第13話 安らかな女
「それにしても意外でしたね、りっちゃんが泳げないとは」
「運動は、全体的に苦手だから」
「そうなんですか? やっぱり、大きいと邪魔ですか」
何が大きいのかとか、そういうのはもう聞かない。
悠の考えていることが、なんとなく分かるようになってしまっていた。
「それもあるけど、昔から苦手だったし。小学校低学年の頃からよ。……だから、運動音痴と諸々のサイズには関係がないんじゃないかな」
「まー、そうですよねー」
空気の抜けた風船のように、彼女は床に寝そべった。風呂上がりの髪を整えてあげながら、今日一日で増えた良い思い出を振り返る。
午前中は簡単な泳ぎの練習をしてからボールで遊んだ。こんなに楽しくていいのだろうかと自問自答して、「いいに決まっている」と繰り返したことを覚えている。泳ぐ練習をしている時は、息継ぎのタイミングが分からないから噎せたりもした。へその高さまでしか水がないのに溺れそうになって、その度、中野君に手を貸してもらったのだ。
一時間ほど練習に付き合ってもらった後は開けた場所に移動して、太陽の下でバレーボールっぽいことをして遊んだ。運動が得意と胸を張ることが出来るのは悠くらいのもので、私達は午前中だけで体力を使い果たすほどに遊びまわった。
午後は穏やかに過ごそうと、流水プールへ行った。水の流れに身体を任せて、波に漂うクラゲみたいなことをしていた。とても穏やかで、心満たされる時間だった。その後もお喋りをしたり駅近くのドーナツ屋へ行ったりして、気付けば悠の家にお邪魔していた。お風呂を貸してもらった上に彼女の母親から服まで貸して貰って、なんだかすごく親友っぽい。話をしている内にうまく乗せられて、お泊りをすることにもなった。既に、私の両親にもその旨を告げてある。不思議と喜んでいたが、宿泊先が女の子の家だからなぁ。心配は無用、なのだろうか。
大学生にして、人生初のお泊りだ。緊張しないはずもない。
……中野君も、いるし。
料理の出来ない二人の女子大生に代って台所に立つ彼のことを考えていると、悠が小さく唸った。
「りっちゃん、幸せそうですねー」
「まあ、否定はしないわ。今日は一日中楽しかったし」
「ふふっ、楽しんでくれてよかったです」
微笑んだ彼女の頭をそっと撫でる。拾ってきた猫の様に大人しい彼女が、私の膝の上で安らかな顔になった。身体を無遠慮に触られることは苦手だが、こうして静かにしている分には特に何をされても文句を言うつもりはない。正面から抱き付かれたとしても、セクハラしてこなければ相手は可愛い女の子なのだ。
「でも、本当に楽しかった。仲良くしてくれる相手なんて、あまりいなかったから」
呟くと、悠が変な顔になった。
「りっちゃん、意外と過去のことを気にしますよね」
「あら、過去だって大切じゃなくて?」
「私はそう思いませんね。過ぎ去った時間は決して取り戻すことなどできないのですよ。だから現在を生きる私達はその場で出来るすべてに全力で取り組むほかないのですよ」
「……そうね」
「あ、私、いいこと言いました?」
「叙情的な気分に浸っているところ悪いけれど、おへそ」
服とズボンの隙間から素肌が覗いている。指摘しただけでは意味をよく飲み込めていなかったらしく、軽く指でつつくと、言葉を上手く理解してくれた。でも、服装の乱れを直そうとはしない。
薄い緑色の下着も顔を覗かせている。恥ずかしさというものを感じないのだろうか。甘える彼女を起こしてあげると、偉そうに腕組みをした。
「ふっふ、
「ちょ、どうして脱ぎだすのよ」
「いいじゃないですかー、ちょっとくらい見てくださいよー」
「もう下着姿だし……やめなさい、親もいるのに」
「それは無用な心配です、お母さんは私の行動に呆れて何も言いません。それに今日は夜勤だから、もう家を出ていったくらいだと思います」
「中野君もいるじゃない!」
「…………いや、僕は構わないけど。悠の奇行には馴れたし」
「うおぉお!」
両手にピザを乗せた皿を持った中野君が、忍者のように部屋に入って来た。驚いた悠は、下着姿のまま布団へと飛び込んでいった。その動きが外敵に襲われた兎を彷彿とさせて、私はくすりと笑った。
成程、男の子に対する羞恥心はあるみたいだ。やっぱりストレートなのか、それとも私に対する積極性が高すぎるだけなのか。考えるのは、やめておこう。
「ば、ばーか。ノックしてから入って来なよ!」
「ドアを開け放していたのは悠だろう? あと、同性相手でもセクハラは犯罪だよ」
「ふっ、中高生がビックリするくらいの恋愛模様を展開することがアタイの夢なのさ……」
「立田さん、丸テーブルの上を片付けて貰ってもいいかな」
「ええ。少し時間を頂戴」
「いいよ。まだ運んでいない料理もあるから、良ければ手伝ってくれないかな」
「そのくらいお安い御用だし、もっと要求してもいいくらいよ」
「おっ、ここで立田選手が旭選手に対して熱いアプローチを仕掛けたァ!」
私と中野君の二人で無視したのにめげることなく茶々を入れてきた。悠と同等のメンタル強度があれば生きていくのも楽になるかもしれない。ただ、見習う相手としてはハードルが高すぎて難しい部類に思えるけれど。
サラダやオムレツ、チキンナゲットを持って部屋に帰ってくると服を着直した悠がお酒の準備を進めていた。悠は未成年のはずだから、飲もうとしたら止めなくてはならない。この前は雰囲気で酔っていたと言っていたけれど、多分嘘だろうから。
中野君に止める気配がない時は、私がやればいいや。
必要なものをすべて揃えたところで、私達は丸テーブルを抱えるようにして座った。猫の額ほどの丸テーブルでは面積が足りず、もうひとつ小さな折り畳み机を出したがこれもいつものことらしい。二人とも健啖家なのが、ちょっぴり羨ましく思えた。
「さて、それでは私とりっちゃんの結婚を祝して!」
「待ちなさい。いや、言いたいことはいくつかあるけれど、まずは手に持っているものを降ろしなさい。未成年飲酒は犯罪よ」
「えー」
悠が困ったような顔になった。中野君はそんな彼女と、そして私を見て不思議そうな顔になった。首を傾げて、私に疑問を投げかける。それを耳にした私は、首を傾げることになった。
「いいじゃないか。だって悠は未成年じゃないんだよ。多少アルコールに弱いところはあるけれど、僕達より」
「ヘイ! 旭! 口を慎むんだ!」
「悠、あなたって私より年下って話をしていなかった? 中野君、説明してくれるとありがたいのだけど」
悠に聞いたところで真面目な解答が返ってくるとは思えない。中野君が口を開こうとしたところで、悠がとびかかって妨害を始めた。背中に乗り髪の毛を引っ張って来る彼女を無視して、中野君は簡単に説明を済ませてくれる。
「あー、悠は後輩だよ。だけど元々は僕の先輩だったんだよ。いっこ上の、ね」
「そうだったの。留年?」
「いや、まぁ。色々あってね。一度就職もしたけど、すぐに辞めて大学生になる道を選んだんだ」
納得して、私は大きく頷いた。気にするほどのことでもないし、大学なんてモラトリアムを限界まで引き延ばそうとした人間が行くだけの場所だ。高校生から社会人になっても、やっぱり大学生になってみたかったという人がいても不思議ではない。親戚には三十歳になる寸前まで大学に生徒として在籍していた人がいるし、おかしいこともでもないのだ。
床の上を転がっていた悠を抱きしめてあげた。敗北感や後悔、羞恥心や劣等感を抱いたまま苦しむ必要はない。人間の本質は悪意に染まっていて、それを変えることなんて出来ないと思うから、私のこの行為ですら完全な善意から与えられたものではない。私も壁にぶつかったら彼女に甘やかしてもらうために、こうして抱きしめてあげるのだ。
年上の女性を抱きしめて癒すなんて、これから先の人生でも滅多にない体験でしょうね。ある意味で貴重だ、この際しっかりと慰めてあげよう。
しばらく彼女の頭を撫でながら中野君と雑談をし、うひひ、と悠が笑い始めたあたりで中野君に引き剥がしてもらった。これで、悠もしばらくは大丈夫だろう。
「じゃ、食べますか」
「飲も飲も。ふっふ、私の強さを証明してあげますよ」
「今日は吐かないでくれよ」
「うるせー、中途半端に飲んで愚痴を垂れ流すだけのイライラ製造機と一緒にするんじゃねー!」
「誰だよ、それ……昔の上司?」
悠の音頭で乾杯をして、それぞれの缶に口をつけた。私はレモン味のチューハイで、中野君は桃のチューハイ、悠は有名メーカーのビールだった。ひと息ついてから、おかずに箸を伸ばす。サラダをとったのは私と中野君で、悠はスパゲッティに手を伸ばした。なるほど、こんなところにも性格は出るものなのか。
小説を書くことに楽しみを見いだす中野君は、自分と他人との違いも意識して世界と向き合ったりしているのだろうか。ふと、そんなことを考えた。
ご飯を食べながら話すことは、小説やアニメの話、そして最近あったこと。悠が一番お喋りで、中野君がその次。私はふたりの話を聞きながら、ゆっくりと食事を楽しんでいた。親しくもない相手の話に混ざり込むのは苦痛でも、目の前にいるふたりは、とても私に良くしてくれる。時折、思いついたようにコメントを差し挟む私にも優しく言葉を返してくれるのだ。他人行儀でもなければ、丁寧過ぎるわけでもない。距離感を適度に保ってくれるふたりのことが、段々好きになってきた。
こうして、友人の絆は深まっていくのだろうと思った。
私はまだ半分しか飲んでいないのに、悠は二本目を開けた。中野君も続いて缶を開けたけれど、悠の方は少しずつ上体がふらつき始めている。食卓にお酒の並ばない日が多い私は、悠をじっと観察することにした。酔いどれの女の子を観察する機会なんて滅多にないだろう、これは貴重な経験だ。別に、悠の弱みを握って今後の備えにしようとか、そんな意図はないのよ。ええ、絶対に。
悠を眺めながらミックスベジタブルが入ったオムレツを食べると、想像の五倍くらい美味しかった。悠から目を逸らしても、やっぱり美味しかった。何か隠し味でも入っているのか中野君に尋ねようとして、彼が私を見ていることに気が付いた。何事だろうと首を傾げると、彼は照れたように頬を掻く。ただ、見ていただけらしい。……お酒が胃に届いたのだろう、お腹がちょっとだけ熱くなった。
改めて、中野君にオムレツのことを尋ねた。卵を溶きながらマヨネーズを加えるのがミソらしい。油をひく代わりに、そんな工夫を重ねると普通よりも美味しくなるようだ。普段から料理をしない私は、彼の発言に逐一「へぇ」とか「ほー」みたいな感嘆を漏らしてしまい、なんだか馬鹿みたいだった。
ピザも市販品にひと手間加えたものだったし、意外に中野君は細かいところまで考えて料理をしているのかもしれない。趣味なのか、それとも普段からやっているのかを尋ねると、彼は趣味だと答えてくれた。
「手を掛けるのは嫌いじゃないけど、ここまでやるのは誰かと食べるときだけだよ。普段は、うどんを茹でて生卵と鰹節と出汁醤油をかけただけ、みたいなご飯をつくる方が性に合っているんだ」
自分一人の為なら適当に済ませればいいけれど、誰かが口にすることを考えると手間をかけずにはいられないというタイプなのか。小説を書く過程は、料理をすることに似ているのかもしれない。自分が読むだけなら、何も考えずに文字列を繋げるだけで良い。誰かに読んでもらうためには、丁寧に文体や設定を整えて、作品として完成させなくてはいけないのだ。
出来上がった作品が読者の好みに合致しているとは限らないところまで、料理と創作は似ているじゃないか、と私はブラックユーモアに口角を歪めた。
酔いが全身に回り始めたらしい悠は、ニコニコと笑いながら中野君が披露するレシピに合いの手を入れている。メーカー名や具体的な商品名を挙げて、一人でキャッキャと楽しげに笑う。見ていると面白くて、私達も顔を見合わせて笑った。
話題は、料理や、料理シーンが出てくる小説へと移り変わっていった。悠はそのジャンルが好きで、昔から追いかけているらしい。料理が出来ない分だけ、想像上の食事に対する憧れみたいなものがあるのだろう。
お喋りをしながら、食事は続く。中野君の料理を口に運ぶ度、彼女は幸せそうな顔になった。試しに私が食べさせてあげると、全身の骨が抜けたようにふにゃふにゃと頬を緩めてしまう。うむ、かなり酔っ払っているみたいだ。
中野君と私、ふたりで悠を甘やかしていると、彼女は諸手を挙げた。右人差し指で私を、左人差し指で中野君を指差した。彼女の指を握って、何事かと考える。彼も不思議そうな顔をして、三本目の缶を傾けた。空になった缶を振ると、最後の一滴が彼の舌へと落ちていった。
「そろそろ、ふたりも呼び方を変えたらどうですか」
「呼び方?」
「いつまでも『さん付け』なんて、堅苦しいじゃないですか」
「いいだろ、別に。あと、吐くまで飲むのは禁止な」
「今日は大丈夫だよ! それにしても、旭は全然分かっていませんなぁ。名前の呼び方は、関係性を示す大切な指標じゃないですか!」
悠は立ち上がろうとしてよろめいた。私より先に旭君が彼女の身体を支え、再び元の場所に座らせる。完全に酔っているらしく、座っていても身体が前後左右にふらついていた。もう、横にした方が良さそうだ。中野君の話が本当なら、彼女にこれ以上飲ませない方がいいに決まっている。無理やり持たせた水を口に含ませて、少しでも酔いが醒めることを祈る。
中野君と話をして、何かを言いたげな彼女と、最後の話をすることにした。
「わたしはね、彼氏や彼女が欲しいわけじゃないんです。ただ、甘やかしてくれる人が欲しいだけなんです。その為に親密な関係になろうともしましたけど、ええ、年下なのにしっかりしていれば、もうそれで満足なわけですよ」
「それと、私達に何の関係があるの?」
「あるんですよー。いいですか? わたしも、彼氏と彼女ふたりきりの状況に突っ込むほど野暮じゃない。でも、ふたりに心の余裕が生まれると、これまで以上に甘やかしてくれる可能性があるじゃないですか!」
その為には私達が親しくなることが必要だと、悠はひとり頷いた。
だけど私達には、その気がないのだ。いや、一度やろうとしたことはあるけれど、結局は今の呼び方になってしまった。出会って日が浅かった、なんて言い訳は通用しないのだろう。だって、悠という実例があるのだから。
私達は見つめ合うばかりで、行動を起こそうとはしない。悠もしばらくは説教染みた文句を並べ立てていたけれど、遂に諦めたらしい。
「もー、ふたりとも内気なんだからー。わたし、もう寝る!」
言いたいだけ言うと、悠は這ってベッドへと向かった。そして布団に潜り込むと、すぐに動かなくなった。中野君は苦笑いしながら、悠が息苦しい体勢になっていないかの確認をしている。いつも、こんな感じなのだろう。
彼が人格者で良かったわね、と年上だった悠へ偉そうに言葉を投げかけてみる。彼は、そんなんじゃないよと謙遜した。
「年下にも敬語を使うような、真面目な人なんだ」
「敬語……? 変わった人だってなら否定しないわ。中野君も彼女に懐いているみたいだし」
「……そうだね。友人として、悠と親しくしているわけだ」
「あら、妙に引っ掛かる言い方をするじゃない」
「別に、特別な意味があるわけじゃないよ」
軽く肩をすくめて、彼は新しい缶を開けた。むう、私はまだ二本目なのに。
お酒を飲むなんて久しぶりだ。家でも、あまり飲んだ経験がない。身体が熱くなってきて、足の先が柔らかな痺れに包まれている。私も酔っているようだ。彼と話をしていても、よく聞き取れなくなってきた。それを理由にして、私は彼ににじり寄った。
距離を詰めれば心も近づくなんて、そんなことがあるはずもないのだけど。
宵闇が世界から音を奪い、ふたりのみが残される。母の胎内で揺蕩う赤子のように、信頼と我侭を抱いて静かに目を閉じた。張っていた心の障壁がゆっくりと崩れていくのが分かる。眠気と酔いを言い訳にして、彼に身体を預ける。もたれ掛かった私を押しのけることもなく、彼は静かに、お酒を飲んでいた。
素直で嘘を吐けない心の核心部が露出して、彼が放つ人生そのものの輝きを取り込もうとしている。深い関係になりたいの? と彼の瞳が語り掛けてくるような気がする。中野君は絶対に、そんなことを言う人ではないと思うけれど。
答えはもちろん、ノーだ。
キスをしたいわけじゃない。深い関係になって、心と体を癒着させるつもりもないのだ。彼の小説は好きだ、そこから滲み出る彼の人生観だって好きだ。話をすることも好きだし、こうして一緒の時間を過ごしているだけでも楽しくなれる。それで十分じゃないか。それ以上を望むことは、貪欲で恥知らずの人間だと証明することになってしまい。
嘘だけど。
……。
…………ふぅ。
嫌悪ではなく、怯えが私の足をすくませていた。緊張による震えが、私の喉を塞いでいた。手は固く握りしめたまま、接着剤を塗ったように動かない。縫い付けられたように、彼の身体から離れることも出来ない。鳩尾に刃物が向いているような、後頭部に銃口を押し付けられたような感覚。関係性を変化させることへの恐怖は、私にそんな幻覚を抱かせる。
キスをしたいわけじゃない。彼と一緒の布団で眠りたいわけでもない。でも、抱き締めてもらいたいし、手を握って欲しい。私にとっての中野君――旭君は、それだけの存在だ。私が彼を玩具と例えたのは決して嘘なんかじゃなくて、心に吹く隙間風から私を守ってくれる都合のいい存在になって欲しかっただけなのだ。彼の小説を初めて読んだときに感じたあの衝撃を、彼という人間にも求め始めている。深入りして傷つくことを恐れているから、遠巻きで眺めるだけで満足できる相手にしようと、失礼な要求ばかりが脳内を駆け巡っている。
私は嫌な奴だ。親しくしてくれる友人なんていなかった。そんな相手が出来たと思ったら、今度は彼に取り入ろうとしている。でも、彼に抱きしめて欲しいという思いだけは本物だ。私は彼にとって、特別な友人になりたいのだ。
何本目か分からない缶を傾けながら、彼はゆっくりとお酒を飲んでいる。私の飲む甘い桃の匂いとは異なる、グレープフルーツに似た爽やかな香りがした。
「旭君。それ、私にも頂戴」
「いいけど、あまり酔っているようなら止めた方がいいよ。強めの酒だから」
「大丈夫よ……それより、明後日のこと忘れてないか不安だわ」
「それこそ心配ご無用だ。ちゃんと予定は空けてある」
「そうなの? それなら安心だけど」
安堵を胸に溜めて、酒で身体の奥へと流し込んだ。幸せな気分だ。
その気分を彼にも感染させるため、そっと腕を回す。逃げなかった彼を、優しく抱きしめた。鼓動が早くなったのは、私か彼か、どっちだろう?
「ねえ、旭君。私のこと、りっちゃんと呼んで?」
酔っ払いだな、と冷静に自己分析の出来る私もいる。だけど、抱き付いた腕を離したりはしない。酒の入った彼の身体は暖かく、強い冷房の掛かった室内では離れようとする方が難しかった。
「さん付けするから、別の単語に聞こえたり不自然だったりするのよ。ねえ、りっちゃんと呼んでくれない?」
返事しない彼を促して、名前を呼ばせようとする。別に、悠が言っていたような関係になるつもりはない。怖いし。でも、もっと親しい友人になることが出来るなら、彼女の言葉に従ってみるのもやぶさかではないのだ。
旭君は、なかなか首を縦に振らなかった。恥ずかしがって話題を逸らしたり、私が酔っていることを盾に飲みをお開きにしようと画策していた。そこまで恥ずかしがっている彼が、なんだか可愛く思えて来た。ぎゅっと、胸を押さえつけられるような感覚に眩暈がする。呼吸も少し荒くなってきた。
「ねえ、旭君」
軽く、小鳥が囀るような声で彼に話しかける。……落ち着かなくちゃ。その為に私が向かうべき場所は、これまでの経験から考えるとひとつだ。
「お手洗い、借りてもいいかしら?」
「……あ、ああ」
何か期待するところがあったのか、彼が恥ずかしそうに頬を掻く。面白半分にからかうと、これまでの彼では考えられないくらい簡単に拗ねた。ふふ、愛い奴じゃ。もっと拗ねて、私に見せたことのない表情を見せて欲しいものだ。
個室に案内してもらった後は、音が外に漏れないよう注意しながらするべきことをした。酔っているから時間が掛かるかとも思ったが、全然そんなことはなかった。彼に怪しまれることもないだろう。
私が用を済ませている間、彼は顔を洗っていたらしい。酔い覚ましのつもりだろうか、一人だけ正気に戻るなんて狡いじゃないか。入れ替わりで彼がお手洗いへと消えた後、私も洗面台へと向かった。ふらふらと、真っ直ぐに歩くことが出来なくなっている。水の冷たさに吃驚しながら、手の汚れを落とす。ついで顔も洗った。鏡の中にいる自分と見つめ合う。そのつもりはないのに、鏡面の向こう側にいる私は頬を緩め、全身から脱力していた。
ぼんやりと、どうして私が微笑んでいるのかを考える。飲酒したことで頭の螺子が緩んでいる、というのが一番正解に近い選択肢じゃないだろうか。眺めていると、手を洗う為に彼が戻って来た。その背中に軽く触れた。鏡に映る彼は、薄らと笑っている。私が随分と酔っ払っていることが伝わったようだ。ふらつく私の手をとって、彼は悠が眠る部屋へと案内してくれた。肩を借りるついでに彼へ抱き付こうとしたら、やんわりと拒絶された。意味もなく泣いてしまいそうになった。
室内は、彼の吐息が聞こえるほどに静かだった。布団へ潜り込んだ悠の寝息は聞こえない。それほど深い眠りについているのだろう。悠が横たわるベッドの隣に座り込んでも、私は彼の手を離さなかった。観念したように旭君は溜息を吐いて、私の横に座った。
出来るだけ何気ない口調になるよう意識しながら、私は彼に尋ねた。
「旭君、聞きたいことがあるの」
「答えられることなら、なんでもどうぞ」
「私って、本当に美人に見える?」
「僕の美的感覚を信頼してくれるなら、君は相当な美人だよ」
「あら、ありがとう。……お世辞にしか聞こえないけどね」
重力に身体を任せながら、彼の手をひく。彼を抱き寄せて、そのまま床へと押し倒した。寝そべりながら、彼の顔を見つめる。身体を密着させると、彼は深く息を吐いた。唇が微かに震えている。何かを呟いた後、彼は私の眼を見て尋ねた。
「どうしてこんなことを?」
「だって、寒いもの。布団は、悠が占拠していて使えないし」
「冷房、切ろうか?」
「切ったら、熱くて寝苦しいでしょ。ちょっと寒いくらいが気持ちよく眠れるのよ」
「……僕は、暑い方がいい」
彼が手を伸ばして、卓上に置かれていたリモコンを取った。電子音と共に、冷房機が動きを止める。これで本当に、室内で音を立てるものは人間だけになった。冷たい空気が弛緩して、時間をかけつつ温まっていく。彼の胸に抱かれたままの私も、少しずつ熱くなってきた。でも、離れたりはしない。なんだか負けた気分になりそうだ。じっと、彼の瞳を覗き込む。密着した身体は互いに心臓の鼓動に合わせて微かな振動を繰り返し、彼は苦しそうな顔をする。痛みに耐える顔じゃない。欲を抑えている顔だった。
全身で相手を感じる。
心臓の音が、相手の思考を教えてくれる。
先に音を上げたのは旭君だった。
「僕の負けだよ」
「ふふっ、じゃ、私の勝ちね」
部屋の中はまだ寒い。彼の身体に、私の身体を摺り寄せた。
彼の胸に頭を預ける。湯たんぽのようにぽかぽかしていた。朝まで、私に熱を供給してくれるだろう。不意に現れた夏の魔物が私の心に隙間風を吹き付けても、凍える心配をしなくていい。
夏場に忌避していた暑さも、今日だけは嫌じゃなかった。
優しく背中を擦ってくれる彼に抱かれながら、私は安らかな眠りについた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます