第2話 庚申塔
海辺に小規模な中学校がある。海辺ではあるが,海岸沿いの道の反対側は山になっており,自然の魅力に囲まれた環境にある。この辺りでは,主に漁業や農業を営んでいる住民が多く,静かな田舎町である。最近はドライブ目的の観光客をよく見かける。海岸沿いの道からは,たまに雑誌で紹介されるような美しい浜辺が見える。
車で30分程移動すれば,ビルやマンションが並ぶ町に辿り着く。この町のJR駅が中学校の最寄駅であり,そこから1時間に1~2本だけ運行しているバスが町から村への交通手段となる。
この小規模な中学校こそ,俊二の勤める勤務先である。その松島中学校は,全校で40人程度の生徒が通っている。学齢期の子どもが減少し続けており,将来はこの中学校が統廃合などでなくなることを予想しても全く不思議がない。半島のような地域で校区は広く,1時間ほど歩いて登校する生徒も案外多い。実際には海辺ではなく,内陸側の山道を通学路にしている生徒の方が多い。
通学路には,季節を反映して様々なものが生える。竹林も多いため,春にはタケノコがわらわらと伸びるが,地元の人間にとっては何ら珍しいものではない。放置されたタケノコのほとんどが,誰にも食べられることなく,つやのある緑色をまとった立派な竹へと成長する。
通学路の途中で,たまに石塚を見かける。これは「庚申信仰」と関係がある。道教に由来する平安時代から続く信仰である。日本では,神道や仏教などと合わさりながら,独自の信仰として変容してきたらしい。
諸説あるが,簡単に言うと人間の中には3匹の虫がいて,行いの罪悪を神様に告げる役割がある。庚申の日に眠ると,この3匹が体から這い出て天帝に伝え,寿命が縮められる。だからその日は眠らないで,虫が体から勝手に出ないように,というものである。信仰の象徴である石塚を庚申塔と呼び,明治の初期以降,区画整理などによって各地で撤去されてきた。「庚申」という文字や,猿が掘られているものなど様々である。決して多くはないが,この地域には残って点在している。
一人の学生が足早に歩いている。集合時間は8時だが,7時40分位に家を出たので慌てていた。母親に言わせると,いつものことである。「もっと遠い人もおるのに…」と愚痴のような母親の注意を今日も聞いて家を出た。中学2年生の若井翔太は,夏休みの剣道部の練習に,少し遅れるかもしれないと心配しながら登校していた。同級生が真っ黒に日焼けしているのに,翔太は白いままである。やや細い体に,身長が170㎝を超えていて,見た目の印象は文科系の体格の良い子ども,といった感じである。竹刀と水筒しか荷物がなく身軽なため,時々小走りになりながら学校をめざしている。部員が少なく,1年生の頃からレギュラーで試合に出ている。自分なりには,実力で選ばれていると思っている。3年生が引退した現在,次期部長になることを、先週末に顧問から言われたばかりだった。
散歩ならば,涼しい木陰が多い道なのでベストコースではある。当然,翔太にとっては全く別である。慣れてはいるが通学路の大半が舗装されてないので,石や落ち葉で覆われており、決して歩きやすい道ではない。じんわりと汗ばみながら,40m程の見通しが良い山道まで来た時,少しだけ驚き,足を止めた。その道の先に普段見ない光景が見えたからである。
庚申塔の前で膝をつき,しゃがみこんで,何かを探している女がいる。その塔は竹藪を背にして,ひざ丈ほど伸びた草に囲まれるように立っている。一応、獣道ではない程度の山道で,人が通ること自体が珍しいような場所だ。白い薄手のシャツに紺色のパンツに見えるが,その女は何かを探しているようだ。遠目でよく見えないこともあり,年代はハッキリしないが女性であることは分かる。いつもの退屈な登校中には,たまに動物の死骸を見つけることはある。しかし,人とすれ違うことはかなり珍しい。
状況が違えば,「落し物ですか?」と言えるくらいのコミュニケーション力はある。50世帯ほどの地域のため,近所の人は親戚のようなものである。思春期特有の妙に恥じらう面はたまに顔を出すが,普段から地元での挨拶や簡単な会話は慣れている。
何を探しているのか気にはなったが,いつも通り登校中は気持ちに余裕がない。遅刻した場合,部活の顧問から嫌味のような口調で長めのお叱りを受ける。そんな面倒くさいことになる前に到着したい。もう一度速度を取り戻して,歩き始めた。
その庚申塔を通り過ぎる瞬間,女が「おはよう」と声をかけてきた。反射的に「おはようございます」と返した。体育会系の中学生らしい,スムーズな反応がとっさに出る。感心な子供だ,とその女に思われているだろうか。やや複雑な気持ちを振り切って,そのまま通り過ぎた。そのはずだった。
次の瞬間,翔太に「あれ?」と疑問符が浮かんだ。記憶はそこで終わる。
翔太は全身の筋肉が力を失い,まるで画面がプツンッと消えるように,思考することもなくその場に倒れた。倒れた瞬間の痛みすら覚えていないだろう。瞬時に人形になったかのように,ひざが折れて道に転がってしまった。ついさっきまで,多少早いテンポで聞こえていた翔太の足音が消えた。そのせいで,竹林を抜けた風が笹を揺らす,かすれた音が際立つ。
庚申塔から半歩離れた所で,先程までしゃがんで探し物をしていたはずの女が,いつの間にか立っていた。慌てる様子も助ける素振りもない。突然の出来事を目の前に,固まっているのだろうか。心地よく流れる風が,肩を少し過ぎるほどの女の黒髪を揺らす。
30代後半だろうか。美しさとは別の,凛とした知的さが魅力的な女性である。首元がやや広く開いた白いシャツから,細い銀色のチェーンネックレスが見える。女は,左手に何かを持っていたが,それをポケットに納めた。意識もなく倒れている翔太を見降ろしている。しかし,心配している表情ではない。どちらかといえば,安心したようなやわらかさが表情に見える。
しばらく様子を見た後で,女は振り返り,あらためて庚申塔の前にしゃがんだ。背中側では翔太が転がったままである。
大きく息を吐いた後,女は手を伸ばし,やや苔のついた石肌に触れた。触れただけのはずである。その瞬間から,腰の高さもなかった庚申塔は,ムクムクと大きさを変え始めた。
この出来事のおよそ1時間後,中学校で火災が発生した。
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