第18話

 パァン!

 爆竹の破裂する音にそっくりだった。

「キャッ」

 香也子は悲鳴を上げ、了にしがみついた。

「母さん! 栗栖は、栗栖はどうしたんだよ!?」

 香也子は答えようともせず、背後で粒子と化して空気に溶けていくナオミを、ジッと凝視し続けた。

 香也子の体は小刻みに震えていた。

 暗闇のなかに、青白く母親の顔が浮かぶ。

 寒さに冷たく凍え切っていたが、了の血の冷たさよりかは数段暖かだった。

 香也子は、栗栖の匂いの染み付いた革ジャンをはおっていた。

 まさか、ナオミはこの匂いにだまされていたのだろうか?

「おかあさん……栗栖は……?」

「了……」

 香也子の声は沈み切っていた。

 事が思っている以上に深刻であったのだと、いまさらながらに痛感している様子だった。

「キリト君は……おかあさんの車に乗って、また高速に乗ったの……このジャンパーを着てれば、危ない目に合わ

ないって……」

 そして、それが嘘だったということも、香也子は悟ってしまったのだ。

 目にいっぱい涙をためて、了の胸に顔を埋めた。

 了は、浮気相手に裏切られた母親をどのように慰めればいいのか分からず、手を宙に浮かせてオロオロと戸惑っていた。

「彼は空港だろう」

 ポツンと藤堂がつぶやいた。

「空港?」

 了は耳を疑って聞き返した。

「日本から逃げ出すつもりなのかもしれない」

 了はあぜんとしたまま、藤堂を見つめた。

「まだ間に合うかもしれない。彼のこの計画が突発的なものならば、チケットはすぐに取ることができないはずだから」

 藤堂がそう言うと、

「キリト……栗栖って言うのね、あの子……あの子、今日、わたしお金を貸したの……電話で突然大金が必要になったからって……」

と、香也子は小さな声で告げた。

「で、いくらやったの? あいつに」

 了はあわててたずねた。

「50万」

 了はゴクンと唾を飲んだ。

「キャッシュで?」

 藤堂が聞いた。

「ええ」

 了はアングリと口を開けたまま、母親を見つめた。

 香也子は貯金をひとつつぶして、栗栖に金を融通してやったに違いない。

「ビザはいつ取ったんだろう……」

 了は首をひねった。

「中学のとき、修学旅行が韓国だったらしいの」

 香也子が、了の疑問にすぐさま答えてくれた。

 3人は了の道案内によって、もとの国道に戻って来ていた。

 車に乗り込むと、藤堂はすぐに無線で香也子の車のナンバーを手配した。

 盗難車として、だ。

 最寄りの空港を当たるように指示すると、エンジンを入れた。

「ねぇ……いったい栗栖君がなにをしたの?」

 香也子は不安げに了を見やった。

「小鷺田さん」

 運転席から藤堂が振り返って、香也子を見た。

「彼は保護されるべき人物なんです。本来ならば、彼は逃げるべきではない」

 香也子は眉をひそめ、

「栗栖君は、だれかにねらわれているんですか? あの……あの女のかたみたいに?」

「そうです」

 高速に乗り、藤堂はメーターを100km以上にあげて、空港へ向かった。

 了はやっと栗栖を捕まえられると、半分胸をなでおろした。

 10分もたたないうちに、無線の連絡で、香也子の車が空港の近くの道路の路肩で乗り捨てられていることが分かった。

 香也子はすっかり脱力してしまって、シートに身を沈めていた。

「時間の問題だな」

 藤堂もようやく緊張を解き始めた。

 連絡を受けてから20分後、3人は空港についた。

 藤堂は待機していた刑事とともに、栗栖が乗るはずの便を徹底的に調べた。

 数十分後、青冷めた顔の藤堂が戻ってきた。

「どうしたんです?」

 了は胸騒ぎがしてたずねた。

「どうしたもこうしたも……江嶋君は空港に来てない」

「え……でも……」

 藤堂は初めて、「シット」と悪態をついた。

「あの小僧、変なところで小回りがきき過ぎる。多分……もう夜中だ、タクシーかなにかで市内にいったん戻ったんだろう。チッ、こうなったら、高飛びするつもりなのか、潜伏するつもりなのか、まったく分からなくなった」

 イライラした藤堂は、ちっともダンディには見えなかった。

 了はハッとして空港内の時計を見た。

 いつの間にか、明けがたの四時を回っていた。

 了は改めて藤堂と香也子を見やった。

 ふたりとも疲労にやつれていた。

 了はゼンッゼンへっちゃらだった。

 性格はともかく、体質はすっかりヴァンパイアなのだ。

 藤堂は、刑事にタクシー会社を当たってくれるように、指示を出した。

 その顔にはあきらめに似た表情が浮かんでいた。

 居心地の悪い1時間が過ぎ、刑事が報告しにやって来た。

「だめですよ、江嶋栗栖はのべ10回以上は市内でタクシーを利用してます。目的地がいったいどこなのか、まったく分からないですねぇ」

「とにかく、最後に降りた地区に車を回してくれ」

 刑事は走って行ってしまった。

「最後のって、どこなんです?」 

「自宅の近くだ。最後の見納めにするつもりなんだろう」

 自宅の近く?

 俺が栗栖だったら、あそこには絶対近寄らないと思うけど……

 俺が栗栖だったら、自分の家じゃなくて、どこへ行くだろう……?

 了は腕を組んで考えてみた。

 栗栖のことだから、案外単純かも知れない。

 そして、了はハッとした。

 あわてて、回りを見回して、自分の驚きをだれにも悟られなかったことに安堵した。

 ソローリソローリ、了は藤堂から離れた。

 目ざとく藤堂に見とがめられ、

「どこに行くんだ?」

「あ、ちょっとトイレ」

「ウム……」

 藤堂はかなり疲れているに違いない。

 ヴァンパイアが生理的欲求を訴えるわけがないのだから。

 了はスタコラ空港から逃げ出した。

 向かうところはただひとつ。

 駄菓子屋のばあちゃんトコだ!

 ヴァンパイアの健脚でしても、市内に戻るのに40分もかかった。

 夜明けはまだ先の先だった。

 町の底に、かすかな冷気が漂う。

 了は冬の凛とした寒さとは違う、町に独特な冷たさを感じながら、繁華街を抜けた。

 明け方の凍てついた空気は、さすがにヴァンパイアの体温よりも冷たいらしく、了は白い息を吐いた。

 ふと気がつくと、こんな寒さのなかで、了は白いシャツ一枚で平気なのだった。

 寒さで手がかじかむことも、しもやけができることも、頬が突っ張って赤くなることもない。

 しかし、ロザリオで焼けた手のひらは、まだジンジンと痛い。

 どんな死ぬような目にあって苦痛を感じたとしても、決して死ぬこともなければ、その苦痛がなくなるということもないのだ。

 漠然とした、悲しみみたいなものが、了の胸を覆った。

 だからと言って、栗栖を恨む気にもならない。

 不思議なことだけれど……

 栗栖を信じたり、栗栖を愛したりするのは、生半可な精神、忍耐、体力では持たないだろう。

 いつのまにか、住宅地に入り、見覚えのある道をたどっていた。

 常盤高校の正面門に向かって、了は急いだ。

 空はまだ暗い。

 了は道の向こうに、ポツンとついた明かりを見つけた。

 もう駄菓子屋は店を開けていた。

 了の頭のなかで、栗栖の存在がグワッとふくらんで、ほかのことを考えたりする余地はなくなった。

「おばあちゃん、ここにあるおいしい棒、全部チョーダ……」

 のんきな栗栖の言葉を最後まで言わせず、了は背後から抱き締めた。

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