第12話 臆病男

 高い空に、薄い雲がかかっている。昨日まで雨が降っていたから、その名残だろうか。夏祭りの二日前だ。これ以降は雨脚も遠ざかり晴天が続くそうだから、特に心配もしていない。太陽は燦々と照り付けて、風は穏やかに吹いている。絶好のプール日和だ。荷物に忘れ物がないか、昨晩から数回確認をしている。問題ない、普通にしていれば時間は過ぎていくのだから。

 ……それで、どうしても聞きたいことがあるのだが。

「どうして中野君がいるの?」

「いや、分かんない。僕は悠に誘われたんだよ」

「あら、ふたりの時間を邪魔して悪かったわね」

「そんな関係に見える? 有り得ないから」

 強い言葉で否定した彼のお尻を、悠が腰の入った一撃で蹴り抜いた。中野君は困ったような顔で私と悠とを見比べている。両手に花じゃないの、良かったわね。しかしこれ以上虐めてしまっては私への印象が悪くなるかもしれない。いや、好きになってもらう必要はないのだけれど、折角友人となった相手に嫌われる意味もないじゃないの。

 二人が言い争いしながら、楽しそうに喧嘩するのを眺めていた。告白を経験した後の男女は、友人でいられるのだろうか? 小説の世界に生きてきた私にはよく分からないけど。嫌悪感はなくとも、やり辛さを感じたりはしないのだろうか。もしくは、何もなかったかのように、知らんぷりをする技術があるのかもしれない。うん、きっとそうなんだろう。

 話を戻そう。主に、悠を責める方向で。

 私は中野君が来ることを知らされていなかった。私と悠と、ふたりきりで遊ぶものだと思っていたからだ。中野君も、私が来ることを知らされていなかったらしい。時間通りに集合場所へと来た私達二人は、それが偶然だとは思えなかった。主犯格が十分遅れて到着して、ようやく尋問の始まったところである。

 はぐらかされて、まともな答えは返ってきていないけれど。

「悠、もう一度聞きたいのだけど。これはどういうことかしら」

「まぁまぁ。楽しいことは秘密にしておくものですからね。それとも、事前に知らせておいてほしかったですか?」

 確かに、中野君が来ると知っていたら昨日の夜は寝付けなかったかもしれない。だから一報を貰わなくて正解だった、ということも出来るのだが。

 いや、どうして彼がここにいるんだ。黙っていると、中野君が悠の頭をぐりぐりと撫でた。虐めているようで、褒めているようにも見える。ちょっと痛そうだけど。

「悠、勝手なことするなよ」

「りっちゃんと一緒じゃ嫌だった?」

「そんなことないよ。だけど、僕にだって心の準備をする時間が必要だ」

「旭の癖に色気付いちゃってー。アイタタタ髪の毛引っ張るのはダメだって」

「ちょっと。悠だって女の子なんだから、中野君もそこまでにしておいて」

 流石に可愛そうになって中野君を窘めた。彼は気まずそうな顔をして、悠はなぜか調子に乗り出した。ふむ、彼の代わりに私が悠の髪を引き抜いてあげよう。セクハラに対する私刑にも使えるかもしれない。

「なんでりっちゃんまで? もー、大体、旭がいけないんだぞ」

 私の暴力から脱出した悠は、中野君との口喧嘩を再開した。昨日の夜も中野君の家に遊び行ったらしく、そこで悠が部屋の中を散らかしたのが原因のようだ。

 二人の関係は、親友かそれ以上の何かにしか見えないのに。

 中野君に告白したことがあるという悠は、不思議とそのことを表に出そうとしなかった。悠からの告白を受けた彼も、それを意識している素振りを見せなかった。私はそれを、強いな、と思った。私が彼らのどちらかなら、同じようなことが出来るだろうか……悠からの告白はカウントしないぞ。だって、あれは半分冗談みたいなものだから。

 あれ? 悠から中野君へのそれも似たようなものか?

 だから悩むことなく、平然としていられるのだろうか。

 うーん。考えていると頭が痛くなってきた。脳の容積が足りていないようだ。

「じゃ、私はお手洗いに行ってきます。寝坊して、急いできたもので」

 私が悩んでいるうちに、二人の舌戦は中野君側へと優勢が傾いていたようだ。悠には、困ったことがあるとトイレへ逃げる癖があるらしい。覚えておこう。

 しかし、今日の悠の行動は、私と中野君をくっつけようとしているようにも見える。私の思い違いでなければいいのだけれど。悠がそういう行いをするということは、中野君も私に対して少なからぬ好意を抱いていたりするのだろうか。友人としてではなく、それ以上の……。

 やめておこう、もっと踏み込んで考える為には私の心臓が小さすぎる。緊張で頭が痛くなってきた。

 ふと横を見ると、中野君と目が合った。ふたりして視線を逸らして、話しかける切っ掛けとなる言葉を探す。先にそれを見つけたのは、中野君だった。

「晴れてよかった。雨だったら、久しぶりの水遊びの時間がなくなるところだった」

「そうね。行いプールに来たのなんて、私は数年ぶりなんだけど。中野君は?」

「半月ぶりだよ。この前も悠に連れ出されて、ひたすら水中バレーに付き合された」

「楽しそうじゃない。私も、誘ってくれる友達が欲しかったわ」

「あー、今度は僕が誘うよ。来年になるかもしれないけど」

「そう。ありがと」

 ふはは、と二人で笑った。

 その頃まで私達の友情は続いているだろうか。不安になってもしょうがないことだと、分かってはいるのだけれど。

 二十人近くが並ぶ列の先頭に掲げられたプラカードには、施設の稼働時間が示されている。プールが解放されるのは午前十時からだった。私達の集合時間が九時三十分で、悠を詰問しているうちに時間が経ったとはいえまだ十分近くある。意外と長めの待ち時間、何か話すことはないだろうか。

 無理には言葉を交わす必要はない。だけど、個人的に思っていることを口に出してもいいのなら、ちょっとでもいいからお喋りをしておきたい。

 だって、その方が仲良しになれそうじゃない?

 中野君が小説を好きになった理由について、尋ねてみることにした。彼は悩む素振りも見せずに、笑って答えてくれた。

「そんなものないよ。物心ついたときから小説を読んでいたし、中学生の頃には小説を書いていた。そこに深い理由はないし、気付いたら好きだったんだ……と言っても、君は信じないかもしれないな」

「そうね。途中から表情が曇っていたし、何か複雑な事情があるのかもしれないな、ということくらいは勘付いたつもりよ」

「それだけ理解が早いならありがたいな。よくある話だよ」

 ありふれた前置きの後に語られた彼の過去は、やはりありふれた不幸話だった。

 小学校時代の彼は、学校の図書室に引き籠って小説ばかり読んでいる少年だったらしい。四六時中小説のことばかりを考えていたために周囲とのコンタクトが上手くいかず、孤立していた時期も長かったそうだ。中学生になってもその傾向は変わらず、教室ではいつも一人だったらしい。

 しかし、中学校の図書室には、彼の同類が沢山いた。

「あいつら、僕と仲良くしてくれたんだ。個々人に目を向けると取っ付きにくい妙な奴らなんだよ。だけど、あいつらと過ごした時間っていうのは、僕にとってかけがえのない財産になるんだろうな」

 中一で図書準備室を溜まり場にすると、彼らは空き時間のすべてをそこに費やした。それぞれが好きな作品について、熱く不毛な議論を交し合ったらしい。

 そしてある日、転機が訪れる。

「僕には昔から妄想癖があって、それを文字に起こしてみることにしたんだ。当時は深夜になると毎日のようにチャットルームに集まっていて、そこで作品を披露したんだよ」

 反響は彼が思っていた以上に大きく、誰かに必要とされることに途方もない喜びを感じたのだと言う。それ以来、彼は友人たちに作品を公開し続け、中学校を卒業するまでの期間に本が数冊分にも及ぶ量の文章を生み出したそうだ。

 高校生になってからも彼らとの交流は続いていたが、大学に進学した組と就職した組とで時間を調整することは難しく、彼が現在もこまめに連絡を取ることが出来ているのはたった一人だけなのだと言う。

「それって、もしかして悠のことかしら」

「ああ、違うよ。悠とは高校の時に知り合ったんだ。でも彼女が居なければ、僕は天涯孤独の身の上だったかもしれないね」

「そうなの?」

「僕が積極的に他人へと話しかける姿、想像できるかい?」

 大学の講義中に黙々とノートを取り、小説を書き進める彼の後姿を思い返す。なるほど、言われてみればそうかもしれない。ともかく、彼が小説を好きになった理由は分かった。彼にとって自己表現の一手段であり、承認欲求を明るい方向性で満たしてくれるものが小説なのだ。好きにならないはずがないだろう。

 彼の話を聞いた後、私も身の上を語ってみることにした。といっても特筆するようなことなどなく、小さい頃からずっと小説を読んでいたこと、そして他人を遠ざける為の道具に使っていたことを話した。

 彼にとっての小説が希望と憧憬の象徴ならば、私にとっての小説は嫌悪と拒絶の象徴だった。

 後ろ暗い理由があって小説のことを好きになったという自覚がある。だから、前向きに小説を好きになった彼の話を聞いた後だと、なんだか恥ずかしくなってしまう。中野君は、気にするほどのことじゃない、と笑ってくれた。

 それが意外で、思わず聞き返した。

「貴方でも人を嫌いになることがあるの?」

「あるよ。だって、僕は元々……と、開場したみたいだね」

 彼と同じ方向を見ると、確かに入場が開始されていた。どこに隠れていたのか、悠も私達の元へと駆けてくる。お手洗いにしては随分と時間が長かったから、私と中野君が話す時間を作ってくれていたのかもしれない。

 それが真実である保証も、自信も私にはないのだけれど。

 私達の元へと駆け寄って来る悠は、威勢よく手を振っていた。振り返そうと手を挙げたところで、彼女が列の中へと消えた。何事かと目を凝らすと、どうやら、私達以外にも知り合いがいるようだ。人気者って大変ね、私には想像も出来ない苦労があるみたいで。

 そういえば、と彼が私に話しかけてきた。

「君の話、読み返したんだ」

「どうだった?」

「……あー、恥ずかしい感想になるけど、いいかな」

 別にいいから、と催促した。あまりにもダメで、酷評すら出来ないのか?

 彼は、照れたように頬を掻いた。

「すごかった。読み始めから終わりまで、ずっとドキドキしていたよ」

「そう?」

「ああ! どこが好きだったかを具体的に言葉にするのは難しいけど、読んでいると夢見心地になるというか」

 彼の小説を初めて読んだ時に、私も同じような感想を抱いた経験がある。似通った感性の持ち主、ということだろうか。もしくは作品の方向性が同じということも考えられる。ふふ、案外嬉しいものね。他人から褒められるということは。

 列が動き始めた頃になって、ようやく悠は戻って来た。どうにもお喋り好きな友人に捕まっていたようだ。入場を済ませた後は、当然のことながら男女別の更衣室へと向かい彼とはまた後で集合することになった。

 さて。

 当然のように悠は私の後ろについてきている。彼女が着替えているところを男性たちの視線に晒すわけにも行かない為、中野君に引き渡すと言うことも出来ないしそんなことを考えてしまう時点で悠に対して苦手意識を持ちすぎていることが分かる。せめて別々の場所で着替えれば悠からの視線や、彼女の指の動きに注目しなくてもいいのだろう。でも、そこまでするのも、ねえ?

「変なことしないでよ」

「りっちゃん、想像以上にトラウマになってない?」

「そんなことないけど。ただ、釘を刺しておきたかっただけ」

「ぐへへ、それは誘い受けという奴ですかい? お望みとあらば旭の前で破廉恥なプレイを……睨まないでよー、冗談だよー」

 冗談と嘘に馴れた人は、本気の行動で得た結果にも冗談と嘘のレッテルを貼りたがる傾向がある。そんな独断と偏見を練り混ぜた信頼があるから、私は悠の言葉を信用しないことにした。取り敢えず、隙は見せないようにしよう。

 万が一鍵を失くしてしまったときに備えて、隣同士のロッカーを選択した。そうすれば、職員さんに鍵を紛失したことを届け出て、諸々の処理をして貰えるはずだからだった。荷物を手早く仕舞いこんで、プールの準備をする。私がもたもたと服を脱いでいる間に悠は準備を済ませて、今すぐにでもプールに飛び込みそうな勢いだった。なるほど、服の下に水着を着こんでくるというのもひとつの手なわけだ。学校の授業以外でプールに着た経験がないから、その程度のことも配慮していなかった。

 ……視線が、身体に絡みついてくる。

「なんで、そんなに、じっと見てくるわけ?」

「やー、どうしてタオルなんか巻いているのかなって。普通に脱げばいいんですよ」

「私はそういうの無理なの。主に誰かさんの視線や、誰かさんの手付きが気になるせいで」

「おやあ、そんな人がいるんですねえ。誰でしょう?」

 わざとらしく、悠は首を傾げて見せる。流石に行為そのものは自重しているようだが、それでも笑顔が崩れない。そんなに私のことがお気に入りなのか? 本当に私への一目惚れが原因だと言うのなら、理由を求めても仕方がないとは思うのだけど。

 下着を脱ぐだけでも、彼女はストリップだなんだと楽しそうにしていた。他の利用客もいるのになんて奴だ、と思ってみたが学校でも似たようなことをして騒いでいる人達がいたことを思い出した。これは全国共通の遊びみたいなものか、そうでなければ通過儀礼の一種と考えることにしよう。

 ……羞恥心で頬が熱くなってきた。

「外に出れば否が応にも衆目に晒されるんですよ。今から気にしていてどうするんですか」

「不特定多数の人間から僅かな好奇心を向けられるより、特定の誰かさんから熱い視線を送られる方が恥ずかしい場合だってあるのよ」

「つまり、旭だと私相手よりも数千倍くらい鼓動が早くなると……だから、睨まないでくださいよう、りっちゃんのそういうところ怖いです」

 別に睨んでいるつもりはないのだけれど、自覚があるなら黙って居て欲しい。からかうのも大概にして。時と場所を選ばなければ酷い結末を迎えることだってあるんだぞ。

 すべてを脱ぎ終わったとき、悠が立ち上がった。

 ようやく出ていく覚悟を決めたのかと胸を撫で下ろす。が、現実は非情だった。

「不思議なことに、りっちゃんを見ていると嗜虐心が刺激されるんですよね。主にこう、セクハラしたくなる方面に」

 思いがけず伸ばされた腕は掴むこと出など来ないほど真っ直ぐ、私の身体をがっちりと捕捉した。そのまま彼女は私に抱き付いて、細い指を身体に這い回らせる。私の知らない彼女の指が、タオルの上から身体中を撫でまわして、腰の抜けた私がその場にへたり込んだところで彼女は外へと逃げていった。時間は有限だからとか、早く外に出ないと中野君を待たせてしまうとか、それっぽく聞こえる理由を並べ立てていた。……ぐう、ほとんど正論に近いじゃないか。でも、次は許さないからな。

 外へ行けば中野君が待っている。それは喜ばしいことのはずなのに、なぜか身体の動きが緩慢になる。着替えを終えるまでに、私は何度も溜息を吐いた。

 最後に身辺確認を済ませてから集合場所へ向かうと、二人は準備運動をしていた。近くを通りかかる子供達にストレッチの重要さを説き伏せる大学生の図だ。近寄るべきか否か、かなり迷うレベルで怪しい二人組である。

 一通りの動作を終えた後、悠は貸し出しの空気入れを使ってボールを膨らませ始めた。中野君は腕組みをして、ぼんやりと青空を眺めている。悠とは違う意味で、彼も自由な人なんだよな。

 ぼーっと、意識したわけでもないのに視線は彼の身体に吸い寄せられる。

 彼の身体は目立つ筋肉もお肉もついていない、どうにも普通の身体だった。ただ、普段から外に出ることが少ないのか、肌は驚くほど白かった。太陽の日差しに照らされて、彼の白い肌が扇情的な気分を煽ってくる。触れてみたい、でもそんなことをしたら私も悠と同類になってしまう。自制心を強く持つのだ、立田リツよ。

 深呼吸をしてから、私は彼らの元へと歩いて行った。

 どうにも空気入れの調子が悪いらしく、中野君がしゃがみこんで様子を見ている。チューブが割れて使えなくなったみたいだ。経年劣化だろうか、摩耗だろうか、素人にそこまで分かるはずないか。

 彼の背中に、悠が圧し掛かる。迷惑そうな、でも楽しそうな顔になった後、私の存在に気が付いた。何かを口にしようとしたところでバランスを崩し、盛大にこけてしまった。悠もすぐには立ち上がらず、私に救いの手を求めてきた。……まあ、このくらいなら。

 二人を起こしてから、怪我していないか確かめる。大丈夫そうだった。

「もっと鍛えろよー」

「無茶言うなって。突然乗って来たお前が悪い」

「筋肉に自信がない時点で、旭は体質に甘えている」

「極端な痩せ型だったのは昔の話だろ。今は随分と標準体型に近くなってきたんだ。最近は体調も崩さないし」

「んー……あ! ホントだ、ちょっと柔らかい! お肉ついてる!」

 ぱこん! と中野君が悠の頭を平手でたたいた。

 二人とも楽しそうだ。いいなあ。

 漫才をしながらシャワーへ突撃した二人に続いて、私も冷たい水を浴びる。太陽に焦がされつつあった身体が一気に冷えた。心地よい感覚だ、腰から背中へと体が震えて、筋肉が動き始めたのが分かる。運動は苦手だが、楽しむ分にはなんだって出来る気がした。何せ、相手は気心の知れた友人ふたりなのだから。

 シャワーを浴びた後、一番先頭を歩いていた悠が振り返った。その顔には、不満がありありと浮かんでいる。一体、どうしたというのだろう。見ていると、悠は私を指差した。何事かと、中野君も様子を窺っている。

 いや、私も聞きたい。

「りっちゃん」

「何?」

「いつまでそんなものを着ているんですか! 折角水着を買ったのに、見せないつもりですか?」

 唐突にとびかかって来た彼女は、私のラッシュ―ガードに手を掛けた。驚くことに、ファスナーを降ろそうとしてくる。いや、そもそも恥ずかしいからこれを着ているわけで、羽織るだけでは意味がないのだ。中野君に助けを求めて視線を送ると、彼の心は欲望と良心の狭間で揺れているようだった。成程、彼も私の水着を見たいらしい。

 うーむ、どうすればいいのだろう。

 中野君によって引き離された悠は、ジタバタと暴れ出した。周囲からの視線も気になり始め、彼女を連れて三人で人目につかないところへと移動する。口元を押さえていた手を取り除くと、彼女は私を恨めしそうに見上げた。

「スタイルに自信がないんですか」

「……悠が見たいだけでしょ。あと、必死過ぎて怖いのだけど」

「だって! こういうときじゃないと! 拝めないから!」

「欲望に対して正直過ぎない?」

「いいじゃないですか。旭だってそうでしょ?」

「や、僕は……まあ、見たいけど」

 視線を逸らしてくれたけれど、気遣いすべきはそこじゃない気がする。

 ……まあ、これ以上焦らしても意味はないし、そもそも水着は見せるものだ。悠が泣きそうな顔をしているから、なんて理由をつけたりはしないのよ。だって私は他人の欲望を叶える為に存在しているわけではないし、誰かに欲をぶつけるなんて悪意ある行為でしかないじゃないか。

 まったく、もう。

 ゆっくりとファスナーを降ろしていく。緊張で手が震えて、途中で手が止まってしまった。卑猥なことをしているわけでもないのに、緊張するのはどうしてだろう。周囲を見渡せば私より派手な水着を着ている高校生や、周囲の視線を心の底から満喫しているような女性の姿も見受けられる。

 でも、違うのだ。水着を披露するというこの一瞬だけは、彼の視線が私にだけ注がれているということだ。それは、見ず知らずの誰かが瞬間的に切り取った風景の中に私がいることよりも遥かに意味のあることで、だからこそ恥ずかしい。意を決して上着を脱ぐと悠が目を輝かせ、中野君は目を逸らした。随分と、露骨に反応をする人たちだ。

「やっぱり似合っていますねえ、眼福ですねえ!」

「この前も見たじゃない、あの時と変わらないでしょ」

「やー、蛍光灯の下に水着美人がいるのと、太陽に照らされた水着美女ではまた反応も違うものですよ」

「そう? 私には、その違いとやらが分からないのだけれど」

 悠がしきりに誉めたてるこの水着は、特に有名なメーカーのものではない。普通のお店が平均的な値段で売っている、ごく一般的な水着に過ぎない。黒を主軸に据えたパレオタイプで、特徴と言えば白い水玉模様が描かれていることくらいだろうか。控えめに言って、地味だ。どことなく鯱みたいなイメージのデザインで、何となく気に入ってはいるのだが、それ以上のものではない。

 中野君がこういうの好きだから、などという理由でこの水着を選んだわけでもないのだ。別に、悠にそれっぽく中野君の好みを聞いたりとか、そういうのをしたわけじゃないんだぞ。

 彼は私に視線を投げかけてはすぐに逸らす、と不審者みたいな動きを繰り返している。似合わないものを着てしまったのだろうか、それとも他に理由があるのだろうか、と不安が内臓を刺激してくる。ちょっとだけ、お腹が痛くなってきた。

「……中野君はどう思う?」

「僕? いや、僕に訊かれても若干、困る」

「……似合ってない?」

「あー、その、素敵だと思うよ。似合わない方が不思議なくらいに、元々君は美人なんだ。その水着だって落ち着いたデザインが君によく似合っているし。……あと」

 まだ何かあるのだろうか、と彼を見つめる。やっぱり男の子に褒められるのは嬉しいもので、もっとお願い! と内心で黄色い声をあげる。

 だけど欲張りは禁物だ、褒めてくれない相手に対して敵愾心を抱くようになっては意味がない。褒められるということの意味そのものが薄れてしまう。彼の言葉の続きを、じっと待つ。浮き輪を肩に担いだ小学生が横を通り過ぎて、私達のことを不思議そうに眺めていた。

 彼は気付けのつもりか、自身の頬を思い切り平手打ちした。乾いた大きな音がして、彼の眼には精力に満ちた光が灯っていた。

「立田さん。君は美人なんだから、もっと自分に自信を持つべきだ。……と、僕の個人的な意見を言わせてもらうよ」

 そんなことを言ったかと思うと、彼は体の向きを変えて走り出した。言い換えるなら、人気のない方へと逃げていった。あまりにも突然のことに呆然としながら、ふと横を向く。放り出された悠は、走り去る彼の背中を眺めていた。なんだか、彼に対して呆れているようだった。

「意外ね、解放されたらすぐセクハラしてくるかと思っていたのに」

「ふふ、私にもクールダウンする時間が必要なんです。それとも、してほしかったんですか」

「結果と未来が見えているなら、どうぞ」

「止めておきます。流石に命は惜しいです」

 そこまで酷いことはしないわよ、と私は笑った。ようやく気を取り戻して、悠も笑顔になった。ひとしきり笑ってから、彼を追いかけることにした。

 そう言えば、と悠が立ち止まる。振り返った彼女は、悪い顔をしていた。

「りっちゃん。ラッシュガードは脱いだままの方がいいですよ。なんせ、プールです、水遊びです。濡れると透けて、余計にエロい可能性もありますから」

 ふふん、と勝ち誇ったような顔をして悠は人の少ない方へ歩いていく。私は手に持っていた服を彼女に投げつけるか、それとも再び着用するかで大いに悩み、そして前者を選択した。あとは野となれ山となれ、ここまで来たなら何をしたって一緒だ。

 下卑た笑みを向けられようが、絡みつく視線が突き刺さろうが、大事なことはひとつしかない。親しい友人たちと、やりたいことを、したいように。そうやって、人は青春を積み重ねていくのだ。

 逃げた彼の背中を追いかけて、私は太陽の下を走り出した。

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