第3話 小さな願い

 火曜日の昼頃になると、何をしていても眠くなる。一年生のときはどうってことなかったはずなのに、二年生になった今年は毎週のように微睡んでしまっていた。

 毎回のように映画を上映するあの講義室には、睡魔が宿っているのかもしれない。

 中野君の小説を読んだあの日から、脳内を交錯する思想は大宇宙のように複雑で、自分でも理解が追いつかず怖くなっている。元から嫌いだった勉強が益々手につかなくなってきたことも含めて、気を引き締めなくてはいけない。テスト週間に入ったのにこの調子では、単位が取れるかどうかも怪しい。……そうでなくても、今期の科目は落としてしまいそうなのに。

 落単したら、中野君のせいということにしよう。私以外、誰も納得しそうにないけれど。

 あれから二週間、半ばストーカーのような行動を繰り返している。受けている講義や帰り道がほとんど同じなのを良いことに、彼の行動をつぶさに観察しているのだ。仕草の癖も、徐々に把握できて来た。

 たかだか二週間とはいえ、分かったことは多いのだ。まず、中野君は帰るのも早いし歩くのも速い。片付けに時間が掛かるといつの間にか講義室から消えて居なくなっているし、同じタイミングで部屋を出たとしても歩くペースが早いから、私の脚では小走りをしなくては追いつけないのだ。彼がせっかちというわけではないだろう。私がのんびり屋すぎたのだ。

 他人と歩調を合わせて生きることに馴れていないのは、これまで誰かと横並びになろうと努力しなかったからだ。若かりし頃のツケを払っていると解釈すればいいのだろうが、まだ二十歳だぞ。まだ未来があるのだし、ここで苦しむ必要なんてないと思うのだけど。

 追いつけないのが、ちょっとだけ嫌だった。

 習慣を変えて脳の処理速度を上げることで作業効率を上げ、準備不足を補う方法も考えてはみた。その準備段階で気付いてしまったことがある。どんなに完璧な計画も、実際の行動に移すとなると難しいのだ。そもそも、脳味噌の処理速度を上げるには何をすればいいのだろう。脳内メモリは他人と互換性がないし、市場に高性能なものが出回っているわけでもないんだぞ。

 今では中野君よりも先に教室を出て、駅へ向かう途中、彼に追いつかれるくらいのペースを保つようにしている。訝しく思われることは厳禁だし、気味悪い奴だと思われてしまったら最後、私は彼に話しかけることすら出来なくなってしまうだろう。それが、一番怖かった。

 テスト期間中に何をやっているんだ、と冷静な自分がツッコミを入れてくる。無視しても問題はないよね、と無心で思考の海の底へ沈めてやった。もう二度と浮き上がって来ることはないだろう。

 彼に話しかけることが出来ればいいのだろうが、一人でいるときに話しかける必要がある。理由は簡単、小説を書くと言うのは、全裸の時分を曝け出すことだから……と、私の好きな作家があとがきで述べていたことがあるのだ。私も、その意見に賛同する。授業そっちのけで書いているものを、趣味とは言わないだろう。夢とか、将来の目標とかいうもののハズだ。それを他人に晒すような真似はしたくない。あれほどすごい小説、本気で書いていたに違いない。それをからかうようなことだけは、善悪の区別をつけることができる人間なら、してはいけないと分かるはずだ。

 意識すべきことは、他にもある。

 彼の価値観が、私の嫌いな誰かと混ざってしまうこと。

 それを、一番恐れていた。あぁ、話したこともない相手の友人関係にまで口出しをしようとするなんて、私はなんて気持ち悪い奴なんだ。

 これまで、私の人生には親しい友人がいなかった。片想いをする相手すらいなかった。だから話しかける必要すらなかったのに。話しかけたくても話しかけられないなんて、どうしてこんなにも辛いのだろう! ……とはいえ、大学内にいる彼はいつも一人ぼっちだ。サークル活動の拠点となる部室棟へ行くことが多いが、その彼が他の人と部室棟を出てきたところを見たことがない。このまま機会を窺い続ければ、いつかは話すチャンスに恵まれるかもしれない。後は、そのとき勇気が奮い起こせるかどうかだ。すべてはそれに掛かっている。

 閑話休題。

 彼について分かったこと、それには住んでいる地域も含まれていた。いや、こればかりは調べ上げたから分かったという訳ではない。たまたま、帰り道が同じだったというだけの話だ。これまで気が付かなかったのは、私が彼に対して微塵の興味も持っていなかった証になるだろうか。だとしたら、ここ数日で急激に彼のことを気にしているわけだから、人生というものは分からない。

 分かるのは、私が欲望に正直だということくらいか。

 彼は私より、ひとつ手前の駅で降りている。地元が割と近かったことも驚きだが、彼がバスや自転車を使っていなければ、家までついていくことが出来そうだった。そこまでやれば立派な犯罪だろうし、やる意味もない。私は彼自身よりも、彼の書いた小説の方に興味があるのだから。

 他に分かったことと言えば、彼がいくつかのメモ帳を使い分けているらしいことと、目立たない服ばかり着ていることだろうか。中野旭という男性の外面のデータばかりが集まって、彼が一体どんな人間なのかはまるで分からない。

 人間が悪意の塊だと信じ切っている私にとって、それはとてつもなく怖いことだった。底の見えない深井戸に、ロープなしで飛び込まなくてはいけない。足場の腐った橋を渡って、向こう岸に行かなくてはならない。それらの愚行を強行するときの恐怖と似たものを感じる。

 考え事をしながらご飯を食べていたせいだろう、自分の手に箸を突き立ててしまった。赤い点がふたつもついた手の甲を撫でて、人間観察にんげんぎらいを続行する。今日は部室棟の三階、広い共有スペースでご飯を食べていた。視線の先には中野君がいて、彼は部室の鍵を一括管理しているおじさんの帰りを待っている。他にも何人かの学生がいたが、彼らも管理人待ちだろう。この場でサークルに所属していないのは私ぐらいのものだろうし。しかも私の目的は中野君を観察することにあるのだから……やはり、考えれば考えるほどに恐ろしい。悩んで懺悔もどきを始めるくらいなら、さっさと声を掛けて小説を読ませてもらえばいいのだろうが、そもそも彼のノートを盗み読みした時点でかなりの後ろめたさがある。だから話しかけにくいのだし、彼に命令されれば何だって応えてしまいそうだ。後半部分は嘘だけど。

 中野君はメロンパンを食べていた。遠目にも、もさもさしていて美味しそうには見えない。彼が不機嫌そうな顔をしているから、余計そう見えるのか。家で作ったお弁当をつついて再び顔をあげる。彼と視線がかちあって心臓にズキリと痛みが走った。不審に思われない程度の速度で顔を背ける。心臓が嫌なリズムを刻んでいた。罪悪感が、ありもしない幻聴を響かせる。ここからは、すべて妄想だ。

 はい、妄想はじめ。

「どうしたの? 僕に用事でもあるのかい」

 人間の悪意を神様よりも確かなものとして捉えている私には、中野君の澄んだ瞳が処刑具の様にみえる。無垢であることを最大限に武器として活かした彼が、そっと私の首に指を這わせるのだ。その瞳に、優しげな光を湛えながら。

 細くて冷たい指が、花を手折るように優しく首を絞めていく。痛みを感じないラインを知っていて、その上で彼は苦しみを与えてくる。身体から力が抜けて、腰が砕けてしまう前に彼は指の力を抜いた。それでも指は離れない。私の首に巻き付いたまま、表情には現れない彼の意志を明確に伝えてくる。

 彼は、こう言うのだ。

「君が真っ当な社会生活を送りたいなら、僕に約束してほしいことがあるんだ」

 温かな善意に裏打ちされた、紛れもない悪意が心に杭を打つ。柔らかな光を湛えた瞳が瞬く間に底無しの黒で塗りつぶされる。そこには憎悪の炎が燃え上がっていた。

「もう二度と、僕に関わらないでくれ。小説も、生涯読まない方がいい」

 君みたいなロマンチストは、他人を破滅へと導くものだから。

 ……ふう、妄想終わり。

 これは妄想だ。ここまでは妄想だ。恐れている些末な事象を細部に散りばめた、簡素で空虚な空想に過ぎない。それでも、今みたいな中途半端なストーキングを続けていれば、いつかは現実になるだろう。背後に付きまとう見ず知らずの他人を心地良いと思える人間が、この世にどれくらいいるのかしら?

 中野君から視線を逸らした後は、ゆっくりと周囲を見渡した。

 共有スペースの壁はちょっと汚れていたが、比較的綺麗な部類だった。薄いベージュに、黒い染みが走っている程度のものだ。古い建物は埃と汚れに塗れているものと考えていたが、それはアテにならないらしい。模様などの装飾が施されていない床の上には、八の字型や直角型、花びらや水滴を表現した様々な形のソファが置かれている。乱雑に配置されているからこそ、学生達はバラバラに座ることが可能なのかもしれない。そうでなければ、隣に友達のいない私や中野君は居心地が悪くてここにいることが出来ないだろう。中野君の精神面での強さが私と同じくらいなら、間違いなくそうなっているはずだ。

 数年前に使用が禁止された喫煙所には鍵が掛けられていて、残った空間にはかつての愛しき紫煙が残り香のように渦巻いている気がした。

 そろそろいいかな。視線を中野君に戻すと、彼はパンを食べ終わり、携帯を弄っていた。人前で小説を書いたりはしない主義のようで、電車内でも彼が小説を書いているところはみたことがない。講義中に書いていても同じことだよ、実は私にバレているんだよ、と彼に囁いてみたくもある。少しだけ、悪いふつうの人だ。つい数分前の妄想がチラついて、とても実行できないけれど。

 あまり視力の良くない私では、遠くに座る彼の顔をはっきり見ることが出来ない。ただ、怖い顔をした人という印象を受ける。これは個々のパーツより、表情の影響が大きい。一週間観察して分かったことだけど、中野君は顔を顰めていることが多い。電車の中、講義室の中、歩いているときも座っている時も。不機嫌そうな顔で、考え事をしているようだった。小説のことを考えているのだろうか? 四六時中そうしているから脳が疲れて、講義の時に眠ってしまったりするのだろうか? 想像は尽きない。答えは、彼のみが知っていることだろう。

 中野君が立ち上がった。鞄を置いていくかもしれない、と一瞬だけ期待したがそんなことはなかった。当然といえばその通りだ。鞄は肩に提げたまま、管理人さんの元へと鍵を借りに行ったみたいだ。どこかの部室へ行くのだろうが、どのくらいの時間で戻って来るか分からない。私は彼を見たいわけではなく、彼の書いた小説を読みたくて彼の後ろに付きまとっているわけだから、今日はこれ以上追いかける意味もないだろう。……話しかける勇気もないし、部室まで追いかけるのはそれなりに勇気がいる。中野君が悪い人だった場合、密室にふたりきりという状況は避けるべきだし。

 誰に気を遣うわけでもなく、部室棟を出た。長い階段と坂を、転ばないように降りていく。ゆっくりと歩を進めながら、考えるのは中野君が書く小説のことばかりだ。大学から駅へと向かう道すがら、色々な妄想をした。

 中野君が眠る瞬間を心待ちにして授業を受けるのはどうだろうか。彼が講義室に現れるのは、開始時刻の五分前であることがほとんどだ。だからそれより僅かに遅く講義室に入り、彼の真後ろの席に座るのだ。ああ、ダメだ。テスト期間に入ってしまったから、学籍番号順にしか並べないのだった。夏休みが明けるまで待とうか? いや、無理だ。そんなこと出来るはずもない。

 もう一度あの作品が読みたくて、私はどうにかなってしまいそうなのに。

 セミの鳴き声を背景音楽BGMにして、真夏の太陽に熱されたアスファルトの上を歩く。学生街特有の、安価を売りにした飲食店から雑多な匂いが漂ってくる。楽しげに喋る男女を横目に見ながら、地下道へと続く階段を歩いていく。地下鉄に乗り込んでからも、思索は続いた。

 今日は揺れの少ない車両に乗ることが出来た。極稀にブレーキの下手な車掌に当たると、妙に緊張するから嫌なのだ。行き帰りは常に立ったままの姿勢を維持していることが多いし。見ず知らずの誰かと横並びに座ることが、あまり好きではないからだった。

 乗り継ぎ駅までの三十分は、あっという間に溶けて過去の時間になる。何も生み出すことの出来ない、退屈でつまらなくて無駄な時間。中野君と一緒に、友人として帰ることが出来たなら、価値はなくとも楽しい三十分になるのだろうか。

 幼い幻想だな、と冷静な私が囁いた。話し下手な私が、寡黙そうな彼と一緒にいて楽しい空間が作れるはずもない。沈黙も心地よい空間というのは、互いに信頼し合っているからこそ生まれるものだ。私がそんな空間を作り出せるとは、到底思えない。

 人は悪意の塊だ。それは、素晴らしい小説を書く作家にも当てはまる。創作物に現れるのは人間の本性ではなく、その人の性癖なのだ。だから、どれほど敬愛している作家がいたとしても、その作品を見ただけで好きになってしまってはいけない。自分が好きなものは作品であって、作家そのものではないと言い聞かせなくてはいけないのだ。

 まして、中野君はただの大学生に過ぎない。小説を書こうとする意志を最低限の文才てくせが支えていて、それが私の評価基準と完璧に一致しているから素晴らしい作品だという評価かんそうが生まれているだけなのだ。小説を遊びで書いているのかもしれないし、現実逃避の為に書いているのかもしれない。

 彼にとっての小説が、必ずしも美しいものであるとも限らないのだ。

 幻想をぶち壊しにするような数多の言葉が心の底から細波のように迫って来る。聞けば落胆するような内情の持ち主という可能性もある。理想と現実の落差で心を強打して怪我をしないように、準備運動はやっておいた方がいい。好きなものから手酷いしっぺ返しを食らいたくなければ、それは当たり前の防衛策だ。

 人を信じてはいけない。それこそ、親しくない相手なんて。

 二回目の乗り換えで、私は地元の駅へ到着する電車に乗った。地下鉄とは違って、外の風景を見られるのが長所だ。暗いトンネルの中よりも、緑一色の田圃を走っているときの方が精神衛生的にもいいような気がする。今日も椅子には座らずに、高層ビルと娯楽施設に溢れた街並みが自然に変容していく様を眺めていた。住宅街が減り、雑木林が増え始めれば地元へ帰って来たのだという実感が湧く。

 高校生と思しき二人組が、手を繋いだまま喋りあっていた。どちらも楽しそうに笑っている。嫉妬のような、羨望のような感傷に浸りながら彼らを見ていた。男子生徒が降りた後、女の子は急に無表情になって携帯を弄り始めた。メールをしているのかもしれない。彼に、今日は楽しかったよ、なんて浮ついた言葉を送っているのだろうか。

 本当に?

 内容を夢想してみても、それは親しい友人へと宛てられた彼氏への愚痴だったり、手を握られていたことへの不快感だったりと、ロクなものはない。年若き彼らへの嫉妬が私の心を曇らせるのだろう。彼女が表情を硬いものにしたのは、いつまでも緩んだ頬でいては恥ずかしいからだ。彼氏がいなくなってすぐに携帯を取り出すのは、仲の良い相手がいなくなった寂しさを手元の小箱に求めただけだ。それくらいのこと、ずっと一人だった私にも分かる。今の私は敵意剥き出しで、彼らのように純度の高い青春を送っている人達からは害意を持ったロートレのようにしか見えないだろう。……そもそも、ロートレなんて言葉を彼らは知らないかもしれないが。

 私だって、誰かと仲良くしたい。好きな小説の話をしたり、身内にしか通じないジョークで笑い合っていたい。その相手として思い浮かぶ顔は、たったひとつしかない。切っ掛けは、悪戯心という名の小さな悪意だった。好奇心という悪魔にそそのかされて、手に取った一冊のノートだった。

 私はただ、彼の小説が読みたいだけだ。だけど、どうせなら、その先の未来も欲しい。燃える気持ちが打ち消せなくて、これからのことを決断してしまう。

 中野君に話しかけるのだ。まずは、友達になるために。

 彼の、小説を読む為に。

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