第4話 嫌悪する人

 友達になるにはどうすればいいのか、私なりに考えてみることにした。

 ペンを咥えながら目を瞑って思考を隅々に巡らせる。開始五分で天井を仰ぐ破目になって諦めることにした。テストの問題が解けないからといって、他のことが上手くいくとは限らないようだ。私の脳味噌は容積が足りないのかもしれない。本当に中身が入っているのだろうか、検査の必要もある。

 溜め息を吐いてペンを置く。

 テストも、単位も、今回は諦めることにして。

 よし、根本的な部分から考えよう。小学校時代から現在に至るまで、私に友達がいたことはあっただろうか? 読書に励んでいたことだけは覚えているが、どうにも誰かと楽しい時間を過ごした記憶がない。話しかけてもらった記憶はそれなりに持ち合わせているが、自分から意を決して話しかけたことはない。

 となると、前提条件となるはずの人生経験が少なすぎるのだろうか。

 どうしよう、友達を作るために何をすればいいのか、さっぱり分からないぞ。

 それよりも、現在の問題は今日が木曜日ということだ。明日が前期最期の授業日でテストの最終日だということ。それは、今日か明日の内にと連絡を取らなくてはならないということだった。出来ることなら夏休みの間も彼の小説を読みたいが、そのためにはどうすればいいのだろうか。最近ではネットに小説を上げている人もいるし、彼のペンネームを聞いておくのが無難かもしれない。ふむ、仲良くなることは出来なくても、それさえ分かってしまえば自由気ままに小説を読めるかもしれないし。

 ……小説が読みたいだけなのに、私は何をしているのだろう。

 大敗したテストを講師に提出した後、私は図書館に引き籠ることにした。

 室温が適度に保たれた、心地の良い空間だった。

 昼休みの間は図書館にいることが多い。昔から似たようなことばかりしているのだ。小学校の図書室は小さくて蔵書の数も少なかったけれど、中学と高校にあった図書室には相応の数の書籍が置いてあった。大学生になった今は、付属図書館などというご立派な施設の恩寵に預かる毎日だ。当初は暇つぶしを兼ねた趣味だったはずなのに、いつしかライフワークみたいなものになっているのかもしれないな。

 文芸の棚をまわって面白そうな本を探す。タイトルに惹かれた本を手に取ると、この大学出身の作家だった。高校時代に彼の作品をよく読んでいたことを覚えている。懐かしさと共にページを捲ってみると、意外に面白かった。一章を読み終えたところであることに気付き、本を元あった場所に戻した。

 内容を完全に覚えていたのだ。衝撃のどんでん返しがウリの作家を、知識で封殺するのは好みではない。オチを知った上で読むとまた違った面白みがあるのだけれど、彼の作品は初見時の強烈なインパクトが気持ちいいのだ。

 その快感を味わう為に、記憶が忘却の彼方で塵になるのを待つ方が得策だと思うし。再び手持ち無沙汰になった私は図書館内の一人分に区分けされたスペースに座り、中野君のノートに書かれていた小説を思い返すことにした。

 記憶力がいいのも、一長一短という奴だな。興味のあるものしか覚えられないんだけどさ。

 私が読んだのは、暗い過去を持つ少女が社会に復讐を決心する話だった。物語の序盤に少女はある青年と出会う。顔に傷を負った、やけに明るい性格の男性だ。人付き合いの苦手な少女も、その青年との交流を通して、徐々に社会性を取り戻していく。最初は道行く人々すべてに憎悪を燃やしていた彼女も、終盤には見ず知らずの老人を手助けするほど、社会に対して心を開くようになるのだ。そして、少女は気付いてしまう。

 歪んだ感性が正常に戻ってしまったとき、あるいは聖人君子や善人のように清らかな性根の持ち主になったとき、果たして自分は復讐を果たすことが出来るのだろうか?

 自分が変わってしまうことを恐れて、少女は親しい友人となったその青年を殺そうとする……というところで終わっていた。倫理観を持つ少女が悪意に身を委ねる過程と、彼女が誠実な青年に惹かれていく過程が若さ溢れる文体で描かれていた。ただ、一般受けするかと尋ねられると少し厳しいものがあるかもしれない。ライトノベル向きの文体で一般文芸みたいなものを書こうとしているから、そんな無理が生じる。新人賞なんかに出せば、一次選考すら通らないような作品だ。

 でも、そんな小説はごまんとある。アマチュアでも大衆に名が知られた作家もいる時代だ。一般流通している商業作品にも、その小説がどうして出版されたのか分からないほどレベルの低いものがあったりもするし……と私は思っているくらいだ。だから、どうして未完成の作品にあれだけの衝撃を受けたのか、その理由を確かめたいと思っている。

 もう一度読んで、確かめてみなくては。

「でさ、あの教授がよ」

「んなことより前の奴みたか? 服ダサくね」

「あれで院生とかマジかよ。この大学ってキモいヤツ多いよなぁ」

 図書館にやや五月蠅い集団が入って来て、二階のソファ周りにたむろし始めたようだ。いつの時代も、どんな年代にも、こんな人達はいるものだ。立ち入られたくない領域に踏み込まれたような、そんな不快感を覚えるから静寂を破られるのは嫌いだった。嫌な思いをしてまで図書館に籠っていたいと願うほどにこの場所への愛着もなく、私は席を立った。昼休みが終わる十分前だし、丁度いい頃合いだろう。

 図書館を離れて、大学中央にあるタワーと呼ばれる建物へ向かった。目的は試験場所の確認だ。残っているテストはあとふたつ。このあと行われる第二外国語と、明日行われる専門科目のテストだけ。それさえ乗り越えてしまえば、平和な夏休みが訪れる。

 することもなくて、怠惰な睡眠を貪るだけの夏休みが。

 フロアの人波を掻き分けて、所属学科の掲示板へ向かう。昨日とは違う張り紙がしてあった。今日行われる予定だった第二外国語のテストがなくなっているみたいだ。授業中に何度か行っていた小テストが前期末試験の代わりになっていて、そもそも前期末テストは行われない旨が記載されている。……そんなの、初めて聞いたぞ。一度だけ講義をサボったことがあるが、その日に告知されたのだろうか。だとしたら、果たして合格点があるかどうか……すごく不安だ。大体、こんな大事なことを直前になって告知しないで欲しい。時間をかなり無駄にしてしまったじゃないか、別に明日の勉強をするつもりもなかったけどさ。

 張り紙の掲載時刻を確認すると、昼休みが始まってから十分ほど経過してからのようだった。もしかすると、教室には学生がいるかもしれない。いや、いて欲しい。出来れば中野君だけが望ましい。どんな些細な糸口でもいいから、話すきっかけが欲しい。さもないと、平和な夏休みは怠惰と満たされない欲望に支配されることになる。

 タワーを出て図書館の方へ戻り、人気のない十二号館の方へと向かった。階段を上って三階に行き、いつもの講義室の扉を開く。一番前の席で、中野君は突っ伏して眠っていた。安堵と、よく分からない高揚感が私の胸を満たす。眠っている人を見ると悪戯したくなる性分は、どうにも直る気配がないらしい。

 彼の他にも、三人の学生がいた。私と同じ日に講義を休んだ人たちだろう。一ヵ所に集まっているところを見ると、彼らは友人同士のようだが。羨ましさよりも優先させるべきことがある。

「あの、テスト、なくなりましたよ」

 覚悟を決めて、彼らに話しかけた。他人と交流することで、心に怪我を負わせることがある。だが、そんなことも言っていられない。小説の為なら、少しばかりの犠牲は仕方のないことなのだ。

 髪を緑と青に染めた学生が私の発言にこたえた。

「ホント? 田沼、調べてくれよ」

「いいよ。っと、学務センターからの告知? それとも教員からのメールだった?」

「……学務センターの方……だと思います。……タワーの掲示板にあったので」

「ん。了解」

 助けを求めて挙動不審に陥った私を気にする風もなく、タヌマと呼ばれた学生がスマートフォンを操作し始めた。もしかして、学科のホームページからも講義や試験の情報を手にすることが出来るのだろうか。教えて貰った記憶がないのは、新入生向けのガイダンスを適当に聞き流していたせいだろう。何を思って大学生になったのか、自分でも分からなくなってきた。

 奇抜な髪色の持ち主は、メガネをかけた男とのお喋りを再開した。眼鏡をかけた男は粘ついた熱量を持つ視線を私へと固定していて、その目つきに不安感を煽られる。まるで野生化した捨て犬が薄ら笑いをしながら睨みつけてくるような、不快な視線だ。

 服や身体の線を興味のない相手からジロジロと眺められるのは、気持ちの悪いことだし逃げ出したくなる。そこには、一種の悪意が込められているのだから。

 睨みあっていると、タヌマ君に声を掛けられた。

「お、ホントだ。ありがとな」

「えっ、マジでないのか」

「おう。テストそのものがなくなったんだと。あのヤロー、今日告知するとか有り得ないことやりやがって」

「それじゃぁ今日はもう帰っていいのか」

「早く帰ろうぜ。明日のテストは楽勝だし、これで二年の前期も終わりだ!」

「よっしゃ! ありがとな、美人さんよ」

 奇抜な人から褒められた。どうも、と適当に小さく相槌を打つ。テストがなくなったのは私の功績ではないし、もっと時間が経ってからなら、彼らだけでも気が付いたことだろう。

 教科書を鞄に詰め込んで、三人はぞろぞろと立ち上がる。彼らが中野君を起こしてしまうのではないかと思ったが、そんなことはなかった。彼らが部屋を出ていくのを見送ってから、中野君の元へと近寄っていく。

 忘れ物した、という声が廊下から響いてきた。数瞬前に見送った男の顔が、教室に覗く。彼の表情筋が笑顔を形作るのを見て、微かな吐き気を覚えた。

 ワスレモノーと嘘っぽい台詞を呟きながら、座っていた席の付近を捜索している。彼がいる間は中野君を起こす気にもなれず、その動作を眺めていた。彼は何かを探しながら、視線をこちらへと投げかけてくる。

 見ていると、言葉をかけられた。

「ペンを失くしたんだ、一緒に探してくれない?」

 嫌、と口にするのは簡単だ。でも、そもそもこの人とは関わりたくない。馴れ馴れしく話しかけてくる奴に、ロクな人格者はいないのだから。

 腕を組んだまま、床と私に視線を走らせる男を眺めていた。中野君を盾にして。

「お、あった」

 わざとらしい溜息を吐いて、彼が立ち上がった。見つけたペンを振っているのは、私に見せる為だろうか。睨み付ける私と、ヘラヘラと笑い続ける男。立ち去らない彼に痺れを切らせて話しかけた。不快感よりも焦燥の方が勝っている。

 はやく、この教室から出ていってほしい。

「追いかけなくていいの? 友達が待っているんじゃない」

「いいんだよ。この後は遊びに行くだけだし、あいつらは夜に飲む酒のことしか考えてない。放っておいても問題ないんだ。それより、君と話したくてね。君だって、お喋りに付き合ってくれるだろう?」

 その言葉が本心から発せられているものだとしたら、私は身体の奥底から溢れ出る嫌悪感に卒倒してしまいそうだ。私が中野君のことをそこまで警戒していないのは、お喋りな男にありがちな、悲劇的なまでに傲慢な自信を垣間見たことがないからだろう。常に独りで、黙々と小説を書いているその姿には親近感すら覚えるのに。

 この男はダメだ。背は私より高く、痩身で容貌も整っている。服装には気を遣っているようだし、流行にも精通しているのだろう。やや高めの声は聞き取りやすく、集団の中でもはっきりと通るに違いない。だから、ダメだ。私は、こういう男が嫌いなのだ。

「君、綺麗だよね。前から、声を掛けようとは思っていたんだけど。あいつらがいると、女の子と喋る機会に恵まれなくって」

 男は目を細くして笑っている。詐欺師みたいな微笑みだ。細められた瞳の奥から、悪意に染まった双眸が私に視線を注いでいる。だから、嫌いだ。

 自分にはこれしかないと信じるものに縋り熱意を傾注する男と、相手の反応を窺いながら自分の立ち位置をより優勢なものにしようとする男。どちらが信頼に足るか、その答えたるや明白だ。それともこれは、独りぼっちの私が描いた、気色の悪い妄想だろうか?

 反応がないことに疑問を覚えたのか、男が近づいてきた。救いを求める私の手は、中野君の背中に触れる。彼は、安らかな寝息を立てていた。

「君、同じ学科の子だよね」

「それがどうしたの?」

「や、どんな名前だったかと思って。り、り……」

 リッタリツ、とその名前を口にするのは簡単だ。だが、こんな男に名前で呼ばれたくない。いつの時代も、名前は呪詛を唱え相手を苦しめる為に必要なものだ。他人の悪意を信じる私の中には、他の誰よりも明確な敵意が潜んでいる。だから、こんなことばかり考えてしまうのか?

 何もかも、被害妄想だというのだろうか?

 名乗らないことを悟ったのか、連絡先を聞かれた。勿論答えない。携帯のアドレスを教えてくれなくてもいいからと、学部生のほとんどが登録しているらしい短文投稿サイトのアカウントを所持していないかを尋ねられた。未登録であること、今後も登録する意志がないことを告げると、彼は渋い顔になった。

 玩具を手に入れ損なった子供みたいな顔だ。

「えっと、それで」

 男が中野君を指差した。

「どんな関係なの? 君達が喋っているところ、見たことがないんだけど」

「そうでしょうね。見せてないもの」

「あー、青春って奴だ。君は彼のこれなんだろう?」

 男が小指を立てる。殺意で指先が跳ねる。拳を握って耐えた。心臓が膨らみ、体中に黒い血が巡り始める。男は、笑いながら手を横に振った。

「なんだよ、怒らないでくれ。でも、こんな奴の彼女って大変だろうな」

 鮮烈な憤怒が、逆に頭を冷やしていく。頭と指先から血が抜けていく。心臓と内臓に悪意を含んだ血液が集まり、身体は熱くなっていく。不快だが、耐えなくてはいけない。蔑みと暴力では、拳の方が罪の重い世界に生きているのだから。

 眠る中野君を挟んで向かい合った。男は、私の身体を見ている。

「それでさ。君は、彼のどこがいいと思ったんだい?」

 男の眼は好奇心と、知るだけで恐ろしい感情に満ちていた。首から下にしか興味を持てず、それを隠すことも出来ない男は、人間として欠陥を持っているのではないかと疑いたくなる。中野君は、少なくともこの男よりは誠実だと信じたい。

「……この人は優しいの。……少なくとも、貴方が死に戻りしても敵わないことは確かね。……あと、それ以上近づかないで欲しいのだけれど」

「おいおい、それは言い過ぎじゃないの?」

 肩に触れようと伸ばされた腕を、思い切りはたく。

「それと、それ以上変な目で私を見ないで。気持ち悪いわ」

 言ってから、しまったと思った。男の顔に憎悪が浮かんでいる。言葉の刃を握ったまま、彼の心に踏み込み過ぎたかもしれない。彼は自覚がないのだ、自分が相手にどんな風に思われているか、それを一瞬でも真面目に考えてみたことがないのだ。もし考えたとしても、それはきっと彼にとって都合よく歪められた妄想で――。

救いの手をくれる神様も、これは手遅れと思ったことだろう。

 不意に扉が開いた。

 悪魔みたいに変な髪色をした学生が、部屋を覗きこんでいる。

「田岡、お前おせぇぞ」

「あ、あぁ」

「なんだ、また女の子に声掛けてたのか。誰にでもちょっかいかける癖を直さないと、付き合っても一週間で別れることになるぞ」

「う、五月蠅い。去年は一ヵ月付き合ったし」

「ん? お前が別れたことを認めなかっただけだろ。三日目には田沼に心移りしていたみたいだし。まぁ、お前みたいなクズじゃダメだろうな」

「田口! お前、モテないからって僻むなよ」

「モテなくても許嫁がいるからなぁ。ホラ、行くぞ」

「ハ? それ初耳、ちょ、オイ」

 タオカは肩を掴まれ、身体の重心を崩しながら引っ張られていく。

 部屋を出ていくとき、タグチと呼ばれた奇抜な髪色の学生は小さく頭を下げた。露骨な視線を私に送り続けていた彼は、聞くに堪えない言葉を残して部屋を出ていった。耳と心が腐ってしまいそうだ。

 ……さて。

「それでも起きない貴方は、相当お疲れのようね」

 緊張が解けて脚が震える。その場に屈んで、深呼吸を繰り返す。どうせなら男と私が対峙しているときに中野君が目覚めて、王子様みたく助けてくれたってよかったのに。そうすれば、小説ではなくて貴方自身を好きになったかもしれないのにね。

 十数回の深呼吸を繰り返してようやく落ち着いた私は、眠り続ける中野君の頬を突いてみた。全然お肉がついていないから、触り心地はイマイチよろしくない。ふむ、これ以上触るのは止めておこうか。

 彼は、ノートを出してもいなかった。机の上にあったのは、中国語の教科書だけだ。 真面目に講義を受けているようで、実際は小説を書いてばかりいる中野君の成績はどんなものだろう。私と同じくらいだったら面白いのだが。

 単純に起こすのはつまらない。どうせなら……いや、流石にそれは止めておこう。あぁ、お腹が痛い。脚が震えるし眩暈もする。でも、このくらいなら許されるはず……だって、悪いことをしているわけじゃないんだから。

 いつでも逃げ出せるように立ち上がり、彼の袖をそっとひいた。子供が親に機嫌を尋ねるように弱い力で引っ張ってみる。反応がなかったから、肩に手を当てて優しく揺さぶってみる。起きる気配はない。何度か繰り返していると女は度胸という言葉が眼前にチラつき始めた。もうちょっと激しいことをやっても彼は起きないのではなかろうか。妄想が膨らんで脳内を埋め尽くしていく。

 目が覚めたとき、隣に見知らぬ女性がいたら、彼はどんな反応を示すだろうか。抱き締められて、耳元で優しく吐息を吹きかけられたらどんな顔をするだろうか。背筋を訳の分からない興奮が走り抜けていく。立っていられなくなって、私はその場に膝をついた。

 肩まである髪が邪魔になったから、後ろで結んだ。この髪の毛で彼をくすぐってみるのも面白いが、実際にやるのは難しい。もう少し髪を伸ばさなければ届かないだろう。どうせ悪戯をするなら本当に抱き付いてみようか。

 ともすれば過呼吸になりそうな口元を押さえて、中野君に触れない程度の距離を保ちつつ背後を取る。身体に手を回そうとしたところで、彼が目を覚ました。起き上がろうとした彼の背と密着する形になり、慌てて距離を取る。あやうく、心臓が爆発するところだった。

 中野君が目をしばたたかせる。

 すぐ隣で正座している私を見て、彼は困惑している様子だった。

「……おはようございます」

 寝起きの中野君に挨拶された。気まずい沈黙の後、私はお辞儀を返す。彼もお辞儀を返し、キョロキョロと周囲を見渡している。私から話しかける……べきなのだろうか? 

 土壇場で竦んでしまって動けなくなった私に、彼が救いの手を差し伸べる。

「他の人はどこかに行ったんですか。なんか、人がいないですけど」

「えっと、その……」

「あ、ひょっとしてテスト終わっちゃいました?」

「そのこと、なんですけど。休講になったらしくて」

「休講?」

「テストがなくなった、と言ってました」

「そうなんだ。……じゃ、僕も帰ろうかな。教えてくれてありがとう」

 礼を言って彼は荷物をまとめ始めた。時間を確認したり、本当に私の言葉が正しいか確認もせずに帰ろうとする。他人を信用し過ぎではないだろうか? 慌てて彼の袖を引いた。立膝の姿勢で、中腰になった彼を引き留めている。

「待って、中野君」

 名前を呼ばれて、彼は驚いたような顔をした。

 ……そうだ。いつまでも立ち止まっているわけには行かないのだ。

 深呼吸した。覚悟は出来た。もう、大丈夫だ。

「何か用事でもあるの?」

「ない、けど」

「そう。だったら、少しだけ話を聞かせてくれない? 貴方に訊きたいことがあるの」

「えっと……その前に、名前は?」

 私が名乗る前に、彼は慌てたように手で制した。

「いや、僕が聞いたんだ。僕から名乗るよ。中野旭だ」

「立田リツです」

 ぺこりと二人でお辞儀をする。お互いに頭を打って、変な笑いが漏れてしまった。彼も、恥ずかしそうに笑いながら額を撫でている。……なんだか、変な感じだ。

 不意に、彼が時間を確認した。眼が大きく見開かれる。

「うわ、一時間も寝ていたのか」

「昼休みからずっとここにいたの?」

「そうだよ。ちょっと休むつもりだったのになぁ……それで、話ってのは?」

「その前に、いい? 顔に跡がついているんだけど」

 彼は照れたように頬と額を擦ってから、ごしごしと顔を拭いた。眼の奥に湛えられた生命力の光には、臆病者の背中を押すのに十分なエネルギーが含まれていた。咳払いをして、背筋を伸ばす。大真面目な顔で、中野君に言った。

「貴方、小説を書いているでしょ? それを、読ませて欲しいの」

 完璧だと思った。言いたいことはその一言にすべて詰まっていたし、これ以上でもそれ以下でもない「私の言いたいことは正にこれだ」ということを言葉にできた。だけど友達がいたこともないから、気付くべきことを完全に忘れていた。

 この人と私は、ほぼ初対面なのだ。

「っと、小説? 僕の?」

 完全にやらかした。彼は本当に困惑しているようだ。彼の私を見る目が、完全に不審者をみるそれと同じだった。知らない相手に名前を知られていたことといい、かなり怪しまれているだろう。屈辱的だ。小説なんかを書いている変人に、変人と思われているらしい。

 泣きそうだけど、いっそこのまま突き進んでしまった方が傷は浅くて済むかもしれない。ぐっと堪えて、彼の鞄を指差した。多分、今日もこの中に小説のメモが入っている。

「貴方、講義中にも小説を書いているでしょう? それに興味があるの」

「あー、バレてたのか……いいけど、あまり見ない方が」

「じゃ、何の為に書いているの?」

 食い気味に放たれた言葉に、彼の眼が揺れた。

 お腹の下が熱くなる。悪戯心が燃え上がり、背筋がすっと冷たくなった。

 彼は視線を、誰もいない教室に彷徨わせている。見つめられることに馴れていないのか、居心地が悪そうだ。だけど、小説を書いている理由なんて三つしか存在しない。

 ひとつは、暇つぶし。ひとつは、趣味。最後の一つは、夢の為。

 長い沈黙の後、中野君は私を正面から見据えた。

「笑わないでくれよ?」

「えぇ。私はこの通り、無表情系だから」

「くふっ……ごめん。僕は小説家になりたいんだ。だから書いているんだよ」

「夢を持っているなんていいことじゃない。それに、その為の努力もしている」

「あー、ありがと。ところで、どうして僕が小説を書いていることを……?」

 貴方が寝ている間に、机の上に置いてあったノートを盗み読みしたの。そんなことを言ったら彼はどんな顔をするだろう。最悪、読ませてもらえなくなるかもしれないと思って今回は誤魔化すことに決めた。

 身体を屈めながら上目遣いに彼を見上げる。合掌までして、私に出来る最大限のお祈りをした。

「それより、貴方の作品を読ませてくれない? ……お願い」

「分かったよ。未完成のメモ……より、この前印刷したのがあるかもしれないな」

 意外にも素直に了承してくれた彼が、手元にあった鞄を漁り始めた。この前のノートが入っていないかと、私も覗き込む。残念ながら、青い色のノートは入っていなかった。最後のページまで書き終えたとかの理由で、新しいノートに買い替えたのかもしれない。複数のノートを使い分けていたみたいだし、本当のところは分からないけど。

 ふと顔をあげると、彼の優しい眼光が何かに殺されていた。……何を考えているのだろう。

 鞄の中を覗かれるのは誰でも嫌だと気が付いて、私は視線を逸らした。冷房のない教室はじんわりと汗ばむほど蒸し暑く、服の裾をはためかせて風を起こす。もし男なら、もう少し風通しのいい身体になるのだろうかと考えてみる。まぁ、汗をかく部分が減るかもしれないけれど、大して変わることはないだろう。蒸し暑さは男女平等に訪れるのだ。

「お、あった」

 中野君が白い紙の束を取り出した。両面に印刷されていて、枚数は四十枚くらいだろうか。まだ校正をしてないから誤字脱字は勘弁してね、と言い訳をしている。

「はい、これ。元データは持っているし、あげるよ」

「ありがと。本当にいいの?」

「うん。読んでくれる人がいるのは、とても嬉しくてありがたいことだし」

「そう……ふへへ」

 卒業証書を受け取ったときより、手がぷるぷるしている。みっともない笑い声につられたのか、中野君も笑う。それはどこからどう見ても、子供が照れ笑いをしているようにしか見えなかった。

「そうだ。明日の午後、部室に来る? 去年書いた原稿があると思うし」

「いいの?」

「テスト最終日だし、大丈夫だよ」

 中野君は何も疑っていないような眼をしている。素性も知らない相手を、名前と所属学科くらいしか知らない相手を懐に潜り込ませるなんて危険すぎやしないか。もし部室を荒らしたり、備品をくすねようとする不埒な輩だったり、他の部員のストーカーが取り入ろうとしていたらどうするんだ。

 彼は、他人の善意を信じすぎている。

 どくんと心臓が鳴った。獲物を前にした狼が感じるだろう強烈な興奮が、視界を白く染める。悪意を知らない、純粋な子供独特の……。

 顔をあげると、心配そうな眼がこちらに向いていた。片膝をついた姿勢で、左手は中野君の手を握っている。どうやら、意識が飛んでしまったらしい。眠れない夜が続いていたから、それも原因の一つだろう。

 数年ぶりに触れた他人の肌は、優しく私を握り返していた。

「立てる?」

「えぇ、眩暈がしただけ。どこも悪いところはないから」

 手にしていた原稿の束は胸元にしっかりと抱きしめていた。安堵すべきなのか、それとも呆れるべきなのか判断に迷う。破いたり汚したりする前に、と急いで原稿を仕舞った。

 あのー、と間延びした声に顔をあげる。

「ひとつだけ、言っておきたいことがあるんだけど」

「……何? 言えばいいじゃない」

「でも、初対面の君に言うのは憚られる事柄だから」

「なら、言わなければいいのに」

「あー……ごめん、言い訳したかっただけだよ。はっきり言わせてもらうね」

 わざとらしい咳払いをして、私を見る。その真っ直ぐな視線に圧倒されてしまいそうだった。そして、彼は指先を私の胸元へ向ける。視線は、ぎこちなく揺れている。ふむ。

「君、もう少し胸元に気を付けた方がいい。普通にしてればいいんだけど、屈んだり、今みたいな姿勢になると……その、ちょっと見えた」

 何が? と思考停止してから理解した。かっ、と頬が熱くなった。燃えるように厚い身体をぎゅっと抱きしめる。流石の私でも恥ずかしいことくらいはあるのだ。

 思い切り中野君の頬を抓ると、彼は謝り始めた。デリカシーのない発言だった、絶対に忘れるから許してくれ、と。彼は人間の善意を信じすぎているのかもしれない。私がその程度で許すと思っているのだろうか。かくなる上は彼の男の象徴を握りつぶす覚悟だ。

 謝罪なんて、形だけのものに過ぎない。

 犯した罪は、消えることがないのだから。

 でも、真面目に謝り続ける彼を見ていると、なんだか不思議な感情が湧き上がって来る。これだけ真面目な人の感性や世界観を取り込んだら、どうなるんだろう? 嫌なもの、汚いものだけを見る癖が直ればもっと幸せに過ごすことが出来るかもしれない。でも、ぞっとするほど深い心の底で、私自身がささやく声が聞こえる。彼みたいな良い人を絶望に突き落とせたら、どんな気持ちになるのだろう? 例えば、彼が心から好きな相手に傷付けられたら、どんな表情を見せるのだろう?

 至極迷惑な妄想を繰り広げてしまうのは、心が汚れきっているからだ。口元とお腹を押さえて、邪なことを考えないように努力する。なぜか中野君も顔を覆っていた。……もう二度と、彼の前で前屈みになんかならないぞ。っていうか、成人した男というものは全員が狼みたいな奴だと思っていた。だから、彼の初心な反応には色々と思うところがあって。

 下腹部に、痺れるような甘い感覚が広がっていた。

 ふたりして変なことばかり考えた後は、気まずい静寂が訪れる。明日の約束を済ませた後、解散することになった。手を振って別れ、彼の後姿が見えなくなってから、私はお手洗いへと駆け込んだ。火照った頬と身体を冷ますのは案外難しいと言うことを、二十歳になってようやく知ることが出来た。

 手を拭い髪を整え、鏡に映った自分を見る。惚けた顔の少女が、照れくさそうに笑っていた。

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