ノンラヴレス・シュガー
倉石ティア
第1話 嘘吐き女
他人は悪意の塊だ。
聖人君子や善人も、無垢で綺麗とは限らない。
手酷い失敗をした人間が生涯の最期に呟くような呪いを、私は人生の教訓にしている。理由は単純で、思い当たる節が多過ぎるからだ。能天気な顔で街を歩く若者、神経質に生鮮食品を品定めする老婆、縁側で寝惚ける幸せな仔猫。公園で遊びまわる子供、参考書を広げて友達と喋る高校生、疲れた顔をしたサラリーマン。
どんな人間にも、裏がある。悪意を滲ませるだけの才能がある。
だから私は他人というものを信用していないし、私よりも弱く隙だらけの悪人というものを見つけることが出来たなら、積極的に傷つけてやろうと息巻いていることも多い。
日常生活で見かけた
後ろから突き飛ばしてみようか、毒を振りまいてやろうか、精神的に追い込んでしまおうか。ネット隆盛のご時世だ。住所を調べ上げることも、追いつめてナイフを振りかざすことも出来る。人生を崩壊させる方法なんて、それこそ腐るほど存在するのだ。
そんな、バカみたいな妄想ばかりして生きてきた。おかしな妄想と嫉妬に憑りつかれていることぐらい知っているし、そんなの、百も承知の上だ。それでも他人を恐れない人の気持ちが分からない。赤の他人を信用できる人間が異星人のように見える。
他人から見れば、私こそが人間ではないのかもしれないが。
親の育て方が悪かったわけでもなければ、幼少期に酷いイジメを受けた経験もない。これはもって生まれた性分なのだ。矯正して治るものでもないだろうし、そもそも妄想に浸るだけなら誰にも迷惑を掛けたりしない。犯罪が悪とされる理由は、誰かが害を被るからだ。誰に知られることもない妄想の世界では、確かに私は稀代の犯罪者かもしれない。しかし、現実の私は前科ゼロの善良なる女子大学生に過ぎないのだ。
テレビの向こう側で大々的に報道されている世界中の極悪人や犯罪者を前に震えあがる程度には、弱くて善良な心を持った
まだ二十歳の誕生日を迎えて日も浅いから成人としての意識も薄いし、あまりにも世間を知らない。だったら、何をしても許されるはずだ。私より悪い奴なんて、そこら中にいるのだから。
欠伸を噛み殺してリュックを漁る。家から持ってきたお茶を口に含んで喉を潤した。
七月の風が、講義室に吹き込んでくる。
大学の授業は退屈だ。二年生になってからは、一年のとき以上にそれを痛感している。これなら理解できると選んだ専門科目も対して面白みに欠けていて、貴重な人生を棒に振るばかりの毎日が続いている。近所のバッティングセンターにでも通った方が得策だったに違いない。
勉強に対して意味を見出せないのは、社会に出ても馴染めないことを内心で悟っているからだろうか。だとしたらいっそ、辞めてしまった方がいいかもしれない。親にかける迷惑も少しは小さくなるだろうし、どちらにせよ穀潰しになるなら早めにそうと分かったほうが気も楽になる。
でも、これは。誰かの為じゃないんだよな。
私は、自分の幸せばかりを考えている。
どうすれば、毎日が色鮮やかになるのだろう。青春を当然のように謳歌して、面白おかしく暮らせるのだろう。
首を傾げながら周囲を見渡すと、同世代の若者が悲鳴に近い笑い声を上げていた。甲高く耳に響く声に顔を顰めて目を逸らし、今度は首を横に振る。そうなることはないと知っていても、彼らと友人になることは避けたい。一緒にいると精神が不安定になりそうだ。
ふぅ。
最近はもっぱら、一人で出来る遊びを考えている。宿題は提示された日に終えてしまうのが習慣になっていて、予習をするほど生真面目でもない。結局、読書くらいしかやることは見つからない。読書が唯一の趣味だった。他人と関わりたくないからと、後ろ向きに考えた結果生まれた卑屈な趣味としての読書。そんな表現をすれば、純粋に好きで読んでいる世の愛読家から白い眼でにらまれることだろう。私だって、小説そのものは好きなのだけど。
好きなんだけど、苦手なものもある。
講義が始まるまで小説を読んでいようと、先週購入した書籍を取り出した。表紙には小さな花が描かれていて、それ以外に目を惹く装飾は施されていない。半分程読んでみたが、それなりに面白かった。明記こそされていないものの、ジャンルは恋愛小説だろう。男性から女性へ向けての淡い恋心が綴られていた。
栞を挟んだページを開く。主人公が好きな子の後ろ姿を眺めているところから読み進めることになった。片想いのまま、変わらない状況が徐々に主人公の心を蝕んでいく。正常な思考も出来ないほど彼の精神が濁り、妄想癖を拗らせた主人公が自己嫌悪に陥った場面で、一度、本を閉じた。雰囲気が一番のウリかと思ったが、意外にも繊細な心の描写が施されていた。創作物は嘘と妄想の塊だと言って毛嫌いする人がいるが、こんなにも出来のいい作品を楽しめないのは人生を損していると思う。二十歳の女子大生がそんなことを言っても説得力に欠けるが、小説が大好きだから毎日を生きていける人もいることを忘れないでほしい。ともかく、この小説は、購入して正解だったかもしれない。
論理的な好意を否定した、情動を信じる恋愛小説だという点も高評価だ。
ページをめくり続けていると講義室の扉が開かれた。講師が来たかと顔をあげる。しかし、そこにいたのは同学年の男子学生だった。特徴のない顔、地味な服装、性格は控えめで寡黙な人。教室の隅で空気と同じ扱いを享受することに馴れた、とても静かな人だった。私も似たようなものだ、大学でも喋る相手がいないから、講義を受けるときは講義室の端にある空きスペースに座っている。彼とは一度も言葉を交わしたことがないし、何かをされたわけでもない。友達でもなければ、知り合いでもない。
それでも彼のことを覚えていたのは、彼の眼が生きているからだった。何かを求めている、いや、渇望している眼だった。瓦礫とゴミが散乱する泥沼で、這い出そうと足掻く男の眼。生命をはっきりと感じることの出来る瞳をしていたから、なんとなく彼のことは覚えている。ただし、名前も住所も出身校も知らない。彼が隣に友人を連れているところを見たこともない。本当に、それだけだ。それ以上の感想を持つことはなく、私は彼から目を逸らした。
他に彼について知っていることがあるとすれば、講義中に異様な量のメモを取っていることくらいだろうか。いつも座る席が私の二個か三個前の席で、比較的前列だからかその間に座る生徒もいない。だから、意識しなくても視界内に彼の姿が入ってきてしまうのだ。そこまで熱心にやることはないだろうに、と内心で思いながらも話しかけたことはない。真剣に何かを取り組んでいる人をからかうほど、バカなことはないもの。
彼の方が成績も良いだろうし、他人より劣っていることを自覚した上で努力をしているのかもしれない。そんな相手を蔑むほど、私は落ちぶれた人間ではない。すべての悪意は妄想の世界に留めて、現実では一切の悪事を実行していないことからもそれは分かるはずだ。もっとも、これから先の人生でもそうだとは言い切れないが。
本当に最低の人間からは、
読書を再開してから五分後に、小太りの講師がやって来た。彼が準備を終える前に筆箱や教科書を取り出して、これから始まる講義に備える。出席を取る教師の声が聞こえてきて、私は耳を澄ませた。立田リツ、と名前を呼ばれて手を挙げた。
返事をするように、と苦笑いと共に零された言葉に愚痴を返す。幽霊の断末魔のように小さく擦れた声だった。
「どうせ、意味なんかないのに」
呟いた言葉は、教室の後ろで喋っている学生の声にかき消された。講義が始まる前から響くその声は、終了の鐘が鳴るまで消えることがない。大学生活を楽しんでいるのね、と彼らの母親になった気分で心の靄を振り払う。無理だった。
私がぼんやりしている間に名前を呼ばれたらしく、メモ男君が手を挙げた。出席確認が終わると彼はすぐメモに戻る。暗いことを考えるくらいなら、彼が何を書いているかを考えた方が得策だろう。……何も思い浮かばないけれど。そこまで、興味があるわけでもないし。
「――よーし、講義を始めるぞ。前回の続きだから、今日は……どこだっけか」
間延びした声で喋る講師が、薄い教科書を捲り始める。
月曜日の午前十時。つまらない講義が、いつもと同じように始まった。
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