百年の目交い
たけぞう
百年の目交い
最初に出会ったとき、彼女は泣きそうな顔をしていた。
難病の両親と同じ病気の、向かいのベッドの少女。
僕が目の前に立っても、彼女はこちらを見ない。ただ不安げに彼方を見上げながら、何かを手探るような姿勢で固まっていた。
それは、まだ幼かった僕にとってはあまりに不気味で、泣き出してしまったことを覚えている。
次に出会ったときも、彼女の顔は泣きそうなままだった。
そのときには僕も少しは成長していたけれど、それでも彼女の姿は異様で、やっぱり不気味だと思った。
三度目に出会ったときには、彼女は泣いていた。
そのときの僕は、彼女と同じくらいの年になっていて、初めてその少女のことを綺麗だと思った。泣いているのを見て、その涙を拭いたいと思った。
頬を伝う涙をすくい上げようと、僕は指を伸ばす。
しかし、その手が彼女の頬に触れる前に、医者に制されてしまう。それは、とても危険なことだという。でも、と僕は思った。でも、彼女はあんなに悲しそうに泣いているのに。危険がなんだ、彼女は泣いているんだぞ。
それでも、その医者の真剣なまなざしは、僕のことをも守ろうとしてなのだと分かって僕は何も言えなくなってしまう。
帰り際、彼女の口が何か言いたげに開いていることに気づいた。
彼女が音なき声を叫んでいるのだと気づいたのは、病院を出た後のことだった。
そして、今日が彼女との四度目の出会いになる。
***
不死に至る病がある。
正確には不死ではないけれど、人間の感覚で言えば不死も同じだ。
石化病。発症すれば、人は石のように動かぬ彫像と化す。呼びかけても何の反応も返ってこないどころか、脈拍も感じられない。
しかし、脈のないその患者が、それでも死んではいないことは明白だった。それは、患者の手を取ってみれば分かる。
石化病の患者の手は温かかった。計ってみれば36度前後。確かにまだ命が存在していることを示す平熱が、そこにはあった。
当初、分かったことはそれだけだった。とりあえず死んではいないという明白な事実以外、その奇病の原因も予防法も、そもそもそれが病であるのかも含めてすべては謎に包まれていた。正直な話、その状況は今でもそう変わっていない。
ただ、その症状の意味について、今では有力な仮説がある。
それは、隔離して観察していた患者の心臓が、非常にゆっくりではあるが収縮していることをとある医師が発見したことに端を発している。
その後、他の石化病患者も集められ、専門の研究機関で心臓の収縮をモニターしてみると、約3年に1回というペースで脈が打ち続けていることが分かった。
1億秒に1回の脈拍。それだけではない、あらゆる生命活動が常識も物理法則も無視して1億分の1のスピードで行われているのだった。
それは、老化も例外ではない。この奇病の最初の症例が見つかってからすでに百年は経っているが、患者たちは少しも年を取ったようには見えない。
それも当然だろう。老化の速度が1億分の1になっているなら、彼らの寿命は1億倍だ。たかだか百年の時間など、彼らにとっては30秒程度でしかないだろう。
命を持った彫像たちは、今日も1億分の1秒を時計の秒針に重ねて生きているのだ。
***
四度目に出会う今日も、彼女は泣いていた。
1億倍に引き延ばされた、もはや可聴域外の低周波音を発しながら。
以前にあったときから数えると、もう十年以上時が経っている。しかし、彼女にとってそんな時間は数秒に過ぎない。
彼女は変わらず泣いている。この十年、彼女は悲しみの中にずっと取り残されている。
僕は、その理由を知っていた。彼女のその、涙の理由。
彼女は、両親を失っていた。不幸な交通事故だったという。それが彼女に告げられて、その後まもなく彼女はこの石化病を発症した。
悲しみは時が癒してくれる。しかし、彼女にとって時は長すぎる。たとえ彼女の主観ではそれほど時が過ぎてはいないのだとしても、彼女はこれから未来永劫に涙を流し続けるのだ。何億年も、何十億年も。
だから、僕は決意した。
彼女にとっては数秒でも、僕には意志の通った十年だった。その十年で、僕は臨床心理士の資格を得ていた。彼女の心に穿たれた、何億年と痛み続ける傷痕に触れるために。
最後に、背後に眠る両親のほうを振り向く。彼らは就寝中に石化病を発症したため、それからずっと眠っていた。きっと、彼らにもまた出会えるだろう。
後悔はない。だから僕は、彼女の頬を伝う雫へ再び指を伸ばす。
石化病は、空気感染はしないが、飛沫感染はするという。
彼女の目からあふれ出た病の飛沫を拭って、僕はその雫に、そっと口づけた――
瞬間。世界が加速した。
目の前の景色が次第に加速して、1億倍の速さをめがけて過ぎ去っていく。
もはや目で追うことも出来ない速度で世界は明滅し、僕を置いて壊れた早送りのように吹き飛んでいく。
その一方で、だんだん明瞭になっていく音もあった。
1億倍に引き延ばされて、マイクロヘルツの低周波になっていた彼女の声が、次第に取り戻されていく。やがて、それが正しくキロヘルツの周波数帯に収まって、
「助けて……」
ようやく、彼女の声を聞くことが出来た。
「ああ。助けにきたよ」
僕が声をかけると、彼女は驚いてこちらを見た。
当て所なく伸ばされた彼女の手を取り、安心させるように優しく握る。
もう君を独りにはしない。これから、ゆっくりと君の傷を癒していこう。同じ何億の時を生きながら、その傷痕を忘れていこう。
そうして、僕らは百年ほど見つめ合った。
その百年は、僕らにとっては数十秒に過ぎなかったけれど、百年くらい見つめ合っていたような気がする、そんな百年だった。
百年の目交い たけぞう @takezaux
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