第5話

 了の思考は不思議なほど止まっていた。

 なにも考えられなかった。

 本能に従って、今のところ行動していた。

 停止した心の底で、了は何かを感じていた。

 それは苦しみに取り巻かれていた。

 了はうめき声を上げて、頭をかきむしった。

 栗栖……!

 了は叫んでいた。

 栗栖!

 了はいつのまにか玄関に向かっていた。

 ドンと玄関に体当たりした。

 必死でノブをひねるが、ドアはびくともしない。

「栗栖!」

 了は悲痛な悲鳴を上げた。

「助けてくれ……!」

 了は必死で叫んでいた。

 子供のように泣きじゃくっていた。

 静かに自分の心を埋め尽くそうとしている影に、了は心底おびえていた。

「ここから、俺を、出してくれ……!」

 ドアの向こうに、この薄い板切れのすぐそばに、栗栖がいることは分かっていた。

 そして、彼が息を殺して了の叫びを聞いていることも分かっていた。

「だめだ……出してあげられないんだ」

 了は一瞬聞き違いかと思った。

「小鷺田、おまえには悪いけど、おじいちゃんと一緒に灰になってくれ」

 栗栖の声にはためらいはなかった。

「いろいろとめんどうなことにはなるとは思うけど、おじいちゃんの遺産のことを考えると、これが一番いいように思うんだ」

「栗栖……」

「僕は知ってたんだ。血の継承がどんなふうに行われるのか、それでどんなふうになってしまうのか。ぜんぶ知ってたんだ。でも、僕はそんなものになりたくなかったんだ」

 了はしだいに冷静を取り戻していった。

 本能は退けられ、もとの了の感情が目覚めた。

 そして、自分の苦しみの正体を悟った。

 それは、いままさに無残に砕け散ろうとしていた。

「僕だって気がとがめたよ。だから、今朝はくじけそうになって、あんな話題を振ってみたりもした。おまえには残々甘えたもんな……いまさら、感慨にふけってもしょうがないよな。運が悪かったと思って、あきらめてくれ」

 栗栖は最初から友達でもなんでもなかったのだ。

 栗栖はこのためだけに了に近づき、計画を立ててきたのだ。

 栗栖のお母さんが死んでしまうまで、もしくはおじいさんがよみがえるまでの友情だったのだ。

 栗栖にあこがれ、あまつさえひそかな恋心さえ育ててしまった自分は、ていのいいカモだったのだ。

 あまりにも情けなかった。

 ドアごしの告白は、歯が折れるほど殴られたようなショックだった。

 それどころか、千本のナイフが胸に刺さっても、これほどの痛みは覚えなかったかもしれない。

 しかも、もっと悲しいのは、憎しみを勝るほどに栗栖のことを好きになってしまっている自分自身だった。真実を明かされて怒りが胸に込み上げるけれど、それ以上に栗栖の何もかもを手にしたかったのだ。

 薄い板切れが、地球を取り巻く大気のように厚かった。

 心の痛みに漏れるおえつさえも、もはや栗栖には届かない。

 裏切られた悲しみよりも、もう二度と栗栖を見ることはないという悲しみのほうが深かった。

 了はドアにしがみついて泣き叫んだ。

 引き裂かれるような声で、栗栖の名を呼んだ。

 すでに栗栖の気配は、ドアの向こうにはなかった。

 栗栖はこの古い洋館に火を放つために、家の周りのどこかへ行ってしまったあとだった。

 悲しみに胸が張り裂けそうだった。

 どこかでガラスの割れる音がし、了は我に返った。

 すでに何箇所かで燃えているようだった。

 何ということか、栗栖はあの告白の前にすでに火を放っていたのだ。

 気がつかなかったのは、了が自分自身の悲しみに夢中になっていたため。

 栗栖は用意周到だった。

 犯罪者気質なのかもしれない。

 カーテンには、まえもってガソリンをぶっかけられていた。

 居間のじゅうたんもガソリンに湿っていた。

 と、了は推測した。

 了はベッド側の出窓に飛びついた。

 だが、外から出窓に板が打ち付けられている。

「あ、あいつ……!」

 栗栖の仕業だ。

 了は舌打つと、廊下に引き返そうと、ドアをあけた。

 ブワッと熱風が了の顔をなめ上げた。

 了は慌ててドアを閉めた。

 逃げ場はもうない。

 しかし、恐怖心はなかった。

 危機感と焦りだけが了を捕らえていた。

 なぜだか、こんなことで自分は死なないと確信していた。

 ここは自分の死に場所ではないと。

 栗栖に自分は殺せないと。

 了はじっくりと栗栖の部屋を見渡した。

 パチパチと音を立てて、木製のドアに焦げ茶色の染みが広がっていく。

 了はおもむろにベッドに近づいた。

 羽布団をめくり、その下にあるウール100%の毛布を引きずり出した。

 了は、泥酔した始アニキの話を思い出した。

 アニキが大学時代、冬の海で酒盛りをしようと酔っ払った友人と一緒に、壊れた漁船に火を点けた。ふざけた友人の一人が、ウォッカをぶっかけようとして誤って火に飲まれたのだ。

 アニキは酒臭い息を吐きながら、何度も了に言い聞かせた。

「おまえな、おまえ、火事んときはセーター着て逃げろよ。俺の友人はな、毛糸の帽子かぶって、マフラーして、セーター着てたから、死ななかったんだ。な! 分かったか! 絶対着ろよ!」

 毛布の生地は厚く、重たかった。

 了はスッポリと頭から毛布を被ると、ためらいもなくドアをひらき、駆け出した。

 うろ覚えの二階のトイレに向かって、廊下を走り抜けた。

 毛布の中にまで熱気と煙は侵入してくる。

 しかし、戸惑ったりしているヒマはなかった。

 何も考えず、ただひたすらに走った。

 廊下の突き当たりのドアに行きあたり、了はドアをひらいて、中へ滑り込んだ。

 毛布からは不気味な匂いがした。

 表面は炎にいぶされて焦げ付いていたが、了にまでは届かなかった。

 トイレの便座の上蓋を上げて、中に毛布を突っ込んだ。

 この期に及んで、汚いのなんのと言っていられない。

 ビショビショの毛布は、異様なほど重量を増し、了はトイレのドアのうえに引っかけて垂らした。

 つかの間の防火壁ができあがった。

 トイレには、了の肩幅ほどの上開きの窓がついていた。

 逃げ道は、ここしか残されていなかった。

 上蓋にのぼり、窓のへりに手をかけた。

 いきみ声を上げて、窓からやっとのことで顔を出した。

 もろに煙が顔にかかり、了は激しく咳き込んだ。

 けれど、煙ごときであきらめるわけにはいかない。

 肩まで出たところで手を引っ込め、狭いトイレの壁を蹴りまくった。

 了は、バカげた格好でトイレの窓から排出されようとしている自分の姿を想像した。

 小窓から死に物狂いで腰まで抜け出し、了はひりだされていく自分を思い浮かべて、ププと含み笑った。

 生きるか死ぬかの瀬戸際に、こんなことを考えるなんて。

 地面までの高さは、ゆうに4m。

 しかし、了に恐れはなかった。

 高揚とした危機感、そして、生と死を天秤にかけて楽しむスリル。

 いままでとは違う自分。

 どこかが変わってしまった自分。

 何かが解き放たれてしまった、あとには戻れない、そして、取り戻せなくなった何か。

 せめぎあう負と正のエネルギー。

 モザイクのように交じりあい、解け合っていく。

 ワクワクと胸が高鳴り、踊り狂う感情に身を任せた。

 ひざから下がスルリと窓から抜け落ち、頭上の地面に向かって、ものすごい勢いで体ごと引っ張り上げられる感覚に酔いしれた。

 ストンと軽々と了は地面に着地していた。

 思わず、ポーズを取ったほどに完璧だった。

 前転跳びすら満足にできなかった自分が!

 了はしばし感動に打ち震え、ここにカメラさえあればと悔やんだ。

 足の裏に感じるのは、まさしく芝生のゴワゴワチクチクとした感触。

 了の靴は栗栖の家の中で、いまごろ燃料の一つになっていることだろう。

 了は背後のひび割れたしっくいを見上げた。

 いつの間にか、庭木の外にはやじ馬が押しかけて、押すな引くなの騒ぎになっていた。

 サイレンの音が続々と江嶋宅に集まってきている。

「ちょっと! あそこに人がいるわよ!」

「江嶋さんとこの坊ちゃんかしら!」

 騒がしげなやじ馬の声に、了は我に返った。

 逃げるべきか、名乗り出るべきか。

 それよりも栗栖は一体どこへいってしまったのだ。

 いずれ、この火事が、不審火かそうでないかわかるのは時間の問題だというのに。

 それとも、栗栖は背格好の似た了を自分の身代わりにして、逃亡を企てていたのだろうか。

 栗栖のしたことは用意周到なくせに無計画だった。

「あっ! 危ない! だれか、助けてやって!」

「逃げろ!」

 突然の呼びかけに、了は頭上を見上げた。

 のしかかるように家屋が崩れ、火の手が家を囲む植木に燃え移ったのだ。

 了は無意識に飛びのいた。

 そして、スタッと地面に手をついたとき、了は自分の跳んだ距離を振り返って、青冷めた。

 何かの間違いかと思った。

 ゆうに八メートルは跳んでいたのだ。

 ぼうぜんとして、了は自分のこなした距離を眺めた。

「すげぇぞ、ぼうず!」

 やじ馬が無責任なやじを飛ばした。

「君、こっちにくるんだ!」

 消火にあたっていた消防士のひとりが、了に向かってどなった。

 了は一瞬うろたえた。

 助かったというのに、ここにおよんでまた逃げ道がないなんて!

 けれど、悔しがっているヒマはない。

 消防士はズンズンこっちに向かってきていた。

 了は、ええいままよ、と地面を蹴った。

 次の瞬間、全身がバネになった。

 軽々と、高い植木のこずえにしがみつくことができた。

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