第14話 それでも彼は鈍感だった

「……はぁ」

「お疲れですねぇ、りっちゃん」

「一昨日のことを思い出すと、色々と、ね」

 暗い顔になっているだろう私を、悠は茶化して笑ってくる。しかし彼女が思い描いているようなことを、私と旭君がしていたわけではないのだ。確かに、御昼過ぎまで眠っていた私達はずっと抱き合ったままだったし、そのことで誤解をするのは不思議じゃない。ただ、私達は大人の階段を上ったわけでもなければ新しい世界の扉を開いたわけでもないのだから、からかうにしたって手加減をして欲しいのだ。

 私が帰った後も、旭君は悠にからかわれていたのだろうか。申し訳ないことをしたな……でも、彼も悪いのだ。本当に気がないなら、私を突き飛ばしてでも拒絶すればいい。それが出来なかったと言うことは、多分そういうことなのだろう。いや、私は彼の特別な友達になりたいだけで、それ以上のことを強く望むつもりはないけれど。

 やっぱり、怖いし。

 でも、秘策はある。今日の私は浴衣を着ているのだ! ……だから何だと言われるとそれだけの話なのだが、珍しいものを身に纏うとそれだけで気分が高揚する。母親に勧められるままアサガオと蝶の意匠が施された若者向けの浴衣を選んでみたが、これが意外と可愛らしい。私が着てもいいのだろうか、と不安になるくらいだ。待ち合わせをしている間にも何人かの男性が振り返った。自意識過剰でないならば、この浴衣が私に似合っているという証拠になってくれそうだ。

 悠は他の友人達との約束があるらしく、旭君が来る前にどこかへと消えて行ってしまった。彼女なりの気遣いだろうかとも考えたが、真相は分からない。嘘吐きなのか、正直者が冗談片手に甘えているのか、その辺りも曖昧だ。悠や旭君と関わるほど、人を疑うことが難しくなっていく。考えても時間の無駄で、真実なんて機械仕掛けの神様にも分からないんじゃないかと思えてくる。

 それでも私は、他人の悪意を信じるぞ。人間なんて、自分のことしか考えていない我侭な人ばかりなのだから。

 悠が人混みに消えてから数分後、旭君が待ち合わせ場所にやって来た。いつもと似たような服装、とは違っている。甚兵衛羽織だ。屋台で焼き鳥を焼いているおじさんが着ていそうなアレである。想像するよりも実際の彼は似合っていて、くすりと笑ってしまった。

 浴衣姿に気付いた彼は、周囲に悠の姿を探した。彼女がいないことを知ると、私から目を逸らしつつ、絞るような声で褒めてくれた。恥ずかしがり屋な彼にとって最大限の賛美を受け取った私は、それだけのことで笑顔になった。なるほど、こうして人は懐柔されていくのだなぁ。もう、私は手遅れかもしれない。

 旭君がカメラを手にしていることに気付いて、私は尋ねた。

「それ、盗撮用?」

「立田さん、僕に対する扱いが徐々に悪くなっていくよね」

「仲良しな相手には遠慮する必要もないでしょう?」

「えー……」

 困った顔をして、彼は自分の頭に手を置いた。甚兵衛羽織の肩口が、藤の模様で彩られている。

 暮れなずむ緋色の街を眺めていると、小説の題材に出来そうだった。全国区で見れば特色などあってないような街だが、この地域を舞台にしたアニメや漫画、小説は意外と多いらしい。彼が以前、そんなことを教えてくれたのを思い出した。

「それで、そのカメラの用途は?」

「普通に使うんだよ、興味を惹かれたものを撮影するんだ。小説に使えそうだったら、後からじっくり思い返したいし。写真はそのトリガーになるからね」

「じゃ、私も撮ってよ。小説のヒロインにしてくれると嬉しいし」

「それはまた難しい注文だね、リツ」

 口では文句を言いながらも、彼はシャッターを切った。

 呼び方が変わると、雰囲気も変わる。そういうことも、あるんだなぁ。

 夏祭りは、駅の南口から市役所の近くまで、約一キロの大通りを貸し切って行われているらしい。手を繋がなければはぐれてしまうほどの人混みで、私はすぐに人酔いをした。やっぱり、沢山の人間がいる場所は苦手なのかもしれない。

 時折、横道に逸れて休みながら、いろんなところを見て回った。お祭り会場になっている地域には神社があり、その境内でも催事が執り行われているらしい。中には地元民に有名なお化け屋敷もあるらしいが、丁重にお断りしておいた。旭君もいくつもりはなかったようで、残念がる素振りも見せなかった。

 旭君の話を聞く限り、駅南方の商店街が賑わうのは年に数回行われるこのお祭りの時だけらしく、普段はシャッターを閉じている店舗の方が多いそうだ。こんなに人が多いのは、閑古鳥が仕事をサボっているせいに違いない、と彼は笑った。なんだか嬉しそうだ。地元愛があるのかもしれない。

 彼に勧められるまま、幾つかのお店を巡ってみた。この地域をモデルにした映画が昨年放映された影響か、どこも人が一杯だった。ご飯を食べようにも座る席がないくらいだ。予想の範疇を超えていなかったらしく、彼は大通りから外れた、少し寂れた裏通りへと私を連れだした。紅い暖簾が掛かった、少し古風な中華料理屋さんだった。店主と彼は知り合いらしく、私も優しく迎えられた。やはり旭君は、地元に友達がいる。知り合いがいる。本当に一人だった私とは、本質的な部分が違うようだ。

 飲み足りなかった私達は、駅近くのスーパーでお酒を買った。ただ祭りを見て回り、ご飯を食べただけなのに時刻は夜十時を過ぎている。店じまいは着々と進んでいて、宴の後にはしんみりとした寂寞だけが取り残されることになるだろう。静かな夜の雰囲気に飲み込まれる前に、私達は駅から離れた。本当なら帰るべき時間だけど、彼についていくことを決めた。彼の家から目と鼻の先にもローカル線の駅があるらしく、事と場合によってハそこから帰ることだって出来るのだ。

 先の見えない状況に不安と歓喜がせめぎ合い、どちらに転ぶか分からないままだった。でも、いいじゃないか。若いうちにしか出来ないことをするのは、特別悪いことじゃない。若さに甘えて逃げ出すのが悪いことだと大人たちは言うけれど、その半分は嫉妬に汚れて前が見えないだけなのだから。

 お酒を片手に夜の街を歩くなんて、不良みたいだった。

 煙草を吸っていれば完璧だったのだけど、生憎と二人とも持っていなかい。私の場合は勇気の不足、彼の場合は資金の不足が主な原因だった。お酒も小説も、地味にお金を使う趣味だものね。

「そういえば、旭君って誕生日いつ? まさか未成年ってことはないわよね」

「大丈夫だって。誕生日は五月に終わったよ」

「私は六月なんだけど」

「そうか、僕の方がお兄さんだ」

 そんな会話を繰り広げながら、私達は暗い闇の中を闊歩していた。話しているうちに興が乗り、お互いに違う味のお酒を購入したからと、彼が飲むお酒を味見させて貰うことになった。汗をかくと酔いが早くなるからと窘められて、度数が高い方のお酒はくれなかった。

 オレンジの甘い香りが、彼の飲むレモンと混ざる。夜が、少しだけ怖くなくなった。駅から十分ほど歩いたところで、彼が思い出したように尋ねてきた。

「家、こっちだっけ? 僕に着いてきて大丈夫なのかい」

「ええ。私の友達が優しい人なら、きっとどうにかしてくれるもの」

「……分かったよ。安心するといい」

 彼は、何かを察したように微笑んだ。

 手を繋ぐこともなく、互いに相手との距離を推し量っている。もっと近づいてもいいのだろうか、そんなことを考えている。私は彼に、幾つものきっかけをあげた。彼がくれた分の恩返しだ。だけど私は怖い。だから最後は、彼に頑張ってもらおう。私の悪い心を、彼に受け取ってもらうしかない。

 道すがら、彼は色々なことを教えてくれた。彼の通っていた中学校と、隣接している小学校に古くから伝わる怪談だ。何度数えても段数が違う階段の話、飾られた同級生の顔が怪物に変わるお遊戯室、何度整理しても音楽準備室に散らかる名称不明の楽譜の話……それらのすべてを、彼は本当に見てきたかのように語る。今度は怪談で小説を書いたら? と勧めると、なぜか恥ずかしそうに頬を掻いた。どうにも、文字にすると怖さが半減してしまうらしい。

 怪談は、嘘と冗談の混ざったものが一番面白いということも教えてくれた。

 小中学校のすぐ側には、市が管理している団体向けの宿泊施設があるらしい。歩いていけば十分もかからない距離にあるけれど、そこは幽霊が出るから、と近寄ることもしなかった。

「幽霊が怖いの?」

「そうだね。あそこは本当に出るし」

「いいじゃない。行きましょうよ」

「ダメだよ。人生と小説は違う。都合のいい時に卓袱台返しが起こることを知っている人じゃなければ、あそこはいかない方がいい」

 それ以上のことを尋ねようとしても、答えてくれない。拗ねた私を慰めようと、他にも色んなことを話してくれた。そして、彼の家族の話になった。

「母さんの生家が九州の方にあって、僕以外はみんな遊びに行っているんだよ」

「どうして旭君は行かなかったの?」

「親戚がみんなアルコールに強いんだ。酒で潰されることは目に見えているからね、遠慮することにしたんだよ。妹は未成年だし、飲まされることもないだろうからって一緒に行ったみたいだけど」

「妹さんがいたのね。それより、旭君よりお酒に強い人を想像するのは難しいんだけど」

 彼は笑って、世の中には色んな人がいる、と言った。お酒のトラブルには巻き込まれないように、特に浅い付き合いの相手と飲むときは色々と注意するべきだ、なんて忠告をしてくれた。他人の悪意を信じている私がその程度のことも分からないと思っているのだろうか。……あぁ、心配してくれているのだろうと気付いて、もじもじした。

 霊園に隣接した公園で一休みする。幽霊は怖いくせに、お墓は大丈夫らしい。彼の家はすぐ近くにあるようだ。

「ここ、虫が多そう」

「ベンチの方は、確かにそうだね。でも、遊具の方に虫はこないんだ」

「どうして? なんで知ってるの?」

「眠れないときに、来たりするからね」

 夜空を見上げた彼は、私の知らない顔をしていた。まだ、知らないことは一杯あるのだろう。彼のことも、この街のことも、そして私自身のことも。それらを知りたい、と思えたことは、私にとって大きな一歩に違いなかった。

 ふたりで、誰もいないブランコへと向かった。私がブランコに座り、彼は周囲を書こう策に腰かけた。丁度、私の正面に陣取る構えだ。

「下着はチラ見せしないからね」

「ばっか、そういう意味でここにいるわけじゃないよ」

「ちょっと、逃げないでよ。さっきの場所に立ってて」

 彼は文句を言いながら、しかし下心がないのだと証明するために戻って来た。柵にもたれて、すぐにでも逃げ出せる体勢だ。思うに彼は、私のことを悠と同列のセクハラマシーンと考えているのではないだろうか。心外な。

 軽くブランコを漕いで、彼の元へ飛び出した。そして、ぎゅっと抱きしめてもらった。

 ……やっていることは、悠と大差がないんだけど。旭君は逃げることなく、私を受け止めてくれた。親友として認められたような気がして、うへへ、と笑いが漏れる。彼も、頬を緩ませた。

 冷たくなってきた夜の風に吹かれる。彼の身体は暖かい。ふと見上げれば、飲酒しても赤くならなかった顔を彼は火照らせている。背中をぽんぽんと叩かれた。

「あー、リツ。服は着こなすから綺麗なんだぞ」

「ん? どういうこと」

「……その、はだけているんだ。長いこと歩いてきたから」

 彼に指摘されて初めて自分の格好を見てみれば、確かに帯が緩み始めている。両手をばっと広げてみれば、何もしなくても脱げてしまうだろう。

 浴衣だし、一人で簡単に直すことも出来る。でも、お酒を飲んだからなのか、不思議と手に力が入らない。困ってしまって、私は解いた帯を彼に手渡した。彼はなぜか私から目を逸らし、顔を赤くしている。

「お願い、旭君。結んで頂戴」

「どうして僕にやらせるんだよ」

「だって、酔ってて、うまく出来ないから」

「……当たるかもしれないけど、許してくれよ」

 何に、とは聞かなかった。私だって、鬼ではないのだ。彼に着付けをしてもらう間、変な声が漏れそうになるのを必死で堪えていた。適当に結んでいた私を叱って、キッチリと締め直したお母さんとは違う。手つきが優しくて、背中がぞくぞくする。身体の表面をなぞられるような動作がくすぐったくて、度々動いて彼の邪魔をしてしまう。

 服装が戻った後、私はまたブランコに座り直した。彼も、すぐ隣のブランコに座り込む。小学生の頃も、誰かと公園で遊んだことなんてない。だから、すごく新鮮だった。

「貴方と、こうして夜遅くまで遊ぶ日が来るとは思わなかった」

 この前は悠と一緒だったけど、今回は二人きりだし。

「僕は、これまでで一番楽しかった。君は楽しかった?」

「答える必要、ある?」

「ないね」

 彼は月を眺めて、酒を傾ける。求めたら、私にも飲ませてくれた。二人で交互に口をつけて、一本の缶を空にする。中身のなくなった缶を袋に押し込むと、彼は柵から立ち上がった。

 私も立ち上がって、ぼんやりと彼の顔を眺める。彼も、酔い始めているのだろうか。何かに悩むような素振りを見せた後、空を見上げた。「りっちゃん」と呼ばれた声に返事をすると、彼に力強く抱き寄せられた。

 唐突な出来事に目を瞬かせて、やっとのことで言葉を捻りだす。

「他人の眼は気にならないの?」

「そのまま返すよ。君は無防備過ぎる」

「旭君の前だから、特別なの。……あなた、いつもそんなことを考えていたの?」

「ああ。悪い妄想を繰り返して、それを表に出さないように耐えるのが僕のライフサイクルの一部だから」

「なんだ、それなら私と一緒ね」

 二人で笑い合って、抱き合ったまま動かない。

 月が浮かび上がらせる私達の影が風になびくように揺れ、くっついたり離れたりを繰り返した。初めてのことばかりで緊張する私と、なぜか落ち着いている旭君の差は、どこで生まれているのだろう。

 私が知らないだけで、彼は女の子と付き合った経験があるのかもしれない。悠と関係を持ったことがないとも言い切れない。彼は、本人が言ったように、心の中で繰り返した悪い妄想を必死で耐えているだけなのかもしれない。知らず知らずのうちに露見していた悪意に触れた女の子が、彼のことを意識するようになったとしても不思議じゃないのだから。

 嫉妬と、羨望と、好意。三つの悪意をそれぞれ並べ立てて、どれをぶつけるべきかで少し悩む。結局私は、そのすべてを彼に投げ渡すことにした。

 旭君を押して、くっついていた身体を離す。公園の中央に陣取っていた柱時計を見上げて、わざとらしく溜息を吐いた。彼も演技するように驚いてくれた。

「あら。こんな時間まで外にいたせいで、帰りの電車がなくなっちゃったわ」

「それは残念だね。君の家まで送ってあげたいけど、飲酒運転は出来ないし。弱ったな」

「旭君の家には、誰もいないんだっけ?」

「そうだね。リツさえ良ければ、僕の家を宿代わりにしてくれて構わないよ」

「お言葉に甘えようかしら、元々そのつもりだったけれど」

「なんてことだ、僕は君の策略に嵌められたことになるな」

「無防備な貴方が悪いのよ」

 ふふ、ふへへ、と馬鹿みたいに笑う。

 そうだ。やっぱり私達はバカなのだ。なんだかんだと言いながら、最後の一言が言えないままのおバカさんに過ぎないのだ。だから私は悪意を信じるし、彼は小説に縋らなければ生きていけないし、相手がお喋りに興じてくれないとふたりとも寂しさで胸が潰れそうになるのだ。

 時計が十二時を回る前に、彼の家へと向かうことにした。帯は彼の肩にかけて、私は脱げないように浴衣の前をしっかりと閉じる。これで、見知らぬ誰かとすれ違っても問題ない。例え変質者扱いされるとしても、それは旭君だけだろう。だって、私の浴衣の帯を持っているんだから。

「そうだ、言っておくけれど、期待はしないこと。添い寝まではしてあげるけど、それ以上のことをしたらセクハラで訴えるから」

「それは拷問だな。君も、一昨日みたいなことしないでくれよ」

「……それは、難しい注文ね」

 小説に縋る男の子と、何にも縋れなかった女の子。

 私達が深い仲になってからようやく始まる物語もあるのだということを、誰かに知って貰いたい。その方法のひとつに小説があることを、私は彼と関わることで知った。明日の朝、もし幸せな目覚めを迎えることが出来たなら。

 その時は、私も小説家を目指してみようかな、と思えた。


 八月の終わりに、私達はようやく、ひとつになった。


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ノンラヴレス・シュガー 倉石ティア @KamQ

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