第2話 魂の抜け殻

 火曜日だった。午前十時開始の二限目を受けている最中だ。

 講義の一環として映画を見ていた。心地よい温度に調整された空調と、退屈なシナリオが眠気を誘う。天国みたいな環境だが、ある意味では地獄のような拷問だ。暇すぎて、生きている意味が分からなくなる。

 部屋の電気がすべて落とされているから、そこかしこでスマートフォンの光が使用者の顔を照らし出している。操作している人はバレていないつもりなのだろうか。暗闇を舞う蛍よりも強い光は、人の欲を浮かび上がらせる。白と青、ピンクの光が瞬く光景は、それなりに楽しそうだ。

 講師だって、怒ったりしない。

 そもそも、この講義は必修ではないのだから。

 腕組みをして、ぼーっと映画を眺める。つまらなくなったら机に伏して、眠れないからと何度も起き上がる。火曜の二限目は、いつもこんな感じだ。スマートフォンで遊ぶ学生を除けば大抵が睡眠時間を欲していて、この講義はそれを提供してくれる都合のいい時間になっている。講師もそれを容認しているのだから、別に問題はないだろう。学生に映画の感想文を書かせて、それをレポートとして受け取るような人だ。講義中に遊んでいても許されるのだから、彼は何を考えているのか分からない。このまま甘やかしてくれると、私としては嬉しいのだが。

 そう言えば今日は、ひとつ収穫があった。メモ男の名前を知ることが出来たのだ。ナカノアサヒと言うらしい。出席確認をする時、なんとなく聞いていたら知ることが出来た。特別すごいことではないのに、他人に見せびらかしたくなるのが不思議だ。

 新品の、誰も知らない玩具を持っている時の感覚に似ている。

 メモ男ことナカノ君は、開始十分は起きて何かを書いていたが、それ以降はずっと眠りについている。映画の内容を確認できる友人がいるわけでもないだろうに、一体どうするつもりなのだろう。誰にも助けてもらえないのに。レポートを書けなくなっても知らないぞ?

 それは、私も同じだけど。

 暗い講義室での上映は、まだ終わらない。始まってから、二十分しか経過していない。七十分しかない短い映画だと講師は言っていたが、時間は相対的なものだ。楽しければ一瞬で過ぎるし、つまらなければ永遠にも感じる。……私の人生は、どちらに当てはまるだろう。

 映画の中で、主人公が女性に愛を囁いた。結ばれるのだろうか、と僅かな好奇心が疼く。一分も経たないうちに彼らは引き離され、主人公は飛行機に乗り込んだ。空へ飛び立つ彼は、女性を一瞥することもなく消えていった。空のことしか眼中にない主人公を、どうして女性は愛することが出来るのだろう。私には理解の出来ない恋心がそこに描かれていて、しかしその美しさだけは理解することが出来る。人が手にすることの出来る、もっとも美しいものは愛なのだから。

 ぼんやりと映画を眺める。古い映画独特の、ハリボテの空を掻き分けて飛行機は進む。眠気を覚えて机に臥せる。眠ったつもりはなかったのに、体を起こすともう終盤に差し掛かっていた。煙をあげる飛行機が、ゆっくりと高度を下げていく。主人公には他の仲間がいなかったのだろうか、見守る人間も少ないようだ。それとも、親しかった友人達は映画の途中で死んでしまったのだろうか。飛行機から降りた傷だらけの主人公は涙を流している。序盤で愛を囁いた相手が駆け寄って来て、生還した主人公を抱擁するシーンで映画はエンドロールに入った。

 映画業協会のロゴが表示されたところで、講師が電気をつけた。明るくなった部屋では何人もの学生が突っ伏していた。私も数分前まではそうだった。どれほど素晴らしい題材の作品だったとしても、興味がない映画を、それも白黒フィルムなどを見せられては大抵の学生は飽きてしまうだろう。

 講師の号令で目覚めた人から順に、友人へどんな内容だったかを尋ねている。最初から最後まで通していた人を囲っている様子が、ゴミ袋を漁るカラスみたいだった。私には囲う相手もいなければ、囲われる相手もいない。そもそも、彼らが友人に内容を聞いているのは、講義開始直後に渡されたレポート課題の為だ。そうでもなければ、あんなつまらない映画の感想を他人と共有することなどないだろう。

 感想に困って、ペンを唇に当てる。昔から、創作物についての意見を他人と共有することが嫌いだった。他人より感情移入が不得手なのか、私の知らない側面から作品に切り込まれることが苦手だったのかは分からない。だが、そのせいで他人との溝が深くなったことも事実としてある。

 今や小説と漫画、アニメとゲームを生き甲斐にする人は大勢いる。彼らと接点を持てないのは、一種の致命的な弱点とも言えた。バンドやアウトドア趣味にも興味を持てない私にとって、どこも居心地の悪い何かにしか成り得なかったのは残念だ。

 だから友達がいない、と言えばそれでお仕舞いだろうか。

 レポートを提出した学生から、次々と講義室を出ていく。私の所属している学科の学生にとってはこれが今日最後の講義なのだから、このまま帰っていく人がほとんどだろう。何人かの学生が遊びの予定を立てているのが聞こえてきた。バイトで粉骨砕身して貯めた金を、仲のいい子と一緒に使うのはさぞ気持ちがいいのだろう。楽しそうだ。一ヵ月も経たずにバイト先から逃げ出した私とはわけが違う。

 一年生の頃は私を誘ってくれる人が……いや、いなかった。残念ながら、継続的に声を掛けてくれる人はいなかった。全く声を掛けられなかったわけではないが、興味を抱けない相手と行動するほど苦しいこともないからと、人を避け過ぎてしまった。昔からそうだ。純然たる好意から話しかけてくれる人には申し訳ないが、私は人間の悪意を信じすぎている。

 適当な感想で何とかレポート用紙の空白を埋めて、壇上の講師の元へ向かう。すると、手で制された。首を傾げると、彼はナカノ君を指差した。

「君、あの寝ている子がレポート書いたか確認してくれない? 出来ていたら、前に持ってきてほしいんだけど」

「はぁ」

「ね、頼むよ」

 身体を反転させた後、思い切り顔を顰めた。

 眠っている相手に、そこまでしてやる義理はないだろう。そもそも大学なんだから、自己責任という使い勝手のいい言葉をぶつけてやればいいじゃないか。などと言いたいことが山積みではあったが、こんなところで反骨精神を振りかざすのは時間と労力の無駄である。そんなこと言われなくても分かっているつもりだ。

 仕方なしにナカノ君の側へ寄ってみると、傍らにレポート用紙が置いてあった。本人は未だ安らかな睡眠中だというのに、その紙は文字列で埋め尽くされているようだった。どうやら、授業開始後の十分で書き終えていたらしい。暗い中で、よくやるものだ。

 映画の結末を知っていたのだろうか? 意外と細かい部分まで指摘と考察が書かれている。あまり綺麗な文字ではなく、最後まで読む気は起きなかった。

 氏名欄に中野旭と書いてあるのを見届けてから、私は講師にレポート用紙を預けた。

 忘れ物がないことを確認してから、講師は講義室を出ていってしまった。いつも彼が言うところの、次の予定があるのだろう。現役大学生の私よりも充実した毎日を送っているようだ。

 この教室は次の授業で使われる予定がないのか、他の学生達が入って来ることはなかった。

「……残ったのは、ふたり」

 今なら悪戯し放題だ。眠っている中野君の顔に落書きをすることだって出来る。勿論、顔は知っていても特別会話を交わしたこともないような相手にそんなことをされたなら、普段寡黙な彼でも怒りだすだろう。いや、顔に落書きされても本人は分からないのだから、それはないか。バレないようにやれば……流石にやめておこう。二人しかいないこの状況では、腕力で負けた場合が恐ろしい。

 彼を起こそうか迷い、決心して手を伸ばす。肩に触れる前に、横に置いてあった青いノートに視線が吸い込まれた。レポート用紙に隠されていたノートだ。表紙に何も書かれていない、ごく一般的な製品のようにみえる。

 なるほど。

 つまりこれは。

「こうするべき。そうよね?」

 そっと、息を殺してノートを手に取った。中野君が普段どんなことをメモしているのかが気になる。純粋に講義内容? それとも落書き? 大穴で、誰かへの呪詛? 疑問は尽きることなく、私の好奇心を刺激する。

 これも一種の悪癖だ。

 無防備な人間の心を覗く瞬間が、一番興奮するのかもしれない。

 ノートを開く。一瞬の眩暈と意識の飛ぶ感覚があった。懐かしいような、新鮮な、どこかで感じたような、初めてのような。例えようもない浮遊感に襲われて、慌ててノートを閉じた。目を閉じて深く呼吸をし、もう一度ページをめくる。最初の一文を読んで、私は彼の作り上げた世界に――――囚われる。

 そこには、宇宙が広がっていた。

 言葉が幾重にも重なり、文章となる。文章がより合わされ、物語は紡がれる。小難しい理論も、小賢しい比喩も、そこには存在しなかった。真っ直ぐに内面を見つめ、人間の秘密を馬鹿正直に考えた男の姿がそこにあった。

 ノートをめくり、次の言葉を探して目が泳ぎ続ける。膨大な文字と情報の海で、私の心と身体が旅をする。全身に甘い痺れが走り、心臓が早鐘を打つ。もっと深く、もっと大きく、私の知らない世界へと続く扉をくぐり抜けていく。魔法にかけられたみたいだ。冷静なつもりでも、内面で燃え盛る情熱の炎が消えてくれない。人間は邪悪で醜悪な汚物みたいなものだと信じ続けてきた私に、真っ向から反論してくる文章だ。単純な人間賛歌でもなく、ご都合主義に塗り固められた偽りの幸福でもなく、かといって安直な堕落や不幸に縋りついているわけでもない。

 これは、なんだろう? 私が感じているものは、なんだろう?

 最後の一文にたどり着いたとき、酷い疲労感と、脚が震えるほどの快楽を感じていた。胸が苦しい、頬が火照っている、目尻が僅かに熱い。自分がどうなっているのか分からない、他の学生がいなくて本当に良かった。気付けば抱きしめていたノートをもう一度開く。作品として完成しているわけではなく、本当にメモのようだ。エンディングまで仕上がっていないし、素人目から見ても脚注の量が多過ぎる。回収されていない設定もある。字は汚いし、文章の挿入の仕方が乱暴だし、ところどころ漢字が間違っている。言い回しが一般的でないこともあれば、詩的表現で意味が伝わってこない部分もあった。

 一度も小説を書いたことなどない私から見てもはっきりと分かる。これは、未完成の作品だ。

 文句は次々に溢れてくる。しかし、続きを読みたいと思ってしまった。

 ……この小説の、どこに惹かれているのだろう?

 ここで終わりかと思っていた小説のメモも、ページを捲ってみれば新しい作品の構想が練られていた。また、新しい宇宙が広がっている。そこで待ち構えている途方もない快楽に悶えそうになり、私は慌ててノートを閉じた。

 これ以上は危険だ、もう戻れなくなるかもしれない。

 じっと、青いノートに熱い視線を注ぎ込んでいると、中野君が身体を動かした。そろそろ起きるのかと、そっとノートを元の場所に戻す。自分の鞄を引っ掴んで、私は慌てて講義室を飛び出した。そのままトイレに駆け込んで、気分が落ち着くのを待つ。今の私は、どう見たって変な奴だ。おかしな目で見られてしまう。

 綺麗に清掃された個室の中で、小さな手鏡を取り出した。普段全く運動をしないせいか、十数メートル走っただけで軽く汗ばんでいる。特別な手入れをしているわけではないが、髪が乱れてしまっているのも気になる。だけど、それよりも。

 ロクに喋ったこともない相手が気になるなんて、どうかしている。

 中野君はどんな人だったろうか? 知っている限り、中肉中背、容姿も平凡、物静かで普通の人だったはずだ。だがそれは、彼と関わりを持っていないからこそ言える事柄でもある。優しいのか、厳しいのか、怒りっぽいのか、涙もろいのか、甘えたがりなのか。私は彼のことを何も知らない。知っているのは名前と、彼が講義中に小説を書いていたと言う事実だけだ。内面については何も知らないし、外見だって、後姿しかじっくりと見る機会はなかった。中野君は、どんな人だったろうか?

 好奇心が腹部を疼かせる。

 最高潮に達した熱が発散して、冷静さを取り戻すまでしばらく時間がかかった。年齢を重ねただけの子供に過ぎない私にとって、初めての体験だ。額の汗をぬぐい、手を綺麗に洗って、乱れた髪を整える。確認を終えてから、そっと講義室を覗きに戻った。

 そこは既に、もぬけの殻だった。

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