第8話 恋を正当化する理由


 久しぶりに夜更かしをした。

 翌朝の体調とか、眠っている家族のこととか、何を心配することもなく小説を書き続けていた。中野君に見て貰った小説に言葉を書き加えて、新たな展開を作り上げて、ひたすらに言葉を続けた。小説を読むこと以外で夜を明かしたのは初めての経験で、身体の内側から湧き上がるような情熱が私の指を突き動かしていた。

 まだ終わらない。エンディングまでが、途方もなく長い。

 それでも、書いている間は楽しかった。新しい私を見つけることが出来たみたいで嬉しかった。中野君も、この情熱に捕らわれたのだろか。だから、小説を書き続けているのだろうか。

 答えはまだ、聞かないでおこう。

 翌朝、起き出した家族と一緒に早めの朝食をとると、すぐベッドに向かった。布団に身体を沈めると、心に燃えていた赤い炎が鎮まっていく。静かな暗闇が私の瞼を覆い、眩しい太陽から光を奪っていった。

 目覚めると、既に時刻は午後八時を回っていた。家族に一日中眠っていたことを笑われ、頬を赤くしながら晩御飯を食べる。風呂を済ませると、私はすぐパソコンに向かった。文字を打ち込んだり、ネットを使ったりする以外、パソコンのことは何も分からない。だけど、それで十分だ。

 小説を書けるだけで、充分に楽しい。

 作業途中だったファイルを開いて、続きを書き始めた。以前の表現はどんなものを使っただろう、次はどんな言葉を使ってやろうと指を動かし続ける。誤字脱字の訂正をするときは検索機能を使えばいい、と中野君に教えられたから使ってみた。手作業で見つけるよりも、はるかに簡単だ。思い立って、適当な表現をひとつ検索してみた。あっという間に原稿用紙の上で赤い毛虫が大量発生した。同じ言葉を使いすぎているらしい。ごりごり削っていかないと、読むときに不安定な文章になってしまうだろう。

 キーボードをぺちぺちと叩きながら、地道な作業を続ける。一時間かけても三百文字しか進まなくて、焦り始める。彼はどのくらいのペースで書いているのだろか。量よりも質が重要視される小説において、文字数を稼ごうとするのはやや問題を間違えている気がしないでもない。でも、ある程度の量がなければ満足できないのは料理と同じだ。どれほど美味しい料理でも、少なすぎれば客は悲しげな顔をする。ほんの僅かな料理でも満足できるのは、ハナから精進料理やワンスプーン料理みたいな小説だと読者が分かっているからに過ぎない。

 私が彼に味わってもらいたいのは、彼の作品を初めて読んだ時の感動だ。一度、改稿前の作品を読んでもらっている。その上でこの作品を読んで、衝撃を受けて欲しいのだ。それが今の私の願いであり、指を動かし続ける狙いでもある。

 朝日が昇り始めたころ、私は作業を終えて布団に潜り込んだ。書きたかったことを、すべて原稿用紙に託し終えたのだ。枕に頭を横たえ、その柔らかな感触に癒される。これで安心して眠りにつける……と思ったところで大切な作業を忘れていることに気が付いた。

 校正だ。

 誤字脱字がないかの点検を行い、作品が完成しているかどうかを見極める作業だ。実際、これが完璧になされていることは少ない。年間に数十冊を発行する大手出版社でも、よくよく探してみれば誤字や脱字のひとつくらい見つけることが出来る。同人作品では誤字脱字のない方が不自然なくらい校正されていないことが多い、と中野君は言っていた。だから根を詰めてまでやる必要はないらしいが、どうせなら完璧な作品を彼に見せつけて、そしてすごいと言わせたい。

 私は、妙なところで完璧主義者なのだ。

 パソコンで校正作業に入ろうと、再び電源を入れた。その眩しさに目が眩み、慌てて視界を覆った。どうやら、眼が疲れて限界を迎えているようだ。これ以上パソコンで作業することは、眼を悪くすることにもつながるかもしれない。それでもいい、とは思ったものの、校正は印刷物でやった方がいいと言われたことも思い出した。印刷機が家にあるのだから、使わない手はないだろう。

 ただし、夜更けだ。色々と気を遣うべきことがある。

 プリンターを静かにする方法がないかと、パソコンで調べてみた。何やら、幾つかの方法があるらしい。静穏モードとか、ナイトモードとか、そんな感じの奴があるそうだ。完全に無音になるわけではないが、眠っている両親を起こさない程度の音なら大丈夫だろう。何か文句を言われても、そこはぐっと我慢することにして。

 印刷機のスイッチを入れて、パソコンから操作をする。無事に、印刷機から原稿が吐き出された。何枚も紙が吐き出されて、本当に私の書いた文章が印刷されているのかと確認をする。

 そして、刷り上がった原稿に些かの感動を覚えてしまった。興奮も冷めやらぬままにそれらを机の上に広げて、表現と誤字のチェックをする。間違いはすぐに見つかった。

 い抜き言葉、ら抜き言葉が平気な顔をして隠れている。主人公の名前が間違っている、図書館が図書室になっている、想いが重いになっている。その他の誤字も脱字も山のようにあった。

 季節は冬なのに主人公たちが汗をかいている……のは暖房が効いた部屋で動き回ったからだった。これは問題ないだろう。探せばもっと矛盾した表現が見つかるかもしれない、もう少し、もう少し、と校正を進める。

 卓上電灯が照らす狭い世界の中で、赤ペンが紙の上を走る音だけがする。セミの鳴き声も、眠気が見せる幽霊の幻覚も、すべてが私を支えてくれる。手の届く範囲が世界のすべてだ。それ以外のものは、聞こえず見えず感じない。でも、私の背を押してくれる何かの意志を感じていた。

 厳粛な儀式を執り行うように、緊張感のある時間が流れていった。

 結局その日は、校正をした後に眠ってしまった。昼過ぎに目覚めた娘をみて、両親は不思議そうな顔をしていた。成長期か何かだろうか、と父親が言いだして、私は存分に笑った。

 普段から表情の少ない私が笑ったことに両親は驚いていた。

 晩御飯を食べ終えるまで睡魔と闘って、お風呂に入った後は、すぐに寝間着姿になって布団へと潜り込んだ。高くなりすぎた体温を下げる為に冷房をかけ、中野君へ連絡を入れる。彼からの返信を待っている間に眠ってしまい、翌朝、寒さで目覚めることになってしまった。

 そして彼の返信を見て、少し身体が温かくなる。文面には短く「悔しいくらい面白い」と書いてあった。嬉しくなって頬が緩む。時間を空けずに、もうひとつの感想が送られていた。

「この作品、すごく好きだ」

 私が褒められたわけじゃない。でも、作品はこれ以上ないくらいいい評価をもらえている。だらしなく笑って、もう一度布団へと潜り込んだ。……身体が熱くなって、恥ずかしくなる。その後しばらく、彼の顔を思い浮かべたまま、布団を出ることが出来なかった。

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