4 待ち人

「何もいらない……ですか。ここにやってくる人はほとんどと言っていいほど、そう言います。ここに店を出してもう随分たちますが、いまだに初めからこの店の客として訪れたと人に出会ったことがない。皆何か別の店を探している途中だったり、道に迷ったり、とにかく歩き疲れてヘトヘトになった状態で辿り着きます。そして私はいつも決まってそういう人に、とりあえず水をお飲みなさいと進める訳です。

 ……さ、あなたもどうぞ。ここに置きますよ。 

 そう、ここは喫茶店です。

 あまり姿を見られたくありませんが、あえてあなたの正面に座りましょう。でも、あなたには私は見えないでしょう? 私はカウンターの内側に座り、新聞を拡げていますからね。

 あなたは灯りはいらないと言いましたが、間接照明の明かり一つぐらいなら点けても大丈夫でしょう。どうせお互いに顔は見えやしませんし。

 わずかに光りを灯す方が、より闇の部分が色濃く見えることもあります。照明に凝るのは私の趣味みたいなものでしてね。

 どうです、なかなかいい感じでしょう?

 こんな灯り一つ灯すだけで、ただただ真っ暗闇だった空間が幻想的な世界に一変したでしょう? まるで夢の中にいるみたいな気がしませんか? 周りの物が本当にそこにあるのか、ただの幻なのか定かではなく、全てがぼんやりとしていて、小さな霧の粒子に映し出された映像のようだ。自分自身さえ、そこには存在していないような気分になってくる。こうやって、この空間にじっとしているとね、全身が細胞の単位に分解されて、この闇と光りが混ざった霧の中に溶け出していきそうな気がします。

 私のことを何も知りもしないで嘘つき呼ばわりなさるとは、あまり穏やかじゃありませんね。私は嘘はつきません。嘘なんて、つく必要がない……今ではね。昔なら多少はついたかもしれませんけど、今ではもう、本当に嘘なんて全く無意味です。私はそういう世界で暮らしてるんですよ。早い話、隠居ですね。しがない隠居生活者ですよ。そして、私はここでずっとある人を待ち続けています。何年も何年もね。明日訪れるかもしれないその人を待ち続けて、そして会える日を夢みながら楽しみに待ち続けてるんですよ。嘘の大嫌いな人でしたからね。あなたの言うような嘘を私がつけば、きっとその人には二度と会えないことになるでしょう。だから、嘘なんてつきませんよ。

 ただね、あなたの言う寂しさは私にもわかりますよ。耐え難い寂しさというやつがね……」

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