第9話 嫉妬女
伸びた髪が背中を擦る。
扇風機が送ってくる風に煽られて、長くなった髪が私の肩や背中を撫でまわしているのだ。くすぐったい感触に髪を結ぼうかと迷って、結局やめた。バーンアウトだ、しばらくは動きたくもないのである。
一昨日、私は生まれて初めての小説を書き終えた。身体から熱や執念や様々なものが抜け出た後に読み返してみると「なんだこれ」と言いたくなってしまうようなものだったが、それでも書き上げることが出来た。しかも、中野君に褒めてもらうことも出来たのだ。
共通の趣味を持った友達に努力を認められるということは、明日を生きる活力につながる。だから昨日は、すごく気分が良かった。
その反動かもしれないが、今日はなんだか、やる気が湧き起らない。小説を読むことにも音楽を聴くことにも飽きてしまって、苦痛を伴う退屈が私に襲い掛かって来る。この機会に服を買いに行こうか。面倒な用事は、こういうときに済ませておいた方がいい。
軽いお昼ご飯を食べた後、出掛ける準備を始めた。
薄い化粧を施して、跳ねた髪を撫でつける。でも、やっぱり結ばない。一応、髪を結ぶための蒼いゴム紐は鞄の中に入れておいた。別に知り合いと行くわけでもないし、と適当な服を選んで外へ出る。……そもそも、そんな相手はいないし。
アスファルトが続く道に陽炎が立っている。半袖だから、日焼けしていない白い肌が眩しい。太陽も眩しい。せめて帽子くらい被って来るべきだった。あと、夏場にジーンズを履いてはいけないみたいだ。素材が厚いせいで、脚が蒸し焼きになってしまいそうだもの。
田舎道を自転車に乗って進む。数分で最寄りの駅へと到着した。改札をくぐり、丁度やって来た電車に乗ること五分、いつも中野君が降りる駅へとやって来た。連絡通路を通って、すぐ側にあるショッピングモールへと足を運ぶ。高校生の頃は、よく家から自転車でここまで来ていたものだ。電車賃をケチって浮いたお金で小説を買うためである。今は定期があるから、そんなことしなくても済むけれど。……将来も、似たようなことやるんだろうなぁ。
目的の服屋に行く前に、少しだけ本屋に寄った。人の波に酔いそうになったからであって、別段買いたい本があったからじゃない。でもなぁ、夏休みのショッピングモールという奴は、どうして人が多いのだろう。隣に人がいない私には、ちょっとばかり辛い環境だ。
本屋の一角で精神を休めてから、私は量販店へと服を買いに向かった。赤地に白文字が印象的な看板を横目に見ながら、店内を奥へと進んでいく。しかし、どんな服を買えばいいのだろう。胸元が緩くなければ良し、というわけにもいかない。確かに夏の服だけを買えば安く済むだろうし、秋や冬に着ている服で胸元が緩いものない……はずだ。たぶん。確証はないけど。
でも、どうせなら春や秋にも着ることの出来る服を買った方がいい。デザインよりも機能性重視で選びたい、などと言っていたら白い目で見られたりするのだろうか。嫌だなぁ、好きでもない価値観を無理矢理に押し付けられるのは。
高くて流行にあった服を買い漁るばかりがファッションではない。自分の好みで、自分に合ったデザインの服を選ぶこともまた、ファッションを楽しむと言うことなのだ。
どんな服がいいのか、店内をうろうろと歩き回りながら悩む。今日は私の他にもお客さんがいて、店員が話しかけてこないのが嬉しかった。喋りかけられると応えなくてはいけないし、やたらと試着を勧めてくるオバサンは苦手なのだ。服は着心地が良ければそれでいいし、ピエロみたいに奇抜でなければなんだってオッケーなのに。
うむ、服に興味を持てないとこんなものだ。
ふと鞄を開くと、スマートフォンが緑色の受信ランプを明滅させていた。誰からか不思議に思ってみてみると、中野君だった。ほんの数分前に、彼からのメールを受信している。内容的には、遊びのお誘いらしい。
八月末に彼の地元、つまりはこの地域でお祭りがあるようだ。場所は駅前の商店街らしいから、特に迷う要素もない。ショッピングモールの反対側に出ればいいのだから。
承諾の意を込めたメールを送ると、すぐに返信が来た。もしかしたら、彼も暇なのかもしれない。人気のない場所へ向かい、電話を掛けることにした。通路端にある柱へと向かい、背を預ける。
鼓動が五月蠅い、通話口に出た彼に気付かれてしまわないだろうか。
わくわくしながらスマートフォンを耳に当てて、そして突然、不安になった。
どうして電話なんかをしたくなったのだろう。声が聞きたくなったから? だったら直接会って話をすればいいのに。この前褒められてから、少しばかり調子に乗っている面はあるかもしれない。だから、電話をかけて彼が出るかどうかを試しているのだ。
あぁ、私はどんどん悪い子になっている。
数回の呼び出し音の後、彼は電話口に出た。騒々しい背景音楽が聞こえる。ゲームセンターにでもいるのだろうか。
「こんにちは、中野君」
『押忍、立田さん。急に電話が来たからびっくりした』
「暇だったから、なんだか掛けてみたくなったのよ。それで、大丈夫? なんだか色んな音が聞こえるけれど」
『友達と遊んでいたんだ。……ちょ、おい』
彼が受話器から顔を話したらしく、声が遠くなる。盗み聞きするな、と誰かを追い払っている声が聞こえてきた。険悪なものではなく、友人に向けた親しげな声だ。いいなー、私も休みの日に遊ぶ友人が欲しい。
というか、友達がいるなら彼、もしくは彼女と行けばいいではないか。
「中野君。夏祭り、その子と行かないの」
『え、なんだって』
「……えっと、なんでもない」
電話口から離れていたせいで、言葉は届かなかったようだ。このまま、言わなかったことにしておこう。相手を棘の様に鋭い言葉で傷つけようとすれば、私も傷つくことになるのだから。
ふざけた調子で、彼をからかうことにした。
「私以外に行く人いなかったの?」
『うん。頼むよ、一人じゃつまらないんだ』
「本当かしら。そうだ、ナンパすれば一人じゃなくなるわよ」
『僕がやるはずないだろ……』
焦らして楽しむ、というのもナシじゃない。でも、そこまでやると嫌われてしまいそうだ。受話器の向こうの騒々しい音が消えて、彼の声だけが明瞭に聞こえるようになる。
「仕方ないわね、一緒に行ってあげる。どうせ、暇だしね」
『お、やったー! じゃ、よろしくね』
声だけで、彼の笑顔を想像できた。ふへへ、と心の中にあるカレンダーに丸印をつける。お祭りなんて久しぶりだ。他愛もない話をしていると、中野君が変な声をあげた。お腹を押されたオットセイが出すような声だ。
「大丈夫?」
『あー、エスカレータに乗っただけだよ』
「そう。ところで、今どこに……あ」
『どうしたの?』
「えっと。どう説明すればいいのかしら」
エスカレータに乗って、彼が降りてきた。そこまではいい。ここは彼の地元だし、この辺りには遊ぶところが少ないのだから、出くわすこともあるだろう。だけど、彼の後ろにいる女の子は誰だ? 彼の身体をつついて、その手をはたかれたりしている。
もし特別な関係の相手だったら、邪魔をせずに帰った方がいいだろう。……よし。
私は悪い人だった。
「後ろ、振り向いてみて」
『後ろ……? おう』
離れたところにいる中野君が、私に向かって手を振った。小さく振り返すと、彼が隣にいた少女と一緒に歩み寄って来る。二十歳の彼が、中学生くらいの子と一緒に歩いてくる。
どうしよう、通報したほうが彼と少女の為になるだろうか?
判断に迷って、結局、彼に話を聞いてみることにした。先制攻撃をしてきたのは、彼の方だった。
「どうしたんだよ、こんなところで」
「あなたに視姦されたから、別の服を探しに来たの」
「あー……なるほどね」
嘘を吐くのも面倒だったから、素直に答えた。隣の少女は、私と中野君とを交互に見比べている。彼の妹、ではないだろう。顔が似ていない。彼は大型犬や狼を連想させるが、少女は仔猫やそれに類する小動物のような愛らしい顔をしている。
まずは挨拶から、かな。
「……えっと、立田です」
「近藤悠です。旭の友達?」
ぺこりとお辞儀をした後、まっすぐに視線を向けられた。頷き返すと彼女は破顔一笑した。そこに嘲りは含まれていない。
「そっかー。私のこと、悠って呼んでね」
他人の領域に躊躇なく踏み込んでくる人だ。だけど、不思議なことに嫌らしさや値踏みしてくるような傲慢な態度を感じない。これも、一種の才能という奴だろうか。私も欲しい。
彼女は私を頭の先から足の先まで観察した後、深々と溜息を吐いた。
「立田さん、プロポーションいいなぁ。旭がえっちな気分になるのも分かる」
「やめろよ、悠」
「どーせ旭は、立田さんみたいな人が好きなんだろ? 分かっているよ、君の中の狼は見境なしだから、スタイルいい子なら誰でもいいんだ。理性の箍はいつ外れるんだい?」
「言いたい放題だな、お前」
「だって本当のことじゃん。あ、みんなも来た」
近藤さん……悠さんへ向かって手を振っている人たちがエスカレータに乗っている。目の前にいる彼女を合わせて、男の子がふたりと、女の子が三人。中野君を入れると、男女同数になった。
なるほど、へー、と目が細くなる。
彼には友達が一杯いるようだ。
「この後ボーリングだろ。僕はパスして本屋行くけど、悠は?」
「私もそうする」
二人で話し合って、中野君が彼らの元へと歩いて行った。
隣に残った悠さんと目が合った。くりくりと、可愛らしい眼をしている。
「悠さん、中野君とはいつ知り合ったんですか」
「『さん』は要らないよー。……高校生の時、かなぁ。昔は喧嘩ばっかりしていた気がする」
「へー……でも、今は仲良しなんでしょ? いいなぁ」
「ふっふー、腐れ縁という奴ですよ」
自慢げに勝ち誇られた。むう、嫉妬しているわけではないけれど、納得がいかない。じっと悠さんを見つめる。見つめ返された。彼女は全身に可愛さが詰まっていて、なんというか、妹みたいな子だ。髪が少し跳ねているが、おかげで元気な子に見える。とても、私が真似できるようなところはない。
ふと、今日は髪を結んでいないことを思い出した。そして、今の私が髪を結んだところを想像してみる。案外、好感触な気がする。地味だけど綺麗なお姉さん路線で行くのだ。……出来るかな? いや、そうじゃない。信じるのだ、信じればいつかは本当になるかもしれない。それが、自己暗示に過ぎないとしても、今はやってみる価値がある。
気合を入れて髪を結び、前髪をピンで留める。
悠さんが、私をぼぅっと見上げていた。
戻ってくるとき、中野君の視線は私の方を向いていた。でも、彼は悠に話しかける。私よりも、ずっと親しい友人に。
「聞いてよ悠、あいつら、貧乏学生の僕にたかって来たんだけど」
「いつものことじゃん。小説家になったら焼肉奢ってね」
「はー……。はいはい、分かりましたよ」
「じゃ、私はお手洗いに行ってくるから」
パタパタと悠さんが駆けていく。道中、解散することになった友人達にも手を振っていく。私の心を掻き回すだけ掻き回して、彼女は行ってしまった。
外の気候など関係なく涼しい温度に調整された場所に、私と中野君が取り残される。何を話そうか迷って、当たり障りのない言葉を繰りだした。
「それにしても、奇遇ね。家も近所だったりするのかしら」
「そうだね、自転車で十分のところだし」
「いいわね、私は電車の方が便利だから」
いやいや、そんなことはどうでもいいのだ。私が彼と話したいのは、そういう話題じゃない。もっとお喋りに向いた話題もあるはずなのに、顔を向かい合わせると忘れてしまう。
中野君は私へと目を向けて、何かを言いたそうにしていた。話したいことよりも、聞きたいことを優先させるべきかと思い、彼に尋ねた。
「あの子のこと、好き?」
「あの子って、悠のことか? ……うーん、どういう意味で?」
「彼女にしたいとか、そういうことは思わないの」
「あー、それはないな。僕の好みは、もっとこう、真面目そうな子だから」
「ふーん?」
「えっ。なんだい、僕は何か変なことを言ったかな」
彼は首を傾げたまま、自分の言葉を思い出そうとしているようだった。落ち着きなく、視線はあちらこちらを行ったり来たりしている。
その不安定な彼を見て、私の中の悪戯心が鎌首をもたげる。邪悪な瞳を持った蛇のように唇から薄い息が漏れた。私が手を伸ばせば、彼はどんな反応を示すだろう。心臓が浅く脈打つ。血管を流れる血が僅かに黒く染まっていく。
人間なんて欠陥だらけの模造品だ。悪意を持って触れれば誰だって簡単に壊れてしまう。見せかけの好意で、驚くほど簡単に心を売り渡してしまう。彼のように、他人の善意を信じ切っているような人は、特に。
そっと中野君の手を取った。パズルの欠片を繋ぎ合わせていくように、
「おっと! 旭の扱いには気を付けて! コワレモノだからね!」
背後から大きな声を掛けられて飛び退いた。そこには笑顔の悠さんが立っていた。
「どこから現れるのよ……」
「いや、ふたりがお喋りしていたから、邪魔しちゃ悪いかなって思ったの」
「普通に話しかけてくれてよかったのに」
「いい雰囲気だったし。やっぱ、も少し遅い方が良かったかな」
「そんなことないけど……」
あまりに驚いたせいか、ちょっと眩暈がする。気付けば中野君に抱き付いていて、心配そうな視線と好奇心を含んだ視線が注がれる。手を離して体調に問題がないことを示すと、その視線の主はどちらも柔らかい笑顔に戻った。本当に、よく似たふたりだ。
「そう言えば、まだ紹介してなかったな」
中野君が、彼女の肩を掴んで引き寄せた。その顔が、真面目なものになる。思わず身構えた私に、彼は意外なことを言った。
「悠は立田さんと同じ、文芸部員だ。これから、活動を共にする仲間だな」
「最近の活動内容は、クーラーの整備でした!」
「叩いたら直っただけだろ……」
「えっ、やらない? テレビとかラジオも、あれで直せるんだよ!」
「いや、だからな」
精密機械に対する心構えを語り出した彼を見て、悠さんがげんなりとした顔つきになる。寡黙そうな印象を与ける彼が、喋り始めると意外に長々と語ることを彼女は知っているのだろう。彼が気を許している証拠だもの、知らないはずはない。
そして私は、自分が逃げ出したくなっていることに気が付いた。
中野君とのお喋りにひと段落をつけた悠さんは洋服の買い物を手伝うと言ってくれたのだが、丁重にお断りした。彼女に私のことを説明しないのは、仲のいい彼女には既に私のことを伝えてあるからだという想像に行きついて、なんだか悔しくなったからだ。
結局、服を買わずに店を出て、彼らと一緒に本屋を巡った。仲良く喧嘩する彼らを横目に、私は黙々と小説を品定めする。なんの為に外出したのかを思い出せなくなって、深々と溜息を吐いた。
喧嘩をして、好きな本について語り合って、笑い合って。
頬を抓りあう彼らの姿が、私にはとても眩しく見えた。
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