第6話 温かな男

 今日もまた、部室にお呼ばれしている。一週間くらい前の私なら「友達もいないし、趣味もひとつしかなくて暇だ。死にそう」みたいな愚痴をこぼしていたに違いない。未来から現れた自分に、大学で知り合った相手と二人きりで小説の話をしているなんて言われても信じなかっただろう。未来から現れたもう一人の私なんてものが現れた時点で気味悪くなって逃げだすだろうけど、その辺りはファンタジーの世界という奴だ。きっと、どうにかしてくれる。

 流石に、毎日のように部室を訪問しているわけではない。これが二回目だ。ようやく二回目なのか、まだ二回目なのか、それは人によって判断が分かれるところだろう。まぁ、間が空いたとはいえ、たったの一週間だ。その一週間で貰った原稿に目を通し、熱くなった身体を冷ましたりと自室で慌ただしくしていた。

 誰かと話したくて、最近読んだ小説の感想や、彼の作品を読んだ感想を喋りたくてうずうずしていた。連絡先の交換をしておけばよかったと後悔したりもしたが、流石にハードルが高すぎる。人畜無害な相手だとしても、私にはムリなのだ。他人と距離を近づけようとすると、内側に秘めた悪意が爆発して相手も自分も傷つくことになるかもしれないもの。

 承認欲求と独占欲の塊みたいなものだし、私。

 この一週間で起きた、かなりくだらない話もある。夏場は換気をすると部屋に虫が入って来る、という当たり前のことに気が付いて衝撃を受けたのだ。カブトムシを見たのなんて、小学生以来のことだった。悲鳴を上げて、両親を驚かせたのも小さい頃以来の話だ。網戸を発明した人は天才だな、などと呟きながら部屋の掃除をしたのは記憶に新しい。

 さて、話は現在に戻って。

 荷物の散らかる部室に対して言いたい文句がひとつ増えた。故障中の冷房機は、まだ直してもらえないらしい。大学の備品だから手続きにも時間が掛かるそうで、これには中野君も辟易していた。部員の人数分の団扇を部室に常備する辺り、変な人という評価だけは変化しそうにないけれど。

 そもそも、他の人が部室にいるところを見たことがないのだ。

 幽霊の為に団扇を用意しているのか、と私が考えたのも妥当なこととして欲しい。

 窓さえ開ければ狭い室内だから、あまり暑くないのが唯一の救いと言えるだろう。涼しげに鳴る風鈴は素敵だけど、結局のところ、部屋が暑苦しいままでは意味がないのだ。動くと汗をかいてしまうし、ベタベタして気持ち悪いじゃないか。

 というか、本当に、汗で服がぐっしょり濡れそうになった。

 そのために、一度中野君に部屋から出て貰って服装の調整をしたほどである。チューブトップを脱いで少しはマシになったけれど、今度は彼の視線が気になるようになった。不快じゃないどころか、もっと見せつけてやろうという気分になってしまうのが辛い。絶対に、このままではいけないのだ。私は彼のことを何とも思っていないし、彼だって私のことを小説好きな変人くらいにしか考えていないはずだ。……だよね、たぶん。その方が、誰も傷つかないし。

 悪戯はほどほどに、という奴である。

 彼の作品を盗み読みしたあの日から、私はどんどんおかしくなっている。お手洗いへと消えた彼を待ちながら、部屋中に散らばった小説のメモに目を通していた。心惹かれるものと、そうでないものとに分けてみる。ジャンルとして、私は恋愛モノが好きなようだ。経験が乏しいから、なんだろうか?

 本人不在中に鞄を漁ろうか、なんてことを考えているうちに彼が帰って来た。軽犯罪を起こすところだった……地味に危ないな。

 何食わぬ顔で彼に声を掛けてみたけれど、特に怪しまれてはいないようだった。

「早かったね」

「トイレ行っただけだし」

「飲み物、ついでに買ってくると思っていたんだけど」

 空になったペットボトルを指差すと、それもそうだな、と頷いた。なんて素直な人だろう、と遠い目になる。彼が部屋を出たら、その間に執筆中の小説を読んでしまおう。書き上げた原稿はともかく、途中のメモはどうしても見せてくれないのだ。構想段階の作品はこの世で最も盗作されやすいし、それを警戒しているのかもしれない。他人の善意を信じる中野君がそんなことをするとは思えないけれど。

 本当に飲み物を買いに行くのかと眺めていたら、彼は椅子に座った。喉が渇かないのか尋ねると、恥ずかしそうな顔で笑う。

「仲良くなりたいんだ。喋る時間も、増やしたいじゃん?」

「……………………そう」

 絞め殺すぞ、なんて言葉が喉元まで出かかったのは久しぶりだ。恥ずかし過ぎて顔から火が出るレベルだ。友達相手に向ける言葉だとしても、それ以外の相手に向ける言葉だとしても、ちょっとスレート過ぎる。彼の羞恥心はどこに向いているんだろう。普通の人とはベクトルが違っているのかもしれない。

 もしかして彼は、青春馴れしているのか? いや、青春馴れという言葉自体が私による造語だし、意味わかんないけど。中野君はヘタレじゃなかったのか?

 冷静であることをアピールするため、まだ口をつけていないペットボトルを取り出した。どうして手が震えているのか、そんなことは考えたくない。

 中野君は興味を持ったようで、少し身を乗り出してきた。

「それ、なんなの」

「レモンティー。これ、半分こしない? 紅茶、苦手なのに買っちゃったから」

「あー、それは嬉しいけど、僕も苦手なんだよなぁ」

 後半部分の台詞は聞かなかったことにして、空になった彼のペットボトルへ私の紅茶をドバドバと注いでいく。半分になったところで、ふたを閉めた。

 さて、若い男女が部屋でふたりきり、朝から何をしていたかは誰もが気にするところだろう。私だって、体験したことがないだけで知識としては様々なものを持ち合わせているし、彼が『そういうこと』をしてきたならすぐに勘付くだろう。人は欲望塗れの生き物だ。私にも、そういう感情はある。最近知った。で、私達が何をしていたのか、という話だが。

 単に、部室の掃除をしていただけだ。

 何も起こらなかったのだ。残念に思っているわけじゃない。出会ってすぐの相手にぶつける好意なんてロクなものじゃないし、そんなもの欲しくはない。なるほど、これがヘタレという奴の実物かー、と嘆息したくなるような瞬間を見つけたりもしたのだが、もし彼が不用意に相手のパーソナルスペースへと踏み込んでくるような人だったなら、私は不快感しか覚えなかっただろう。男女問わず、独善的な自信に満ち溢れた人が苦手なのだ。恐怖など微塵も感じることなく他人の領域を踏み荒らせる才能には、感服の余り吐き気すら覚えてしまう。彼がヘタレていることに感謝しなくてはなるまい。

 で、掃除をして、その後はずっと談笑に耽っている。

 お喋りをするだけという、ある意味で贅沢な時間の使い方をしているのである。

 彼の話に相槌を打ちながら紅茶を舐めると、頭の隅が痛くなった。含まれているカフェインが影響しているのだろうか。中野君も微妙な顔をしている。彼が握るペットボトルに注ぎ足そうとしたら、流石に断られた。そりゃそうだ、美味しくないもの。私の飲みかけだし。

 あぁ、そうだ。部屋を掃除することで、得られたこともある。例えば、発掘した原稿は本人に断ることなく読んでもいい。昔に発行された部誌は、保存用に一冊残せば他のものを持ち帰ってもいい。小説のプロットやメモ帳は、古いものだったら自由にしてしまって構わない。他にも、色々。

 歴史の浅い文芸部とはいえ、私が吸収できそうなものは結構な数残されていた。あと、中野君が書いたらしい落書きなんかも発見できて楽しい。餅と鼠を掛け合わせたような不思議生命体が落書きされた原稿用紙だった。彼曰く、文芸部のマスコットを作ろうとした結果だという。そのマスコットが以降どんあ扱いを受けているかは、尋ねないのが優しさというものだな。

 書類や、小説っぽい文章が書いてあるものは軽く目を通した後、彼に手渡して内容を確認してもらった。どこから紛れ込んだかも知れないチラシや、旅行会社からのパンフレットはゴミ箱へ直行させた。人数が少ないから割引という恩恵もなく、今年は新入生もいなかったから行く意味が薄いのだと言う。

 仲の良い子はいないのか、その子と一緒に行けばいいじゃないかとも言ってみた。実のところ彼は親しい友人の家には稀に泊りがけで遊びに行くようで、私は少しだけ寂しくなった。中野君は、サークルで友人を作っていたのだ。私の様に、学部にもサークルにも友人がいなかったぼっち学生とは訳が違う。ぐぬぬ、泣きたくなってきた。

 朝から掃除を続けていたけれど、片付いたのは部屋の半分だけだった。今は疲れて、一息ついている最中である。だからと言ってずっとお喋りしているのもアレなのだけど、もう、今日はあまり動きたくない気分だし。

 整理したゴミの山から、掃除中に出てきた本を手に取る。

 文庫サイズで、表紙には二人の男の子が描かれている。

「友達を作る十二の方法、だって」

「去年、部長が買った奴だね。あの人は、一年中同じような赤い服を着ていたな。……もう卒業しちゃったけど」

「卒業直前に買うような本じゃないと思うけど」

「そうかなぁ。社会に出ても、必要なことじゃない?」

 中に目を通すと、どこにでもあるような小説だった。細かく章が分かれていて、サブタイトルを読んでいるだけでも面白い。そのひとつに、下の名前で呼んでみる、というのがあった。該当するページを開いてみると、出会ったその日に異性と仲良くなろうとした主人公たちが、相手の名前を呼ぶべきか否かで熱い議論を交わしている。微妙なラインの面白さだけど、嫌いじゃない。むしろ、好きだ。

 このバカっぽさが、青春小説の醍醐味なのだから。

 十分くらい読んでいただろうか。気付けば、中野君がすぐ隣に立っていた。一応は掃除中だったことを思い出して、慌てて本を閉じた。

「ごめんなさい」

「いいよ。それ、面白かったの?」

「普通くらい、かな」

 青春小説だったこと、そして主人公たちが名前で呼び合うにも苦戦するような人達だったことを説明した。看板に偽りなし、という奴だ。興味をひかれたのか、中野君も手に取ってページを捲り始めた。彼まで本を読み始めたら、掃除が進まなくなってしまう。

 何か、話すことはないだろうか。……そうだ。

「そう言えば私、貴方から名前で呼ばれた記憶がないけれど」

「そうかな?」

「苗字の方でも、なかなか呼ばれない気がする」

「まぁ、ここにはふたりしかいないわけだから」

「それ、理由になっているの?」

 下の名前で呼び合うのは相応に仲が良い証拠だ。特に、自分と人との間に壁を作っているような人間にとって誰かの名前を呼ぶ、呼ばれるということは強烈な現実感を伴っている。好きでもない人から声を掛けられるとそれだけで不快になるように、名前を呼ばれることにも抵抗があったりするものだ。

 でも、たまには呼ばれてみたいじゃないか。

「ねぇ、旭くん、下の名前で呼んで欲しいのだけど」

「なんだい、急に」

「それとも、忘れたのかしら」

「そんなわけないだろ、リツさん」

「……リスさんに聞こえる」

 彼が、ぷっと噴き出した。私も頬が緩む。二人で腹を抱えて笑った。

 どうにも違和感がある。私達には、まだ早かったみたいだ。

 それからは掃除をしながら、ずっと小説の話をしていた。どんな話が好きか、どの作家が好みか、そんな話ばかりをしていた。

 普通、この手の話題を口にしていると何々が嫌い、誰それが苦手という話題になるだろうに、彼はそんなことを一切口にしない。善意の塊と対面しているようで、もどかしくなる。私は悪意を信じているし、人間とはそういうものだと考えて生きてきた。だからやっぱり、彼みたいな人には馴れない。同じ感性の沼に引きずり込みたくなってしまう。

 それとなく話題を振って、嫌悪へと感情を誘導してみる。

 いつの間にか好きなものの話に戻っていた。

 実は相当のやり手だったり……しないんだろうなぁ。悪意に反応するだろう私の心が、彼にはこれっぽっちの警戒をしていないのだから。どうしてこの人は、それほど他人を信頼したり尊敬したり出来るのだろう。自己評価が低すぎるのか、それとも強烈なナルシズムがあってこそ誰にでも優しくできるのか。

 そんなこと、考えるだけ無駄かもしれなかった。

 結局不味いと不満を言っていた紅茶すらなくなって、外へ飲み物を買いに出ることにした。タワーや北館の購買は当然のように閉まっていて、夏季休業に入ってしまったことを嘆く破目になる。活動する生徒の数が激減するのだから、仕方のないことだ。中学や高校と違って、部活動やサークルへの参加は強制じゃないし。

 特に文句を言うこともなく、大学から坂を下ったところにあるコンビニへ歩いて行く。ついでにご飯を食べに行こうかという話にもなったけれど、近くにあるラーメン屋はどこも閉まっていたり、脂っこいものが苦手という理由で却下してしまった。それに、彼の言う普通の量が果たして本当に普通なのか疑問だ。先週、弁当とカップ蕎麦を食べ終えた後にも足りないと言っていたし。

 この細い身体の、どこに胃袋が入っているのだろう?

 手でひさしを作りながら、眩しい太陽を避けて歩く。

 コンビに入る直前、聞き慣れないシャッター音がした。ふと隣を見ると、中野君がスマートフォンを覗き込んでいた。

「……盗撮?」

「その発想に至った経緯を聞きたいな。空を撮ってたんだよ」

 彼のスマートフォンを借りると、確かに空を撮っていただけだった。気が向いたときにやっているらしく、他にも何枚かの写真が収められていた。夕陽や夜空の他に、食べ物の画像なんかも多い。美しいものに感化される、食欲旺盛な男子学生か。やっぱり、中野君は変わっているのかもしれない。

 私はおにぎりとお茶を買ってコンビニを出た。中野君は弁当の前で長いこと唸っていたが、結局ひとつしか買わなかった。大学の購買を基準にすれば、コンビニのお弁当は二倍近い値段になる。彼が悩むのも、金欠学生なら至極当たり前のことだ。

 部室まで戻るのは面倒くさくて、私達は外でお昼を食べることにした。集合住宅のところに公園みたいな空き地があり、そこにベンチが備え付けられているのだ。それらが木陰に入るよう設計した心優しき人に感謝しつつ腰を下ろす。ベンチは、夏の熱気で温くなっていた。

 弁当の蓋を空けながら、彼が思い出したように呟いた。

「ここ、学生だけが住んでいるのかと思ったらそうでもないんだよね」

「そうなの?」

「休みの日は、小学生くらいの子供が遊んでいるのを見たことがある」

「今日はいないみたいだけど」

「まぁ、猛暑日だし」

「そうだね」

 そんな日に、外でお弁当を食べるのか。まぁ、部室まで持って帰る間に腐ってしまいそうだし、ここなら全方向から風が吹いてきて涼しいし。いただきます、という彼の言葉を合図にして私もおにぎりをかじった。ツナマヨが顔を出したところで購入したばかりのお茶を含む。外で食べるご飯は、おにぎりが一番だ。幼稚園の遠足みたいに、なんだか楽しくなってきた。

 おにぎりをかじりながら、身体を左右に揺らす。脚をパタパタと動かすと「ゴキゲンだね」と言われた。その通りだから反論のしようがなかった。私も、大概素直な人間である。

 おにぎりを食べ終えて、ゴミをビニール袋に入れる。伸びをしようと立ち上がったら、それだけで眩暈がした。額に手を当てると、夏の熱気で温まっている。……もう。

 少し動いただけでも汗ばむ、嫌な季節だ。

 髪を結び直そうと解いたところで、彼が声をあげた。

「どうしたの」

「いや、勘違いだったら申し訳ないんだけど」

「何が? 言いたいことは言って」

 女優か何かに似ている、と面白くもない戯言を口にしたら砂をかけてやろうと決意して、彼の言葉を見守る。彼は最後の一口を飲み込むと、何でもないことの様に言った。

「この前、僕の跡をつけていたのって君?」

 むせた。

 何も食べてないし飲んでないのに、むせた。慌てた彼がお茶を飲ませてくれる。服の隙間から身体を見られてしまったときよりも、初めて話しかけたあのときよりも酷い羞恥心が私の全身を切り刻む。誰にもバレないだろうと安心しきっていた悪事が、一番バカにしていた相手にだけ露見したときの感覚に似ている。

 頭がくらくらと揺れた。初めて度数の高い酒を飲んだ時のように、聞き慣れない鼓動が耳元で響いている。汗が噴き出して、全身を薄く濡らしていく。

 太陽みたいな明るい心を持った人の隣で、雨雲のように黒い心を持った私が顔を覆う。言い訳をすることは出来ない、気持ち悪い人間というレッテルを甘んじて受ける覚悟もない、誤魔化す手段や方法は思い浮かばない。

 その場にへたり込んだ私に、彼は手を差し伸べてくれた。それを掴むことも出来ずに、善意の光に晒される。

 真っ黒な私の心は、熱で焦げてしまいそうだった。

「大丈夫かい?」

 彼は、何でもないような顔で笑っている。

 どうして、そんな顔が出来るの。

 貴方は、悪意を信じないの?

「あれ、君だったのか。最近の君は髪を括っていたから、さっきまで分からなかったよ。あの時は髪で目元が隠れていたから、それも要因の一つかもね」

 心臓がバクバクと音を立てる。意識が飛びそうだ。澄んだ生命力と善意の塊のような眼に捉えられて、身体が動かなくなる。狼に竦む羊みたいに、悪魔と出会ってしまった生贄の様に。

 彼の眼が曇った。不安そうな色になる。至極真面目そうな声色で「あー、別に、髪を解かなきゃいけないわけじゃないんだ」と言った。意味が分からず目を白黒させる私を安心させるつもりなのか、彼は言わなくていいことまで口にする。

「君、結んでいる方が似合っていると思うよ」

「…………そう?」

「うん。いつもより美人に見える」

「聞きたいのはお世辞じゃないの。……私が追いかけていた理由を、聞かなくていいの?」

「話したい?」

 彼の眼に私が映る。

 俯いた私は、何も言えなくなってしまった。

 沈黙に耐えられなくなって顔をあげる。

 彼は私を見ていた。

 というか、私のうなじを。

「ポニテって本当にいいよね」

「……は?」

 何を言っているのか分からず聞き返した私に、彼は延々とポニーテールの良さを語り始めた。結ぶときは耳より高めがいいとか、あまり強く髪を引きすぎると色香が失われるとか。髪の長さは結んでうなじを隠すくらいとか、束の太さがどのくらいになるといいとか。結局は僕の好みで、雑誌で紹介されたりする奴とは違うことを言っているかも、と彼は締めくくった。話し終えた彼の頬は、私の服装が乱れ気も緩んでいることを指摘したときと同じくらいに赤かった。内心に仕舞っておくべき秘密の事柄を放出すると、彼の頬は赤くなるのかもしれない。それとも、嘘を吐くとこんな顔になるのだろうか。

 でも、どうして今、そんなことを言うのだろう?

「結局、中野君は何が言いたいの。私を慰めているの?」

「違うよ。大体、慰める理由なんてないじゃないか。僕が言いたいのは、もっと単純なことだよ」

「何よ」

「結局のところ、髪を後ろで結んだ立田さんはとても魅力的だったから、前よりも綺麗に見えたって話。それを口にする切っ掛けが欲しかっただけだから」

「…………それ、褒めているつもりなの」

「当たり前だろ。お世辞なんて言いたくないんだ」

 今更何を照れているのか知らないが、彼はこっちを向いてくれない。まぁ、こっちを向かれると、私も恥ずかしいのだけど。なんとなく、彼の思惑が分かって来た。

 振り回されていることを実感すると同時に、ここまでされたなら虚勢を張るしかない、とも思う。

「呆れた。それ、ポニテが好きなだけじゃないの」

「いいじゃないか。男はみんな、ポニテが好きなはずだよ」

「そうかしら。他の髪型が思い浮かばないから、そう言っているだけじゃない?」

「それでも、僕は好きだよ。だって、綺麗に見えるし」

 恥ずかしげに笑う彼の頬を突いた。きっと、彼の言葉は嘘ではないのだろう。多分、ポニーテールも好きなのだ。だけど、それ以外にも考えていることがあるはずで、そうでもなければ、恥ずかしい趣味を相手に晒したりはしないだろう。私を元気づけようとして、バカみたいなことを言っていると考えるのは深読みという奴なのかしら?

 ……ともかく、元気になった。言外に、彼は気にしないと言ってくれている。だから、その好意に甘えるしかない。善意の塊の彼に、悪意を潜ませた私が寄り縋る。滑稽なようで、この世の真理が含まれていそうな、不思議な構図だ。

 解いたままにしていた髪を結び直す。勿論、ポニーテールにした。そして、モデルみたいにポーズを決める。

「どう? 惚れる?」

 彼はにこやかに笑った。

 柔らかくて、優しい微笑みだ。

「うん、バッチリだ。心臓撃ち抜かれちゃうよ」

 それが本気だと考えることがどうしても出来なくて、心に一筋の影が差す。無理矢理に釣り上げた頬のせいで、ぎこちない笑いになったのがバレませんように。そしてこの、理性で獣を飼いならしている男に天罰が当たりますように。

 数年ぶりに神様へ本気の願い事をして、私は立ち上がる。やっぱり立ち眩んで、中野君の手を借りた。燦々と照り付ける太陽の下で握るその手は、いつもより温かいような気がした。


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