episodeー5
風邪ひいてしまうから、と風呂に入る様に催促された
鳥肌が立つ様な感覚がお湯に馴染む頃には、この数時間の間に起きた怒涛の様な事態の疲れも湯船のお湯に溶け出して、倦怠感が気持ち良いくらいだった。
不意に浴室の電気が消えて、驚いて体を起こすと
「ちょ、佐渡君? 何……」
「うち浴室に窓付いてないんで、電気消したら結構暗いんですよ。これだけ暗かったら裸見えないし、髪洗ってあげます」
「えぇ!? く、暗かったら髪洗えないんじゃ……?」
「俺ももう新人じゃないんで、見えなくてもちゃんと感覚で分かりますよ」
慣れた手付きで腕を捲る佐渡の影が、浴槽の縁を挟んで樹尚の背後で跪いた。
「店じゃないからちょっと角度悪いかもですけど、湯船につかったまま浴槽の縁に頭預けて貰えますか?」
「そんな……仕事でも無いのにこんな事して貰ったら悪いよ……」
「好きな人に触りたいんです。俺の我儘です」
臆面もなくそんな風に言われて、樹尚は返す言葉を失った。
顔の形を辿る様に両手で頬を包まれてそのまま髪を後ろへと流される。
佐渡の指が頭皮の感度の良い所を知り尽くしているかの様に髪の間を辿った瞬間、思わず声が漏れそうになって樹尚は固く唇を結んだ。
「眠っても良いですけど、溺れないで下さいね」
「ね、寝ないよ……」
と言ったものの暗がりの中で目を閉じてしまえば、そこはもう僅かに水音が響くだけの穏やかな空間だった。
知ったハーブの香りは、彼が勧めてくれたシャンプーの香り。
緩い湯気に混ざるその香りは、鼻腔から入り込んで樹尚の身体の中を満たして行く。
これは寝てしまうかも知れないと、佐渡の手の動きに意識を向けたが、それは逆効果で
「佐渡君……」
「何ですか? どこか気持ち悪い所ありますか?」
「何か喋っててくれないかな……? ちょっと、意識が……」
「ふふ、やっぱり眠くなってるんだ?」
「ごめん……」
「いいえ、そんな風に気持ち良くなって貰えるなんて、嬉しいだけですよ」
「君の手だから、余計にね……」
素直にそう、思っただけだった。
無防備に投げ出してしまえる安心感と言うか、あんな事されてまだ警戒心が足りないと言われても、佐渡がする事なら何でも受け入れられるような気になってしまう。
佐渡の手の動きがピタリと止まる。
「誘ってんですか? それとも、無意識?」
「あ、ごめっ……無意識って言うか、本当だけど別に誘っては……」
いつも酒を飲んで気持ち良くなると気が大きくなって調子に乗ってしまう。
それと一緒で、気持ち良くなると無防備になりすぎる。
「ご、ごめん……」
「俺が木下さんを好きだって事、忘れないで下さいね」
「俺も好きだって……言ったよね?」
「まだ確信出来てないんでしょ? 急がなくて良いです。後でやっぱり違ったとか言われた方が、俺、耐えられそうにないんで」
「そ、そんな事はないっ……」
思わず起き上がろうとして、ぐっとその頭を押えつけられた。
「ちょ、動かないで下さいっ! 目に泡入ったらどうすんですかっ!」
「ご、ごめん……。でも……好きだよ。本当だよ」
「髪洗うのはいつもやってる事だし、気にならないかもしれないですけど……その、俺は貴方を抱きたいと思うんですよ。そうなったら、木下さんは嫌になるかも知れないでしょ」
「……ならない、よ」
洗い終わった髪にトリートメントを撫でる様に付けられて、また優しく流して貰う。
黙ってしまった佐渡の顔が見えなくて、不安になりながらも水流の音が耳に近くてボンヤリと天井を見つめた。
ずっと目を瞑っていたからかじんわりと明けてくる様に、暗がりの中に現実が浮かび上がってくる。
漂っているハーブの香りの中で水音だけが響いて、やたらと佐渡の指の感触が全身に響く様だった。
不意に視界に入った佐渡の影に、樹尚は目を見開いた。
暗くて良く見えないが、輪郭と薄い唇の形はハッキリと見て取れた。
「終わりましたよ」
「あ、うん……ありがとう」
「謝礼、貰っても良いですか?」
「何?」
顎を後ろから包む様に持ち上げられた後、鼻先に佐渡の顎がぶつかったかと思ったら、蒸気で湿った佐渡の薄い唇が樹尚の唇を塞いでいた。
「ふ、キスだけでそんなに驚くのに、この先も大丈夫とか……俺に気遣わなくて良いですよ」
見開かれた樹尚の眸を見返した佐渡が、眉間に皺を寄せて眉尻を下げて笑う。
もう暗闇に馴染んだ樹尚の視界は、その佐渡の悲しげに下がった
「気を遣ってる訳じゃないよ」
ゆっくりと細い肢体を起こした樹尚は、浴槽の縁に手を付いて自分から佐渡の口元へと唇を寄せた。
そのキスを合図とばかりに、親愛でも労わりでも無い愛欲の香りのする噛み付く様なキスを返されて、樹尚は不安と恐怖と期待と歓喜と、自分でも言い様のない慄えが身体を貫いて行くのを感じた。
呼吸が危うくなる程性急に貪られて、浴槽に浸かった半身のせいで逆上せそうになる。
ただ熱を冷まそうと吐き出す吐息でさえ、これまで発した事のない甘い声が漏れ出て、羞恥と戸惑いと高揚が理性を混乱させた。
何度か確かめる様に唇を離して樹尚を見遣る佐渡の視線は、熱を帯びてこれまで見た事のない猛禽類の様な光を宿している。
「樹尚さん……」
初めて名前を呼ばれて、樹尚は思春期の少年の様にきゅっと身体を強張らせた。
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