episodeー4
取りあえず風呂、と背を向けた
「あ、木下さん……タ、タオル……はい」
「ありがとう……」
佐渡のタオルを渡してくれる手が震えている。
渡されたタオルを両手で握り締めた樹尚は「佐渡君」と意を決して口を開いた。
「は、はいっ……あの、俺、この前は本当に! 本当に……すみませんでしたっ!」
玄関前の廊下に土下座した佐渡に、樹尚は驚いて言葉を失った。
「俺……あんな酷い事をするつもりじゃなかったんです……けど……」
「別に俺、怒ってないよ。顔、上げてよ……」
アパートの狭い玄関にしゃがみ込んだ樹尚は、片手で佐渡の肩を押し上げる。
「俺の方こそ、黙って逃げたりしてごめん……。ちょっと、吃驚して……連絡も沢山くれてたのに無視しちゃって……」
「良いんです、そんな事。吃驚するの当たり前だし、それに……嫌われても仕方がない事しましたから……」
「……そ、んな事は……ない」
「無理しなくて良いですよ。俺、今、こうやって木下さんが普通に喋ってくれてるだけで奇跡みたいだから、それだけで十分です」
「ち、違うんだ! えっと……その……」
走っていた時は兎に角伝えなければと息巻いていたのに、何から、どう、話せば良いのか樹尚の思考回路がスッカリ空になっていた。
「木下さん」
「う、うん?」
「もし、本当に嫌じゃないんだったら……上がって下さい。もうすぐ風呂も溜まるし、そのままだと風邪ひいてしまいます」
「あ、でも……床が濡れちゃうから」
「拭けば問題ないですよ。それより、木下さんの身体の方が大事です」
気温は低くない。でも、緊張して手先が冷たくなっているのは自分でも分かる。
このまま玄関に立っていてもどうしようもない、と樹尚は佐渡の好意に甘える事にした。
せめて靴下だけでも脱いで上がろうと、ズシリと重い靴下を剥ぎ取ってジーンズのポケットに捩じ込む。
手渡されたタオルで粗方拭き終わるまで正座して見上げていた佐渡が、風呂場へと案内してくれた。
「着替え、俺のだと少しデカイかもだけど……俺んち乾燥機とかないから我慢して下さいね」
「あ、いや、迷惑かけてごめん」
「迷惑だなんて……。俺のとこに、こんなに必死になって走って来てくれただけでも、俺死にそうに嬉しいんで……」
佐渡の眸には、涙が滲んでいた。
それに驚いて樹尚はジッと佐渡を見てしまう。
「カッコわりぃな、俺……すいません」
顔を隠す様に振り向き、浴室の踊り場を出ようとした佐渡のTシャツの裾を樹尚は無意識に掴んでいた。
「佐渡君……」
「木下さん……?」
「君が初めて担当になってくれた時……心底ホッとしたのを覚えてる」
昔から美容院に行くのは好きだった。
でも、女性に触れる事が出来なくなってからは、美容院に行くのが苦痛になった。
担当を男にしてくれと言うのも躊躇いがあったし、担当じゃ無くても髪を洗う時は違うスタッフが来たり、他の客の所に担当が行けば繋ぐ為に違うスタッフが来る。
「友達が伝手で紹介してくれたのが君がいる美容院だったんだ」
「それって市役所の……?」
「
「あのお客さん、店長のクライアントなんですよ。俺は詳しい事情とか知らないけど、あの頃俺は未だ駆け出しで新人だったのに、シャンプーからセットまで絶対に他のヤツには触らせるなって言われてました」
「そっか……きっと、常陸が事情を説明してくれたんだろうね」
「事情って何ですか……? 俺はそんな特別なクライアントなのに、何で俺みたいな新人に付かせて貰えるのかすごく不思議だった……」
佐渡はそう言って暫く担当を続ける内に首や項に痣がある事に気付いたんです、と消え入りそうに呟いた。
「木下さんは華奢だし小柄だけど、ガテン系の仕事してた時期もあってそんなにひ弱な感じはしなかったのに、何であんな殴られたみたいな痣があんのかな? って、良く笑う人だし、明るく見えてたのに、何であんな……」
「俺ね、今はもう離婚してるけど結婚してて……その奥さんが情緒不安定な人でね……。良く、物を投げられたりしてたせいもあって、女の人に触れないんだ」
「……だから、他のヤツに触らせるなって……」
「うん」
「でも木下さんはうちに来る時は凄く気持ち良さそうにしてくれてたし、いつも笑って……た……」
「うん、人から、君からこの上なく優しく労わる様に髪を洗って貰ったりするのが嬉しくて、君の所に行くのは俺の唯一の楽しみだったから」
仕事だって分かっていても、自分の様などうしようもない人間に優しくしてくれる。
きっと本当の事を知れば、ダサい男だと罵られるのかも知れない。
でもお金を払って客としてここに来れば、自分がどんなダメな大人でも丁寧に扱って貰える。
いつの間にか、無意識に、佐渡に甘えていた。
自分でも気づかない内に、彼に恋をしていた。
この手が自分だけに触れてくれればいいのにと、思う程――。
「木下さん……」
「佐渡君、俺は君が好き……なんだと思う……」
思うって、なんだ。
ちゃんと言えよ、と樹尚は自分で自分に突っ込みを入れる。
土壇場で尻込みするヘタレな自分に僅かに唇を噛んだ。
「……俺、そんな事言われたら、いつかまたこの間みたいに木下さんが嫌がる様な事してしまいますよ?」
「嫌だった訳じゃないんだ。ホントに、吃驚し過ぎてちょっと……状況が掴めなかったって言うか……」
「じゃあ……抱き締めても良いですか?」
「えっ、いや……俺、こんなだし……」
濡れてるし、と言おうとしたが最後まで聞いては貰えなかった。
決して大柄と言うわけでは無い佐渡だが、樹尚よりは身長も高くガタイが良い。
折れるかと言う程の強い力で抱き締められて、呼応する様に絞り出されたモノが眸から漏れ出した。
浴槽に溜まる水流の音が遠く聞こえる。
首筋に埋められた愛おしい人の肌の熱。
冷えた身体を温める様に抱き締められた腕の中は、今まで知り得たどんな幸福よりも胸を刺した。
幸せってこんなに痛いんだ。
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