第19話

「!?」

 栗栖は驚いて振り向こうとした。

 駄菓子屋のおばあさんは、「ン」と言って、「ン」と料金箱を指した。

 了は振り向かせなかった。

 優しく栗栖の喉元を傷ついた手のひらで包み込み、ジンワリと栗栖の生気を吸い取った。

「ア……」

 栗栖がかすかにうめいた。

「探したぜ……? おまえの本当の気持ちを聞かせてくれよ……」

「僕の、本当の気持ち……?」

「栗栖、おまえはいったい何から逃げてるんだ? バスクレーから? それとも、なに?」

 了の息が、ヒンヤリと栗栖の耳元で冷たく漏れる。

 栗栖は軽く笑った。

「ハハ……なんだって? 僕が逃げてるって言うの?」

「そうだよ、俺たちを……俺をさんざん振り回した本当の理由はなんなんだよ」

「……」

 栗栖は唇をかんだ。

 了はますます栗栖を後ろからはがいじめにした。

「小鷺田……」

「了でいいよ、友達じゃないか」

 栗栖はムッと眉をしかめた。

「へぇ、友達ね。けっこうじゃないの、おまえの言う友達ってのは、ずいぶん深い仲の友達なんだな」

「友達はおまえだけだよ」

 栗栖はひじで、了のみぞおちを突いた。

「いいかげんにしろよ、気色悪い! 男に好かれたって、ぜんぜん嬉しかないよ!」

 それでも、了は腕の力を緩めない。

 栗栖はだんだん渋い顔付きになってきて、

「わかった、おまえの好きなようにしろよ」

と、とうとう観念して言った。

 了はひそかにほくそ笑んだ。

 栗栖の性格、行動、趣味に合わせられるのは、ヴァンパイアになってしまった自分だけ。

 栗栖はたいていの人間は利用してしまうけれど、唯一の誤算は了をヴァンパイアにしてしまったこと。

 了は愛情込めて、栗栖を抱き締めた。

 栗栖はうるさげに身をよじりながら、

「あーもー、うっとうしいなぁ、ちょっとは離れてよ。あ、おばあちゃん、これね、これ全部もらってくよ」

「ン」

 おばあさんは、若い二人の秘密な関係にはまったく興味がないらしく、いつものとおり、料金箱を指さした。

 栗栖は小銭を箱に入れると、20袋近いおいしい棒を、ボストンバックに突っ込んだ。

「逃げられると思ってんのか?」

 了の素朴な問いに、栗栖はフフンと鼻で笑って返した。

「おまえが僕を捕まえさせるとは思えないな」

 ごもっとも。

 栗栖は十分に了の利用法を心得ている。

「どこまで行くつもり?」

「どこまで行くと思う?」

 栗栖は首をのけ反らせて、了を見ようとした。

「実は考えてないんだろ?」

 了はニヤッと笑った。

「それよか、藤堂はいまどこにいんの」

「それで話をそらしたつもりなのかよ?」

 ふたりはまだ駄菓子屋のなかだったが、おばあさんの存在など頭から無視していた。

「おまえの家の周辺か、空港だろうね」

 それを聞いて、栗栖は吹き出した。

「飛行機に乗るって思ってたのかぁ」

「? 違うの?」

「外国に逃げるのに、飛行機だけが手じゃないだろ?」

 栗栖が笑って答えると、

「そうだねぇ、満州を出るときは、あたしも船だったよ……」

「!」

 了はギョッとして、おばあさんを見た。

「そうだよね、これって、おばあちゃんが教えてくれたんだもんな」

 栗栖はニコニコと、おばあさんにあいづちをうった。

「キーちゃん、上がってくかい?」

「うん」

「少し、休んできなよ」

 了はドキドキしながら、おばあさんを見つめた。

 栗栖は背中に了がいるのも気にせずに、ズンズン家の中へ上がり込んでいった。

「い、いつから、知り合い?」

「入学したころからだよ、なんだ、知らなかったの?」

 茶の間ならともかく、栗栖は二階へ上がっていく。

「いいのかよ?」

 了は不安になってたずねた。

「疲れたから。それに、僕、ちょくちょくここに泊まったりしてたよ」

 予測のできない奴……

「重たいから離れてよ」

 邪険に振り払われて、了は畳に座り込んだ。

 栗栖は、勝手知ったるヒトの家とばかりに、押し入れをあけて、布団を引っ張り出した。

「寝るよ」

と告げると、パタンと布団に横になった。

 了は一部始終、アングリと口を開けて眺めていた。が、気を取り直すと、栗栖のそばに這っていった。

「了」 

 了はビクリと動くのをやめた。

「僕の本当の気持ち、今でも聞きたい?」

「う、うん」

 栗栖は了に背を向けて、横になっていた。

「僕は、僕が安心して生きていける場所を探してるのさ……それはママの胸のなかだったり、おばあちゃんの暖かい寛容な世界だったり、無条件で僕を受け入れる世界だったり……だけど、現実はうまく行かない。おまえは僕のことを薄情で裏切り者って思うかもしれないけど、僕にしてみれば、僕のほうこそ、おまえたちのことを薄情で裏切り者って言ってやりたいよ。都合よくかわいがられても、僕はちっとも嬉しかないね。結局自分の愛せるていどでしか、僕のことを愛せないくせして……僕は本物を見つけたいのさ、何があろうと、変わらないものをね……僕がどんな人間であろうとも、変わらない愛情を注いでくれる、無償の愛情を注いでくれる人を探してるんだよ」

 栗栖の声に感情がこもってきた。

 栗栖の熱のこもった声なんて、初めて聞くような気がする。

 了は畳にじっと座って、栗栖を見つめた。

「ぜいたくだな……」

 了はつぶやいた。

「栗栖は欲張りだよ、そんなものがあると思ってんの?」

 こちらを振り向いた栗栖の目は、冷ややかに見開かれていた。

 涙くらい流しているかと、了は思っていた。

 けれど、引き付けられるように、了は栗栖に口づけた。

 暖かな栗栖の生気が、炎めいた熱を込めて、了の喉を通り過ぎた。

 始めは優しく、おびえるように、栗栖を抱きとめた。

 了が触れれば触れるほど、栗栖の四肢から力が抜けていく。

 了の愛撫は麻薬じみた底無しの快感を栗栖に与えるだろうし、栗栖の火のような生気は了に毒じみた苦痛を与える。

 けれど、この毒がなければ、了はきっとヴァンパイアの青い血に負けてしまうだろう。

「ウ……」

 栗栖の唇から圧し殺した声が漏れる。

 しなる滑らかな肌、締め付ける腕。

 冷え切った了の肉体が、栗栖の情熱を吸い取っていく。

 了は栗栖の体に深く沈み込む。

 合わせた部分から、火花が散った。

 髪が逆立つようなエネルギーと、背骨が折れるような苦痛。

 せめぎあう。

 栗栖の体臭が汗とともに、了の鼻孔をくすぐる。

 栗栖はぐんなりとした体を了に預けて、短いうめき声を漏らした。

 了は動くたびに、引き千切れるような痛みに悲鳴をあげた。

 けれど、体に満ち満ちてくる生気を、了は感じていた。

「ヒ……ア、ア……」

 栗栖の四肢がこわばって、けいれんを起こし始めた。

 了はハッとして、体を離した。

 吸い過ぎたのだ。

 いつのまにか栗栖の肌は青冷め、冷たくなっていた。

 了は愕然として立ち上がった。

 窓から、朝日のまぶしい光が差し込んでいる。

 栗栖は気を失っていた。

 無理もない。生気を吸われ過ぎて、貧血を起こしたのだ。

 それなのに、まだ吸い足りなかった。

 愛し足りなかった。

 体は心に正直だったが、了はあきらめて服を着た。

 栗栖は終日眠ったままだろう。

 了は、名残惜しげに布団のわきに腰を下ろした。

 そして、考えた。

 栗栖を裏切らない自信はあるか、と。

 しばらく思い回らし、決心すると、静かに部屋を出た。

 学校はすでに始まっていた。

 当たり前だ。もう9時を回っていた。

 了はあぜんとした。

 2時間も吸い続ければ、だれだって死にかける。

 いや、栗栖でなかったら、死んでいただろう。

 ごめんな、栗栖。

 了は二階を見上げ、心のなかであやまると、

「ばあちゃん、だれがきても栗栖のこと、話しちゃだめだよ」

と、口止めした。

 おばあさんは了が話しかけても、なんの反応も示さなかった。

 了はヤレヤレと肩をすくめ、ある目的のために駄菓子屋を出た。

 了は自分のマンションに戻った。

 家中を引っ繰り返して、弟のパスポートを探した。

 了二は、小学6年のとき、子供なんたらツアーとかいうのに参加して、夏休みに船で韓国、香港、台湾をグルッと回ってきたことがあったのだ。

 お父さんは、了二には惜しみ無く金を出す。

 その結果が、あの了二なのだ。

 ついでに通帳と印鑑も取り出し、タンスの奥深くにしまい込んでいたパスポートも見つけ出した。

 玄関口で、了は荷物を詰めたバックを手に、スイマセンと三度頭を下げた。

 部屋はきれいに片付けた。

 了二が家に帰ってきても、見えない異変には気付かないだろう。

 あの親だったら、なおさらだ。

 了は金をおろすために銀行へ向かった。

 駄菓子屋に戻ってきたとき、時刻は昼の1時を回っていた。

 栗栖はまだ寝ているだろうか、と二階へ上がっていった。

 そして、了は考えるまえに叫んでいた。

「あいつはぁー!!」

 目の前には宿主のいない布団のから。

 ボストンバックも服も、なにもなかった。

 どこへ行ったというのだ 

 了はあまりのことに頭を抱えた。

 ジリリリリリリリ

 遠い世界から聞こえるようなベルの音。

 最初、目覚まし時計かと思った。

 ジリリリリリリリ

 音は、まだ鳴り響いていた。

 一階から聞こえてくる。

 了はヨロヨロと降りていった。

 おばあさんは耳が遠いのか、出るつもりがまったくないのか、真後ろで鳴り続ける黒電話のことなど、気にもかけていない。

 了はぎこちなく受話器を取った。

 チン

「もしもし?」

 了は受話器の向こうから聞こえてきた声に、愕然とした。

「その声は小鷺田君だね? 甥はすでに保護したよ」

「……ほ、ホントですか……?」

「本当もなにも、嘘をつく必要なんかないと思うがね」

「栗栖は……藤堂さんたち、いま一体どこにいるんですか?」

 ふいに訪れる沈黙。

「それを……君に教えなくちゃならんかね?」

「……」

 了は一瞬ひるんだが、もう一度たずねた。

「栗栖はどこにいるんです?」

「彼はわたしが保護している、君からね。みずから、わたしの元に逃げ込んできてくれたのだ」

 了はあぜんとした。

 時々、栗栖が一体なにを求めているのか、分からなくなるときがある。

 いや、しかし。

 了は今朝がたの栗栖のセリフを思い起こした。

 栗栖は、了を試しているのだ。

 了の愛の深さ、信頼の強さを。

 ついでに、忍耐の強さもか。

 それを確かめるためには、栗栖はどんな姑息な手段も選ばない奴なのだ。

 了は気が抜けたように、アハハと笑った。

 栗栖は了の愛を信じたいのだ。

 了は自信がついてきた。

 栗栖は了のことをなんとも思っていないわけじゃない。

 それどころか、重要視しているのだ。

 普通なら栗栖みたいな人間、誰も好きにならない。栗栖はひどい人間だ。自分のことしか考えていない。貪欲な人間。

 けれど、それが、ヴァンパイアの青い血を痺れさせる。貪欲な人間ほどエネジーが濃いのか?

 了の恋愛の感覚はもう邪悪なのかもしれない。これは愛とはいえないかもしれない。活きのいい獲物に目をつけたけだものの感覚かもしれない。

 それでもいい。人間では栗栖を愛せない。栗栖と同様に貪欲な欲望を持ったけだものでないとあんな人間を愛することなんか出来ない。

 歪んでる。

 了は不敵な笑みを漏らした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る