episodeー3

 羞恥か、それとも怯えか。

 僅かに樹尚しげなおの身体は震えていた。


「大丈夫か? シゲ」

「……大丈夫」

「これでハッキリしたな。お前は男にでも欲情する」

「だからって、どうしたら良い……?」


 佐渡さわたりを跳ね除けて逃げて来た。

 あの後、謝罪のラインも、着信も、全て無視したままだ。

 どんな顔して、佐渡に会えると言うのだろうか。

 

「まずはちゃんと話す事じゃないか?」

「話すったって……」

「シゲ、こっち見ろ。お前は今まで十分に頑張って来たし、別にお前がおかしいんじゃない。ここにいる依恋の恋人も、俺の恋人も、相手はどちらも男だ」

「え……?」

「女に触れないお前が、男に欲情したってそれは不幸中の幸い程度の誤算だ。誰かと一緒に、お前の為の時間を生きて良いんだぞ。もう誰かの為に自分を削る様な生き方はしなくて良いと、俺は思う」

「イチ……俺……頑張った、かなぁ……?」


 堪えて、押し潰して、それでも足りずに心に穴を掘って埋めた感情が腐る事さえ出来ずに溢れて来る。

 目頭が焼ける様に痛い。

 たぎった様な感慨が腹の底から湧いて溢れて来る。

 毎日虐げられていた結婚生活が終わっても、金の無心は続いた。

 子供の為と言われれば反論の余地はなく、樹尚にとってこの数年はカラカラと回る滑車の様に、ただ廻り続けるだけの毎日だった。


「お前は良くやったよ」


 一哉の手が頭に置かれて、樹尚は床に崩れて突っ伏して泣いた。

 少し機嫌を損ねればヒステリーを起こして罵倒され、女である事を盾にとって物を投げつけられ、男のプライドも自尊心も汚い言葉で詰られる。

 男だからと言う理由で我慢し続けた結果は、奴隷の様な日々だった。

 悲鳴の様な声を上げて、一度も漏らした事のない弱音をそこに混ぜて、子供の様に泣き喚く。

 ただ黙って背中を擦ってくれる一哉の手が、穏やかに溜飲を下げて行く。


「イチ、俺……まだ……間に合う、と思う……?」

「間に合うも何も、まだ始まっても無いだろうが」

「そうだよ、お兄さん。相手どんな人か知らないけどさ、まずは向き合わないとさ」

依恋えれん君……ありがとう。嫌な事させて、ごめん……ね……」

「別に嫌じゃなかったよ? ただ、絶対黙っててね……俺の恋人はちょっと難アリだから、拗れたら俺本当に殺されるから」

「ふふ……うん、大丈夫。誰にも言わない、って言うか、言えない」


 思い出せば佐渡はずっと自分を気に掛けてくれていた。


 木下さん、寝てないんですか? クマが酷いですよ。

 駅前のラーメン屋、旨いらしいんで今度一緒に行きましょうよ。

 新しく出たシャンプー、ハーブの香りが凄く良いんで使ってみて下さい。

 少し痩せました? ちゃんと食べてます?

 木下さん、眠ってて良いですよ。ちゃんと起こしますから。

 俺、木下さんのそう言う所、好きです。


 木下さん、木下さん、木下さん――――。


 佐渡の声が脳内で延々と回る。

 アシンメトリーにした髪型は自分じゃ上手くセット出来なくて、台無しにしてしまっている。

 彼がいないと、誰かに髪を洗って貰う月に一度の楽しみさえなくなってしまう。

 五千円弱を払って彼に会いに行くのが楽しみになったのは、いつだっただろう。

 ガテン系の仕事やパチンコ屋、ゴミ収集から掃除夫、起きていられる時間は全て労働に費やして来た樹尚にとって、美容院は他人から奉仕して貰える唯一の場所だった。


「シゲは好きなんだろ? そいつの事」

「何でイチはそう思った? 会った事も無いのに……」


 まだ涙の残る瞼を瞬かせた樹尚は、マジマジと一哉を見遣る。


「どんなに驚いたって、男に押し倒されて良い様にされるなんざ、気持ちが無けりゃあり得ないと思っただけだ」

「そっか……そうだね」

「良いか、シゲ。酒にだけは頼るなよ。お前の唯一の欠点はそこだけだ」


 元々、結婚した理由もそこにあった。

 酒に飲まれて記憶が無く、樹尚の隣には裸の女が寝ていて、妊娠したと言われた。

 結果生まれて来たのは自分には似ても似つかない誰の子か分からない子供で、嫁は情緒不安定なまま樹尚を虐げ金を貪り、挙句外に男を作って出て行った。


 今逢いに行かなければ、夢から覚めたみたいに現実が迎えに来そうで樹尚は一哉達と別れて夜中の人気のない街を走った。

 秋を連れて来る夏の終りの雨が、夜中を洗う。

 朝には止むだろうその雨が、樹尚の熱を冷ます様に降り注いだ。


 握りしめた携帯で彼の携帯を鳴らせば良いものを、その時間すら惜しいと樹尚は佐渡のアパートまで走る。

 今日と明日の境目辺りに佇んだ樹尚は、二階にある佐渡の部屋の灯を確認して上がった息を整えようと大きく息を吸った。

 濡れた前髪が頬に張り付いて、萎れたシャツは身体に張り付く。

 とんだ遅咲きの青春だ、と苦笑せずにはいられなかった。

 二十八にもなって雨の中を全力疾走してしまうなんて、樹尚自身思っても無い。

 無様に濡れた野良猫の様になっても、今走らなければ明日は来ないとさえ思えたのだから仕方がない。


 部屋の扉の前に立って、臆病が顔を出す前に勢いでインターホンを鳴らした。

 少し間があって、玄関に向かってくる足音が悪戯に焦らされているかの様に長く感じられる。


「……はい? どちら様ですか?」

「木下です……夜遅くに、ごめんなさい」


 僅かに開かれた鉄扉が勢い良く閉じられて、耳を劈く様な衝撃音に樹尚は身体ごと強張った。

 拒絶されたのだと思った次の瞬間、チェーンを慌てて外す音が聞こえて大きく扉は開かれる。


「き……木下さん……」

「突然、ごめんなさい」

「いや、って言うか何でびしょ濡れなんですか? と、取りあえず入って……」

「あ、いや……全身濡れてるから、玄関で……」

「そんなの構いませんから、兎に角入って下さい」

「じゃあ、遠慮なく……」

「鍵は閉めなくて良いですから……」


 そう言って苦虫を噛み潰した様に笑う佐渡に、ガチャリ、と鍵を閉め向き直る。

 困惑したような顔で樹尚を見る佐渡に、もう逃げないよ、と樹尚はシャツの裾を握り締めた。

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