第7話 ストーカー女
懲りない私は悪い子だ。
ストーカーまがいの行為をしていたことがばれたのに、相手が気にしていないからと友人面をして付き合いを続けている。確かに私は、悪意を持って近づいたわけではない。彼の小説が読みたいが為に、話をする機会をうかがっていただけなのだ。でも、それだって十分に不純な動機で、私は彼に責められても仕方がないことをしたのだ。
なのに、彼は怒らない。優しさで傷つけられたのは今回が初めてではないけれど、胸にささくれが刺さったような気分だ。
首に手をかけられて締め上げられる寸前の苦しみや恐怖を、ずっと体感することが私への罰になると考えているのだろうか。そもそも、彼は他人に罰を与えたりするのかな。
閑話休題。
小説が読みたいからと大学に顔を出す私は、もはや大学生ではなくて本の虫かもしれない。履歴書に記した職業を書き換える必要がありそうだ。今日は昼から、結局一日では終わらなかった大掃除の続きをしていた。親に知られたら、折角の夏休みに何をしているんだ、なんてことを言われてしまいそうだ。せめてバイトをしろ、と怒られるかもしれない。でも、私が社会不適合者というのは数年以上前に知っていたことだろう。
自分の思い通りにならないからと子供に言葉や拳で襲い掛かってくる親は、どうにも好きになれないのであった。
ま、今日は数年前に所属していた人の原稿を掘り起こすことが出来たりしてかなり楽しかった。中野君が大学一年の五月に提出した原稿なんかも読ませてもらえたし、満足している。
今は、ようやく綺麗になった部屋で一服していた。彼は椅子を並べたところに寝そべっている。……彼の上に座ろうとしたら、一体どんな顔をするだろう。想像を膨らませてみたけれど、これはセクハラに当たるのではないかという考えに行きついたので実行はしないことにした。どうして彼にはセクハラをしたくなるのだろう。……真面目な人だけど相手の悪意にはあまり反応しないみたいだし。
私の悪戯心が暴走しているのかもしれない。
原稿用紙を捲っていると、中野君が起き上がった。その額には、薄らと汗が浮かんでいる。
「暑いなぁ。朝はもっと涼しかったのに」
「そういえば、私が来る前にも掃除していたけど……何をしていたの?」
「付き添いだよ。部員で、部室に忘れ物をしたって奴がいて」
その忘れ物をした人がこの場にいないのは、バイトへ向かったからだという。なるほど、私は更なる友人を作る機会を手に入れ損ねてしまったのだ。だが、ちょっと待って欲しい。考えようによっては、二人きりの時間が増えたのだ。
結果オーライかな? だって、話す時間が増えれば、その分だけ彼の作品について知る機会も増えそうじゃないか。それはとても嬉しいことだ。
彼の書いた小説について、込められた意図や私が抱いた感想を交流していると、彼は唐突に席を立った。
「そういや、冷房直ったんだよ。すっかり忘れていた」
「良かったじゃない、予定より早かったみたいだけど」
「いや、他の学部の奴が弄っていたら、偶然直ったんだ」
僕は何もしてないし、と彼は言った。……ふむ。
冷房が直ったなら、下敷きで顔を仰いでみたり、服の裾をはためかせなくてもいい。労力が減るのは素晴らしいことだ。今日は曇り空だったから、これまでと比べれば随分と涼しい方だったのだけど。
使わないのは、勿体ない。
中野君にスイッチを入れてもらって、私はクーラーの前を陣取った。生温い風が徐々に冷たくなっていく。涼しい風に身を任せて、目を細める。彼も頬を緩めていた。
「立田さん、小説は好き?」
「ええ。他に趣味もないから」
「書いたことはある?」
「小説を? ないけれど」
「良かったら書いてみないか。僕も立田さんが書いた作品を読んでみたいんだけど」
ニコニコと、彼は私の反応を窺っている。
ふむ、つまり、私の性的趣向を知りたいと言うのか。
いや、作品に現れるのが作者の性的趣向だと言うのは私の考えだから、彼は純粋に知り合いの書いた作品を読みたいだけなのかもしれない。でもなぁ、小説か……。高校生になるまで、小説家という職業が実在していることさえ知らなかった私に書けるだろうか。明治とか大正とか、そのあたりで絶滅した伝統的な職種か何かだと思い込んでいたくらいだからなぁ……。
「無理強いはしない。でも、大学生の夏休みは、暇の代名詞みたいなもんだからね」
空いた時間を有効に使うべき、と言いたいのだろうか。確かにその通りだ。宿題もないし、サークルに参加したはいいけど運動部と違って強制される練習もないみたいだし。
中野君に、バイトしてないのか尋ねると苦い顔になった。
「あー、それなんだけど。どこでバイトしてても店長や他のアルバイトと喧嘩するし、肌に合わない気がして辞めちゃうんだよな。社会不適格って奴だろうね」
「そんなこと、私にバラしてもいいの?」
「いいんだよ。僕は、小説好きな人を無条件で信頼することにしている」
「ふーん?」
無垢な信頼の源泉は、小説だった。バカじゃなかろうか、と思ったが私も似たようなものだ。盗み読みした小説が面白くて、こうして彼に近づいたのだから。ただし、彼はひとつの勘違いをしている。
小説には作者の思想と、性癖しか現れない。綿密な構成と丁寧な文章がウリの作家も、破天荒な作風と文法を無視した自由な文章が人気の作家も、結局は本人の趣味が存分に活かされているに過ぎない。読者に至っては、自分の好きなものを喰い散らかしているだけだ。自制心を持った人がおぞましい趣味の持ち主かもしれないし、他人を平気で蔑む人がロマンチストの可能性だってある。小説が好きだからと言って、相手を無条件に信頼していいわけじゃない。
人間の心ってのは、恐ろしいものだ。
だから、信頼できる相手が欲しいと思うのだし。
「本気で、私を信頼しているの?」
「ん、当たり前だろ? そもそも、何を疑えばいいんだ」
「そう」
ここまで信頼されて、首を横に振るわけにもいかない。
「……じゃ、ちょっと書いてみようかな」
善意の塊みたいな彼に後押しされる形で、人生初の小説を書いてみることになってしまった。職業作家を目指すわけではないからいいにしても、少しばかり気恥ずかしくなってしまう。
あぁ、彼と喋るだけで浄化されてしまいそうだ。悪意だらけの世の中、これは不味いのではないだろうか。心の壁が弱くなってしまう。
中野君が伸びをすると、座っていた青色のパイプ椅子が音を立てて軋む。彼は立ち上がって、原稿用紙とペンを探しに行った。お目当てのものは整理整頓された部屋の隅、子供の背丈ほどもあるアルミ製の棚の中に入っていた。少し黄ばんだ用紙と最近買ったばかりのように新しいペンを持って、彼は向かい合わせの席に座る。
持ってきた道具は、特に悪戯することもなく渡してくれた。
「いきなり長い奴は無理でも、ワンドロなら簡単だから。……お願いします」
どうにも書かせたがりだ。
でも、お願いされて悪い気はしない。
元々、妄想するのは好きな方だし。
「ところで、わんどろ、って何?」
「お題を決めて、一時間以内に書く奴だよ。お題を適当に選ぶせいで、たまに酷い組み合わせになったりもする。夏と雪と桜、みたいに」
真夏の夜、浜辺に雪が降り積もり、真っ白になった世界に薄桃色の花びらが舞い散る景色が見えた。整合性がないけれど、想像してみると案外綺麗だ。現実と小説を切り離して考えることが出来ない人は、そもそもこんな景色を想像することも出来なかったりするのかもしれない、と考えると小説バカである利点が見えてくる。
しかし、小説を書くというのは難しそうだ。私に出来るだろうか?
「いいけど。変なのが出来ても、笑わないでね」
「分かった。じゃ、お題は……」
私の不安をよそに、彼は楽しそうである。彼は机の上に置いてあった封筒を手に取ると、中身をかき回し始めた。どうやら、中に入っているカードを使ってお題を決めるらしい。
よく撹拌された頃合いに、彼が手を突っ込む。透明なテープでマスキング加工された札が三枚取り出された。
嘘吐きな人、冬空、図書館。
なんだか、意外性のない組み合わせだ。でも初めてはこのくらいがいいのだろう。難しいテーマだったら、私は書けないだろうし。
青い狸みたいなデザインのタイマーを机の上に置いて、彼はペンを握った。
「よし、今から一時間だ。追加してもいいし、早く終わったら切り上げてしまってもいいけど」
「それ、ワンドロって言うの?」
「区切りは大切だろ。ほら、始めよう」
彼に促されて私もペンを持つ。
どんなストーリーがいいだろう、やはり私の好きな恋愛小説にするべきだろうか。中野君を横目に見ると、彼は迷う様子もなくペンを動かしていた。普段一人でいるときのように、不機嫌そうな顔になっている。何かに苛立っているような、蔑みながらも憧れているような、不思議な表情だ。常に小説と本気で向かい合っているから、そんな顔が出来るのかもしれない。
……私には、そんな顔を見せたことないのに。
私が求めるのは、偽物の嘘吐きだ。自分の為に他人を騙すのではなく、誰かの為に自分を誤魔化す苦労人だ。そんな主人公がいてもいいだろうと、私は指を動かし始めた。
モチーフが決まった後は、展開が自然と出来上がっていく。妄想をするときと一緒だ。私が何をして欲しいのか、主人公たちに求めることはない。ただ、心の奥底にある趣味が私の知らない間に幻想を形作っていくのだ。
私の脳裏に浮かんだのは、嘘吐きな主人公が、図書館で眠る少女に悪戯をする話。高校生のふたりは、仲の良い友人になる。移り変わる空模様、気付いてしまった恋心。冬空の下、主人公は彼女に告白する。気付いてしまったら引き返せないのだ、と彼女に告げる。彼女はその想いに応えられなかった。彼のことは、友人として好きなだけだったから。溶けていく雪をみつめながら、フラれた男の子は笑う。卒業までの時間を、彼らは友達として過ごした。
大人へ近づく子供達が、まっすぐに育つところを描こうと奮闘した。
ペンで原稿用紙を削るように書く。ついでに命も燃やし始める。小説を書くというのが、これほど辛いことだとは思わなかった。自分の妄想が目に見える形になるのだから、当然と言えばそれまでか。でも、悪くない。退屈でつまらない人生に、一筋の光が差し込まれている。
思い描く理想の情景を描くには語彙が足りず、想像した主人公達の表情を正当化するには展開力がなく。小学校の頃、溺れた私がプールの底から見た空のように歪んだ清涼感が押し潰してくる。
もっと早くにやっておけばよかったと後悔しつつ、腕の動きは止まらない。中野君も、手を休めることなく書き続けていた。
静かな部屋の中で、紙の擦れる音だけが聞こえる。
微かな音に、昔を思い出した。
中学の頃、クラスに小説を書く女の子がいた。人気者だった彼女が、どういう経緯で小説に目覚めたのかは分からない。同じ学年にいた読書好きな誰かの気を惹きたかったのかもしれないし、仲間内で始めたことを周囲に見せるようになったという解釈も出来る。小学生の頃はアニメやゲームに出てくるキャラクターを描くのが流行っていたから、その延長線上にある行為だった可能性もある。
彼女は自作の小説を教室にある青空文庫の棚に入れていた。他の生徒が、だれでも自由に閲覧できる環境に置いていたのだ。今思えば、その度胸たるや凄まじいものがある。良くも悪くも他人の注目を集めるのだ、私には一生出来ない行為だろう。当時はまだ、ネットなどを介して無関係の部外者へ晒し者にされる場面が少なかった、というのも彼女の背中を押した一因だろう。
私も、原稿用紙の束を手に取って捲ってみたことのある物好きの一人だ。誰かが乱雑な扱いをしたせいで折れ曲がった原稿用紙に四苦八苦しながら、彼女の小説を読んだことを覚えている。
あの子の小説を読んだとき、ふんわりと、すごいなって思えた。小説を好きになったから、その子のこともいいなって思えた。人気者の彼女と、日陰者の私が直接に関わることはなかったけれど、それでも彼女のことは『いい人』だと思うようになっていたのだ。
でも彼女は、他の誰かが書いた作品を盗作していただけだった。
登場人物の名前と、ごくわずかな役割を変えて、作品にしていただけ。本文は八割方流用だ。盗作の中でもチャチな部類に属するものだろう。それを指摘したのが誰だったのか、彼女がどんな反応を示したのか、もう思い出せないくらい昔の話だ。どんな作品だったのかも忘れてしまったが、姉の幽霊と出会った主人公が父親殺しの犯人を捜す……みたいな内容だったと思う。
閑話休題。
他人の努力を奪って得た栄誉なんて寂しいものだ。私はその子と、その作品に喜びを見いだした自分にがっかりした。勝手に他人を信頼して、唐突に失意の烙印を押し付ける。はた迷惑な人間だったことに落胆したのだ。
もうダメだなって思った。どれだけ好きな相手でも、蓋を開けてみれば異臭がする。まるで恋心のようなものだ。自分の描いた理想と、現実の落差に失望する。やがて相手を嫌悪し始め、被害者は自分だと錯覚するようになるのだ。
それが人間だと信じるようになった。
中野旭君は本物だろうか? これまで彼が書いていた作品は、どこに着想を得たものだったのだろう。もし彼が誰にも知られず、狭い部屋の中で他人の知恵と労力を奪い取るだけの盗人だったらどうしよう。醜く歪んだ表情、心情を隠しきれない態度、そんなもので心を武装して向かい合ったりしないだろうか。拳と同じくらい強く、言葉や態度は人を傷つける。そんなことを私は彼にしてしまわないだろうか。
……不安が、暗雲の様に広がっていく。
首を振って、頬を叩いた。
気持ちを入れ替えるのだ。心を受け皿ごとひっくり返して、中身を綺麗にしてしまおう。今日の私は、こんなことを考える為に大学へ来たわけじゃない。中野君と一緒の時間を過ごすために……でもなく、大好きな小説に費やす時間を増やしに来たのだから!
原稿用紙を埋めていく。黒く染まっていくそれは、言葉という魔法が生み出す小宇宙の発展を見ているようで楽しい。後から足りない言葉や表現を挿入していく作業も、誕生したばかりの星で歴史を編纂しているかのような万能感を感じる。……今度、家でも小説を書いてみようかな。
初心者が書いたのだ、これ以上の出来栄えを望むほうが難しいだろう。書き終えてペンを置くと、中野君が私を見ていた。彼は、随分と早くに書き上げて誤字脱字の修正に入っていたようだ。
「結局、一時間使ったね」
「待たせた?」
「いや、全然。好きだよ、こういう時間は」
彼の手には、タイマーが握られている。私だけ、時間超過に気付かなかったみたいだ。隠して行われた善行に突っ込むのは野暮というものだし、恩返しは後ですればいい。
私の作品を読んでもらう代わりに、彼の作品も読ませてもらった。いつも通り若々しくて血気盛ん、粗削りな文章だ。でも、好き。馬鹿正直なまでに真っ直ぐな文章を読んでいると、頬が自然と緩んでしまう。
彼の書いた物語は、こんな感じだった。
ある図書館には、嘘吐きな司書がいた。利用者に虚偽の情報を与えたり、仕事を平気でサボるような悪い奴だ。明るい性格と強い悪運のおかげで、彼はいくつもの失敗を乗り越えてきた。彼と親しい相手は近所に住む女子高生と老人くらいのもので、大抵の人は彼を嫌っていた。本当は、彼が人一倍仕事熱心なことにも気付かずに。
ある日、図書館に酔漢が訪れて、彼はその対応に失敗する。悪戯心が邪魔をして、暴力という名の悪意をその身に受けることになったのだ。大きな怪我をして地元の病院へ入院した彼は孤独に苛まれる。職場の同僚どころか、家族すらも見舞いに来てくれなかったからだ。やってきた数々の悪戯を考えると、報復をされないだけマシだ。彼はそう考えることにして、白い病室で一週間を過ごした。仕事に復帰した彼を歓迎してくれる人は少ない。図書館に賑やかさを求める人はごく僅か、多くは彼がいなくなったことを喜んでいたのだ。
間違った場所に配置された書籍、誰かが机の上に放置していった雑誌、彼はそれらを元あるべき場所に戻していく。彼がいない一週間の間に、図書館は別の何かに変わってしまったように思われた。無機質で、冷たくて、居心地の悪い空間に……。
勤務を終えた後、彼は冬空の下へ出る。寒さで息が白くなっていた。いっそ仕事を辞めようか、と考えた。まだ若い彼には、やり直すチャンスが与えられていた。努力をすれば、人は変われるはずだった。
不意に袖を引かれ、顔を向ける。そこに居たのは、図書館へ頻繁に本を借りに来る近所の女子高生だった。彼が貸借の当番になっている日に訪れることが多かったから、面識も深い。久しぶりの会話に、彼の胸が弾んだ。
事件当日、その場に居合わせなかった彼女は彼のことを心配していたらしい。その言葉がたとえ嘘だったとしても、男にはとても嬉しかった。小さくなった傷を見せ、彼女を驚かせたりしながら、元気になったことをアピールする。広い世界には、たったひとりでも自分のことを待っていてくれた人がいることを知って、彼は決意した。
明日からも、仕事を頑張ろう。評価されなくても、懸命に働こう。
そこで、物語は終わっていた。
詳細な設定や主人公の容姿、風景描写などは削られてしまっている。短い時間で、これだけの展開を書くのは無理があったらしい。でも、読み終えた私は、頬が緩むのを抑えられなかった。私の反応が気になるらしく、中野君が話しかけてきた。
「どうだった」
「別に、普通でした。……うへへ」
「少しくらいは面白かった?」
「別にそんなこと言ってないけど」
「でも、すごい楽しそうな顔だから」
彼を喜ばせてなるものかと、表情を曇らせる努力をする。照れくさくて、彼を誉めることなんて出来ないからだ。だが無駄だった。無表情にしているつもりなのだけど、頬の筋肉が言うことを聞いてくれない。だらしなく微笑んで、私の心情を彼へと伝えてしまう。ぐぎぎ、人体は難解だ。
私が書いていた原稿用紙を眺めている中野君が、ついと顔をあげた。真面目な顔をしている。
「これ、どこかの新人賞に出す気はあるかい」
「私が? いや、それは絶対にないけど」
「だったら、部誌に掲載しようよ。面白かった」
「そうかな? ありがと。……でも、んーと、出来ればそれは止めて欲しいかな」
「そっか」
彼が残念そうに眉をしかめた。違う、そうじゃない。申し出を拒否した理由は中野君が考えているような後ろ向きなものではないのだ。慌てて、言葉を付け加えた。
「どうせなら書き加えたいこともあるの。だから、まだ待って欲しいんだけど……」
「なるほどね。いいアイディアだ」
悲しげな狼みたいだった顔が、あどけない子供みたいな表情に変わった。
吃驚するほど、心情の読み取りが楽ちんだ。
「完成したら教えて欲しいな。部員が少ないから、いつも部誌が薄いんだ」
「あなたの作品は掲載しないの? 中野君の作品を載せれば分厚くなりそうだけど」
「新人賞に出す作品は掲載出来ないんだ。色々と規約があって」
そういうもの、なんだろうか。私はよく知らないけれど、中野君が言うなら間違いない。取り敢えず、彼にお願いをしてみようかな。小説の書き方とやらの説明を。
それから小一時間かけて、彼から小説の作法を教わった。読者として小説と向き合うことはあっても、書く側の人間として小説に触れる機会なんて一切なかったから、予想以上に新鮮な発見がある。文法以外にも、覚えておくべき様々なことを教わった。一行の文字数やページごとの行数は出版社によって違うのだ! 実際に数えたことはなかったから、知らなかった。
家に帰ったらパソコンを起動して、今日書いた作品を打ち込むことにしよう。手書きでやるより効率そのものはいいらしい。校正や読み返しをするときは紙媒体の方がいいとは中野君の談だ。ある程度まで書き進めたら、やってみようかな。
話したいるうちに、ふと、あることに気が付いた。
「ところで、どうやって連絡すればいいの?」
「メールか何かで……そういや、連絡先知らないや」
二人で顔を見合わせて、わははと笑う。次に遊ぶ日程を決めていたから、夏休みでもこうして集まることが出来たのだ。逆に言えば、どちらか一方が一度でも体調不良なんかになっていたら夏中会えなくなっていた可能性もあるり
なんだか中学生みたいで微笑ましいなぁ。私にそんな相手はいなかったけど。
連絡先を交換するとき、やや手間取った。普段、こんなことしないもの。彼も似たようなことを口にした。絶対そんなことないはずなのに、からかって欲しい、と言われているようにも感じる。
「恋人と連絡とったりしないの?」
「そんな相手いないし」
「あら意外。小説が恋人だったりするのね」
「あぁ、案外そういうものかもしれない。小説家を志すほどのバカだもの」
頬を掻いた彼を見て安堵する自分がいた。彼を好きだから、ではない。彼が本気で小説家を目指しているからだった。逃げ道を自分で塞ぐ人ほど信頼できる相手はいない。だから私は――。
「ところで、出来上がった小説はどうやって送ればいいの?」
「テキストファイルにして、あ、そう言えば部で使っているアップローダーがあって」
説明を聞きながら、彼のスマートフォンを覗き込む。多分、世界で一番、彼に近いところにいるのは私だ。彼の過去は知らない。未来のことだってわからない。それでも、今は私が一番だ。彼の小説を読む私が、彼に一番近しい人物だ。
顔が近いことを意識してしまうせいか、話は半分も入ってこない。
風鈴のならない部屋は、彼の声だけが響いていた。
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