第10話 子供女
中野君たちと別れた後、私は家に帰った。彼らから逃げたわけではない。中野君から遠く離れようと思ったわけでもない。ただ、無性に小説が書きたくなったのだ。せっかく親しくなれそうな相手がいたのに、その機会を不意にするなんて普通じゃ考えられない。でも、私は耐えられなかった。
生まれて初めてゲーム機に触った子供のように、頭の中を小説の構想が巡り続けている。吐き出してカタチにしてしまわなければ、内に秘めた思いが腐って毒へと変わりそうな、そんな不安があった。
だから家に帰って来てからずっと、パソコンと向かい合っていた。今も、文字を打ち込み続けている。
時刻は夜十時をまわっていた。この勢いで書き進めれば、ちょっとした短編を仕上げるくらいわけないだろう。無心に指を動かし続けると、画面いっぱいに文字が浮かぶ。意味のない単語の羅列も前後とうまく組み合わせてやれば、誰も見たことのない文章になる。そうして生まれた文章が、やがて長い小説へと姿を変えていくのだ。雨粒が流れて、やがて川になるように。
誰に言われるでもなく、私は小説を書き続けていた。頼まれたわけではない、だからこれは義務ではない。自分で選んだことだから、苦しくもない。初めてのことばかりだ。中野君と関わるようになってから、私の中にあった何かが決定的に変わっている。
出来上がる小説は美しいものだろうか。それとも醜いものだろうか。私の性的趣向がそこに現れるなら、きっと醜いものだろう。だけど、もしも中野君の感性が私にごく僅かでも影響を与えていたのなら、違うものが出来上がるかもしれない。
あの日見た、鮮烈な光景をもう一度。
その為に、私は生きている。
黙々と作業をしていると、傍らに置いていた携帯の画面が明るくなった。着信ランプが激しく明滅して、その存在を確かなものにする。表示された名前をみると中野君だった。こんな時間に何事だろうと訝しがりながら、携帯を耳に当てる。
携帯からは聞き慣れない女性の声がした。
『お、やっぱ起きてるじゃん! おはよう! 突然だけど、これからはりっちゃんって呼ばせてもらってもいいかな!』
「別に、いいけど……」
『やった! りっちゃん、大好き! ちゅーしよ!』
「えっと……ちょっと、落ち着いたほうがいいんじゃないの」
深夜というにはまだ早い時間なのに、電話の向こう側にいる誰かはハイテンションのご様子だ。まともに話が通じるのか不安になってきた。それに相手が誰なのかという想像がついてしまって、げんなりしている。
一応、聞いてみようか。
「ところであなた、誰かしら」
『あれー? 悠だよー! 忘れたりしてないよね?』
名前を聞いて、出会ったばかりの少女を思い出す。中野君の隣に居て、彼と仲良くしていた文芸部員の子だ。小さくて可愛い子だったことを覚えているが、やっぱり、そういう人なのだろうか。
時刻を確認して、通話の発信元が中野君の携帯であることを確認すると、私は小さく溜息を漏らした。
まずは、話を聞きましょうか。
「そんなわけないでしょ。中野君の携帯からだったし、確認したくなったのよ」
『そっか。確かに、そうだよねぇ』
「それで、こんな時間にどうしたの?」
『それはねー、お願いしたいことがあってのー』
妙に語尾が間延びしている。口調も、昼に顔を合わせたときとは変わっている。
考えてみて、想像力に乏しい私には思い当たることがひとつしかない。彼女、大丈夫だろうか。
『あたしと遊んで!』
「いいけど、今すぐにというのは勘弁してね」
『それは大丈夫だよ。私、そこまでお馬鹿さんじゃありません!』
「まぁ、そうよね。それで、いつ、どこで遊ぶのか教えて貰える?」
『明日のお昼! 駅に集合でいい?』
別に異存はないけれど、何をして遊ぶつもりなのだろう。それに誰と遊ぶのか気になる。彼女一人なら交遊を深めるきっかけにもなるだろう。中野君がついてきたって問題はないし、彼なら大歓迎だ。でも、それ以外の人は嫌だ。せめて、心構えくらいさせて欲しい。
考え事をして黙っていたら、集合場所がどこの駅か聞く前に電話が切れてしまった。集中豪雨のような子だな、とぼんやりしながら考える。再び作業に戻ろうかと思ったが、どんな話を書いていたか忘れてしまった。憑りつかれていたように指を動かしていたから、果たして正しい日本語で文章が紡がれているかどうかも定かではないのだ。
初めの段落に戻って文章を読み返していると、再び着信があった。今度は、ちゃんと中野君が電話口にいた。最初の一言で悠さんのことを謝罪されて、思わず苦笑した。彼は真面目過ぎる。そして悠さんと彼がこの時間まで一緒にいるほど仲がいいことを知って、胸の底が焦げたように痛くなった。
大丈夫よ。そのくらい、心構えをしていたに決まっているじゃない。
悠さんのことを尋ねると、満面の笑みを浮かべながらぐっすり眠っている、という答えが返って来た。その姿を想像すると、妙に可愛くて噴き出してしまった。なんというか、仔猫の寝姿に似ているものがある。
一応、聞いておくのがいいだろう。
「もしかして、お酒を飲んでいるのかしら」
『あー、僕だけだよ。悠は雰囲気で酔ったらしい』
「ふぅん」
嘘でしょ、という棘のある言葉は辛うじて飲み込むことに成功した。酒に酔っている彼への攻撃は、潜在意識への刷り込みになりかねない。私が嫌な女だということはなるべく匂わせないようにしなくてはいけない。
もう遅いかも、なんて思ったあたり、自覚症状はあるけれど。
「それでも、彼女は眠ってしまったのでしょう? 家の外だと大変なことになりそうだけど」
『大丈夫。その辺は抜かりないから』
へへへ、と笑う彼の声に私もつられて笑いそうになった。だが冷静に考えて、飲み屋で一杯引っ掛けているわけじゃないということは、屋内で飲んでいるということだ。まさか屋根があるお店だから屋内だし大丈夫、などというくだらない言葉遊びをしているわけでもないでしょうし。
それに、中野君が女の子と一緒にいるというのがむかつく。君はモテない人じゃなかったのか、だから私みたいな奴と仲良くしてくれたんじゃないのか。……まぁでも、悠さんは彼の友達だから、多少のことなら許してあげてもいいだろう。
「隣に悠さんがいるなら聞いて欲しいのだけど。明日、どこに集まればいいの?」
『今日、偶然出会ったモールがあるだろ。それは分かるよね』
「ええ、勿論」
『そこの近くの、ああ、君と一緒に帰ったとき僕が降りる駅だ。あの駅の北口で待っていれば間違いないと思う』
「そう。なら、迷子にはならないわね」
耳元で彼の声がする、というのは普段とは違った感覚を呼び起こす。そのことを伝えると、彼も同じようなことを考えていたらしい。似た者同士だ、とふたりで笑った。それ以上に、嬉しかったこともある。意外と可愛い声をしている、と評されたのだ。普段どんな声だと思っていたのか、酔っている彼に尋ねれば訳もなく答えてくれるだろう。だけど、それは卑怯な気がする。
それに、酔っている男の人は信頼しちゃいけない。普段から覆い隠している欲望を、酒という免罪符の下で叩きつけてくるかもしれないのだから。
他愛もない話をしましょう、と持ち掛けた。快く承諾してくれたことに心が弾む。飲んでいないのに、私まで酔っ払ってきたみたいだ。
お喋りをしている間は、身体の中を彼の声が流れていく。甘い蜜をかけたように、じんわりと温かさが広がっていく。小説を読んでいるときに感じる痛いほどの気持ちよさとは違う、柔らかな心地よさだ。
そして夢見心地のまま、私は小さな地雷を踏み抜いた。
「ところで中野君、あなた、どこにいるの?」
『……えっと、今はあいつの家に遊びに来ていて』
よく遊びに来るんだ、と彼はそれが最良の台詞であるかのように言った。それは私よりも悠さんが、遥かに彼と近しいことを示している。
心が冷えていく、なんてことはない。
逆に、煮え滾った鉄のようだ。狡いじゃないか、私だってそういう友達が欲しかったんだぞと、駄々をこねる子供のように愚図ってしまいそうだ。お気に入りの玩具を、見知らぬ誰かに壊されてしまったときの感情に似ている。携帯を握る手にも思わず力が入った。
「……それで、何をしているのかしら」
『酒を飲んでいたんだ。あと、アニメみていた』
「二人きりで?」
『そう、だけど』
彼が口籠った。言葉の棘が刺さったらしい。
「悪いことしてそう」
『しないよ。どうして君は、僕を狼にしたがるんだ』
「だって、あなたはそういう人だから」
『否定はしないけど、もう少し人間扱いされたいなぁ。それじゃ、もう遅いし』
酔っていて眠いという理由で、電話を切られてしまった。
もっと言葉の棘を刺したかった。なぜか、彼の声を聴いていたかった。酔っているとは言うけれど、ちゃんと会話が成立しているなら、泥酔状態ではないということだ。だったら、もう少しくらいお喋りしてくれてもいいではないか。
変なことで拗ねている、と自覚はしている。大人げないとは思うけれど、無理に大人になる必要はないじゃないか。二十歳になっても、所詮は酒と煙草が解禁された子供みたいなものなんだから。大学生なんて、過ぎ行くモラトリアムに縋りつく幼子に過ぎないのよ。
電話の向こう側にいる中野君は、私が知っている彼よりも楽しそうだった。一度考え出すと、不幸な妄想はとまらない。中野君と悠さんが、楽しげに喋っている光景が網膜から消え失せない。眼を閉じれば浮かぶ情景はすべて彼らのもので、私はただの傍観者に過ぎないのだ。酔って眠った彼女に、中野君は何もしないのだろうか。彼はそこまで、欲望という悪魔を打ち倒せる人間なのだろうか。
小説を書く気にもなれなくて、私は布団に潜り込んだ。しばらくして、顔をうずめていた枕が濡れていたことに気が付いて、私は慌てて顔をこすった。悔しくても、それで終わってはいけないのだ。
深呼吸をした。明日もまた、身勝手な悪意を抱くために。
私だってまだ、齢二十の子供なのだから。
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