水縁奇縁

酉茶屋

水縁奇縁

 


 その話を知るきっかけになったのは、本当に偶然だった。

 夏休みに親戚の家に行く途中で、たまたま寄ったコンビニ。その本棚にあった一冊の本だった。夏場以外であまり見かけなくなった、怪談や心霊スポットの紹介をしている文庫本だ。

 当時はまだ小学生で、しかも学校ではコックリさんや七不思議が流行っていたときだった。深く考えもせず、学校が始まった時の話題と、車での移動の退屈しのぎで買ってもらった。

 表紙が黒かったのは覚えている。どこかの風景の絵か写真があったような気がするが、今は思い出せない。中身もそうだ。自己責任の文字とともに、コックリさんやエンジェル様といった交霊術が子供向けのイラストつきで紹介されていた、という記憶程度で。心霊スポットは、行動範囲の広くなかった私にはどのあたり、この県かと頭の中の地図でぼんやりと場所を把握していたぐらいだ。


 私は父が運転する車の助手席でそれを読んでいた。景色がどんどんと変わる車の外に、あまり舗装が綺麗とはいえない広い道路を進む。鮮やかな緑色の葉がピンと伸びた稲、延々と続く水田に、道路とを隔てる背の高い雑草が風に揺れていた。親戚の家に行く時はいつもこの時期だったから、感動も真新しさもなくて欠伸をしていたか寝ていた記憶もある。

 怖い話を見たり聞いたりするのは好きなくせに、怖がりを自覚していたので実際にやることはなかった。コックリさんは教室でやっているクラスメイトを見るだけで充分だ。だからそれらは軽く読み流して、心霊スポットのページを捲っていた。行くことはないのだから読んでも意味がないだろうに、なぜか不思議と見てしまうから面白い。

 自分の住んでいる県の、母の実家近くの場所が紹介されていたのは本の後半に差しかかる頃だっただろうか。母の実家があるA市は、週末や紅葉シーズンなどは観光客が多く訪れる場所だ。


 そんな観光地の一つの場所、その近くに幽霊が出るとあった。内容は、B寺近くのある場所に白い人影が現れる――といったものだ。むかし殺人事件があって、その被害者の霊がさ迷っているのだとか。白い人影、蹲っている女の姿、タクシー運転手が女の霊を見たなどなど。

 自分が知っている場所だということもあって、文庫本の見開き2ページほどしかない内容を集中して読んでいた気がする。しかし結局、その話は私の頭の中からすぐに忘れてしまい、本も片づけと引越しでどこかへと行ってしまった。


 それから十年以上が経ち、私は母の実家近くへと引っ越すことになった。

 昔ながらの土地、住んでいる人は皆顔見知り。誰に聞いても田舎と答える、かなり不便な場所だ。

 買い物だって一苦労なところだが、徒歩圏内に個人がやっている小さな古本屋がある事だけが、私にとっては救いだった。スーパーやコンビニより薄暗く、店内にBGMはない。店の奥には数台のアーケードゲームが置いてあり、その音だけが響いた。数少ない定員は若い人で、あれこれ詮索してこない。本に集中していられるから、居心地がよかった。

 気が向けば店に行き棚を見る。気に入った本があれば買うが、そうでなければ店を出た。あまりいい客とは言えなかったかもしれない。


 引越しをして、一年経ったあたりだろうか? いつものように薄暗い店内を見ていると、目の前にある棚とはジャンルの違う本が目に入った。大判の本と本の間に、押し込められるように真っ黒な背表紙の文庫本がのぞいていた。

 内容は、どこかで一度は見たことがあるような心霊物。心霊スポットの紹介とは書いていないものの、どこそこでこんなことがあったと、ぼかした地名で心霊現象が載っていた。その本の変わったところは、著者が後日調査したような記載があったことだ。


 そしてそこで、私はまた、あの話を見つけた。

 A市、観光地のB寺、そこであった殺人事件の被害者の霊が現れる――。

 そこまではほぼ同じだったのに、著者が独自で調べたのか、はたまた情報提供者から聞いたのか、そこから先があった。被害者と思われる霊は、発見された後にも出現し、しかも頻度が増えていると。その理由が墓に入ることができないらしいから。それが事実なのかは分からないが、今は住んでいる地域でもあるし、母なら何か知っているかもと思い、私はその本を購入した。


 それからしばらくの間、私は仕事が忙しくその本の話を母にできないままでいた。

 仕事の繁忙期が終わりやっと一息ついた頃は、折しも雨が降り続いていた。古い貸家の屋根はトタンで、雨が降ると驚くほどよく音が響く。雨樋を流れる水が間近で聞いているかのような状態だ。せっかく休みになったのに、どこにも出かけられず家に籠もる。

 そういえば忘れていたと、棚の上に置きっぱなしのあの本を読もうと思って、暇つぶしに見ていたテレビを消せば、屋根を叩いてくる雨と、ザーザーと雨樋を流れていく音の間に、


――たぷん。


 と、妙に毛色の違う音が響いた。思わず天井を見上げても、聞こえてくるのは相変わらず叩くような雨音で。気のせいかと思って本を開けば、


――たぷん。


 とふたたび、今度はよりはっきりと聞こえてきた。

 家の外、開放された場所でする音じゃなかった。こう密閉されたような閉ざされた場所でする、水の揺れる音。そう、ペットボトルやポリタンクに半分ほど中身の残った状態で、ゆっくりと動かすと聞こえてくるような音。


――たぷん。


 また聞こえてきた。家の中にそんな音がする物は、冷蔵庫の中だけだ。それが勝手に動いて、しかも居間に音が響くほど聞こえるだろうか? 台所に行って確認をとってみても、ペットボトルに動いた痕跡はない。トラックが前の道を通るたびに揺れる家だが、冷蔵庫の中身が動くほどじゃない。

 天井からは叩くような雨、雨樋を伝う音は間違いなく水が流れている音・・・・・・だ。なら風呂か? 風呂の水はどうだ、中身は空で栓も抜いてある。

 他の場所も見てみるべきか……どうしようかと悩んでいるうちに、目の前に、蝶が現れた。真っ黒な、けれど綺麗な蝶が、ゆらゆらと私の目の前を横切って……そして壁に溶けるようにすぅっと消えた。


 何度か目を擦って、蝶の消えた壁に触れてみたけれど、そこはまごうことなき壁で。手のひらに伝わるざらざらとした、すこし湿っぽい感触。人間の手は勿論、蝶の一匹すら通り抜けられない。

 あの・・蝶なのだろうか? 私はその現象・・に心当たりがあった。

 私は一度、高校生のときに不可思議な現象とともにこの黒い蝶を見たことがあった。そのことを思い出して体がこわばる。そのまま緊張した状態で、息を潜めるようにその場に硬直していた。叩きつける雨の音が煩い、どことなく重たくなった気がする空気が纏わりつく、雨の降りが強くなった、バタバタと屋根が鳴る、自分の息づかいが厭に耳に響く。


――たぷん。


 あの音が聞こえた。しかも、今度はとても音が近い。それでも、何が音を出して、どこからしているのか知りたくて、私は眼球だけを動かすように辺りを見回したが視界の中には何もない。


――たぷん。

 ぎしり……。


 水の音に続くように、人が畳を踏んだようなとても軽い音が鳴り、両腕どころか、全身が一気に粟立った。あ、これはマズイかもと思う間もなく、業務用冷蔵庫に入ったときのように、自分の周りの空気だけが冷たくなった。

 けれど不思議と恐怖感がわかなかった。見えないという意味では確かに怖いのだけれど、恐ろしいと思わなかったのだ。


 ぎしり……。


 畳みの上を慎重に歩いているような、そんな気がした。

 ぎし――と、足を、ゆっくりとつま先から下ろしたかのような音を、けたたましく鳴り響いた携帯の着信音が遮った。途端、あれほど粟立っていた肌は元に戻り、冷たい空気があっという間に消えた。

 部屋の雰囲気が戻ったような……そんな気がしてほっとしながら、携帯の画面を見れば友人からのメールだった。顔文字と絵文字が乱舞したメール本文。たわいもない内容なのに、それに助けられたのだろうかと少し思う。あのまま足音が近付いていたらどうなっていたのだろうか。

 それからすぐに音の元凶が本当になかったのか、家の中を探し回った。台所の鍋、洗い桶、水切り籠。トイレ、風呂場。すぐに探し終わってしまったが、結局同じ音がしそうなものはなかった。


 さすがにその日にその話も心霊スッポトの話をする気にもなれず、後日母にその本と一緒にB寺にこんな心霊スポットがあるんだねと話をしたら、予想外の反応をされた。


「あんた、その話おばあちゃんの前でするんじゃないよ。その事件の被害者、親戚の子なんだから」


 分家外の家じゃ、誰も話さない禁句扱いの事件なんだから。母が眉根を寄せて釘をさしたのが印象に残っている。

 少し調べてみたが、実際にあった事件なのは間違いなく。それは私が生まれる前のできごとだった。当時はニュースに新聞、はては週刊誌にまで取り上げられるほどだったようだ。今、改めて調べてみれば、私がその不可思議な現象に遭遇した時よりも、より多くの情報がネットに残っている。中には考察サイトのようなものまであった。

 あの水の音は、事件に関係があったのが分かった。ならば、畳を歩くような音は……もしかして、彼女自身だったのだろうか? 親族という縁はあれども遠縁すぎる遠縁で。一年に一度でも会えばましな間柄の私が、たまたま知って気を引かれたから来たのだろうか? 


 それ以来あの音を聞いていない私には、分からない。


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