第19話 始動
エルとリナリスは留置所のモニタールームにて、ジルグム脱走の瞬間を監視カメラの記録映像で確認していた。
そこはニューヨーク、マンハッタン島の東方にある小さな島――ライカーズ島。クイーンズ北方、イースト川の中洲となったその場所に建てられた、世界最大級の規模を持つ刑務所である。二一世紀最大の犯罪者となりうるジルグム・バーンレイドを捕らえておくのに、ここ以上の施設は無かっただろう。いかに彼が異常な身体能力を有していようと、それを考慮した上での厳重な見張りと何重もの拘束器具を用いられていた。
にもかかわらず、彼はしばし発覚が遅れるほど完璧にそこから脱走せしめたのだ。
一人の清掃員の死体が、同施設のトイレからは発見されていた。
「トイレで清掃員の一人と入れ替わり、他の清掃員と共に二人の看守につれられ堂々正面から外に出ている。その後、看守共々全員が行方不明。全員がやつの仲間か、それとも肉親を人質を取られているか……おそらくは後者だな」
先日、自身も妹を人質に取られたエルであるため、ジルグム達のやり方を痛いほど理解していた。標的の親しい相手を調べ上げる情報収集能力と、必要あらばその喉元に刃を突きつける無慈悲さを兼ね備えている。だからこそエルも、ジルグムが脱走したのを知るのと同時に、すぐさまアフィンの近辺を見晴らせていた護衛官に警戒を促し、
オフィスの職員に看守の親しい者に連絡を入れて回るよう端末で指示し、他の看守達に軽く聞き込みを行った後、二人は刑務所を出ていた。ここでの聞き込みにさほどの効果がないのはわかっていたので、早々に見切りをつけて他の者に任せ、ジルグムの足取りを追跡することにしたのだ。外に停車させた車へと向かいながら、二人は考察を続ける。
「やつは今、完全に野放しになっている。一帯を封鎖しているが……捕まるようなヘマはしないだろう。――まさかまた連邦ビルに〝
「いくらなんでもそれは無謀よ。ジルグムの襲撃に備えて、警備は万全だもの。死人も多く出た前回の襲撃で、支局長でなくても皆カンカンよ。次に来たらズタズタにしてやるって感じ。まず選択肢として有り得ないでしょう」
リナリスの意見は別に楽観的というわけではく、もはや自明の理というものだ。現在は非常事態につき、SWAT部隊もいつでも動けるように警戒態勢で待機している。FBIニューヨーク支部の〝ワンド〟適性有りの能力者は計三二名いるが、内半数以上がSWAT部隊に所属している。兼任のエルとゼルギウスを抜いても一〇名以上の能力者が待ち構えている計算だ。一人一人が一騎当千の実力を誇る〝ワンド〟能力者に、それ以外のメンバーも優れた戦闘能力を有している。ひとたび彼らの目に留まれば、いかに人間離れした能力を持つジルグムでも一瞬で蜂の巣にされてしまうだろう。
〝
この状況下では万に一つもジルグムに勝ち目などあるはずもない。仮に再び攻め込んでくることがあるとしても、それはほとぼりが冷めてからだろう。
既に〝
「となると、ヤツ自身は一度どこかの隠れ家に帰ったと見るべきか……」
そこでエルのスマート端末に連絡が入っていた。表示を確認するとロックスからであった。リナリスに先へ車へ向かうよう手で示してから応じる。
「ハルシュヴァイカー捜査官だ」
『ロックスです。オズワルド達からの連絡が途絶えました』
「何だって?」
『地元の捜査官が調べたところ、ヘリ付近に炎上する車が一台、それと地元の捜査官一名とヘリ操縦士の遺体が発見されています。二人とも一発で頭を打ち抜かれていました』
「なんてことだ……」
エルは驚きに、思わず言葉を失う。つまりは何者かの襲撃を受けたということだ。いや、何者かなどと曖昧に表現することもない。十中八九、ジルグムの仲間による犯行だろう。
そこでエルは、受話口から風の音を聞いた。オフィスにいたはずのロックスは、今はどういうわけか屋外にいるのだ。
『消火作業は終わったようですが、中を詳しく調べるにはまだ時間がかかるようです』
「……二人は、その中に?」
『詳細はわかりません。ただゼルギウスを跡形も無く吹き飛ばすとするなら、車の原形が留まっているのは不自然です。拘束されたとも思えないので、少なくとも彼は無事だと思いますが……まだ何の連絡はありません』
エルは軽く頭を抱えて首を振った。かの優秀な先輩捜査官たちが何も出来ぬままにやられたとは思いがたいが――胸の内にこみ上げる不安は拭いようも無くあふれ出してくる。
『……ともかく、私もヘリで現場に向かいます。あなた達は〝リッパー〟の方を頼みます』
「……了解した」
エルは通話を終了し、大きくため息をついた。そして刑務所の建物を見上げる。
二人のことは心配だが――今、彼女に出来ることは与えられた役割をこなすことだけである。そうしてロックスからの報告を相棒にも伝えようと考えていたところで――
危うく後ろにいた男とぶつかりかけた。エルは驚き、反射的に数歩引き下がる。
そこに立っていたのはワイアットだった。彼もまた驚かせる意図は無かったらしく、目を丸くしてから、慌てて謝っていた。
「すまない、どう声をかけていいか迷って……」
「ああ、いや……気にするな」
彼はジルグムが脱走したという話を聞いて、二人についてきたのだった。しかし刑務所の中には一緒に通すわけには行かず、車で待たせていたのである。
エルは今の今まで彼の存在を忘れていた。――いや、あえて意識から遠ざけていた。だがこうして顔を合わせてしまうとそうもいかず、先ほどの苦い気持ちが押し寄せてくる。
「ああ、その、エル……さっきのことなんだが……すまなかった。勝手に――」
「やめろ」
エルは冷然とした口調で、ぴしゃりと彼の言葉を遮る。
「今は、捜査に集中しろ。それが出来ないなら、お前の協力は必要ない」
「エル」
「……急げ。リナを待たせてる」
ぶっきらぼうに告げ、エルは足早に車へと向かう。ワイアットは項垂れながらも後ろに続いた。別にエルも、彼を怒っているわけではなかった。あのキスは確かに強引に過ぎたが、それでも気持ちは伝わった。真っ直ぐな気持ちだった。悪く思うはずも無い。そしてその気持ちをエルは思わず受け止めかけてしまった。だからこそこの嫌悪感は、自分自身に対して抱くものだ。寂しさのあまり流されそうになった自分が悔しくてならない。
だがエルネスティーネは女である前に捜査官であり、思い悩んで膝をかかえる暇などありはしなかった。今はジルグムの追跡を急がねばならない。
監視カメラの映像から逃走に用いられた車種とナンバーは割り出された。ならば次は周囲一帯の監視カメラの映像から逃走経路を割り出すため、一旦オフィスへと戻る必要があった。黒のフォレスターの運転席でリナリスが待ち、隣の助手席にエルが着く。
遅れてワイアットが後部座席へと乗り込み、車は発進した。そうして検問を越えてライカーズ・アイランド橋を渡り始める。先のロックスの報告をリナリスへと伝え終えたところで、再びエルのスマート端末が音を響かせていた。今度は非通知である。以前のことがあり、エルは否応無く不安を覚えながら、おそるおそる通話に応じていた。
「……もしもし?」
『俺だ、エル。クライブだ』
「ク――んんっ」
予想外の相手に思わず大きな声を出しそうになったエルは、慌てて口をふさいだ。
その隣でリナリスが少し驚いた風に視線を送り、ワイアットも呆然としてる。
エルは少し顔を赤くしながら、咳払いをして誤魔化す。
「すまない、ちょっと、噎せた。――それでどうした、?」
『悪いね、気を使わせて。こっちも急ぎでさ』
「気にするな、自分のためだ」
エルはポンポンと自分の胸を叩いて、次いで襟首に指を突っ込んで空気を送り、一気に上がった体温を冷まそうとする。少々後ろめたいこともあったため、思わず緊張してしまったが、よくよく考えれば彼には何も言い訳する必要は無い――はず、である。
『遺跡の壁画から、ルナが情報を解析してくれたんだ』
「ああ、あの可愛い女の子か」
『え? ああ、うん、それだそれ。――なあお前、ひょっとしてレズだったりする?』
「ははっ、面白いことを言うな。――……覚えてろよ」
最後の一言は二人の同乗者には聞こえないよう、そっぽを向いてぼそりと呟く。
『冗談だよ。おっかないな――それで、だ。ルナが言うには、壁画は当時の星の位置と関係があったらしい。暗号だ。それを読み解くと〝ユグドラシル〟について書かれていた』
思った以上に重要な情報であると理解し、エルはふざけている場合では無いと、表情を引き締める。
「……続けてくれ」
『遺跡には秘密の通路があり、〝ユグドラシル〟の最奥に続いている。というより、正式な入り口はそっちらしいんだ』
「待て、〝ユグドラシル〟はアリゾナ州にあるんだぞ? オハイオ州までは二〇〇〇マイル近くあるはずだ」
『だが未だ調査隊は〝ユグドラシル〟最奥にたどり着いたことはない。だろ?』
〝ユグドラシル〟を制御する施設こそ掌握しているものの、人類は未だにその地下に広がる広大な迷路のような遺跡の全貌を捉えていない。魔力によって日々形を変えるその巨大迷路に、過去何度も調査隊が送られたが、その度に行方不明者が増えるばかりで、未だ攻略の糸口すら掴めていなかった。はたしてその奥にいったい何があるのかすらも、何も判っていない。
ルナという少女は、人類史に名を残すレベルの大発見をした可能性さえある。もちろんそれを学会に発表する気も毛頭ないのだろうが。
「それは、つまり……それほど広大な施設が地下に広がっているということか?」
『あるいはアメリカの地下、いや、大陸の全土が古代人には庭だったのかもな』
「そんなまさか……」
エルは眩暈がしそうになった。地底人の存在を肯定するほうがまだ容易い。とはいえ、人類の手に余る遺跡が事実そこにある。ならばクライブの考察もあながち的外れともいえなかったが――あまりにスケールが大きすぎて、エルには少々ついていけそうになかった。
『まあそのあたりの真相はどうでもいいだろ。――ともかくとして、ここからわかることは一つ。やつらの狙いが、魔力供給源たる〝ユグドラシル〟の掌握ってことだ』
「バカな……」
『やつらが手にした〝スターキューブ〟は〝ユグドラシル〟の魔力の流れを操る操作装置で、〝
「国連が管理している遺跡上部への魔力流出が止まれば、全てのエネルギーがダウンし、各国で混乱が生じる……」
「エル?」
先ほどからずっとエルが愕然として不穏な言葉を紡いでいるので、リナリスとワイアットもその異変に気付かないわけがなかった。しかし今のエルには彼らに気を使う余裕すら無い。
『それだけじゃない。やつらが盗んだ物を思い出せ』
「そうか……! そのための〝チューバ・ミルム〟か!」
『そうだ。〝ユグドラシル〟を手にすれば、やつらは〝チューバ・ミルム〟を撃てる』
「だがどこに? やつらはどこへ向けて発射する気だ?」
『エル、落ち着け。仮にどこに撃たれても、弾丸は瞬く間に都市を横断して貫く。その意味、わかるな?』
そう――クライブの言うとおりである。〝チューバ・ミルム〟が発射できないのは、その膨大な魔力使用量が原因だ。だがそれだけ魔力を用いる以上、仮に撃てたとすれば破壊力が絶大になるのは当然の話である。計算上では都市一つ瞬く間に貫くほどのもので、効果範囲が違うだけでクリーンな核兵器と大差ない。もしそれが発射されれば、ヒロシマ・ナガサキの悪夢を越える。人類史上最大の被害者数を出す一撃となるはずだ。
たとえその銃身がどこに向こうとも、発射は許されない。
「必ず食い止める……ッ!」
エルは強い決意と共に断言する。電話越しクライブが頷き返す気配が伝わった。
『ああ、必ずだ。――俺の方でもジルグムを探す。話はそれだけだ、切るぜ、エル』
「……あっ、待ってくれク――」
思わず名前を呼びかけ、寸でのところでエルは堪える。その瞬間、彼女は義憤に燃える捜査官の顔から、エルネスティーネという一人の女性へと戻っていた。
『どうした? 何かあるのか?』
「……」
咄嗟に呼び止めたものの、何を言えばいいのか出てこない。彼に伝えなければならないことはたくさんあった。問い質したいことも。ただ今は何よりも、その通話が切れることを畏れてしまったのだ。また次に彼と会話を交わす機会がいつになるともわからない。
こんな複雑な心境のままに、当てのない次を待つなど、彼女には到底できなかった。
『まだ俺が協力するのが不思議か?』
「そういうわけじゃ……」
エルは否定しかけ――しかし思いなおし、素直に認めた。それだけではないのだが――それも訊きたかったことの一つであるのは確かだ。
「いや、正直、不思議だ……何故なんだ? どうして私を助ける?」
『ま、はっきり言えば君が好きだから、かな』
エルは一瞬呼吸を止め、次いで不満げに呟く。
「……こんなときに、そんな冗談を言うな」
『嘘でも冗談でもない。これが掛け値なしの俺の本音だよ。わかるだろ?』
エルは目を瞬き、思わず膝の上で片方の拳をぎゅっと握っていた。
『お前を……守りたい。あの殺人鬼を間近で見たら、結構怖かったからな。お前が次に狙われたって思ったら、いてもたってもいられなかった。だから……俺がこの事件に協力する理由は……それだけだ』
クライブは恥ずかしがっているのか、彼らしくもなくしどろもどろに言葉を継いでいた。
『それで、なんだが……それが全部終わったら……自首しようと思ってる』
「あっ……」
『信じてくれとは言わないよ。けど、本気でそうするつもりだ、うん。だから――もうバカな幼馴染のために、泣かなくていいぞ』
しばし途方に暮れたように呆然としていたエルは――だがややあってから、深々と安堵の溜息をついていた。張り詰めていたものが、綺麗に溶け消えるような感覚があった。
エルはその心地良い感覚に目を細め、自然と微笑みを浮かべる。
彼は決心した。ならば――エルはもう、何も悩むことはなくなったのだ。
「……」
『なんだよ……何か言えよ?』
「……お前は……昔とすっかり変わったと思っていた。だが、やはりお前はお前のままだった。私は、思い違いをしていたよ……」
エルの知っているクライブ・ファーニバルという男は、いつも飄々としながらも誰よりも勇敢で仲間思いで、時々荒っぽいところもあるが、悲しんでいる人を見て自分も心を痛ませるような優しい人物だった。誰かが虐げられていれば、恐れずに助けに入るような。
エルが泣けば、なんとしてでも泣き止ませようと、あれこれと方法を考えるような。
そんな男だからこそ、エルは好きになったのだ。彼が彼のままであったことが、とても嬉しかった。
『えーっと……褒められてる?』
「安心しろ、褒めてる……」
エルはクスリと笑い、無意識にぶらぶらと足を揺らす。
「……決心してくれて、本当に嬉しいよ」
『なら良かった……んじゃまあ、なんだ、また後で』
「ああ、うん……また」
エルは静かに頷いてから、通話を切る。そして幸せな気持ちの余韻を噛み締めるように目を伏せた。『また』というのは良い台詞だ。次があると保証してくれるようで。
だがややあってから陶然としたまま目を開いたとき、隣でニタニタと笑う相棒の顔があったことに気づき、エルは大いに慌てた。その瞬間まで、彼女は周囲がまるで見えていなかったのだ。話に夢中で、車もいつの間にか連邦ビルの目と鼻の先にまで来ていた。
「な、な、何だ、リナ?」
「ううん? ロックスと電話してるにしては、随分とうっとりした目をしてるなぁと。まるで恋する乙女みたいねぇ?」
「そ、そん、そんなんじゃ――」
エルはあたふたとする。顔から火が出るほどに真っ赤になっていくのを止められなかった。その後部座席ではワイアットが心ここにあらずといった具合で窓外の景色を眺めている。どうやら彼女が全く知らぬうちに追い打ちをかける羽目になったらしい。
「い、いや、それどころじゃないんだ! 二人とも話を聞いてくれ! 一大事だ!」
◆
静謐な空間だった。
周囲はシンと静まり返り、雪の降る夜のように周囲の物音がいずこかに飲み込まれている。途轍もなく縦長の、円錐状の部屋。距離感が狂い、だいたいの目安すら検討をつけられない。壁と床の材質は黒曜石のようにがあるが全く未知のもの。そこに魔力が流れて発光し、蛍のような淡い光で視界を確保してる。
密閉された地下空間であるにもかかわらず、息苦しさはまるでない。一体何処から空気が送り込まれているのかも不明だ。
オズワルド達がプエブロ新遺跡へと到着し、奥へと進んで辿り着いたのがその場所だった。待機していた管理施設の局員と警察にそれらしい指示を与えて突破し、遺跡の内部へと堂々入り込んだ後、巨大壁画の前で〝
「ここが〝ユグドラシル〟の中枢か? 思ってたより陰気な場所だな」
オズワルドがその円錐空間を見渡しながら告げた第一声がそれであった。上着のポケットに両手を突っ込みながら、まるで美術館に親に連れられてきた子どものように興味なさげに辺りを見渡している。誰もが神聖な領域と感じるであろうその場所で、彼は猫に食われた鼠は胃袋でこんな気分だろうかな、などと考えていた。
その素っ気無い反応に、フェルは深々と溜息をつく。
「面白みの無い人ですねぇ。なんかこう、驚嘆に打ち震えるリアクションとか期待していたんですが。私なんて今、柄にもなくビリビリ背筋に来てるんですがね」
「フン……」
相も変わらず、悪魔の少女が自分よりも人間らしい反応をしていることに、オズワルドはますます機嫌が悪くなる。
ちなみに今その場にいるのは、オズワルドとフェルの二人だけであった。部下の男達は壁画の周辺で待機し、退路を確保している。彼らは悪人面こそしているが、元々は警官や護衛官、軍人などに務めていた者達だ。ギャンブルで嵩んだ借金を返済できない者、汚職によりクビになった者、どこぞの女優に偏執的な愛情を注ぐ者、政府高官に個人的な恨みを持つ者――など、皆が様々な事情を抱えている。一様に言えるのが、己が欲望を満たすためなら悪魔に魂を売ることにも厭わない連中だということだ。そうした彼らの持つ邪な願望と精神を悪魔は目敏く嗅ぎつけた。それらの願いを叶える代わりに、ジルグムとフェルの配下に加わったのが彼らなのである。
そしてオズワルドもまた、その中の一人であった。
「時間の無駄だ。さっさとやれよ」
「早く契約を果たすために、ですか? そんなに今の身体が嫌いなんですね」
フェルが面白くなさそうに鼻を鳴らし、オズワルドは胸に迸る不快感に、思わず顔をそらした。
「俺は……」
望んでいないはずだった。もしこの世に魔法のランプのようなものがあり、願いを叶えてくれる魔人が現れようとも、その身体を元の正常なものに戻したいなどと――そんなことは一度として、空想すらしなかった。にもかかわらず、悪魔に取引を持ち込まれたその時、オズワルドはうなずいてしまったのだ。迷わず。その差し出された手を握っていた。
彼はそんな自分の行動に、未だ戸惑いの念を振り払えずにいた。この小さな身体に築き上げてきた精神が、そんなにも脆くやわなものであったことに。やはり自分が、三五年前から一歩も成長できていないのかと、そのように愕然としてしまったのだ。どこか落ち込むような表情を見せるオズワルドに、フェルもまた不意を衝かれて少し戸惑ってしまう。あえて仲間に揺さぶりをかけることもあるまいとして、彼女はさらりと話をそらしていた。
「ええと、まあ、いいでしょう。要らぬ邪魔が入らぬ前に、悲願を達成させていただきますか。私のパートナーも、それを望んでいるでしょうから」
パートナー。その言葉もまた、彼の心に突き刺す痛みを与えることなど、フェルはとんと気付かなかった。そうして彼女は嬉々とした表情で、立方体の黒い塊――〝スターキューブ〟をその手に持ちながら、部屋の中央へと移動する。何も無いように見えるその広い空間。だがその中央には僅かな窪みがあった。
そこへフェルは手にした〝スターキューブ〟を無造作に押し込み――
無音だった空間に、激しい振動音が鳴り響き始めた。周囲の壁がスライドし、変形する。まるでルービックキューブを高速で掻き混ぜるように。空気が攪拌され、突風が巻き起こる。淡く輝いていた緑の光が強まり、激しく明滅する。強い光に飲み込まれ、このまま自分も消え失せてしまうのではないかとオズワルドはふと考えていた。だがそうはならなかった。安堵したのか、残念であったかどうかはわからないが。
振動、回転、明滅はやがて止み、風も次第に弱まっていった。全てが元に戻るように。
歴然たる変化はただ一つ。中央部の地面から瞬く間に突き出した巨大柱。まるで大木のように聳え立つそれは、緑の輝きに満ち満ちて、内包した光を流動させている。まるで鼓動によって流れる血のように。その柱の前に立ったフェルが目を細める。今まではただの無邪気な少女でしかなかった彼女が、そこで初めて悪魔然とした妖しい輝きを瞳に宿らせる。これぞ〝ユグドラシル〟。星の核より魔力を吸い出す、古代人の生み出した永久機関。
全人類の三分の一が分かち合うはずのエネルギーは、たった今、一個人がその全てを掌握していた。
そうして彼らが〝ユグドラシル〟の制御を奪い取る数分前に、一台の古めかしいトラックがプエブロ新遺跡前の管理施設に到着していた。
巨大で頑丈な横開きの門がその進行を塞ぐように構えている。
車のハンドルを握るのは五〇代半ばの、太った男性。ただの一般人にすぎない彼が、今日ここに来る予定などあるはずもなかった。冷や汗を流してせわしなく視線をさまよわせる彼の肩に、ポンと優しく手が乗せられた。助手席の男が、礼を告げるように。
ただし小太りの男はその手にビクリと背筋を震わせていた。昔見たどのような映画でも、自分のような役回りは最後に殺されるだけであると――彼はそのように心底怯え切っていたからだ。そう思わざるを得ないほど、助手席に座ったその大男は、強引なヒッチハイクで通りかかった彼のトラックを引きとめていた。というよりも、押し止めていた。
しかし彼の不安とは裏腹に、大男は何もせずに前言通り『乗せてもらうだけ』で、席から降り立っていた。運転席の男が腰を抜かすほどの安堵を覚える一方で、今度は門前の看守小屋から出てきた若い門番が恐怖に晒される番だった。
現れたのは身の丈七フィートもある大男だ。しかも全身の皮膚が焼け焦げ、身体の一部には剥き出しになった骨すら見える。――否、それはシルバーメタリックに輝く金属であった。比較的無事な頭部も、金属の下顎が綺麗にむき出しになっていた。
一昔前の世代なら〝スタートレック〟か〝ターミネーター〟を連想する所だが、門番の男は真っ先に〝ガジェット警部〟を思い出す。幼い頃に再放送されていた、ちょっとドジなサイボーグ主人公が活躍するアニメ。中々好きだったことを彼はぼんやりと考えていた。
真っ先にコミカルなキャラクターを想像したのは、あまりの恐怖に心が救いを求めた結果か。現れた大男の見た目は直視するのも躊躇うほど恐ろしく、まるで焼け墨になっても今尚生き続けている不死身の化け物でしかなかった。彼は鈍重そうな見た目よりもスムーズな歩みで居竦まる若者の前に立ち、頬骨の金属を僅かに振動させる。どうやら笑みを浮かべているつもりらしい。下顎に皮がないせいでわからなかった。
「FBI捜査官だ。門を開けてくれないか?」
「み、身分証を……」
心底怯えきりながらもそう尋ねた彼は、見事な職業魂だと自身を褒めてやりたくなったが、対して大男は呆れたように溜息をついていた。そして両手を広げて見せる。僅かばかり全身に張り付いた衣服の燃えカスだけの残る、人ならざる焦げた身体を、よく見えるように。当人にそんな意図はなかったが、まるでヒグマの威嚇のポーズだった。その時点で門番の若者の心は折れていた。
「よく見ろ、持ってるように見えるか? さっさと開けろ。開けないと勝手に引きちぎって開けちまうぞ?」
「ど、ど、どうぞ、お入りください」
仲間を呼ぶとか、腰のホルスターから銃を抜くとか、そんな選択肢を検討する余地などない。既にほうほうのていで逃げ出してしまった小太りの男がヒッチハイクに応じたときのように、若者は素直に従うことを選ぶ。すぐさま看守小屋に戻って、門の開閉ボタンを押していた。自動で横へと開いていく門を待ちながら、大男は軽く手を上げていた。
「ありがとよ」
「ど、どういたしまして」
そうして――大男は用済みになった門番を消すこともなく、開いた門を越えて遺跡の方へと向かっていった。管理棟の職員も彼を見咎めて最初は呼び止めるかもしれないが――きっとすぐに自分の手には余ると判断するだろう。
あやうく失禁さえしかねないほど怯えていた若者も、大男の背中を見送りながら、ようやくに彼が本当にFBIの捜査官である可能性を信じ始めていた。だからこそ、しみじみと思う。先ほども子ども姿のFBI捜査官が訪問していたが――最近のFBIは、普通の人間は雇っていないのだろうかと。
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