第12話 フランケンシュタイナー

 その一方で、グランドチェロキーは法定速度を守った安全運転で市街を進んでいた。

 妹との再会の喜びに先ほどまで泣きじゃくっていたエルも、ようやく落ち着きを取り戻し、運転席のゾーイへと語りかける。

「FBIのオフィスへ。あそこには信用できる仲間がいる」

「えー? いいけど、手前までしかいかないわよ? まだ捕まりたくないもの」

「それでいい。とにかく急いでくれ」

 エルは焦れた様子で告げる。妹の安全さえ確保できれば、次はシャルロットの逮捕に向かわなければならない。クライブとワイアットが追撃しているといっても、ここから先は捜査官たる彼女の仕事だ。もちろん法を破って盗みに加担した彼女はこの後でクビになるであろうが、せめてこの件に関しては彼女自身がけりをつける責任がある。

 もちろん二人の身を心配する気持ちも、大いにあったが。

 と、そこでアフィンがポンポンと姉の肩を叩いていた。

「お姉ちゃん、私なら一人でも大丈夫だよ」

「アフィン?」

「受付に行って事情を話して、連絡あるまで匿ってもらえばいいんだよね? それぐらいなら一人で出来るよ」

「だ、だが……」

 アフィンは今し方まで凶悪犯に拉致、誘拐されていたのだ。今はかなり落ち着いた様子ではあるが、先ほどまで恐怖に身体を震わせていた。そんな妹をひとり残して行くことに不安がないわけがない。そして、もしまた彼らの仲間が襲ってきたとしたら――

 心配するエルに、アフィンはにっこりと微笑んで告げていた。

「クライブお兄ちゃんが犯人を追ってるんでしょ? 助けてあげて」

 エルは迷うように辺りを見渡した後――妹の身体を抱き寄せ、その額にキスをする。

「すぐに帰るからな」

「うん……気をつけてね。絶対、怪我だけはしないでね」

 アフィンはやはりやせ我慢をしていたのか、少し強めの抱擁をしてから、姉の頬にキスを返す。エルは名残惜しさを感じつつも、妹から身を離し、もう一度運転席のゾーイへ声をかける。

「すまない、ゾーイ。アフィンを頼めるか?」

「もちろんだけど……」

「何か問題が?」

「今日会ったばかりの犯罪者を信用していいの?」

 ちらりとゾーイが顔を覗き込むようにしてから尋ね、エルは少し間を置いた後に微笑む。

「不安がないわけじゃない。だがクライブの相棒なら大丈夫だ。恩人でもあるしな」

 その返答に、ゾーイが溜息をつき、苦笑して助手席に目を向ける。ルナは既に役目を終えてパソコンを仕舞い、退屈そうに膝を抱えて座っていた。彼女は無言のままゾーイに頷き返していた。

「仕方ないわね……そこまで言われたら、捕まる覚悟ぐらいしなきゃゲイが廃るわ。アフィンちゃんならしっかり送り届けてあげるから、任せておきなさい」

「ありがとう、恩に着る。――停めてくれ」

 グランドチェロキーがすぐ傍の通りに停車し、エルはすぐに外へと降り立つ。

 そこでゾーイが慌てた様子で窓を開け、彼女に尋ねていた。

「って、あなた足はどうするの?」

「問題ない、丁度いいものを見つけた」

 エルは今日一日、不幸続きだったが、まるでそれを巻き返すほどの強運が舞い込んできたように感じていた。

 彼女の視線の先では、女性の白バイ警官が携帯無線で連絡をとっていた。その人物はエルの仲の良い友人であり――ここはひとつ彼女に借りを作ることにしたのだ。


 危険運転で爆走するバンは怒り狂った警察の猛追すらも寄せ付けず、ついには島の反対側であるロウアー・イースト・サイドにまで辿り着いていた。

 逃げるシャルロットたちの車両は対岸のブルックリンにでも向かっているのか、ウィリアムズバーング橋辺りを目指しているように見える。未だその車体は確認できずにいるが、すぐ近くにまで接近しているのは確かであった。クライブも段々とこの暴走車にも慣れ始め、しかしややハイになった様子で隣に語りかけていた。

「二人きりだ、腹を割って話そうじゃないか」

「何を? 告白なら断るよ」

「ハーハー、笑える。コメディアンにでもなれよ。ちげえよ馬鹿、エルのことさ」

「惚れてるかって?」

「そう、それ」

 あまりの直球な質問に、自分以上のぶしつけな男がいるのかと、ワイアットは苦笑を浮かべる。ここは思ったままに答えることにした。

「素敵だと思うよ。最初はガチガチにお堅い女かと思ったけど、案外と脆くて……まだ一〇代の女の子みたいだ」

「だろ? 趣味合うね」

「……彼女は明らかに君を見てる。人の恋路を邪魔するほど野暮じゃない。けど――」

「けど?」

 言いよどむワイアットを、クライブが促す。あるいはその答えを既に見透かした様子で。

 しばし迷いはしたが、ワイアットは遠慮なく言わせてもらった。

「君は犯罪者だ。結ばれても、幸せな未来はない」

「ま、否定も肯定もしないが……」

「どうして君は犯罪者に?」

「さあ、どうしてだろうな」

「本当に彼女の事を大事だと思うなら、君は大人しく身を引くべきじゃないのか?」

「それは――」

 口先であらゆる困難を切り抜けるクライブも、その問いを誤魔化すことができない。彼自身が最も思い悩んでいる事柄であるからだ。

 自ら切り出した話題であるというのに、クライブは早くもいたたまれない気分になる。

「君がそんな生き方をし続ける以上――」

 ワイアットは運転に集中し正面を見据えながらも、はっきりと断言していた。

「――俺は君を出し抜く。エルを奪い取るよ」

 クライブは思わず息を飲み、しかし返す言葉が何も出てこなかった。可能であるならば、彼女は自分のものだと叫びたかった。しかしクライブには自分にその資格があるとは到底思えなかったのだ。

 無言のままクライブは険しい顔で窓の外を睨み――そこでハッとし、叫んでいた。

「危ないッ!」

 警告は遅かった。横の通りから赤信号も無視して、突っ込んできた大型トラックがあったのだ。わずかにタイミングがずれていたため直撃は免れたが、それでも車体後部を跳ね飛ばされ、車体はバランスを崩してひっくり返り、道路をすべり、近くの標識に直撃して止まる。エアバッグに埋もれ、シートベルトにぶらさがっていたクライブは数秒の沈黙。

 ややあって自分が死ぬどころか気絶すらいないことに気付き、荒々しく呼吸を再開した。

「……かはっ! クソッ、無茶なことやってくれるな!」

 あとコンマ数秒遅ければ、運転席ごとイースト川まで吹き飛んでいたはずだ。

 クライブも今の事故が到底偶然のものとは思えなかったが、実際のところは数奇な運命が招いたものであった。車を乗り換え、逃走中であったジルグムがその荷台に隠れ潜んでいたという事実も、当然として彼が知る由も無い。トラックはそのまま北の方へと走り去っていった。クライブはベルトを外してルーフへと落ち、痛みに呻きつつも変形したドアを強引に蹴り開けて外に出る。そんな彼を通行人が驚いた様子で見ていた。

 クライブは腰をさすりながら、あれだけの事故で目立った怪我の無い自分の頑丈さと悪運の強さに感心しつつ、反対側へと回り込んで車の扉を開ける。ワイアットはエアバッグに埋もれて動かなかった。

「おい、大丈夫か! おら、起きろバカ! バカバカバーカ! ほーら、早く起きないと学校に遅れるぞ! ――おい?」

 どれだけ呼びかけてもまるで反応が無いことに焦り、クライブは慌てて首に手をあた。

「……ビビらせんな、バーカー」

 幸い脈はあった。見回してもどこか怪我をしている様子はない。クライブはシートベルトを外してワイアットを車から引っ張り出し始めた。

「ンノ野郎、偉そうに言って、面倒かけさせやがって……俺はテメエのママじゃねえんだ、一人でなんとかしろっての! しかも恋敵を宣言したばっかの相手を――俺って良いやつだなホント!」

 興奮のあまり止まらない憎まれ口を叩きながら、ワイアットを車の中から救い出したクライブに、通行人の一人が拍手を送っていた。英雄をたたえるように。

「ありがとう! っていや、拍手はいいから救急車呼んでくれ、今すぐ!」


 追っ手を振り切ったシャルロット達の車は周囲に紛れてマンハッタン島を越え、ブルックリンへと渡っていた。折しもジルグムの逃亡により警察の包囲網が橋にも展開していたが、それもマンハッタンへと向かう側だけで、来る側は看過されてシャルロット達も何食わぬ顔で検問の隣を通過していた。

「……忌々しい。品を届けた後で、絶対全員殺してやるわ」

 後部座席に座ったシャルロットは憤然とした面持ちで呟く。捜査官のエルネスティーネを操ることにより、あっさりと〝最古の天象儀オールド・プラネタリウム〟を手に入れるはずが、予想以上に手こずる結果になってしまった。

 最終的に目的の品を手に入れたとはいえ、彼女は多くの部下を失った。シャルロットの所属する傭兵集団は数年間まで企業とは名ばかりの、ただの軍人崩れの集う〝ならず者〟集団に過ぎなかった。傭兵といっても支払いさえよければどのような仕事も請け負う、言わば裏社会の何でも屋というのが本質だ。しかし支払いの良いジルグムと手を組んだ後は経営が乗りに乗り、そこらの民間軍事会社にも負けない程に成長していた。

 いわゆる大手スポンサーと手を組んだ彼女の貢献は大きく、部隊内でその地位を向上させたのだが――今回の仕事は大失態だった。報酬に見合わぬ被害であり、まず間違いなく降格は免れないだろう。あるいは責任を求められ、射殺される可能性とて――

 いや――シャルロットは溜息をつきながら思い返す。そこまで悲観することもないかもしれない。シャルロットはジルグムと傭兵部隊のパイプ役であり、ジルグムは決してシャルロット以外とは連絡を取り合おうとはしなかった。ジルグムは世界各地で味方を作りながらも、ひとつの団体に対して一人以上の連絡役を許さなかった。いかなる理由があったとしても。彼が言うには、味方は多いに越した事は無いが約束を交わす相手は少ないほうが良いそうなのである。少々理解はしがたかったが、ともかくそういう考えの持ち主の変人と受け取っていた。ならば彼女の安全は保障されているも同然であり、まだまだ巻き返しは可能であった。そう――依頼をしっかりこなしてジルグムの信頼さえ失わなければ。

 そうして勝ち誇って膝上の〝最古の天象儀オールド・プラネタリウム〟を収めたアタッシュケースを撫でる彼女であったが――気持ちを緩ませるには些か以上に早かった。彼女はポケットから携帯端末を取り出そうとし、指先に触れるプラスチック片のようなものに気付く。眉を潜めて、それを摘んで取り出し――

「――クソッ!」

 彼女は急いで窓からそれを放り捨てていた。いつの間にか仕掛けられた発信機であった。

 ジルグムとの合流前にその存在に気付けたのは僥倖と感じたが――その実、遅すぎた。

 彼女等の車の位置情報をクライブからの連絡で受け取り、猛スピードで先回りして追い付いていた一台の市警の白バイクが、今まさに現れたところであった。シャルロット達の車が通過しようとしている高架橋の上に。エルネスティーネはその青い瞳を鋭く細め、目標を捕捉。氷の眼差し――ただし、その奥には灼熱の憤怒が燃えさかる。

 反撃の始まりだ。次に恐怖に打ち震え、許しを請うのは、あの女の番である。

 彼女はバイクから降り立ち、迷いもなしにフェンスを飛び越え、降下していた。

 タイミングは完璧であった。唐突に一人の女性がボンネットへと着地し、車の前席にいた二人の男は目をむいた。普通ならばフロントガラスに身体を打ち付けて大怪我に至るところだが、彼女は〝ワンド〟使いの中でも国内に数えるほどしかいない適性A+判定者。

 〝雪の女王スノークイーン〟と呼ばれる、氷使いのスペシャリストであった。

 着地の瞬間に足場を凍らせて靴を固定、更に衝撃の殆どを熱変換し、周囲に放出していた。故に彼女がボンネットに着地しても、雪の一粒が舞い落ちたほどの衝撃しかなく、車体を揺らしたのは突如周囲に巻き起こった熱波によるものであった。

 エルは後方から吹き付ける猛風に髪を揺らしながら、上着の内側から二丁拳銃を同時に抜き放ち、構えた。べレッタM2020ダブルトゥエンティプレミアムカスタム――〝双子の雪ツヴァリング・シュネー〟。

 銃身はコバルトブルー、銃把には氷の結晶の紋章。

 優れた〝ワンド〟適性をたたき出した彼女にFBIが特別贈呈した専用改造銃。激しい熱変化にも耐えうる特殊素材で作られた、彼女の能力を最大効率で発揮する得物であった。

「止まれ!」

 大声による警告は、当然の如く無視された。助手席の男が一瞬の自失から立ち直り、窓から身を乗り出して銃を構える。だがその動きに先んじてエルが動く。氷で固定していた足を解除し、風圧のまま車の上を滑りルーフへと移動――再び足場を氷で固定。その俊敏な動きについていけなかった男の構えた銃を右手の銃で撃ち落すと同時に、左手では車のエンジン部に銃弾を連射していた。その銃撃にボンネットが蜂の巣にされ、しかし運転手が彼女を振り落とそうと車のスピードを上げながら蛇行。その車体に揺らされて車の左側に落ちるも、それは故意。一瞬前まで彼女の立っていたルーフは、シャルロットと隣の部下が連射した銃弾で穴だらけになる。エルはリアドアに足を張り付かせ、そこから窓に向かって銃を構える。

 だがそこで隣車線で追い抜く車のリアバンパーが接近し、あわや上半身が打ち付けられるところを、リアピラーを摑んで身を翻し、今度はリアガラスへと立つ。通過していった隣の車の運転手が、後方で驚愕していた。

 車に文字通り張り付く美女の姿。――まるで一流ポールダンスのように機敏。

 エルは銃を握ったままルーフにトリガーガードをたたきつけ、氷で固定。そのまま身を捻って勢い良く蹴りを放ち、リアガラスを一撃で割っていた。蹴りはそのままシャルロットの横にいた男の後頭部を踏みつけ、昏倒させる。男を踏みつけたままの彼女に、至近距離からシャルロットが銃を突きつけるもエルはそれを銃を握ったままの手で叩き、放たれた弾丸は彼女を外して助手席の男の後頭部を射抜いていた。

「わざわざ殺されに来るなんて、バカな女ね!」

 シャルロットが銃を再び向けながら叫び、エルはその手をルーフにたたきつけて押さえながら、相手を睨み返した。

「お前は妹を引っ叩いていたな。逮捕前に、万倍にして返してやる」

「あら怖い、一万回も叩かれるのね。その前に鉛玉を叩き込まなきゃ」

「安心しろ。――私の威力なら、一〇発で等価だ」

 だが彼女の拳が繰り出される前に、シャルロットが腰のナイフを引き抜き突き出してきた。所有凶器の多さに呆れつつエルはその一撃を右手で弾き、シートに押さえ込む。相手の両手を押さえ込んだ状態でエルは頭突きを叩き込み、相手が怯んだ所に更にもう一発。

 このままシャルロットを凍りつかせてやりたいところではあったが、エルの能力は人体に対しての殺傷力が甚大だ。凍結を受けた部分は壊死するどころか砕け散るため、よほどのことが無い限りはその力で人を攻撃したりはしない。たとえ相手が妹を連れ攫った憎むべき相手でも、あくまで目的は逮捕。殺害は下策の最終手段だった。

 そこで先ほど蜂の巣にされたエンジンがついに悲鳴をあげ、車が制御不能になった。

 ボンネットから黒煙が巻い上がり、アクセルが利かずに失速。そして運転手は視界を奪われて、そうとは知らず赤信号の十字路へ突っ込む。当然の如く他の車に接触事故を起こし、勢い良く横回転。取っ組み合っていたエルはその突然の衝撃に驚愕しながら遠心力で振り回され、割れたリアガラスの穴から道路へと投げ飛ばされる。彼女は猫のような身のこなしで空中反転し、道路に氷を展開して着地。衝撃エネルギーを熱変換して熱風を起こす。そこは車道であり、クラクションを鳴らして突っ込んできた車を、危ういところで後ろに跳んで回避。だがホッと胸を撫で下ろす暇も無かった。

 運転席の傭兵はエアバッグに埋もれ気を失っていた。だがシャルロットは無事であったらしく、よろめきながらも車から降りていた。事故を起こされた車から怒った男が降り立ち、詰め寄ってきたその男をシャルロットが容赦なくアタッシュケースで殴り倒してから、急ぎ逃げ出す。

「待て、フェルディーニ!」

 エルは再び車道に飛び出し、突っ込んでくる車を避けつつ向こう側へと渡る。その分の差はあったが、シャルロットは大きなアタッシュケースを持っているため、動きが遅かった。そうでなくても俊敏性ではエルの方が上である。

 しばらく街中を走り続け、逃げ切れないと判断した彼女はアタッシュケースをその場に置き、応戦することを決めたらしい。一般の通行人にがいるにも関わらず、銃を構えて迷わず発砲。轟いた銃声に周囲で悲鳴が巻き起こる。

 エルは流れ弾が通行人に当たることを忌避し、シャルロットが射撃体勢を取った時点で彼女の足下を撃っていた。そこから最大出力で放った氷の三角錐が、まるで天へと落ちる滝のように高速出現。電話ボックス並みに巨大な氷の塊が、シャルロットの放った弾丸を次々と受け止めていた。オーバーワークにのしかかるような疲労と痛烈な頭痛及び眩暈が起きたが、構わず前方へと突進。作り上げた氷を瞬く間に分解処分し、銃をホルスターに仕舞い、驚愕するシャルロットの顔面を思い切り殴りつける。

 その拳を叩き込まれてシャルロットは銃を取りこぼし、しかし倒れることなくナイフを引き抜いて反撃。鋭く振るわれる刃の連撃をエルは機敏な動きでかわし続け、隙を見出すたびにカウンターパンチを打ち込んでいく。電撃のように素早く、岩の塊のように重い一撃。ボクシングスタイルで機敏なステップを踏む彼女を相手に近接戦闘をしかけることが、そもそも無謀であることをシャルロットも悟ったらしい。重く鋭いパンチに砕け折れた奥歯を吐き出しながら、更なるナイフの突きを繰り出すと見せかけ、隠し持ったワイヤーフックを放っていた。その先端の手錠がエルの左手へとかかり、シャルロットの手にするリールを上空に放り投げていた。それは糸を電動で巻き取りながら車道の信号へと引っかかり、エルの左腕を引っ張り上げる。

「エル!」

 折しも、ゾーイ達と合流して現場へと駆けつけたクライブが到着した瞬間であった。

 巻取りの威力は腕を引きちぎるほど強力ではなかったが、一時的にバランスを崩すには充分であった。エルは右手一本で、シャルロットが両手で突き出してきたナイフを、手首を摑んで受け止め、心臓へと迫るそれを押し留める。突進の勢いに靴裏が地面を滑り、ややあって停止。切っ先は彼女の胸の一インチ前で震えた。

「このっ……いい加減、死ねっ!」

 シャルロットが顔を歪めて叫び、クライブが助けに入ろうと迫っていたが――それには及ばなかった。エルは身体をひねって力を受け流し、そのまま回転の勢いで跳躍。その両膝をシャルロットの首に回し、反動を利用して上下一回転。プロレスの大技――フランケンシュタイナーの亜種が炸裂。雷光一閃の早業。シャルロットの脳天が植え込みの地面に叩きつけられていた。タフな彼女も、これにはさすがに堪らず白目をむいて気を失う。

「うわっ……」

 あまりに痛そうな一撃に、クライブは思わず顔を顰める。

 激闘に疲れたエルは左手を上げたままの状態で地面に寝転び、しかし溜飲が下がったようにニヤリと笑みを浮かべ、得意気に尋ねていた。

「今の、凄かっただろ?」

「ああ、うん。いいね。君の可愛いおへそに目が釘付けだ」

 そこでエルはさっきの反動で胸の下までシャツが捲れていることに気付き、顔を真っ赤にして元に戻した。

「見るな!」

「見てほしそうに――」

「そこじゃない!」

 エルは憤然としながら半身を起こし、続いて他の通行人が誰も見ていないことを確認してホッとする。銃声を受けて、誰もがこの場から逃げ出したようだ。

 そこでクライブは傍らに置かれたアタッシュケースを見遣り、歩き出す。

「おい、クライブ――」

 一瞬抱いたエルの不安も束の間、クライブはアタッシュケースではなく、その手前に転がっていたナイフを拾い上げていた。そして未だエルの左手を拘束しているワイヤーに振るい切断する。

「アフィンも無事、お宝も無事だ」

 クライブはナイフを放り捨て、エルを助け起こそうと手を差し出した。

「やったな」

 しばしきょとんとした後、エルは微笑む。

「……ああ、やった」

 そうして、彼の手を取って立ち上がる。するとその瞬間、二人の顔は至近距離にまで近づいた。エルが僅かにバランスを崩してよろめいたのだ。

「っ……」

 二人にとって、意図せぬ接近であった。エルは目を見開いたまま、彼の顔を至近距離で見つめる。心臓が自然と高まる。それはクライブも同じであった。

 彼女の唇を貪りたいという欲求――彼の全てを受け入れたいという欲求。

 張り詰めていた心が、一気にとろけそうになる。だが――今はその感情に素直になれるような関係性ではなかった。しばし見詰め合った後、エルは目を泳がせ、ポンポンと彼の胸を叩いて後ろへ下がる。

「と、ところで、ワイアットはどうした?」

「え、ああ、車が事故って救急車を呼んだが、無事だ。親切な通行人が見てくれてる。――むしろこっちが心配だな。っていうか、死んでないか?」

 クライブの視線の先は、女性として見せられないほど醜い顔で泡を吹いて倒れるシャルロットの姿。エルは一応脈を確認し、頷いた。

「大丈夫、気を失っているだけだ」

「おいおい、ホントか?」

「死んでも悲しくない相手だが、こいつに聞きたいことは山ほどある」

 エルはそう告げ、腰のベルトから手錠を取り出し、シャルロットの手にかけていた。

 そこでけたたましいサイレンの音が聞こえてきた。騒ぎを駆けつけ、警察が集ってきたのだろう。エルは咄嗟に困らないよう捜査官の手帳を取り出し、そこで後ろを振り向いた。

「クライブ――」

 だがそこからは既にクライブの姿は無かった。先日、部屋から忽然と消えたときのように。視界の向こうで、走り去っていくグランドチェロキーの後姿。

 エルは深々と溜息をついた。未だ少し赤い顔を意識し、頬に手を当てながら。 

「まったく……」

 熱量操作に長ける彼女も、その胸から込み上げる熱ばかりはどうしようもなかった。

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