

 薄く笑ったアイリーンを非難するように、があがあとカラスがわめく。ほかの魔物達も殺気立っていた。だがうでの中にいる仲間が心配なのだろう。おそってはこない。

 かまわず、声を張り上げた。

「さあクロード様、この魔物を助けたければわたくしの前に出てらっしゃい! でなければ今からこの魔物の羽を一枚一枚もいでハゲに」

 台詞をばくふうさえぎった。やみを模したくろかみ。宝石より深いかがやきを宿した深紅のひとみが、空中からアイリーンをへいげいしている。

「王!」

「魔王サマ! 人間ノ娘ガ裏切ッタ!」

 ふわりと地面へ足を下ろした魔王に、魔物達がすがりつく。アイリーンはにこりと笑った。

「ごきげんよう、クロード様」

 無言しか返ってこない。だが、ねらいの人物を引きずり出せたのだから十分だ。

「この方を治して差し上げられて? 時間がたてば平気になるはずですけれども」

 クロードが正面に膝をつく。そして、アイリーンの腕の中でしびれているカラスに、そっと手をれた。

 瞬間、かっと目を見開いたカラスがばたばたと羽を動かし始める。どうやらしびれが取れたらしい。

「さすがですわねえ」

 感心するアイリーンの腕からもがき出たカラスが、クロードのかたに乗ってさけぶ。

「娘! 殺ス! 絶対殺ス!」

「あら。これでおあいこでしょう」

「何がだ」

 立ち上がったクロードが短くたずねる。にこりとアイリーンは笑った。

「わたくし、忘れておりませんわよ? カラスの皆様によってたかって侮辱されたことを」

 完全に冷め切っていたクロードの表情に、わずかなどうようが見えた。すなぼこりをはらい、アイリーンはクロードの真正面に立った。

「そこでわたくしに負い目を感じるなら、最初からカラスを教育すればよろしいのです。ねえ、さきほどわたくしにだまされたカラスさん」

「殺ス!」

「仲直りしましょう。お詫びにチョコクッキーを差し上げますわ」

「騙サレナイ! 騙サレナイ!」

だいじようですわ。しびれ薬入りはアーモンドだけですの。そのしようにわたくしがほら、半分食べてみせますから」

 そう言ってアイリーンは取り出したチョコクッキーを、さくりと音を立てて口にふくんだ。きちんと飲みこむまで、蝶ネクタイをしたカラスがぎようしている。

「ね? 大丈夫でしょう。さあどうぞ。これで仲直りしましょう?」

 食べかけのクッキーを差し出す。赤い目がぎょろぎょろとアイリーンと、それからクロードをこうに見た。クロードが溜め息といつしよに、アイリーンから食べかけのチョコクッキーを受け取り、一口かじる。

 思いがけない展開にアイリーンは目をまばたいた。クロードはすました顔で飲みこみ、半分になってしまったクッキーを肩の魔物に差し出す。

「大丈夫だ」

 たん、ばくりとカラスがクッキーに食いついた。

「ウマイ! チョコ、ウマイ!」

「マ、魔王様……」

 周囲のもの達がそわそわしだす。クロードがアイリーンを見た。

「アーモンド以外は大丈夫なんだな?」

「え、ええ……でもどうしましょう。こんなところで困りましたわ」

「……どういう意味だ。まさかチョコクッキーにも何か仕込んだのか」

「はい。クロード様にその気になっていただこうと思って、男性にしかきかないやくを」

 にこやかに答えたアイリーンの背後で、かみなりが落ちた。





「君はおかしい」

 げっそりとしたクロードに、アイリーンは小首をかしげた。

「そうでしょうか。クロード様は責任感の強い方だと見込んでの策だったのですが」

「なんの責任だ」

「あら、それをわたくしに言わせようとなさるなんて」

「あっははははは、あははははは!」

 紅茶を出してくれたキースが、ついにえかねたように笑い出し、クロードににらまれる。

「何がおかしい、キース」

「だ、だって、魔物をひとじちにとって魔王をおどしたあげく、媚薬をもるご令嬢とか。いやはやいつざいですよ」

「おほめにあずかり光栄ですわ、キース様」

 用意された紅茶を一口含み、カップをソーサーに置く。

 今いるのは、昨日アイリーンがかされていた応接間だ。あくまで帰れというクロードを押し切って、ようやく一息ついたところだった。

 人を案内できる場所がここしかないというのは問題だが、出された紅茶もソファの座り心地ごこちも決して悪くはない。笑い転げているキースが調ととのえているのだろう。

「でも残念ですわ。クロード様に媚薬がきかないなんて……」

「王にそのようなざかしい薬がきくか」

 みようほこらしそうにベルゼビュートが答える。キースがしようまじりにつけたした。

「クロード様は散々毒殺とかもくまれてますからね。体にたいせいがついちゃって薬がききにくいんですよ。っていうかそもそも魔王ですし」

「あら。でしたら、もっと強力なものを用意してもきかないのかしら」

「君が用意した食べ物は、今後いつさい口にしないことにする」

「じゃあ別の方法を考えますわね」

「考えなくていい」

「だって時間がないんですもの」

 ほおに片手をあてて、なやましげにアイリーンはめ息をつく。

「理由を聞いて下さいます?」

「聞きたくないんだが」

「そうですか。実は二ヶ月後の夜会に出ることになりまして」

「今、聞くか聞かないかの前置きは必要だったのか?」

「それでぜひ、クロード様にエスコートをお願いしたいんですけれども」

「聞くしかないんだな、わかった。……しかしそれでどうして媚薬になるんだ……」

「? なおにお願いしてりようかいしてくださったのですか?」

 目を丸くして尋ねると、クロードが無表情になった。腹をかかえてキースがき出す。

「だ、だからせいじつを先に作ってしまおうと思ったわけですね、なるほど」

「何がなるほどだ。むすめ! 王の気を引きたいのならば、まずぜんになり、服従の意を示せ。王はおやさしい方だ。あわれんでくださるだろう」

 一人がけのこしけたままクロードが固まった。だが、ベルゼビュートの目は本気だ。

 一瞬だけアイリーンは真顔になったが、すぐさまがおを取りもどし、胸の上に手を置いた。

「それがクロード様のお望みなら」

「望んでない。だまっていろベル、君もごうとするな……!」

「では夜会に一緒に出席してくださる?」

 クロードが頭を抱える。キースは笑いすぎてひいひい言いながら、声を上げた。

「い、いいんじゃないですか、夜会。わたくしめ、はりきって用意いたしますよ!」

「まあ! 有りがとうございます、キース様」

「ちょっと待て、勝手に話を決めるな。行くと言っていない」

「王が望まぬことを押しつけるのは我々が許さぬ、人間共」

 ベルゼビュートがクロードを守るように一歩前に進み出た。

「人間の夜会だと? そんなくだらぬもの、会場ごとかいしてくれる」

「ベルゼビュート様。あなたは何もわかっておられないのね」

「何だと」

「ベル。お前が言いくるめられる予感しかしない、やめろ」

「世間に知らしめたくありませんの、クロード様のらしさを」

 おもわく通り、ベルゼビュートがどうもくした。片手で顔をおおったクロードをしりに、おだやかにアイリーンは説得する。

「クロード様は素晴らしい方でしょう」

「……もちろん、王は素晴らしい方だ」

「でしたら夜会への参加はひつです。人間達の前に姿を見せてこそ、クロード様へのが形成されるのです。あなた達のおうかがやくのです」

「……王が……輝く……」

 ちらちらとクロードを見るベルゼビュートは迷っている。自分達の敬愛する王が、あがたてまつられれば、うれしいに決まっている。

 そしてクロードはそんな魔物達の期待を無下にできない。

「クロード様、エスコートしてくださる?」

「……そもそも魔王の僕がつうに出席できるはずがない。会場に着く前にちがいなくじやが入る。めんどうだ」

「……クロード様……昨日のわたくしの話を聞いてらっしゃらなかったの? わたくしはあなたを飼うと言ったはずです」

 ぶっと再度キースが噴き出し、クロードがじゆうめんを通りして無表情に戻った。

「聞かなかったことにしたんだが」

「ではもう一度聞いてくださいませ。わたくしはあなたを飼います。つまりあなたはドートリシュこうしやくれいじようこんやく者です」

「……婚約者という前提がまず間違っているとてきはしておく」

「わたくしがついておりますのよ。堂々と正面から入場されればよろしいの。魔王だからってなんだというのです。責任はわたくしがもちます」

 自信満々にけ負ったアイリーンに、クロードはなんとも言えない顔をした。

ほかに不安はありまして?」

 勝手に会話を進めると、クロードはあしを組み直し、顔を少しそむけた。

「……君の立場が悪くなるぞ。魔物にくみしていると思われたら」

「まあ……まあまあまあまあ! わたくしを心配してくださるの、クロード様!」

 両手を胸の前でにぎって、アイリーンはクロードの眼前までめ寄った。ぎょっとクロードが身を引いたが、あいにく椅子にこしかけたままなのできよは変わらない。

だいじようです。わたくし、今、評判最悪ですもの。これ以上なくきらわれているか敬遠されておりますわ、だから何も心配なさらないで!」

「自分でそれを言うのか」

「だってそもそもこの夜会がわたくしを鹿にするためのものでしてよ? 公衆の面前で婚約しようだくし、わたくしが作った商会をどうぞもらってくださいと頭を下げ、セドリック様とリリア様の婚約をお祝いすることで、セドリック様の許しを得るのです。──そうまでしなければならないほどのことをしたのか、わからないんですけれどもね?」

 くちびるだけで笑うと、クロードがちんもくを返した。ベルゼビュートが鼻を鳴らす。

「人間は本当にくだらない真似まねばかりする」

「そこでクロード様ですわ、ベルゼビュート様!」

 とつぜんアイリーンに指名されたベルゼビュートが、おののいてあとずさる。

「今のわたくしの横に立ってなお、みんなが黙らざるを得ない男性! 顔もかたきも何もかもがかんぺきなクロード様の他に、だれかいらっしゃって?」

「な……なるほど……!」

「なるほどじゃない。──いい加減にしてもらえないか。僕は出席しないと言っている」

 思いがけない強い口調にアイリーンは口をつぐむ。うなっていたベルゼビュートも笑い転げていたキースも、あっという間に静かになった。

 一人用の椅子からクロードが静かに立ち上がり、アイリーンをえる。

「ドートリシュ公爵令嬢。お引き取り願おう。見送りはしない。自分の足で帰れ」

「……。お断りしたら?」

「好きにすればいい。僕にやつかい事を持ちこむだけの君とは、もうかかわらない」

 きびすを返したクロードに、アイリーンは内心でほぞをかんだ。

(ドートリシュ公爵家のえんなんて厄介事にしかならない。そういう意味ね)

 確かにドートリシュ公爵家の財力も権力も、クロードには不要だろう。彼は魔王なのだ。その気になればなんでも手に入れられる。それをしないのは、望んでいないからに他ならない。

(だとしたらこの人が望んでるのは何? ゲームでは、普通の人間として接してくれるリリアにかれたはずよね。でもリリアはせいけん乙女おとめで、ものとはあいれない関係だから……)


 ゲームではどうやって結ばれたのだろう。そういえば思い出せてない。その時だった。

「魔王様! 魔王様! 迷子!」

 テラスから飛びこんできた声に、退室しかけていたクロードが足を止める。クロードがり向いたしゆんかんにテラスのとびらが開き、ちようネクタイをつけたカラスが飛びこんできた。

 が、アイリーンの姿を見たたんおびえる。

「ゲ! オ前、マダイル……!」

「あら。ずいぶんなおつしやりようですわね、アーモンド」

「何ダソレ! 俺様、アーモンド、ちがウ!」

「あなたの名前です。正確にはアーモンドクッキーを食べてしびれたカラスさん」

 いかりのまなしを向けられた。だがアイリーンの横をすりけて、クロードが手をばす。

「かまうな、何があった」

「帰ッテコナイ! 森ノ外、出タ! フェンリル、子供!」

「結界の外に出たのか」

 クロードのつぶやきを聞いたアイリーンは、キースにたずねた。

「森というのは、この城を囲んでいる森のことですか?」

「そうです。ほら、森に入る前にさくがあるでしょう。それにそって、クロード様が結界を張って人間の出入りをかんしてるんですよ。魔物達を人間の手から守るためにね」

「不戦条約をてつていして守るため……ですか」

「さすがドートリシュさいしようむすめさん。ご存じでしたか」

 クロードがはいじように追いやられた時、こうていわした公約だ。

 魔物に人間をめさせない。その代わり人間も魔物を攻めない。その条約を交わし、皇位けいしよう権のほうを承諾してクロードは廃城とその周囲を囲む森という、あんねいの地を手に入れた。

 わずか十歳の子供が皇帝とこうしようし、決断した。それだけでそうめいな人なのだとわかる。

(……でも、それはあなたが本当に欲しいものでしたの?)

 せいがなければ得られないものを、らしいとアイリーンは思えない。

 何もかも手に入れてこそ、人生は素晴らしいのだ。

「フェンリルの子供が出て行った方向は、東の二層か」

「東の二層というと──せいだんの訓練場か、学園があるのではなくて?」

 ここ、皇都アルカートは、皇城を中心におうぎがたに広がる形で一層、二層、三層、四層、五層と分類されている。一層は主に貴族達が住む居住区で、二層は役所や銀行といったこうきようせつが並ぶ。三層はいわゆる商業区で、四層はいつぱん市民達が暮らす居住区だ。五層はそれ以外で、いわゆる貧民街。かんらく街などもあり治安の悪い場所──という分類がされている。

 そしてこの廃城と森は皇城の背後、扇を円に補う形で存在している。層を分けるかべや門にさえぎられていないため、層の一番はしからであればどこからでも出入りできる。場所によっては柵やへいがあるし、森に入るなという注意書きの看板もあるが、小川があったり地形的な問題で出入り口が完全にふうされているわけではないのだ。

「よりにもよってですね……五層の方々なら、魔物の子供くらい害がないならまあいいかでのがしてくれるんですが、うるさいうえにややこしそうな場所に……」

「こう、クロード様のほうでぱっともどしたりできませんの?」

「強制転移は、僕の視界に入っている対象でないと発動させられない」

 なつとくするアイリーンの横で、ベルゼビュートがつばさを出した。布をり付けたような黒の翼だ。

「俺がさがす」

「ちょっと待ってください、ベルゼビュートさんを他の人間に見られたらますますさわぎになりますって。私が行きますよ。クロード様もですからね! くろかみ赤目、何よりに美形な顔がめっちゃ目立ちますから! 意外と有名ですから、魔王!」

「だが手が足りないだろう。二層のどこへ行ったかわからないんだぞ」

 会話を横で聞きながら、アイリーンはふと思い出す。

(……そういえば、学園に魔物が現れるイベントがなかったかしら……そうよ、マークスのルートであったわ! 確かリリアがかばって、聖剣の乙女の力を発揮させて、マークスと力を合わせて魔物をたおす──ということは急がないと!)

 魔物の『子供』ではなかった気がするのでイベントではないかもしれないが、倒されるというのは殺されるということだ。迷子になっただけでそれはあんまりだろう。

 じっと目を閉じていたクロードが、ふとまぶたを持ち上げる。魔力を使っていたらしい。

「──学園も、騎士団の方も、まだなんの騒ぎも起こってないようだが……」

「でしたら今の内に見つけましょう。わたくし、学園をさがすのをお手伝いします」

 挙手したアイリーンに全員の目が向けられた。

「わたくしでしたら学園内をうろうろしても、そう不自然ではありません。学園の地理もあくしておりますわ。キース様は騎士団の方をまずお願いしますね」

「え? はあ、まあ……そうしていただければ助かりますが」

鹿か、娘。お前などみ殺される。子供とはいえ、フェンリルだぞ」

 ちようしようしたベルゼビュートに、ことんと首をかしげた。

「それはキース様も同じでしょう?」

「キースは顔なじみだ。しんらいがある」

「なら、クロード様の身につけているものを貸してくださいませ。じゆうなら、においでわたくしがクロード様にたのまれてさがしにきたのだと説得できるのでは?」

 反論がないあたり、いい案なのだろう。にこりと笑ったアイリーンは、クロードのえりもとを結んでいるタイに指を伸ばす。絹がしゅるりと音を立ててほどけた。

「お借りしますわね」

 そう言って自分の手首にタイを巻き付けて結ぶ。

「クロード様は、わたくしの動向を追えますか? 見つけたら人目のないところへ連れて行きますので、すぐむかえにきていただけると有りがたいのですけれど」

「できるが……いや、待て。そもそも君の助けは必要ない」

「安心してくださいませ。見つけたら夜会に出席しろとおどしたりはしませんわよ」

「──なら、どうしてだ。君が手伝う理由がないだろう」

 鹿鹿しい質問に、アイリーンはあきれた。

「何を仰ってますの。可哀かわいそうでしょう、迷子だなんて」

「……」

「もちろん、クロード様に恩を売って夜会に出席させることをねらってはいますが」

「狙ってるんだな」

「狙ってますわよ? でもわたくしはまず、あなたの願いをかなえたいんです」

 きよをつかれた顔をしたクロードを、まっすぐ見上げた。

「それに魔王の妻が、魔物を助けにいくのは当然ではなくて?」

「──。いやちょっと待て、さらっと今『妻』とか言わなかったか」

「さあ、細かいことは気にせずにクロード様。わたくしを学園まで転送してくださいませ」

「まったく細かくないんだが」

「人間はなんくせをつける生き物です。見つかったら殺されるかもしれませんわよ。早く」

 うすく脅しをかけるとベルゼビュートが顔色を変え、クロードも真顔になった。

 アイリーンの差し出した手を、クロードは一度目を閉じて、意を決したように取る。

「……頼んだ」

 そのかすれた願いに、あらと目を上げた時、そこはもう見慣れた学園の裏庭だった。

 緑がえるひとのない風景をぐるりと見回して、アイリーンは笑う。

(頼んだ、ですって)

 やはりたよられるのは悪くない。それで失敗してしまったからもう何も期待はしないけれど、迷子の子供は助けてやりたかった。

 ただ道を少しちがえただけで人間に囲まれとうを浴びせられ殺される。その光景が、自分と重なるから。

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