第4話
了は栗栖に自分の服を貸すと、一緒にマンションを出た。
外国人街へは、かなりきつい坂をいくつかのぼった。
緑が丘とか、光が丘とか、希望に満ちた名前の平凡な新興住宅地を抜け、30分程歩いて、やっと栗栖の家のまえにたどりついた。
洋風の洒落た家だった。
高い木立が塀の代わりに家の回りに植わって、なかの人間のプライバシーを完全に守っていた。
「金持ちっぽい家だなぁ」
了が感心してつぶやくと、
「別にぃ……もう築五十年だよ。古屋さ」
「そんなふうには見えないな、戦後すぐなんだろ?」
「たぶんそんなとこかな? おじいちゃん、イギリスじゃ、かなりの金持ちだったみたいなんだ。もののないときに、金に飽かせて作らせたんだろ? けっこうハデ好きな人だったみたいだしさ、おばあちゃんなんて、お金で買われたみたいなもんなんだぜ? 人殺しでもして、逃げてきたんじゃないのかな?」
「自分の肉親を、よくそこまで言うよな」
「愛情なんて、ないよ。会ったことすらないのに、いまじゃ、怪物なんだゼ」
「そりゃそうだろうけど……」
了は、自分の親はあんなふうだけれど、栗栖のように冷たく突き放せない、と思った。
「んじゃ、これ間取り図ね。ここに服、ここにお金。お願いしますわ」
ポンと気軽に肩をたたかれ、了は浮かない顔をした。
「どうしたのさ?」
栗栖にいぶかしげにたずねられ、
「うん、もしも、じいさんが本当にいたとしたら、どうする?」
栗栖はその質問にまじめな顔で答えた。
「大丈夫だよ。おじいちゃんの狙いは孫の僕なんたぜ。小鷺田にはなにも起こらないよ、保証する」
「そうか……?」
「そうそう! じゃ、頑張れよ!」
どんどん栗栖に背中を押しやられ、開かれた
玄関のなかへ了は足を踏みいれた。
「あ……栗栖」
振り向いたときには、バタンとドアは閉められ、了は途方に暮れた。
手にはしっかりと栗栖に握らされた間取り図をつかんでいた。
くしゃくしゃになった紙を広げ、了は栗栖の部屋を確かめた。
栗栖の部屋は二階の南向きの部屋だ。
やっぱり一人っ子だよな、一番いい部屋もらってるよ。
了は感心したようにひとりごちた。
無人になってから、まだ一日しかたたない家のなかはほこりひとつなかった。
了の階段をのぼる足音が、静かな家のなかに軽快に響いた。
トントントントン
今ではめずらしくもないが、二階の廊下はビロード様の深紅のじゅうたんが敷かれ、建ったばかりのころの瀟洒な家の様子を想像することができた。
しばし緊張感もほぐれ、了は歴史と時代を感じさせる古い洋館の、暗く照り返るロココ調の木肌を眺めていた。
了は栗栖の部屋のドアを前にして、銅でできた重々しい取っ手を握り締めた。
不気味な音がして、ドアはあくと思われたが、案外にスッとドアは開かれた。
栗栖のお母さんが、まめにチョウツガイに油をさしていたものと見える。
そんなことを考えながら顔を上げた了は、ギョッとして息を飲んだ。
初老の男性が、枕元に乱雑に積み上げられたマンガ本をけだるげにより分けながら、栗栖のベッドに腰掛けていた。
洒落たダークブルーのナイトガウンを着て、短い金がかった栗色の髪。
こちらに向けている肩から背中の線は華奢で、ダークブルーの色に沈んで、やけに細く見えた。
白いスカーフを巻いた首筋は、年を重ねているとはいえきめ細かな桜色をしていた。
そして、静かに振り向けた顔は、不気味なほどに栗栖に似ていた。
「栗栖?」
その名を口にしたのは、男のほうだった。
重たくて冷たい、鋼のような声。
猛禽類のような、鋭い芥子色の瞳。
収縮して了を捕らえる黒い虹彩。
了は見入られたように立ちすくんだ。
「ナオミは死んだのかい? 実の父親を閉じ込めてしまった、あの子は?」
言葉を綴る薄く理性的な唇。
その唇から漏れる白い歯。
栗栖にはない、触れられて鳴り響く貴族的な魂。
「では、我が一族の血は、おまえのものだ。わたしの孫の。長く、わたしを苦しめてきた、この苦い血……わたしを地獄へ突き落としたこの、青い血は……」
了は硬直していた。
手も挙げられず、魅せられたようにヴァンパイアである男を見つめていた。
年老いたと言っても、その魅力は失われていなかった。その姿が、推定年齢よりもはるかに若かったとしても。
栗栖のおじいさん(この言葉さえ、気分的にすでに当てはまらない)はゆっくりと了に近づき、凍えるような指で、了の首筋に触れた。
それが合図になり、了は廊下へ飛び出した。
了のけい動脈に触れた冷たい指先の感触が、まだ残っている。
背後を振り返れない。
ビロードのじゅうたんが、足の裏に重たく、体が鉛のようだった。
海底をあえぎながら、走っている。
空気が重たい。
どっしりと濃厚な空気が、了の体を捕らえて、離さない。
スローモーションに、思考が状況を把握していた。
うなじがチクチクとする。
あいつの、視線を、感じる。
空気が、まるで、足元にはびこるねじれた根のように、足に引っ掛かり、了は転んだ。
了は覆いかぶさってくる影を、恐怖のまなざしで見つめた。
叫びは、水の中の泡のように、暗い影に吸い込まれていった。
ふさがれた唇。
侵入してくる生暖かな、他人の舌。
抵抗する力は、細い華奢な腕によって萎えていく。
くらくらと目眩する抱擁。
甘美ではなく、明らかに力を吸われていく脱力感。
目の前の初老の顔が、返り咲くように若返っていく。
誇らしく微笑むその貴族の顔は、まさしく栗栖そのもの。
一瞬、了の心が惑った。
わずかなときめきを覚えたのだ。
冷たい手が了のシャツの下をはい、ジーパンのきついボタンが外された。
何をされているのか、了には分かっていた。
けれど、あらがう力は、ヴァンパイアに吸われていくことで、そして、了自身の惑乱した心によって、弱々しく意識につながれてしまっていた。
まるで、恋人同士のように、ヴァンパイアは了の体を押し開いた。
優しくて、丁寧な指の動き。
了の快感すら待っている、それを期待させる、あまりにも甘い愛撫。
冷たい指がスルリと了の中へ入っていく。
体温が体の芯から奪われていくような、冷気を感じた。
気絶寸前の、クラクラと落ちていく、脱力感。それが、快感となって、了の全身を捕らえていた。
了自身の快感を感じる部分さえも、こらえられず、待ちきれずにはちきれた。
了には、おのれが何者なのか、なにをしているのかという意識すらなくなっていた。
獣的な性の快感だけが、そこに潜んでいた。
冷たい異物が、了を貫いた。
了は悲鳴を上げていた。
痛みのせいでも、甘美のせいでもなかった。そんなものを超越していた。
凍りつくような、突き刺さるような、体の中がめちゃくちゃに混ぜられていくような、それなのに、しびれ上がる麻薬じみた感覚が、了の脳みそを支配していた。
悲鳴は、いつのまにか獣の咆吼に変わっていった。
了は、ヴァンパイアに必死でしがみついた。
四肢が、力にあふれていた。
炎のように燃える幻覚をたしかに感じているのに、体は氷よりも冷え切っていた。
血が、青く燃えたぎっていた。
しだいにヴァンパイアの体が、ちいさくしなびていくのが分かった。
その代わり、ヴァンパイアの体から、わずかな力が了自身に送り込まれてくる。
いや、違う。
了自身が吸い取っているのだ。
獣じみた興奮に了自身を膨らませ、すでに鳥ガラのようになってしまったヴァンパイアを、了は腕の中で無我夢中に振り回していた。
荒い息をついていた。
力にみなぎる指の間から、ヴァンパイアのかさかさに干からびた体が、粉々に砕けてこぼれていく。
了はぼうぜんと自分の体を眺めた。
身のうちの興奮に比べ、外見はいつもと変わりなく見えた。
ただ、下半身と赤いじゅうたんが白い精液に汚れ、プンといやな匂いがした。
不思議と恥ずかしい思いはなかった。
脱がされた衣服をかき集めて、冷たい炎に覚めやらぬ体を包んだ。
一体自分に何が起こったのか、いまだによく分かっていなかった。
原因の分からない衝動を押さえるのが、やっとだった。
フラフラと立ち上がり、壁づたいに階下へ降りていった。
なにか、喉を潤したかった。
了はうろ覚えのキッチンへ向かった。
いくつかドアをひらき、暗く下へと伸びる階段を見つけた。
何げなく降りていく。
コンクリートの壁が突然前を遮り、人が一人出られるくらいの穴があいていた。
地下室はかび臭かった。
恐ろしいという気持ちすらなく、了はそこをあとにした。
キッチンに入ると、冷蔵庫を開けた。
オレンジジュースのパックを取り出し、じかに口をつけて飲み干した。
オレンジジュースが口からあふれて、了の喉元を汚した。
乾きはいやされない。
ひもじささえ伴っていた。
何かに飢えている。
了は冷蔵庫の中身を、手当たり次第に取り出した。
調理されていない肉さえも口に含んだ。
それでも空腹感はなくならない。
いや増して、ひどくなっていくようだ。
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