第15話 兄弟

 パネルが目的の階層に近づき、ワイアットは不意打ちに備え扉から出来るだけ下がって銃を構える。扉が開いた瞬間に襲われる危険を考え、非常階段から向かうべきかとも考えたが、結局それはどの扉を潜ろうとも同じことであった。

 ならばと腹を括り、余計な体力を使わぬエレベーターでの移動を選択したのだ。

 涼やかなチャイムの音が響き、自動で扉が開く。幸い警戒していた奇襲はなく、ワイアットは緊張に止めていた息を小さく吐く。続いてエレベーター内の端に移動し、外の様子を慎重に覗いてから、銃を構えて素早く外へと出た。

「……クソッ! なんてことだ……!」

 彼を真っ先に歓迎しのは、鼻を劈くような、濃い血の臭い――吐き気を催す死の臭いだった。そこにはFBI職員が三名、バラバラに分断された惨殺死体となって転がっていた。おそらくはリナリスからの連絡を受けて駆けつけた者達だろう。状況から見て、後方から奇襲を受けたのだ。三人同時に、反撃する暇も無くやられていた。

 惨殺現場――フラッシュバックと重なる光景。彼の異常性癖に被害にあった若き女性達の死体の数々。今尚、凶刃を振るい続ける兄の蛮行に、ワイアットは胸の奥から沸き立つ激情を覚え、だが今はそれを押さえ込みながら、静かに移動。奥へ進むと廊下にはまた別の職員の死体が転がっていた。そして各種防犯センサーが無効化されている。おそらく、ジルグムはどこかからそうした専門技術を学んできたのだろう。

 身を隠すこともなく皆殺しにしながら、網の目を取り払う行為。隠密と大胆の混合。

 一見あべこべのようでいて、早さは確かだった。ここで警報が鳴れば続々と応援が駆けつけ包囲をはかるだろう。センサーを黙らせ増援を防ぎつつ――だが見張りに対しては身を隠して進むよりも、斬り殺して真っ直ぐに突き進んだ方が単純に早い。

 全体的な効率を求めるなら、なるほど最も良い手段とも言えなくも無かった。もしワイアット達が相手の思惑に気付かなければ、ジルグムは目的の物を盗んだ後は悠々と逃げせていただろう。だが、その方法を褒めるには、あまりにも非人道的かつ悪魔的な手段であった。物一つを盗むためだけに、彼はいったい何人の犠牲を払うつもりなのか。

 ワイアットは歯噛みしつつも、慎重で静かな足取りで廊下を進む。ジルグムは刀の血を払うことすらしていないのだろう。追跡は血痕を辿るだけで済んだ。銃を構えて進むワイアットは、やがて一つの部屋の前に辿り着いた。そこは押収品や証拠品を一時保管する証拠室。犯人逮捕のために欠かせない物証を保管するその部屋から、丁度、出てきた男と鉢合わせした。その姿を見とめた瞬間、ワイアットの心臓が跳ね上がる。

「ジルグム!」

 声に反応し、手に提げたアタッシュケースを満足げに見つめていた男――ジルグムがきょとんとした顔を上げていた。青緑色の瞳、首の後ろでまとめた長髪、整えるのを疎かにした無精ひげ。そしてトレードマークの、天使の羽を食いちぎる髑髏のタトゥー。

 少々日焼けし皺が増えていたが、五年前とほとんど変わらぬ異父兄の姿がそこにあった。

 全身を激しく巡る血流を感じながら、ワイアットは息を荒くしていた。

「本当に生きてたんだな……!」

 他人の空似ではない。間違いなくジルグム・バーンレイドだった。彼はその顔をよく知っている。生まれたときから見続けてきた。鏡を覗き込むたびに、自分に良く似たその顔立ちが混ざり合った。だからワイアットはなるべくそれを遠ざけようと、髪と口髭が少しでも伸びないように刈り込んでいたのだ。毎朝、毎朝、その姿が鏡に映るのを怯えながら。

 一方、ジルグムは不思議そうに目を瞬き、彼を見ていた。その左手に下げられたのはアタッシュケースはおそらく〝最古の天象儀オールド・プラネタリウム〟が収められたもの。右手には血まみれの日本刀。感傷に浸る暇など無いことを気付き、ワイアットは声高に威圧した。

「一歩でも動けば撃つ! おとなしく凶器を捨てて――」

「君は誰だ? どこかで会ったか?」

「なっ……」

 彼の第一声に、掛け値なしの不意打ちを受けたワイアットは茫然自失となる。

 ジルグムは彼が受けたショックなど気にかけた様子も無く、ただ不思議そうにその顔を覗きこみ、はたと思い出したように顔を明るくして何度か頷いていた。

「ああ、ワイアット・バーンレイドか。そうだ、私には弟がいたんだったな」

「お――お前ッ!」

 ワイアットは我に返って激昂し、その銃口を相手の顔面に突きつける。

「お前が俺の人生を滅茶苦茶にした! 両親を殺し、他にも大勢の罪もない人を! この五年間、一日だって忘れたことがあるものか! お前は悪魔だ! なのに――」

 なのに――まるで、今の今まで忘れていたかのように。何の関心もなかった相手と久々に対面したかのように、思い出すのに時間がかかったのだ。ワイアットは認めたくも無いほどに恨んだ事実――血の繋がった兄弟。その不動の現実を、ジルグムはこともあろうか、忘れていた。それはワイアットにとってこれ以上の無い屈辱だった。ひょっとすると、今のは彼を小馬鹿にするための挑発の類いであったのか? そう疑わせるほど信じがたい発言であったが――その淡い期待すら踏みにじるように、ジルグムはただ肩を竦めていた。

「あー、すまないが、急いでる。話があるなら後にしてくれ」

 そうして、何事も無かったように彼の横を素通りしようとする。ただ街角で昔の知り合いにたまたま出会ったかのような気軽さで。ワイアットは湧き上がった激情をついに堪えきれず、躊躇わずに引き金を引いていた。咆吼と共に迸る銃声。しかし手を伸ばせば届くほどの距離にもかかわらず、ジルグムはあっさりとその弾丸を刀で弾いて廊下の壁へとその軌道をそらし、のみならずワイアットの懐に踏み込んで、得物の切っ先を弟の喉元に突きつけていた。今日一日だけで何人もの人間を斬り刻んだ血まみれの刃を。

「聞こえなかったかな? 後にしろと言った」

 ジルグムは小さい子どもでも言い聞かせるように静かに告げていた。ワイアットは瞬き無く向けられるその視線を前に、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる。

 ジルグムの瞳に孕む闇――それは殺気なんて生易しいものではない。〝死〟そのものだ。

 触れたものを全て自らと同じ〝死〟と変換してしまう、純然たる悪。

 それがジルグム・バーンレイド。〝ニューヨークの切り裂き魔〟――ワイアットの兄。

 ワイアットはしばしその瞳に居竦まれて動けなくなり――しかしそんな自分への怒りが一気に噴出した。この男に竦むなど、あってはならないことだ。わけても人生の全てを台無しにされたワイアット・バーンレイドだけは、彼を前に膝を屈してはならない。

 ワイアットは後方に跳ぶと同時に銃を連射。その弾丸は狙い過たずジルグムの急所へと向けられていたが、どれだけ素早くトリガーを引こうとも、くが素早くる刀に阻まれる。しかもアタッシュケースを左手に提げたまま、右手一本で。

「いい加減にしないかワイアット。なるべくなら、君を殺したくない」

ふざけるなスクリューユー! 今まで自分が何人殺したと思ってるんだ!」

 ワイアットは近場にあった消火器を掴み、栓を抜いて勢い良く放り投げる。それもジルグムは難なく斬り捨てたが、中の消化剤が撒き散らかり、廊下を白煙が包んだ。

「お前が! 兄と思うだけで! 反吐が出る!」

 叫びながらワイアットは更に弾丸を放った。いかに彼の超人的な動体視力であろうとも、視界が奪われた状態ではどうか。だがその小細工も虚しく、噴煙の中から無傷のジルグムが飛び出し、ワイアットへと接近。まさに瞬き一つの、一瞬。驚愕するワイアットと、鼻が触れ合うほどの距離で、ジルグムがあきれ返ったように溜息をつく。

「やれやれ――」

 ジルグムの膝が目にも留まらぬ勢いで跳ね上がり、ワイアットの腹部に叩き込まれる。意識を刈り取りそうなほどの痛烈な一撃に、ワイアットは肺の空気を全て吐きながら、くの字に身体を折った。更にジルグムは逆の足を前に突き出し、彼の身体を吹き飛ばす。ワイアットは勢い良く近くの部屋のガラス戸を突き破り、床を勢い良く滑っていく。

「私はこれでも義理堅いんだ。なるべくなら、この手では君を殺したくないよ」

 ジルグムがまるで嘆くように告げながら、ゆったりと歩み寄る。そこは鑑識室のようであった。理科実験室のような場所で、テーブルには電子顕微鏡が設置されている。棚には多くの薬品が陳列していた。ワイアットは腹の上で爆弾がはじけたかのような痛み受けていた。胃液が込み上げ、それを吐き出しながら、しかし震える手を地に突いて立ち上がろうとする。銃はどこかに取りこぼしていた。残る得物は――常時持ち歩いている、髭そり用の剃刀ぐらいのもの。銃すら通じぬ相手に心許ないにも程があったが、ワイアットはそれを引き抜いていた。だがその眼前に立ったジルグムが、まだ完全に立ち上がっていない彼の顎をアタッシュケースで殴る。ワイアットの身体はもんどりかえって再び伏していた。剃刀もまた手元を離れて床をすべる。

「こ……のっ……!」

「ふむ……そうだね。では、こうしよう。ここは見逃してやるから、これで貸し借りはなしだ。いいね? 次は容赦しないよ?」

 ジルグムの発言の意味が、ワイアットには理解できなかった。貸しなど――まったく身に覚えのない話である。いや、仮に覚えがあったとしても、そんな情けを受けるつもりはなかった。朦朧と揺れる視界で、ワイアットは近場の机に手を伸ばし、そちらに体重を預けながら、渾身の力を振り絞って立ち上がる。どれだけの歴然たる力の差を見せ付けられようと、絶対に屈するつもりは無い。必ずこの男を捕まえてみせる――

 不屈の精神で立ち上がるその姿を見ていたジルグムはどうしたものかと悩むように首を傾げ――その時、彼の後頭部に向けて銃を構える第三の男が現れていた。

「――手を上げろ。なんてな」

 突き出されたのは巨大な拳銃。デザートイーグル.50AE。全くの無防備であったジルグムは目を見開き、振り返り様に刀を振るう。それと同時に大型拳銃が火を噴いていた。無理な体勢からの片手では、さすがに自動拳銃最強の大口径を完璧には防ぎきれなかった。

 ジルグムは刀で弾を防いだ衝撃で後方へとバランスを崩し、更に続いた連射を前に、アタッシュケースを捨てる。腹に響く轟音で放たれた弾丸の雨を両手持ちの刀で、後方へと下がりながらジルグムが防ぐ。その全弾を弾き飛ばした後で、さすがに危うかったのか、深々と息を吐いていた。空になった銃を惜しげもなく懐にしまった黒人の大男の姿を、ワイアットは当然として見覚えがあった。

「あんたは――えっと?」

 だが咄嗟に名前が出てこず、途端、助けに来た男は気を悪くしたように叫んだ。

「ゼルギウスだ、覚えておけ! せっかく助けに来てやったのに、このまま見捨てて帰ってやろうか!」

 珍しくも憤然とするゼルギウスに、しかしワイアットが謝罪する暇もなかった。彼等の会話などお構い無しに、ジルグムが接近していたからだ。目にも留まらぬ速度で踏み込み、音速の一撃が振るわれ、ゼルギウスの巨体を両断する――はずだった。

 常に余裕に満ちていたジルグムのその顔が、かつてない驚愕に染まる。斬撃をゼルギウスの腕が防いでいたからだ。鉄すら両断する必殺の一撃は、しかし彼の腕の肉を浅く斬っただけで、骨で止まっている。しかも裂かれた肉からは血すら滴っていない。

「悪いね。体の出来が違うんだわ」

 ゼルギウスは温厚そうな顔に、不敵な笑みを浮かべる。彼の〝ワンド〟適性は――無し。

 サイボーグ化以降は、そもそもの適性外。ただし機械化された肉体は直接的に〝ユグドラシル〟とのリンクを可能とし、戦闘時には〝魔力〟を帯びて極限までのパワーと耐久性を発揮する。人工筋肉はパワーシャベルの馬力を発揮し、鋼製の骨格はタングステン並みの高硬度と化す。現代科学の粋を集めたアメリカ最強のサイボーグたるゼルギウスの身体は、言わば人型戦車。

 その装甲は、ついに〝切り裂き魔〟の恐るべき凶刃すらも寄せ付けなかった。

「おら、お返しだ!」

 ゼルギウスは刀を押しのけ、逆の手による巨大な拳を振るった。砲弾のような速度で振るわれた腕はリーチも長く、咄嗟に飛び退くジルグムを逃がさない。鉄拳がその整った顔面を捉え、彼の身体をゴムボールのように勢い良く弾き飛ばしていた。ジルグムは資料棚に背中からぶつかり、そのまま滑り落ちて座り込む。その頭上にバラバラと零れ落ちたファイルが降り注ぐ。資料の山に埋もれたジルグムは、痛烈な一撃で脳震盪を起して立ち上がれず、顔を押さえ――そこでぬめりと滴るものに気付いた。形のいい鼻梁がへし折れ、そこから多量の鼻血が噴出していた。その真っ赤になった手を見て――だがジルグムは怒りも慄きもせず、恍惚と微笑む。

「おお、強烈だね……これは凄い。痛いよ。凄い。凄いやつもいたものだ」

「なんだこいつ……」

 苦痛に呻くこともなく喜びだした狂人に、優勢であるゼルギウスもたじろいだように眉を潜めた。ジルグムは笑みを浮かべたまま、次の瞬間には何事も無かったように立ち上がる。再び両者が激突するかと思われた――そのとき、鑑識室に複数名の銃を構えた捜査官たちが雪崩れ込んできていた。

「動くなッ!」

「武器から手を離して、両手を頭の後ろに!」

 二二階が侵入者の本命と知って駆けつけてきた応援部隊。五名の戦闘のプロフェッショナル達。全員が〝ワンド〟能力者。僅かでも不審な動きを見せれば、一切躊躇無くジルグムを圧殺する構えであった。

「参ったな……さすがに負けたみたいだ」

 残念そうな顔をしつつも、ジルグムは得物から手を離し、降伏して両手を頭にしていた。

 素早く職員達が動き、後ろ手に手錠をかける。別の一名がアタッシュケースを回収し、中身を確認して頷く。

 遅まきながら助かったことを理解した瞬間――ワイアットは脱力してその場に崩れ落ちる。だがその身体が床に転がる前に、ゼルギウスが腕を伸ばして掴み支えていた。

「よくやったぞ。よく俺達が来るまで食い止めたな、小僧」

 労いの言葉を受けて、ワイアットはしかし喜ぶこともなく呆然としたまま視線を一点に向けていた。職員二名に両脇から押さえられながら、ジルグムが連行されていく。

 意外なほどあっさりと諦めて逮捕されたジルグムは、未だ鼻血を垂らしながら、やはりにやにやと笑っていた。この状況すらも愉しくて仕方ないといわんばかりに。

 一体何を嗤うのか。この惨状を生み出したお前が――

 沸き立つものを感じ、ワイアットは無意識にそちらへ向かおうとする。しかしそれをゼルギウスの巨腕が断固として防いでいた。

「おい駄目だ。取調べは俺達に任せろ。お前はよくやったよ」

 ワイアットは彼を振り返り、再びジルグムを見る。彼はこちらへ一瞥すら向けずにその場から消えていった。狂おしいまでに望んだ決着は、ついてしまえば拍子抜けするほど呆気なかった。急激に何かが抜け落ちるような脱力感を覚えながら、ワイアットは訊いた。

「そうだ……リナリスは?」

「大丈夫だ、俺達が駆けつけたときはSWAT連中が場を制圧してたぜ。――まあ半泣きだったけどな。今頃ロックス辺りが八つ当たりに愚痴を聞いてるはずだ」

「ああ……だから、アンタはこっちを助けに?」

「その通り。あいつのヒスに付き合うのは勘弁だ。――おら、医務室つれってやるよ」

 サイボーグの大男はそのごつい手でワイアットの背を叩きながら笑い、その痛みに噎せ返りながら、彼もまた笑おうとする。しかし不自然に口が歪むだけであった。ジルグムの笑みが脳裏にこびり付いて離れなかったからだ。

 これで本当に終わったのか?

 その疑念はいつまで経ってもワイアットの胸中に滞り続けた。

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