魔法中年 ~今からヒーロー~
相野 心
第1話 ビールと魔法
その男は,湿った布団の上で,あぐらをかいて座っている。缶ビールをやや握りつぶすように持ちながら,わずかに残った中身を口に流していた。着古したTシャツとトランクス1枚,無精ひげに寝癖のついた髪,清潔感のかけらもない姿である。
もう,アパートの自室から丸5日は外に出ていない。児玉俊二は,1週間前に,付き合っていた恋人と別れた。これまで,常に相手が喜ぶことを選択してきた。愛情を全力で注いできたつもりだ。結婚をぼんやりと夢を見ている,そんな幸せの絶頂期にふられた。だからこそ「別れの宣告」は,俊二にとって会心の一撃だった。全ての事に対してのモチベーションを根こそぎ流された。見事に失恋した,思春期おじさんがここに誕生していた。
突然だが,俊二は,「魔法使い」である。
万能ではないが,不思議な力をもっている。何とか少女のようにセーラー服とか黄色い声は持っていないが,魔法が使える,ごく普通の中年である。魔法少女ともてはやされる彼女たちも,時期を過ぎると,魔法おばさんになる。今はパンツ1枚で過ごす魔法おじさんの俊二も,以前はもう少し色んな意味でイケていた。
この魔法使いであるという事実は,一部の人間しか知らないが,過去に交際していた彼女も知っている。アニメなんかでは「秘密にしておかないと・・・」という制約があるが,俊二はその必要をあまり感じていない。大っぴらに言って回ることはしないが,交際している相手には自慢も含めて,ついつい自分からばらしてしまう。
魔法を除けば,普通のおじさんである。恋愛もするし,酒も飲む。加齢臭を人から指摘されたり,じわじわと腹回りに脂肪も付き始めるたりも、この年齢なら当たり前の現象である。
壁の時計は朝8時半を指している。つぶれた空き缶を片手に,布団から立ち上がり,ぼんやりと動き出した。わずかな筋力を使うことも面倒臭い。冷蔵庫を力なく指差す。すると冷蔵庫の扉が開く勝手に開く。魔法の無駄遣い。だらくさが板についている。中を覗き込むと,1週間程前に買っていた惣菜が,賞味期限が切れてことごとく変色していた。食事はあきらめ,もう一度冷えた缶ビールを取り出し,敷きっぱなしの布団に戻った。
俊二は松島中学校で理科の教諭をしている。お盆ということもあり,8日間も休みがあった。普段は満足に休みが取れないが,「山の日」や特別休暇がうまく組み合わさって,あまり経験のない長期の休暇を味わうことになった。まさに,その休暇中の失恋。幸か不幸か,無限とも感じられる,ゆっくりとした時間を与えられていた。
現在,教育界には様々なトレンドがある。教育に関わる政策や制度も二転三転している。そんな教育界の現状について,塾の有名講師や過去学校の先生だった人が,テレビなどで持論を展開している。学校の授業の方法論も,トレンドに沿って随時新たな考え方が提唱されている。俊二も盆休みが終われば,教育委員会が主催する授業方法についての研修会へ参加予定である。流行遅れの先生にならない努力であるが,俊二の気持ちの復活が研修日までに間に合うかが参加の条件になっていた。
二本目のビールを飲み干して,湿った布団に寝転んだ。カーテンの隙間から差し込む,爽やかな朝日がうっとうしい。カーテンの方に指をさし,わずかに空いたカーテンの隙間をなくした。最近,腹回りにつき始めた脂肪は,この「魔法の無駄遣い」によるものだろう。枕元のスマホをたぐり寄せ,ドライブや映画の検索を始めた。別れた直後は,スマホの履歴を未練がましく見ていたが、その数日後には,過去の思い出が見えてしまう画面が嫌になり,それ以降はスマホを触らないようにしていた。調べ始めて間もなく,1件のメールが入ってきた。
「もしかして…」
友達は多くないため、最近のメールはほとんどは彼女とのやり取りだけだった。もう,彼女の心が変わらないことは,理解していた。期待していないはずだった。それでもメールを開く瞬間に,鼓動が早まり,一気に顔に血が巡る。
送信元は,自分の職場である松島中学校からだった。
送信元が見えた瞬間に,「そうだよな。」と,登ってきた血液が恥ずかしそうに心臓に戻る。緊張感が一気に抜け,興味が失せたまま、とりあえずメールを開いた。
『【緊急連絡】現在,松島中学校職員室のある校舎で火災が発生。通報済み,消火活動中。職員の今後の対応を確認します。可能な限り,早く現場に集合してください。』
すぐに意味を理解できず、数回、読み直した。
「今年の盆は,・・・。」
つぶやくのも途中で止めて,ぐちゃぐちゃな感情を整理する間もなく,俊二はゆっくりと布団から立ちあがった。
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