第17話 変動

 ベンジャミン・ロングの家はアッパーウエストサイドの九五町目、アパートの五階にあった。エルの家のすぐ近所である。ベンジャミンは結婚していた時期もあったが、現在は独身。だが男の一人暮らしとは思えないほど綺麗に整理された部屋を見るに、当人がいかに几帳面であるかが覗える。子どもの写真こそあれど、妻の写真は一つも飾っていないことから、よりを戻す気がまるでないことがわかった。むしろ壁や床に見受けられる何かを投げつけたような跡から、強い憎悪を抱いていることも考えられる。

 ベンジャミンが留守と見るや、大家に予備の鍵を借りて部屋へと踏み込んだエルとリナリスは、そこで動かぬ証拠を発見し、至急ロックスへと連絡をいれていた。

『どうやら朗報のようですね?』

「ああ、今、ロング教授の家に踏み込んだ。彼のパソコンを調べたが、〝リッパー〟達とのやり取りが残されていた。口座も調べたが、莫大な額が振り込まれている」

 経歴を調べたところベンジャミン・ロングは数年前に浮気し、それを理由に妻から離婚を突きつけられていた。また多額の慰謝料と養育費を請求され、一時家計は火の車であったらしい。だがいつの間にか彼の生活は改善され――その理由がジルグムから得た金であることは明白であった。ベンジャミンは逮捕されたときや裏切られたときの保険からか、ジルグムとの取引の会話を録音し、音声データをパソコンに保存していた。リナリスが調べ上げて発見したものだ。

 その会話の内容は要約すると、プエブロ新遺跡に忍び込む手伝いを教授がするかわりに、ジルグムが膨大な金を彼に支払うというものであった。

 遺跡の警備は厳重とは言い難いが、近くに連邦政府庁舎もある。今までの大胆な襲撃では少々危険と判断して慎重な策を取ったようだが、今回はそれが裏目に出たようだ。

 何の目的でジルグムがそこまで遺跡へ忍び込みたかったのかは不明だ。しかし教授の動きを見るに作戦は続行されるのだろう。ジルグムの仲間が引き継いでいるのだ。

 寸でのところで、エルは彼らの計画を突き止めた。遺跡調査の予定時間にはまだ猶予はある。現場を押さえ、捕まえるチャンスだった。

『ゼルギウスとオズワルドが既にヘリで現場に向かっています。地元の市警にも連絡をいれました。あなた達は証拠品を押収してからオフィスに戻ってください』

「了解」

 エルは通話を切り、応援に呼んだ鑑識達に指示を出し、目ぼしいものを押収させていく。そこでリナリスが本棚を見つめ、顎に手を当てて思案していることに気付いた。

「リナ?」

「ねえエル、教授は考古学者なのよね?」

「ああ。それがどうした?」

「何故彼は、こんなにも悪魔に興味を示しているのかしら?」

 エルは目を瞬き、彼女の傍に寄った。そこで本棚の一角に悪魔関連の本が多く納まっていることに気付く。悪魔召喚法。ゲーティア。ソロモンの鍵。サタニズム。その他、様々な悪魔に関する本がそこにはあった。考古学を語る上で神学は切り離せない分野であるのは確かだが――逆に神や天使といった存在への興味は希薄だ。この偏執は何なのか。

「よくわからないが……教授は悪魔に関して、何かを知りたがっていたように見えるな」

「何かって?」

 リナリスが得体も知れない不安を感じたように自身を抱きながら問う。

 そこでエルは本の一つに違和感を覚え、それを手にする。民族考古学の教本だったが表紙のカバーが少し上側にずれている。几帳面なベンジャミンにしては妙だ。が、そもそもそのカバーが別の物であることに気付く。表紙を偽装したその本は、悪魔祓いに関する本であった。わざわざ隠す必要があるとも思えない代物だ。

「……どうも私には、彼が悪魔を恐れているように見える」

 エルは不意に、とある推測に至っていた。ベンジャミン・ロング教授が恐れる相手がいるとするならば、それはジルグム・バーンレイドに他ならないだろう。

 彼の異常な身体能力の正体――あの男は、ひょっとすると悪魔なのではないか?

 ならばベンジャミンが悪魔を調べていた理由も説明がつく。契約したジルグムという凶悪な悪魔を恐れるがあまり、密かにその対処法を探したのだと。 

 そこでエルは『何を馬鹿な』と失笑する。いくらなんでも荒唐無稽な推理に過ぎた。もっとも笑い飛ばしても、胸の奥でざわつく奇妙な不安は拭いきれなかったのだが。

「これも、一応押収しておく?」

「……そうだな、一応、な」

 相棒へと頷きながらに、エルは小さく嘆息した。もし今の突飛な仮説が正しかったとしても、断言できることはある。悪魔の存在を恐れたロング教授の調べ事は無為に終わった。その撃退法をついぞ見出すことなど出来なかったのだ。

 

 ベンジャミン・ロング教授の部屋から引き上げ、エルとリナリスは一旦、本拠へと戻ってきていた。一週間前、装甲車に突っ込まれた連邦ビル一階ロビーは現在全面改修作業中。

 壁と床は青いシートに覆われ、あちこちで黄色いヘルメットの作業員が駆け回っている。死亡者七名、重軽傷者三名を出した今回の一件に支局長はまさに怒髪天を衝くほどの怒りを見せ、ただ直すばかりでなく防備の強化も検討し、有事の際に要塞と化すほどの機能を業者に注文していた。このような出来事は向こう三〇〇年は起こりえない希有な例だと思われ、エルからすれば経費の無駄遣いのようにも思えたが、事件の当事者たるリナリスは大いに賛同しているので、何も言えずにいた。ドリルのけたたましい音が鳴り響くロビーを進んでいると、そこで待っていた一人の男が駆け寄ってきた。

「エル、リナ」

 声の方を振り向き、二人は立ち止まる。そこにいたのは元警官、ジルグムの弟であるワイアット・バーンレイドであった。

「やあ、ワイアット」

「久しぶり――っていうほどでもなかったわね」

 もとよりリナリスは友好的だが、エルからも以前よりも随分と親しみのこもった微笑みを向けられ、ワイアットも顔を綻ばせる。しかし彼はすぐに強張った表情をしていた。

「何かあったのか?」

「実は――」

「あ、私は先に行ってるわ。エルは彼の相手をしてあげて」

 そこでリナリスが気を利かせたように、早足でその場を駆け去っていく。ニコニコと笑いながら去って行く彼女を、エルは軽く手を上げて見送った。

 彼女は再び視線を戻し、柔らかく微笑む。

「それで、どうした? 何か困りごとか?」

「え、ええと……」

 二人きりになったことを急に意識したように、ワイアットが落ち着きなく頭の後ろを掻いた。リナリスのアシストは彼にとってありがたい反面、とても落ち着かなかった。彼女の微笑はあまりに魅力的で、ある意味で出会った頃の冷たい眼差しの方が緊張しないで済む。そんなワイアットの胸中など露知らず、エルはふと気付いて、顎に手を当てて彼の顔を覗きこんでいた。その宝石のように綺麗な瞳に見据えられ、ワイアットはどぎまぎする。

「な、何?」

「前より肉付きがよくなったじゃないか。ずっと健康そうだ」

「え? あー、うん、色々あって、最近はなるべく食べるようにしたんだ」

 以前のリナリスのからかいが尾を引いた結果であった。今までは傍目など特に気にしなかった彼だが、好きな女性が出来たとあってはそうもいかない。他にも髪型、服装や臭いも、最低限気にかけるようにしていた。

「うん、なんだか随分印象が変わった。今の方が良い男だぞ」

 エルが心からそう思ったようにさらりと褒め、途端、ワイアットは赤面する。社交辞令だとはわかっていたものの、意中の相手にそんな風に言われて悪い気がするわけもない。

「すまない、話の腰を折ったな。それで、何の用だ?」

「あ、ああ、うん。その、留置所の連中に話をつけてくれないか? ジルグムと俺を面会させてくれないんだ」

 エルはそこで軽く腕を組んでいた。スッと今までの微笑みも消える。

「逮捕後に、一度ここのオフィスで話をしただろう?」

「対話にすらなかなかったよ。だからもう一度――」

「次はそうならない秘策でもあるのか?」

「それは……」

「無策で挑んでも無意味だ。感情で行動されても迷惑なだけだ」

 仕事の話となると容赦なく徹底して冷たくなるのは相変わらず。だがそこでエルは労うようにポンと彼の背を叩いていた。

「ワイアット、お前はやれることはやった。おそらくジルグムの死刑は確定している。もう終わったんだ」

 それで納得しろと言わんばかりに、エルはエレベーターホールへと歩み出す。ワイアットの活躍には彼女も心から感謝しているが、まだ仕事が残っているため、そう長々と彼に引き裂く時間は無かった。だが最後にこれだけは伝えておくべきと思い、振り返って告げた。

「以前話してた、お前が無能かどうか、その結果が出たな」

「……え?」

「とても有能だったよ。お前の助力のおかげでジルグムは捕まえられた。――あとの事は私達に任せろ。ゆっくり休んでから、今後の未来のことを気にかけてくれ」

 彼女なりの最大限の労いの言葉を告げ、エルは最後に微笑んでから、その場を後にする。ワイアットはその賛辞にしばし呆然とした後――彼女の背を追いかけた。

「ま、待ってくれ、エル」

 折しもエレベーターが一階に降りる人々を吐き出しきったタイミングであった。

 転じて上に向かうエレベーターへと乗るエルに続き、ワイアットは一緒に乗り込む。

「なんだ、何か気になることでも?」

 ここまでついてきた以上、仕方なくドアを閉めながらエルが訊く。もはや任を解かれたワイアットは関係者でないため意味なくオフィスには招けないが、エレベーターが上に向かうまではギリギリ許される範囲だった。ワイアットはしばし言葉を迷うに躊躇ってから、告げていた。

「変、だったんだ」

「変?」

 相手の歯切れの悪い調子に、エルは少々苛立ちながらも、何か重大なヒントを得られる予感もあったために、慎重に促していた。

「何か報告していないことがあるのか?」

「その……ジルグムは、俺の顔すら忘れていたんだ。最初、君は誰だ、って」

 困惑したような表情のままワイアットが告げる。それを聞いたエルは顎に手をあてて考え、しかしさほど取り合うほどの内容でも無いと判断した。

「やつは今までの五年間、各地の扮装地帯の劣悪な環境で過ごしていた。苛烈な経験が記憶に障害を与えてもおかしくはない」

「そうじゃない。そうじゃないんだ。上手く言えないんだが……」

「何だ? 何が気になるんだ?」

「それは……」

 しばし沈黙する彼を、エルが辛抱強く待ったが、やがてワイアットも自分自身が考えすぎだったと思い始めたのか、やがて首を横に振り、謝っていた。

「いや、ごめん、忘れてくれ……」

 エルは小さく溜息をつく。その返答に落胆したというよりも、今のワイアットの状態があまり良いように見えなかったからだ。たしかに以前より見た目は健康的になったが、反面、精神面は未だに緊張が続いているのだろう。今の彼に必要なのは、リラックスできる環境だった。エルはそこでフッと微笑み、僅かでも彼の緊張を解そうとした。

「色々ありすぎて。疲れているんだろう。そういう時は気晴らしにスポーツでもやるといい。良い汗をかいて、ヘトヘトになってから、熱いシャワーを浴びて、寝る。すると起きたときには晴れ晴れとした気分になっているぞ」

 不意に他愛の無い話題を向けられ、ワイアットはしかし悪い気分は覚えなかった。

 思えば彼女とそういった話をするのは始めてであったからだ。

「君なら、何を?」

「私か? 私は断然テニスだな。サービスエースを決めると快感だぞ」

 そこでエルが大きな身振りでサーブを打つ動作を行い、それを見てワイアットはしばしポカンとした後、噴き出していた。笑われると思わなかったエルは、少しだけショックを受けたように腕の振りを確認しはじめる。

「フォームが変だったか? でも結構強いんだぞ、私」

「いや、そうじゃなくて……」

 彼女は素っ気無いようでいて、本当に優しかった。ただ少し気の使い方が不器用なだけで、困っている人をほうっておけないのだろう。博物館の時も、そして今も、エルは傷ついているワイアットを気にかけていた。そんな彼女の優しさがとても心地良く、そして彼はもはや胸の内で昂る気持ちを、堪えられなくなった。

「エル」

「何だ? テニスがやりたくなったか? なら私が行きつけのコートを紹介して――」

「俺と付き合って欲しい」

「……へ?」

 一瞬、何の話かわからないと言った風にエルが目を瞬き、そんな彼女の両肩に、ワイアットは手を置いていた。

「ごめん、急に。でも、本気だ。俺は君が好きだ。付き合って欲しい」

 真っ直ぐな瞳で、真っ直ぐな言葉で告げられ、異なる解釈を見出すことも出来ない。エルは今にも顔から火が出そうなほどに顔を赤くしていた。

 彼女は美しく多くの男が放っておかなかった。その悉くを、冷ややかに、けんもほろろに一蹴してきたエルではあったが、こんなにも真摯な告白を受けたのは――久しぶりだった。だが決して、初めてではない。一〇年以上前に、経験があった。

 エルはその瞬間の幸福感を思い出しながら俯き、首を横に振っていた。

「すまない、ワイアット。気持ちは、嬉しく思う。だが私は――」

「クライブのことが好きなの?」

「……」

 図星を受けたエルは返す言葉を失い、そこでワイアットは彼女の顔を覗きこむ。エルは逃げるように横を向いた。その真っ直ぐな瞳に見つめられると、揺らぎそうな気がして怖かったからだ。

「けれど彼は犯罪者だ」

「……ああ……その通りだ」

「君は捜査官だ。きっと問題になる」

「それも、わかっている。だが……」

 そんな簡単な話なら、とっくの昔に縁を切ってしまっている。

 そんな合理的に割り切れるような気持ちなら、何の苦労も無かった。

 いつの間にか彼女の胸の内側で、爆発的に込み上げる感情があった。普段は慎重に、心の底へと封印している激情。クライブへの想い。今ワイアットが告げた〝好き〟は、本当なら彼の口から聞きたかった。だからこそ、急に寂しくなってしまう。そんな彼女の弱りきった心の隙間に入り込むようにして、ワイアットが優しく囁いた。

「俺なら君を泣かせない。それだけは約束できる」

「ワイアット、私は――」

 反論の言葉を、ワイアットが強引に塞いでいた。エレベーターの壁に押し付けられたエルは、その唇を彼に奪われていた。まるで貪られるように。

 甘く痺れるような感覚に、エルは咄嗟に抵抗できなかった。切なくてたまらなかったからだ。寂しくてたまらなかった。抱きしめて欲しかった。ずっと傍にいて欲しい。

 ずっとこうして、キスをしていたい。優しくし抱きしめてほしい。

 だが、はたして――

 それは、いったい――

 誰に?

「やっ……だっ……や、やめてくれッ!」

 エルはそこで我に返り――ワイアットの胸板を力強く突き飛ばしていた。夢中になったように彼女の柔らかな唇を味わっていた彼は、拒絶されるとは思っていなかったのか、放心した顔で見つめ返していた。

「……エル」

「た、頼む、やめてくれ……こんなこと……」

 エルは肩で息をしながら、唇を強く袖で拭う。知らない男の味がした。それがエルはたまらず嫌だった。酷い裏切りを働いたような罪悪感が、彼女の内側に込み上げる。裏切られているのは、どちらかと言えば彼女の方であるというのに。

「わかっているんだ、私だって……全部……それでも……」

 エルは震えながら涙を流し、首を横に振っていた。

「好きなんだ……クライブが……」

 その諦めの悪さは、きっと彼女を不幸な方向へと導くものだ。早々に見切りをつけて新たな恋を探すのが賢い選択なのは、エルも理解している。だが、わかっていたとしても、エルネスティーネ・ハルシュヴァイカーは、そんな器用な生き方はできなかった。

「ごめん、悪かった……」

 ワイアットが頭を抱え込む。もはや勝ち目など無いに等しいと認め、そして自分がただ彼女を酷く傷つけただけなのだと理解して。

「……本当に、悪かったよ……ごめん、エル……」

 エルは何も答えず、頬を伝う涙を拭う。ただ一方的に彼を詰ることもできなかった。

 すぐには拒まない自分があったことに、気付いていたからだ。この涙は、その悔しさでもあった。エレベーターのドアが途中の階層で開かなかったのは、二人にとって幸いだった。やがて涼やかな音色と共にドアが開き、しかしエルはまだ落ち着きを取り戻せず、すぐには動けずにいる。そんな彼女のために暫しワイアットはパネルの開ボタンを押したままでいた。二人の間に気まずい沈黙が流れる中、不意に彼女の携帯端末が着信音を鳴らし、それが合図となったようにエルは自失からなんとか立ち直り、通話に出る。

「……ハルシュヴァイカー、捜査官だ」

 なるべく平静な声を保ちながら応じ、エルは熱い吐息をゆっくりと吐き出しながらエレベーターの外へと出る。ガラス一枚隔てて向こう側にいる、オフィスの同僚達に顔を見られないよう、背を向ける。失意の中にあったワイアットは、やや遅れて彼女が降りたことに気付きボタンを離していた。そのドアが閉まる直前に――

「ま――待て、ワイアット!」

 携帯を手にしたまま、エルが慌てて反転し、もう片方の手をドアの間に差し込んでいた。

 ドアが再び開く。今し方袖にされたばかりのワイアットに、そのような行動を取れば勘違いさせてしまっても仕方ないだろう。

 しかしことは緊急事態であった。そしてこの情報は、彼には伝える義務がある。エルはごくりと一つ息を呑んでから告げていた。

「ジルグムが、脱走した」

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