第16話 ネクストステージ
ジルグム・バーンレイドの逮捕から実に一週間が経過した。
記者会見による彼の生存発表、指名手配から僅か二日目の解決。世間は安堵する一方でこれがFBIによる性質の悪い冗談だったのではないかと疑ったほどだ。
だがDNA検査の結果、捕らえた男がジルグム本人であることは間違いないと断定されていた。彼が何らかの方法で検死医を操り、巧妙に死を偽装したのは疑う余地も無く、しかし詳しいところは未だ判明していない。
逮捕後、ジルグムが完全に口を閉ざし、あらゆる聴取に対し一切何も発言しなかったからだ。弁護士すら用立てない、ただひたすらの徹底した黙秘。恫喝めいた言葉にも、情に訴えかけようとも、リナリスの十八番たる感情操作能力すらまるで効果が無かった。彼女の力は〝迷い〟に働きかけるものであり、〝断固たる意志〟を捻じ曲げることはできない。
あまりにお手上げであったため、強く志願する弟のワイアットも特別に取り調べの許可を与えていたが、それすらも反応に変化なし。そこで再三忠告したにもかかわらず、ワイアットは激昂に流されて掴みかかる危うい場面もあった。職員が慌てて止めに入り、首を締め上げられたジルグムは――だが激しく咳き込んだ後も、恨み言の一つも吐かなかった。
まさに暖簾に腕押し。しかし全くの無反応ではなく、彼は度々愉しそうに微笑むのであった。無言のまま、ただ嗤うのである。連続殺人犯の得体の知れない笑みを前にして、気分が悪くなった者も少なくは無かった。ワイアットの怒りの理由もその無言の笑みであった。もちろん黙秘は与えられる権利の一つだが、彼が喋らないからといって何か有利になるわけでもない。重ねてきた罪状は明白であり、情状酌量の余地は何も無く、死罪は疑う余地もなし。国外で仲間を集め、テロを画策していたころから極めて高い知性があることは間違いなく、異常性癖であっても精神障害と判断される可能性も皆無だろう。裁判も開くだけ時間の無駄に思えるほど先が見えていた。ならば取引で楽になる方法を探すほうが賢い選択だ。死刑が覆ることはまずないが、それまでの期間を少しでも穏便に過ごすために。その異常な身体能力に関して多くの機関から派遣された研究員が代わる代わるに検査を行ったが、どれも空振り――体内からはナノマシンの一つも検出出来ず、少なくともデータ上ではジルグム・バーンレイドは至って普通の成人男性にすぎなかった。そんな結果が出る一方で、ゼルギウスの拳がへし折った鼻は、二日と経たずに元の綺麗な形へと完治していた。その不可思議な力の正体を解明すれば、あるいは人類の進歩に大きく繋がる可能性があったため、上層部は密かに情報開示の司法取引も持ちかけたようだが、ジルグムはそれすら食いつかなかった。もちろん、彼に死刑以外の道を与えるなど国民の反感を買うのは必至であり、そんな馬鹿げた独断はそもそも許されるはずもなかったのだが。
◆
FBI凶悪犯罪課のオフィス。エルネスティーネ・ハルシュヴァイカー捜査官は多量の資料を自分の机に積み上げ、延々それらを睨んでいた。
中東過激派組織『真なる者』のリーダーたるサマドがジルグムの裏切りを受けて死亡、シャルロットは口封じと時間稼ぎを兼ねて射殺され、主犯であるジルグムも逮捕された。だが、それで事件が解決に至ったわけではない。ジルグムが口を割らないため、盗まれた〝スターキューブ〟と〝チューバ・ミルム〟は未だ発見されていなかった。
FBIを強襲してまで盗もうとした〝
シャルロットを射殺した犯人は未だ捕まっておらず、ジルグムの部下たる残党が未だ計画を引き継いでいる可能性は充分に考えられた。仮に雇われしか残っていなくても、クライブからの情報にあった〝フェル〟という名の女の存在も忘れてはならない。仮にジルグムのただの恋人だったとしても、計画について何か知っているかもしれなかった。
どちらにせよ、〝チューバ・ミルム〟を奪還するまでは捜査は続ける方針だ。
そうして、エルとリナリスはオフィスに残り情報を洗っていた。それぞれ別の角度から、何かわかれば報告し合う形で。ゼルギウスとオズワルドはアメリカ自然史博物館にて張り込み中。未だ証拠品として〝
ロックスは他の事件も含めて部下全員の指揮を行っているため、デスクに釘付けで四苦八苦している。さすがの彼もここ数日の激務に微笑む時間が極端に減っていた。
ワイアットはジルグムの逮捕後に捜査から外れ、心ばかりの謝礼金を受け取りオフィスを去っていった。受けた怪我以上に心に深い傷を負った様子だったが、それでも以前よりは折り合いがついたように、別れ際はエルとも笑顔で握手を交わしていた。また会いたいとも。エルはそれに気軽に応じていた。妹の救出に尽力してくれて以来、エルは彼に対して大きく好感を抱いていた。アフィンは未だFBI職員による護衛を受けつつも、今はきちんと大学に通っている。ジルグムが逮捕されたとはいえ、捜査官の妹という情報が漏れてしまった以上、今しばらくは警戒が必要だった。現状は様子見段階。そのうち普通の生活に戻れる。
そしてエルは一切進展の兆しを見せない捜査状況に、着実にストレスを蓄積させつつ、出店で買ってきたコーヒーのカップを啜りながら、根気強く資料に目を通していた。
何気なく手に取ったそれは、〝スターキューブ〟と〝
眉唾物の話だが、エルは途中で放り出さずに読み進める。曰く、〝スターキューブ〟は神の作り出した創造物。人を明日へと導く、アトランティスから運び出した品。内容は終始オカルトじみてはいたが、〝ユグドラシル〟などという奇跡の機関が実在する以上、何でもありえそうと考えられるのが今の時代。
だがエルが関心を奪われたのはそこではなく――論文を綴った者の名前だった。
末尾の名前――ベンジャミン・ロング。コロンビア大学考古学教授だった。
エルもかつて彼の講義を受けたことがあるため、よく覚えていた。
「……ふむ」
かの名門大学の考古学教授が論文を発表した所で、何の不思議も無い。だが、エルの勘がわずかにでも引っ掛かりを感じたのも確か。エルは自分がFBI捜査官であることを周囲に伏せ、家族にも厳しく秘密を守らせていた。そうでなければ捜査官の家族や友人が危険な目に合う可能性が高まるからだ。そう、今回のように。アフィンは姉と同じコロンビア大学に通っている。大学関係者ならば生徒の名を見て二人の関係性に気付く可能性は高い。エルは優秀な主席卒業生で、アフィンは飛び級で通う一五歳の天才少女。どちらも覚えられていてもおかしくはない。ハルシュヴァイカーという性も珍しいものだ。もちろんエルの進路先に関しても、大学側は承知している。そしてそんな姉妹と接点のある大学の教授が、事件と関わりのある遺跡の論文を書いているのは、偶然か否か?
答えは明白。偶然である可能性のほうが遥に高い。
だが疑念が生じた以上は調べ上げるのが捜査官というものだ。
エルはデスクのパソコンを操作――プエブロ新遺跡に関しての情報をFBI専用のデータベースから検索。そこからベンジャミン・ロングに係わるものを絞る。
やがてその教授が丁度本日、プエブロ新遺跡の調査を行う予定にあることがわかった。
すぐさま遺跡を管理する施設に連絡を入れる。FBI捜査官であることを告げると、職員はすぐにスキャナで申請書の写しをオフィスへと送ってきた。飛び火を恐れるように極めて協力的。既に他の捜査官から何度となく資料を請求されているのかもしれない。複合機の前からデスクに戻ったエルはその資料を見ながら、コーヒーを一気に飲み干して集中して調べにかかる。資料は簡素な物で、たったの二枚。国有の立ち入り禁止となっている遺跡とはいえ、近々観光地として一般開放される予定であり、調査申請にさほど煩雑な手続きは必要ないようだった。遺跡調査に参加するのが教授だけではなく数名の生徒も随伴することを知り、エルは続いてコロンビア大学へと電話をかけていた。
『こちらコロンビア大学事務室、受付のダリア・ノートです』
謹厳実直そうな中年女性の声。その時点で結果は九割方予測できたが、エルは一応要件を切り出すことにした。
「FBIのエルネスティーネ・ハルシュヴァイカー捜査官だ。そちらのベンジャミン・ロング教授がプエブロ新遺跡でゼミの学生達と共に調査に向かっているという情報を得て、電話させてもらった」
『はい、それが何か?』
受付の口調が少し硬くなる。繰り出される要件を警戒している様子だった。
対照的に、エルはなるべく声が柔らかくなるよう心がけた。
「随伴している学生達が六名いる。その連絡先を知りたいんだが……」
『申し訳ございませんが、学生の個人情報をお伝えすることは出来ません』
「重大事件にかかわることかも知れない」
『規則ですので』
取り付く島もなく断られ、しかしエルはその結果を半ば予感していた。個人情報漏洩は大学にとっては重大な信用問題に関わる。事務員はその点を徹底されていた。これでは直接大学の方まで出向いたとしても、令状が無い限りは追い返されるだけだろう。
しつこく食い下がっても時間の無駄だった。
「了解した。無理を言ってすまない」
エルはあっさり引いて、通話を切る。だが諦めが早かったのは、別の手段を既に思いついていたからだ。次いでエルはデスクに備えた電話ではなく、自分のスマート端末を操作し、コールする。待つことも無く、すぐに繋がっていた。
『もしもし、お姉ちゃん?』
受話口から耳朶を打つ少女の明るい声に、エルは演技ではなく自然と声を柔らかくする。
「ああ、私だ」
『どうしたの? ひょっとして寂しくなった?』
「そうかもしれない」
『あははっ、冗談だったのに。今、講義が終わって帰るところだよ。晩御飯何食べたい?』
「うーん、それは後でじっくり考えるよ。それよりアフィン、実は頼みがあるんだ」
エルがそう告げると、途端、愛らしい笑い声が響いた。電話越しでもアフィンが顔を輝かせているのがわかった。
『珍しいね、お姉ちゃんが頼みごとなんて。いいよっ、なんでも聞いたげる!』
「おいおい、用件を聞く前に安請け負いするな、騙されても仕方ないぞ?」
『え、お姉ちゃん、私のこと騙すつもりなの……?』
ひどく悲しげに問われ、エルは咄嗟に言葉に詰まる。
「……無理かな」
『えへへ、でしょ?』
打って変わって、楽しげにアフィンが笑っていた。演技派な妹。何やら掌の上で転がされているような感覚を受けつつ、エルは苦笑しながら訊いた。
「実はお前の通ってる大学で、連絡先を知りたい生徒がいるんだ。一人だけでいい。今から言う名前の中に知っている者がいれば教えてくれ」
アフィンは外交的で、相手が年上でもすぐに仲良くなれる。
そんな妹ならば一人ぐらいは引っかかるのではないかと思ったのだ。友人でなくても、名前ぐらいは知っているかもしれない。だがそうして学生のリストの名前を上から読み上げていくと、予想以上に上首尾な結果を得ることに。
『あ、クロエ・エヴァンスなら知ってるよ。学科は違うけど、スポーツ実習の講義で仲良くなったお姉さん。すごく優しくしてくれるよ。携帯の番号も知ってる』
「教えてくれ」
『うん、ちょっと待ってね。うんとね――』
エルは妹から聞いた番号を手早くメモに書き綴った。
「ありがとう、アフィン。かなり助かったよ」
謝辞を告げたが、アフィンの口調はそこで少し心配そうなものになる。
『ねえお姉ちゃん、ひょっとして、クロエも悪い人に狙われてるの?』
「ああいや、そういうことじゃない。彼女の所属しているゼミの教授とコンタクトを取りたいだけだ。――じゃあ、仕事があるから切るよアフィン。協力ありがとう、大好きだよ」
エルは妹との通話を切り、次いですぐにクロエ・エヴァンスへと電話をかけていた。
『もしもし、どなたですか?』
「クロエ・エヴァンスの番号で間違いないかな?」
『ええ、そうですけど……』
警戒するような声。知らない番号からとあっては無理もない。エルは捜査官とは名乗らず、まず相手の緊張をほぐすことから始めることにした。
「私はエルネスティーネ・ハルシュヴァイカー。アフィンの姉なんだが――」
『ああアフィンちゃんの! お話は聞いてますよ、すごくかっこいいお姉さんがいるって』
ホッとしたようにクロエの語調が明るくなる。エルは少し顔を赤くし、ぽりぽりと頬を指で掻いた。
「あ、アフィンはそんな風に言ってたのか?」
『ええ。お姉ちゃんのことが本当に大好きなんだなぁって、羨ましくなるぐらい話してましたよ』
「やめてくれ、照れるじゃないか」
言いつつもまんざらでもない風にエルは微笑み、今日は帰りにドーナツを買って帰ろうと決める。
「あの子はしっかりしているようで甘えん坊だから、君のように優しくしてくれる人がいると助かる」
『いえ、そんな』
「悪い虫がつかないようにしてくれると、もっと助かるかな」
こっそりと頼むと、クロエはケラケラと笑っていた。
『アフィンちゃん、かなり年下だけどすごく良い子で可愛いですからね。熱を上げてる男の子も多いですよ』
「……ほう。その件に関しては、後日ゆっくり話そうか」
『あら、じゃあ今回は別の用件で?』
すっかり気を許した調子で尋ねるクロエに、エルは咳払いをして真剣な話に戻る。
「ああ、実はそうなんだ。――君は今、大学にいるのかな?」
『はい、そうですけど?』
なんでもない風な返答。それが決定打であることも知らない様子で。
エルは胸の奥で小躍りしたくなるような昂揚を覚えつつ、それを抑えて静かに問い質す。
「予定では今日、君はロング教授と共に遺跡の調査をすると聞いていたんだが……?」
『え? 遺跡? いえ、そんな予定ありませんよ? 誰かと間違ってませんか?』
「君はロング教授のゼミに加わっているね?」
『ええ、そうですけど?』
「なのに知らないと。それは他のゼミの生徒も知らないことかな?」
『予定は今日なんですよね? さっきの講義でもゼミ仲間は何人か来てましたよ。たぶん皆知らないと思います。でも確かに今日は教授の姿を見てないですね』
いったい何を問われているのかもわからず不思議そうなクロエ。電話中、何か進展があったのかを察した様子で傍にやって来た相棒のリナリスへと、エルはウィンクを送る。
「ああ、すまないクロエ。どうやら私の勘違いのようだ。――どうもありがとう、とても助かったよ。それじゃあ失礼するよ。妹と今後とも仲良くしてやってくれ」
エルは丁寧に電話を切り、次いでパシンと両手を叩き鳴らした。彼女と同じく捜査に行き詰ってうんざりしていたリナリスが、期待に満ちた顔で問いかける。
「どうしたの? 何かわかったの?」
「
ロング教授は生徒を率いて遺跡調査に向かうはずが、その話を生徒達は誰一人知らないという。ならば彼はいったい誰と遺跡へ向かうのか?
調べてみる価値は大いにあった。
◆
クライブ・ファーニバルが使用している隠れ家はいくつもあったが、今日はクイーンズのギリシア料理専門店の二階を利用していた。店主がゾーイの従兄弟であり、当然としてクライブたちに関しては口を閉ざしてくれている。
雑多な荷物の散らかる部屋のソファで、ゾーイは寛ぎ寝転がりながらテレビのボクシングの試合を観戦している。彼は格闘技が大好きだった。良い身体をした男が上半身裸な点が特に気に入っているらしい。シャツにデニムという、オフの部屋着に身を包んだクライブはテーブル前の椅子に座り、溜息をついてから切り出していた。
「ゾーイ、大事な話があるんだ」
「あらやだ!」
ゾーイは驚いた風に身体を起こし、手早くリモコンを操作してテレビを消す。
次いで驚くほどの速度で向かいの席に座っていた。
「クライブったら、完全にノンケかと思って油断してたわ。でもダメよ、アタシ達あくまで親友なんだから! ああでも貴方がどうしてもというなら――」
「寝言は寝てから言え
苦虫を噛み潰したような顔で告げるクライブに、ゾーイは気を悪くした風も無く両手を広げていた。
「んもう、いかなる時もユーモラスな心を忘れちゃいけないわ。――で、何の話?」
ゾーイがカップを取り、コーヒーメーカーのサーバーから温かな一杯を注ぐ。その香りを鼻を大きく広げて楽しむ相棒の気色の悪い表情を、なんとも思わない程度に見慣れてしまったが、二人は出会ってまだ三年程度の付き合いだった。最初は絶対にこいつとだけは友達になることは無いだろうと感じていたが、いつの間にか毎日のように顔を合わせ、仕事を重ね、絆を深めた。まさかその別れを名残惜しいと感じる日が来ることも、また思いもしなかったと、クライブはややしんみりとした気分で思っていた。
「自首しようと思うんだ」
砂糖の分量をミリ単位で量っていたゾーイが、ハッと顔を上げて作業を中断――匙を置いて首を横に振った。
「クライブ」
「もう決めた」
断固として答える。するとゾーイはしばしショックを受けたように黙り込んでいたが、おもむろに大きくため息をついていた。いつかこんな日が来ることを予感していたように。
「あなたの罪を考えれば、二五年は出てこれないわよ。場合によっては、もっと長いかも」
「わかってる。だが……もうエルに辛い思いはさせたくない」
彼女のことを愛しているか否か、もはやそういう問題ではなかった。彼女は幼馴染であり、もはや切っては切れない情で結ばれていることを今回の一件でクライブも深く実感させられたのだ。気付けば泥沼に足を浸し、まともな場所には戻れぬものと、開き直ったように悪の道を突き進んだが――それを見て泣く女が、家族を失った自分にもまだ残されていたのだと、クライブは思い知らされた。
だから彼は迷った。迷い、迷い、悶々迷った末に――汚れた足を洗うことにしたのだ。
何年かかかってでも。もう二度と彼女を泣かせないために。
「エルちゃんには、もう話したの?」
「いや……」
仮に逮捕されるなら彼女と決めていたが、自首をするとなるとどうすべきかは迷いどころであった。少しでも減刑できるよう恩情を求めていると思われるのも癪だ。
ゾーイは頬杖をつき、気のない風にティースプーンでコーヒーを混ぜ始める。
「ま……決めたというなら、止めはしないけどね……さすがの彼女も、今度ばかりは待ってくれないと思うわよ」
「だろうな。というか、そんなに待たせたくない」
「あら、まさかワイアットに譲るつもり?」
嫌なところを衝かれて、クライブは否応なしに苦い顔をする。
「別に、望んで応援はしないよ。ただ、そうなったらそうなったで仕方ない……と、思う」
あれほど素晴らしい女性を他の男に取られるのは気に入らないが、少なくともエルが望んで選ぶなら、それで幸せになれるのは間違いない。彼はクライブと違い真っ当な人間だ。
これ以上やきもきさせるより、その結果は、ずっといいことなのかもしれない。
想像するだけで胸の中で沸き立つ苦い感情は、クライブ自身が立ち向かうべき問題だ。
「決意は固そうね」
「ああ。――今までありがとな、ゾーイ。楽しかった」
クライブは立ち上がり、彼の傍にまで近寄って手を差し出した。家族を失い絶望していたクライブが、再びこうして立ち直れたのも、彼ともう一人の少女のお陰だ。彼らがいなければ、クライブはこうしてお調子者の自分を取り戻せていなかったかもしれない。
「最高の親友だよ、お前は。本当に会えて良かったと思ってる」
瞬間、ゾーイが感極まったように息を飲み、目を潤ませた。
「やだ、やめてよ、アタシこういうの弱いんだから……」
途端に顔をぐしゃぐしゃにして泣き出してしまい、そこで立ち上がった彼は差し出された手を無視し、力強く抱擁していた。クライブは苦い顔で手を広げ、何度も瞬きする。
「あー、わかったわかった、わかったから泣くなゾーイ、男だろ?」
「心は女よ!」
クライブは嫌そうにしつつも、ポンとその背を何度か叩いてやる。いつもなら全力で殴っているが、今回ばかりは目を瞑ってやった。ややあってゾーイが身を離し、クライブは肩にくっついた鼻水をハンカチで拭う。
「ルナのことも、任せていいか?」
クライブ達の仲間である少女、ルナ・フェザーラインは元々教会の孤児院で育てられていた子どもだったが、同性愛者のシスターに性的悪戯を受けた後に家出。孤児院で暇さえあれば磨いていた頭脳と技術を利用してインターネットカフェでハッキングを繰り返し独自に生活費を稼いでいた。やがてその能力に目をつけられ、マフィアに捕まりそうになっているところをクライブとゾーイが救い出したのである。本来ならば孤児院に戻すところなのだが、事情を知って今まで二人が一時的に預かることになり――なし崩し的に一緒に行動するようになっていた。しかし彼女はまだまだ子どもであり、犯罪者として人生を決定づけるのは早すぎた。
「もちろんよ。前々から里親探しはしてたの」
ゾーイが気前良く応じ、そこで不意に噂の主が会話に割り込んでいた。
「ずっとネットしてても怒らないとこがいいな」
「おわっ!」
クライブは飛び上がって振り返る。隣の部屋で引きこもっていたはずのルナが、いつの間にか背後に立っていた。上着のポケットに両手を突っ込み、風船ガムを膨らませていた。
「なんだお前、ひょっとして聞いてたのか?」
「ん? ごめん、ここは傷ついて飛び出していく場面だった?」
「そんなたまじゃないのは知ってるよ」
ルナはよくわかっているなと言わんばかりに頷き、割れた風船を口に戻してから、クライブの脇腹に勢い良く手刀を突き刺していた。非力な少女の一撃とはいえ、クライブは思わず仰け反る。
「ってえなコラ。なんだよ、やっぱり里親とか気に入らなかったのか?」
「そこじゃない」
ルナはそこで珍しく歳相応の拗ねたような表情を浮かべ、今度は指先で脇腹をちょんちょんとつつく。
「お別れの話なのに、仲間外れなのは酷くない?」
「あー……そうだな。悪かった」
彼女もゾーイと同じく、クライブにとっては大事な仲間だ。自首に関しては一緒に打ち明けるべきだった。クライブは少女の頭に手を置き、ミルクティー色の髪を乱暴に掻き混ぜた。普段なら鬱陶しそうに振り払うそれを、今回ばかりはルナもされるがままになる。ほんの少し恥ずかしそうに身を左右に揺らしながら、何かを堪えるように。
「でも別にすぐの話じゃねえよ。この一件が片付いてからだ」
「あらん? ジルグム・バーンレイドは逮捕されたんでしょ? 万事解決じゃないの?」
ゾーイが尋ね、クライブはかぶりを振った。
「そんな単純な話には思えない。『フェル』という女の存在も気になるしな」
「え、終わったと思って寛いでたの、ひょっとしてアタシだけ?」
「ま、気にするな。事前調べは俺とルナの専門だ」
クライブはその足と耳目で、ルナはネットの世界を通じて情報を集める。ゾーイはそこから計画を練り、道具を準備し、作戦決行時にクライブのサポートする役だ。三人はいつもそうやって完璧に仕事をこなしてきた。それももう終わりと思うと、クライブも柄になく寂しいという気持ちを覚える。そこでルナが、もういいだろと告げるように頭の上の手を乱暴に払い、淡々とした口調で告げた。
「そうそう、その話をしに来たんだけど」
「ん?」
「ようやくわかったよ。〝スターキューブ〟と〝
一連の事件が急速に終結へと向かうのを感じ取りながら、この少女も相当に得がたい仲間だったとクライブはしみじみ思い知らされていた。
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