第9話 奈落
「――了解、すぐにこちらも向かうわ」
博物館入り口前の階段。携帯端末で通話していたリナリスが、いつも柔和な表情を強張らせながら応じていた。彼女達のチームは博物館の館長と話して警備体制を把握し、館内の監視カメラの映像データをFBIの機材と直結する作業を終えたていた。そうして外に出て張り込みのためのバンへと向かおうとしていた途中で、その連絡があったのだ。
リナリスの表情を見れば何かよからぬことが起きたのは明白であり、通話終了後、すぐにエルは尋ねた。
「何事だ?」
「ビルとロックスがテロリストと交戦中よ。サマドらしき男を発見したらしいわ」
エルとワイアットが一瞬驚きに息を飲み――
「――援護に急ごう」
すぐに三人は急ぎ足で階段を下りる。そこでエルのスマート端末も着信音を響かせていた。何か追加の情報があったのかと胸ポケットから引き出したが、着信相手の名前は『アフィン』と表示されていた。一八時の定時連絡か、何か特別困った事がない限り、仕事中は決して連絡してこない妹である。
緊急事態ではあったものの、エルはすぐに通話に応じていた。
「もしもし? どうしたアフィン?」
だが受話口から耳朶を打ったのは、アフィンの高く明るい声ではなく、もっと艶美で低い女性のものであった。
『余計な発言は慎んで、よく聞きなさい。あなたの妹さんは預かったわ、エルネスティーネ・ハルシュヴァイカー』
「……ッ!」
エルは目を見開き、眩暈のような感覚を覚えつつ、その場で足を止める。
そんな彼女に気付いたリナリスが怪訝そうに振り返っていた。
「エル?」
『あなた一人だけで、博物館に残りなさい。言い訳は好きに考えて』
真っ白に凍りつきそうになる頭を、エルは必死に動かす。心拍数が早まり、身体が震えそうになるのを堪え、平静を装い頷いた。
「――了解した。そう伝える」
通話を切った振りをして端末を懐に仕舞い、声が震えないよう注意しながら告げる。
「私はここに残る。陽動の可能性も捨てきれない」
「だったら俺も――」
ワイアットが提案するも、エルはすぐさま手をかざして首を横へ振った。
「こっちは私一人で充分だ。お前達はビル達の援護に向かってくれ」
エルは子どもを言い聞かせるかのように優しく笑みを浮かべる。彼女らしからぬ柔らかな態度にワイアットは少々怪訝そうだったが、リナリスは気にせず同じように微笑み、彼女の腕をポンと叩いていた。
「わかったわ。でも何かあっても、一人で無茶しちゃだめよ? すぐに応援を呼んで」
「わかってるさ。そっちも気をつけて」
そして二人が階段を降りていき、エルは反転して館内に入る。既に笑みは消えて、焦燥に満ちた表情となっていた。入館と同時に通話状態のままにしておいた端末を取り出す。
「……残ったぞ」
『よろしい。今、画像データを送ったから、じっくり御覧なさい』
女が嗜虐心に満ちた楽しげな調子で告げていた。エルは思わず背筋に冷たいものを感じながら、通話相手から受け取った画像データを確認。
「……ッ!」
椅子に座ったアフィンが、今日の日付の新聞を抱えている。口には猿轡。他には床板と壁しか映っておらず、位置を特定できるものは何も無い。妹を失うかもしれないという恐怖が現実的なものとして襲い掛かり、エルはまともに立っているのも辛く、近くの壁によりかかっていた。すると耳障りな女の笑い声が受話口から響いた。
『あらあら、大変。大丈夫? 立ちくらみかしら?』
「貴様……」
『私の部下があなたの映像を中継しているわ。妙な動きはとらないことね』
エルは周囲の客達を見渡す。あまりに人が多く、監視者はどこかわからなかった。
『それにしても、こんなことで大丈夫かしら? 今から大仕事を頼みたいっていうのにね』
エルは今すぐこの場でこの電話相手を絞め殺したいほどの怒りを覚え、それを糧に気力を絞り、壁から身を離してまっすぐに立った。業腹ではあるが、この女の言うとおり。
妹を救うためには、今この場でエルはへこたれている場合ではなかった。
「……妹の声を聞かせろ」
『あらあら、自分の立場を弁えてる?』
「妹が無事である証拠が無ければ、従う気はない。これは絶対だ」
ここは最低限譲れないところであった。人質の安否を確認しないままに従えば、犯人は余計な『重荷』をあっさりと切り離すはずだ。エルは人質の価値を保たねばならなかあった。女はしばし考え込むように沈黙した後、別の相手が通話に出ていた。
『も、もしもし、お姉ちゃん……?』
その声を聞き、エルはひとまずその無事に安堵を覚える。
「アフィン! 怪我はないか!」
『う、うん、大丈夫……ごめんなさい、お姉ちゃん、私……ああ、本当にごめんなさい!』
「お前が謝ることは何も無い! 必ず助ける! 私を信じて、待っていろ!」
『うん……信じてる。お姉ちゃん、大好きだよ!』
「私もだ、アフィン――」
エルが親愛の情の言葉を返す前に、容赦なく女は通話を交代していた。
『さあ、これで満足ね? ふふ、噂通りの美しい姉妹愛ね。今後も続けたいなら、以降は大人しく従って。私もこんな無垢な女の子を苛める趣味はないけど、貴女の出方次第では八つ当たりしちゃうかも』
その女の口ぶりから、一切の慈悲が期待できないことが理解できた。
エルの行動如何で、アフィンの命運が決まる。誰にも頼れず、彼女がどうにかするしかなかった。エルはいつの間にか滲み出ていた涙を拭い、次の瞬間には決然たる表情を浮かべ問いかけていた。
「……要求は何だ?」
『今から私達の部下が四階に向かい、ある物を盗む予定なの』
「……ある物?」
『とぼけなくてもいいわよ。私が誰だか、もうわかっているのでしょう?』
「……シャルロット・ティナ・フェルディーニ」
『その通り。では私の狙いは?』
「
『その通り。では私に逆らったら、あなたの妹はどうなるでしょう?』
それをエル自らの口に言わせるのは、残酷にも程があった。何よりもこのような嗜虐趣味のある女の傍に妹を置く不安に、油断すれば一気に心が折れそうになる。
「頼む、妹には――」
『質問に答えなさい。あなたは、私に逆らったら、妹が、どうなるの?』
「……命がない」
『その通り。全問正解、よくできました』
シャルロットが満足げに、楽しむように、じわじわ嬲るように告げて笑っていた。
下手な期待を抱かせないように、状況を正しく理解させて、人を操り人形にする。
実に手馴れた犯行は、きっと初めてではないはずだ。それが趣味なのか、あくまでプロとして人の心を操っているのかはわからない。どちらにせよ、今はエルも大人しく操られる他なかった。そうしていずれ来るであろうチャンスを、待つしかなかった。
「私に何をさせる気だ?」
『わかるでしょう? あなたに邪魔な客と警備員を遠ざけてほしいの』
「私にそこまでの権限は――」
途端、鋭く乾いた音が響き、通話の向こう側でアフィンの悲鳴が聞こえた。
エルの背筋に激しい冷気が伝う。
「アフィンッ!」
『あら、聞こえた? 安心して、引っ叩いただけ。ちゃんと手加減もしたから。でも私を苛立たせるなら、次は鼓膜が破れるかもしれないわね』
「やめろ、わかった、なんとかする……!」
『最初からそう言っておけばいいものを。――ああ、それにしてもこの子、すごく可愛いわね。薬漬けにしてから変態に売れば高値がつくでしょうね。最悪の場合、それでも――』
「お前の欲しいものは必ず手に入れる! だから、アフィンに手を出さないでくれ!」
エルは悲鳴にも近い声を、しかし回りに聞かれぬよう注意しながら告げる。
その返答に、シャルロットは満足げな笑い声をあげていた。
『良い子ね。それじゃあ目的の物が手に入ったら、また連絡してあげる』
通話がそこで一方的に切られてしまう。無慈悲なビジートーンが耳に響く。
「……
エルはやり場のない怒りと恐怖に毒づきながら、しかしそんな余裕もないことを思い出し、すぐさま地球宇宙ローズセンターへと向かった。
◆
ジルグム・バーンレイドの身体能力の高さに関しては、前々から疑問があった。
〝ワンド〟の不正利用の可能性は濃厚であるものの、その方法は定かではない。
ナノマシンを政府関係者及び技術者が不正に横流ししている可能性、はたまた何らかの方法で使用者の血液からサンプルが回収され、その技術をコピーされている可能性。
もちろん、それらは導入前から懸念されていた事柄だ。
ただし魔力の流れは等しく〝ミーミスブルン〟が管理するため、不正が発覚できた時点で直ちに差し止め可能だ。エネルギー変換前の魔力の流れは管理に容易く、特に使用されるのがナノマシンであれば、DNA情報を辿って容易く対象者を特定できる。だが問題は、ジルグムの異常な身体能力に関して〝ミーミスブルン〟は、全くの無関係のものであると判断していた点だ。魔力の高まりは感知できるものの、その流出先は特定できないのである。もちろん〝ユグドラシル〟は世界に三つあり、それぞれ異なる魔力として分別されていた。あくまでこれら三つにジルグムの登録情報が無く、ならばまだ未発見の四つ目の〝ユグドラシル〟がある可能性も考えられるが、そこまで言い出せばキリがない。
とどのつまりジルグムの身体能力の高さに関しては、一言〝謎〟と評する他なかった。
屋外へと出ることで、ビルとロックスの戦力は大幅に減じられることとなった。
ビルの電撃糸も、ロックスの音索敵も、高速で逃げる相手には効果が薄く、二人がかりの射撃すら通用しないともなれば、もはやお手上げとしか言いようがないだろう。
だが二人ともプロの捜査官であり、泣き言を告げて犯人の追撃を諦めるようなやわな精神はしていなかった。逃さず追い続け、所在さえ把握していれば、あとは数で追い詰め包囲することが可能だ。いかにジルグムが異常なまでの力を有していようと、人間である限りは必ず限界がある。人海戦術の前には敵うまい。
しかしジルグムも追いかけてくる捜査官に対して、ただ逃げるばかりではなかった。
彼もこのまましつこく追いすがれると不利になることはわかっていたのだ。
廃工場の敷地から捜査官たちが出た途端、物陰から一閃が生じ、逆襲を受けたビルの左腕が宙を舞っていた。
ただ相手が逃げるばかりと、そう思い込んでしまったビルの過失であった。
「――ッッッ!」
鮮血を散らしながら、彼の千切れた腕が放物線を描き、やがて鈍い音を立てて地面へ落ちる。その灼熱の痛みに絶叫を上げながらも、捜査官のリーダーは鬼気迫る表情で無事であった右手の銃を連射。不屈の反撃にジルグムも驚いた顔をしながら後退――しかし銃弾はやはり全て防がれる。だがビルはそうして銃弾を放ちながら〝電撃〟を使用。
着弾と同時に凄まじい電流が刀を迸り、ジルグムは目を見開いた。
「ごっ――かっ、これは、効くなぁ!」
全身を痺れさせ、わずかによろめくも――ジルグムの口元にはまだ余裕の笑みが浮かんでいる。ビルの反撃もさすがにそこが限界で、崩れるようにして膝をついていた。
しかしその横を、怒りの表情でロックスが通過する。上司であり、相棒でもあり、そして親友でもあるビルが重症を負ったことを、彼ももちろん気付いていた。だが、ここで気にかけて足を止めることよりも、犯人を確保することをビルが望んでいることを、誰よりわかっていた。彼が身体を張って犯人を捕らえようとした、捜査官の矜持を無駄には出来ない。ジルグムが痺れて動きを鈍らせている間に、ロックスは全速力で相手に接近。
裂帛の気合を吐きながら、〝
蹴り飛ばされた勢いのまま、ジルグムの身体は後方へと跳んでいた。
「はははっ! 凄いなFBIは! 素晴らしいよ! 素晴らしいが――」
ジルグムは愛用の得物を失いつつも、まだ彼らを嘲笑う。あるいは彼の実力を評価したからこそ嗤う。更に後方へと兎のように跳び続けるジルグムを、ロックスは必死の疾走で追いかけるが――
「――ここまでだ」
そこで十字路の横側から勢い良く飛び出してきた車が、急ブレーキで停車した。
扉の開いたままのワゴン車だった。その中へとジルグムが迷わず飛び乗り、ロックスはそちらに銃を向けるも、車の中から複数の男達が銃を突き返した。おそらくはジルグムの部下達。ロックスは大慌てで近くの車の陰へと飛び退き、次の瞬間放たれた銃弾の雨をあわやというところで凌いでいた。その間に車は再び加速。勢い良く疾走し、瞬く間に視界から遠ざかっていった。
ロックスは苦々しく舌打ちしつつ、急いで蹲る相棒の元へと駆け戻る。
その間に記憶していた車種とナンバープレートの番号を端末で本部に報告していたが、あの狡猾な男がそれで捕らえられることは無いだろうと半ば諦めていた。
◆
ブルックリンの片隅で立て続けの発砲音が鳴り響く中、ニューヨーク――アメリカ自然史博物館でもまた銃声が轟いていた。
引き金を引いたのはエルネスティーネ・ハルシュヴァイカーFBI捜査官。
銃口は天上へと向け。ただし監視カメラと人気の無い場所を選び。
咄嗟の銃声に来館者達はパニックになり、大慌て逃げていく。
「FBIだ! 凶悪事件が発生した! 今すぐここから退避しろ!」
声高に叫びながら、あたかも引き金は別の凶悪犯が引いたものであるかのように振る舞い、避難を誘導する。恐怖のあまり悲鳴を上げる者、泣き叫ぶ子どもの姿もあった。
和やかな休日を踏みにじったことへの罪悪感に押し潰されそうになりながらも、エルには退けない理由があった。続いて発砲音を聞きつけて警備員が数人飛んできたが、エルは彼らに身分証を見せて指示を出す。
「何ものかの襲撃だ! 目的はわからないが、犯人はあちらに逃げた! 私は回りこむ! 援護してくれ!」
FBI捜査官がこの場に来訪していたことは警備員達も知っていたので、その指示に何の疑いも無く従い、示された方向へと駆けていく。
その間にエルは警備員達とは逆方向へと移動。――〝
間に合わせの作戦にしては上手くいき、その場には誰も残っていなかった。監視カメラの映像はバンの機材とデータをリンクしているため、そこから一〇分ほど無人の静止画を流すよう工作しておいた。だが事が明るみになるのも時間の問題だ。そうなればエルは犯罪者――捜査官もクビとなるだろう。しかし、もはや構ってなどいられなかった。妹の命には代えられない。エルは銃床で迷わず展示ケースを破壊しようとし――
「おっと待ちな、回収は俺の役目だ」
背後から近寄ってきた男が告げた。キャスケット帽を被った、どこにでもいそうな平凡な中年男性だ。しかしその瞳の奥の眼光は鋭く、犯罪者特有の粘着的なものがあった。
その男が問うまでもなくシャルロットの手先であると理解したエルは、庇うようにして展示ケースの前に立ち、銃口を相手に向けた。
「ダメだ。これをお前達に渡したら、妹の身の安全が保証できなくなる」
「今そいつを俺に向けても同じことだ。大人しく従ってりゃ、交換場所には一緒に行ってやるよ」
「……ッ」
エルは苦々しく唇を嚙み、しかし結局逆らうことができずに銃口を下げ、脇へとどいた。
男はにんまりとし、苦渋に満ちた顔をするエルの肩をポンと叩き、いやらしく揉んでから、展示ケースの前に立つ。そして持ち運んできた様々な道具を用い、ものの数分とかからず鍵を開けてみせた。男の手によってケースが開封される。
小洒落た万華鏡のような〝
「よぉし、これで――」
勝ち誇ったような笑みを浮かべ、男の両手を伸ばす。だが――
「――お宝ゲット、だな」
直上から錐揉み降下する物があった。ワイヤーフックの先端が〝
冗談のように高々と舞い上がっていくそれを、犯罪者の男とエルは唖然として見上げるしかなかった。〝
「なっ、テメエ!」
「お前――」
無造作に後ろへ撫で付けられた赤髪に、透き通った翡翠色の瞳、整った顔立ちに浮かべるチャーミングな微笑、トレードマークのオースチンリードを着込む伊達男。その場に現れたのは、クライブ・ファーニバル。〝カーニバル・フェイス〟の異名を轟かせる、大泥棒。エルの受けた衝撃は、目前の中年男の驚きの比ではなかった。
何故彼がここにいるのか――?
まさかこの展開を予測し、漁夫の利を得るその瞬間を見計らっていたのか?
「よーよー、あんた、バーンレイドの仲間だろ? 〝スター・キューブ〟はくれてやったけど、こっちは頂きだ。これで一対一の同点だな」
クライブが挑発するように両手の人差し指を立て、男は怒りに顔を震わせた。
「ふっ、ふざけんなっ――」
男は激昂のまま懐から取り出した銃を取り出して構え――しかし引き金が引かれるより先に、エルが咄嗟にその後頭部を殴りつけていた。女子ボクシングで数多のKO勝利をもたらした鉄の右ストレートが、男を一瞬にして気絶させる。
その鋭い一撃の餌食になった男を見て、クライブもまた自分も痛そうに顔を顰める。
「ワオ、強烈だな。――まあけど助かったぜ、ありがとな!」
「まっ……待て! 待ってくれクライブ!」
エルは大慌てで叫んでいた。彼がアフィンを裏切るはずがない。あくまでもジルグム達を出し抜いた程度にしか思っていないのだろう。彼にとってもアフィンは産まれる前から知っている馴染み深い少女だ。いくらクライブが犯罪者に堕ちたとはいえ、彼女を凶悪犯に売り渡したとは到底思えなかった。そう――クライブは何も知らないのだ。その行動が決定的なまでにエルを窮地に追い込むとも知らずにいる。その証拠に彼は晴れやかな笑顔で、いつものキザったらしい仕草で指を振り、踵を返していた。
「――それじゃあアディオス・アミーゴ! なんてな!」
「クライブッ!」
エルの必死の懇願にもクライブは耳を貸さず、彼女の悲壮な表情にさえも気付かず、素早く駆け去り視界から消えた。激しい焦燥に衝き動かされ、エルは大急ぎで階段へと向かい二階へと駆け上る。しかしその場に辿り着いた時には、クライブの姿はそこにはなく――
「頼む、クライブ……! 頼むから、やめてくれっ……!」
エルは途方に暮れて辺りを見渡し、届かない懇願を繰り返すことしか出来なかった。
世界が揺れている。視界が霞んでいく。エルは自分がその場に立っていることさえ忘れそうなほどに、失意のどん底へと落ちていく。
その時――エルの携帯端末が着信音を響かせた。彼女はあたふたと視線を彷徨わせ、動揺した心を落ち着けることも忘れて、通話に出ていた。
予想通りの相手が、耳元で怒りに満ちた声でささやいた。
『さて、これはどういうことかしら? あの道化は何者? あなたの仲間なの?』
エルは頭を抱えて震えながら、必死に首を横に振る。いつの間にか口の中は乾ききっていて、まともに言葉を発するのもままならなかった。
「違う、知らない、違うんだ……違う、私は、知らない……知らなかった!」
『それじゃ済まされないわね。あなたは失敗したの。その意味、わかる?』
「〝
もはや冷静な思考力も失い、エルはただひたすらに懇願した。
「頼む……必ず、結果を出す……だから、頼む……!」
情に訴えても無駄な相手であるのはわかってはいたが、気の利いた言葉も何も思いつかなかった。ただ『
永遠とも思えるほどの長い沈黙の後――不意に、電子音が聞こえた。それがシャルロット側のキャッチ音だと気づく余裕さえ今のエルには無い。だが、結果的にそれが人質の延命に繋がった。シャルロットは溜息をつき、会話を早々に終わらせようとした。
『一時間だけ待ってあげるわ。それまでにどうにかしなさい』
「――ッ! 必ず取り返す! 必ずだ!」
その返事を聞き届けることすらなく、通話は切れる。エルはひとまず首の皮が繋がったことに腰が抜けそうなほどの安堵を覚え、深々と溜め息をつく。
しかしもたもたしている暇などなかった。与えられた猶予はあまりにも短い。
「アフィン……ッ!」
エルはもつれそうになる足で、外へと急いだ。
靄の張り詰める頭を必死に動かしながら。すぐにも折れそうな心を何度も叱咤しながら。
クライブ・ファーニバルを捕まえる方法だけを考え続けた。 ジルグム・バーンレイドの身体能力の高さに関しては、前々から疑問があった。
〝ワンド〟の不正利用の可能性は濃厚であるものの、その方法は定かではない。
ナノマシンを政府関係者及び技術者が不正に横流ししている可能性、はたまた何らかの方法で使用者の血液からサンプルが回収され、その技術をコピーされている可能性。
もちろん、それらは導入前から懸念されていた事柄だ。
ただし魔力の流れは等しく〝ミーミスブルン〟が管理するため、不正が発覚できた時点で直ちに差し止め可能だ。エネルギー変換前の魔力の流れは管理に容易く、特に使用されるのがナノマシンであれば、DNA情報を辿って容易く対象者を特定できる。だが問題は、ジルグムの異常な身体能力に関して〝ミーミスブルン〟は、全くの無関係のものであると判断していた点だ。魔力の高まりは感知できるものの、その流出先は特定できないのである。もちろん〝ユグドラシル〟は世界に三つあり、それぞれ異なる魔力として分別されていた。あくまでこれら三つにジルグムの登録情報が無く、ならばまだ未発見の四つ目の〝ユグドラシル〟がある可能性も考えられるが、そこまで言い出せばキリがない。
とどのつまりジルグムの身体能力の高さに関しては、一言〝謎〟と評する他なかった。
屋外へと出ることで、ビルとロックスの戦力は大幅に減じられることとなった。
ビルの電撃糸も、ロックスの音索敵も、高速で逃げる相手には効果が薄く、二人がかりの射撃すら通用しないともなれば、もはやお手上げとしか言いようがないだろう。
だが二人ともプロの捜査官であり、泣き言を告げて犯人の追撃を諦めるようなやわな精神はしていなかった。逃さず追い続け、所在さえ把握していれば、あとは数で追い詰め包囲することが可能だ。いかにジルグムが異常なまでの力を有していようと、人間である限りは必ず限界がある。人海戦術の前には敵うまい。
しかしジルグムも追いかけてくる捜査官に対して、ただ逃げるばかりではなかった。
彼もこのまましつこく追いすがれると不利になることはわかっていたのだ。
廃工場の敷地から捜査官たちが出た途端、物陰から一閃が生じ、逆襲を受けたビルの左腕が宙を舞っていた。
ただ相手が逃げるばかりと、そう思い込んでしまったビルの過失であった。
「――ッッッ!」
鮮血を散らしながら、彼の千切れた腕が放物線を描き、やがて鈍い音を立てて地面へ落ちる。その灼熱の痛みに絶叫を上げながらも、捜査官のリーダーは鬼気迫る表情で無事であった右手の銃を連射。不屈の反撃にジルグムも驚いた顔をしながら後退――しかし銃弾はやはり全て防がれる。だがビルはそうして銃弾を放ちながら〝電撃〟を使用。
着弾と同時に凄まじい電流が刀を迸り、ジルグムは目を見開いた。
「ごっ――かっ、これは、効くなぁ!」
全身を痺れさせ、わずかによろめくも――ジルグムの口元にはまだ余裕の笑みが浮かんでいる。ビルの反撃もさすがにそこが限界で、崩れるようにして膝をついていた。
しかしその横を、怒りの表情でロックスが通過する。上司であり、相棒でもあり、そして親友でもあるビルが重症を負ったことを、彼ももちろん気付いていた。だが、ここで気にかけて足を止めることよりも、犯人を確保することをビルが望んでいることを、誰よりわかっていた。彼が身体を張って犯人を捕らえようとした、捜査官の矜持を無駄には出来ない。ジルグムが痺れて動きを鈍らせている間に、ロックスは全速力で相手に接近。
裂帛の気合を吐きながら、〝
蹴り飛ばされた勢いのまま、ジルグムの身体は後方へと跳んでいた。
「はははっ! 凄いなFBIは! 素晴らしいよ! 素晴らしいが――」
ジルグムは愛用の得物を失いつつも、まだ彼らを嘲笑う。あるいは彼の実力を評価したからこそ嗤う。更に後方へと兎のように跳び続けるジルグムを、ロックスは必死の疾走で追いかけるが――
「――ここまでだ」
そこで十字路の横側から勢い良く飛び出してきた車が、急ブレーキで停車した。
扉の開いたままのワゴン車だった。その中へとジルグムが迷わず飛び乗り、ロックスはそちらに銃を向けるも、車の中から複数の男達が銃を突き返した。おそらくはジルグムの部下達。ロックスは大慌てで近くの車の陰へと飛び退き、次の瞬間放たれた銃弾の雨をあわやというところで凌いでいた。その間に車は再び加速。勢い良く疾走し、瞬く間に視界から遠ざかっていった。
ロックスは苦々しく舌打ちしつつ、急いで蹲る相棒の元へと駆け戻る。
その間に記憶していた車種とナンバープレートの番号を端末で本部に報告していたが、あの狡猾な男がそれで捕らえられることは無いだろうと半ば諦めていた。
◆
ブルックリンの片隅で立て続けの発砲音が鳴り響く中、ニューヨーク――アメリカ自然史博物館でもまた銃声が轟いていた。
引き金を引いたのはエルネスティーネ・ハルシュヴァイカーFBI捜査官。
銃口は天上へと向け。ただし監視カメラと人気の無い場所を選び。
咄嗟の銃声に来館者達はパニックになり、大慌て逃げていく。
「FBIだ! 凶悪事件が発生した! 今すぐここから退避しろ!」
声高に叫びながら、あたかも引き金は別の凶悪犯が引いたものであるかのように振る舞い、避難を誘導する。恐怖のあまり悲鳴を上げる者、泣き叫ぶ子どもの姿もあった。
和やかな休日を踏みにじったことへの罪悪感に押し潰されそうになりながらも、エルには退けない理由があった。続いて発砲音を聞きつけて警備員が数人飛んできたが、エルは彼らに身分証を見せて指示を出す。
「何ものかの襲撃だ! 目的はわからないが、犯人はあちらに逃げた! 私は回りこむ! 援護してくれ!」
FBI捜査官がこの場に来訪していたことは警備員達も知っていたので、その指示に何の疑いも無く従い、示された方向へと駆けていく。
その間にエルは警備員達とは逆方向へと移動。――〝
間に合わせの作戦にしては上手くいき、その場には誰も残っていなかった。監視カメラの映像はバンの機材とデータをリンクしているため、そこから一〇分ほど無人の静止画を流すよう工作しておいた。だが事が明るみになるのも時間の問題だ。そうなればエルは犯罪者――捜査官もクビとなるだろう。しかし、もはや構ってなどいられなかった。妹の命には代えられない。エルは銃床で迷わず展示ケースを破壊しようとし――
「おっと待ちな、回収は俺の役目だ」
背後から近寄ってきた男が告げた。キャスケット帽を被った、どこにでもいそうな平凡な中年男性だ。しかしその瞳の奥の眼光は鋭く、犯罪者特有の粘着的なものがあった。
その男が問うまでもなくシャルロットの手先であると理解したエルは、庇うようにして展示ケースの前に立ち、銃口を相手に向けた。
「ダメだ。これをお前達に渡したら、妹の身の安全が保証できなくなる」
「今そいつを俺に向けても同じことだ。大人しく従ってりゃ、交換場所には一緒に行ってやるよ」
「……ッ」
エルは苦々しく唇を嚙み、しかし結局逆らうことができずに銃口を下げ、脇へとどいた。
男はにんまりとし、苦渋に満ちた顔をするエルの肩をポンと叩き、いやらしく揉んでから、展示ケースの前に立つ。そして持ち運んできた様々な道具を用い、ものの数分とかからず鍵を開けてみせた。男の手によってケースが開封される。
小洒落た万華鏡のような〝
「よぉし、これで――」
勝ち誇ったような笑みを浮かべ、男の両手を伸ばす。だが――
「――お宝ゲット、だな」
直上から錐揉み降下する物があった。ワイヤーフックの先端が〝
冗談のように高々と舞い上がっていくそれを、犯罪者の男とエルは唖然として見上げるしかなかった。〝
「なっ、テメエ!」
「お前――」
無造作に後ろへ撫で付けられた赤髪に、透き通った翡翠色の瞳、整った顔立ちに浮かべるチャーミングな微笑、トレードマークのオースチンリードを着込む伊達男。その場に現れたのは、クライブ・ファーニバル。〝カーニバル・フェイス〟の異名を轟かせる、大泥棒。エルの受けた衝撃は、目前の中年男の驚きの比ではなかった。
何故彼がここにいるのか――?
まさかこの展開を予測し、漁夫の利を得るその瞬間を見計らっていたのか?
「よーよー、あんた、バーンレイドの仲間だろ? 〝スター・キューブ〟はくれてやったけど、こっちは頂きだ。これで一対一の同点だな」
クライブが挑発するように両手の人差し指を立て、男は怒りに顔を震わせた。
「ふっ、ふざけんなっ――」
男は激昂のまま懐から取り出した銃を取り出して構え――しかし引き金が引かれるより先に、エルが咄嗟にその後頭部を殴りつけていた。女子ボクシングで数多のKO勝利をもたらした鉄の右ストレートが、男を一瞬にして気絶させる。
その鋭い一撃の餌食になった男を見て、クライブもまた自分も痛そうに顔を顰める。
「ワオ、強烈だな。――まあけど助かったぜ、ありがとな!」
「まっ……待て! 待ってくれクライブ!」
エルは大慌てで叫んでいた。彼がアフィンを裏切るはずがない。あくまでもジルグム達を出し抜いた程度にしか思っていないのだろう。彼にとってもアフィンは産まれる前から知っている馴染み深い少女だ。いくらクライブが犯罪者に堕ちたとはいえ、彼女を凶悪犯に売り渡したとは到底思えなかった。そう――クライブは何も知らないのだ。その行動が決定的なまでにエルを窮地に追い込むとも知らずにいる。その証拠に彼は晴れやかな笑顔で、いつものキザったらしい仕草で指を振り、踵を返していた。
「――それじゃあアディオス・アミーゴ! なんてな!」
「クライブッ!」
エルの必死の懇願にもクライブは耳を貸さず、彼女の悲壮な表情にさえも気付かず、素早く駆け去り視界から消えた。激しい焦燥に衝き動かされ、エルは大急ぎで階段へと向かい二階へと駆け上る。しかしその場に辿り着いた時には、クライブの姿はそこにはなく――
「頼む、クライブ……! 頼むから、やめてくれっ……!」
エルは途方に暮れて辺りを見渡し、届かない懇願を繰り返すことしか出来なかった。
世界が揺れている。視界が霞んでいく。エルは自分がその場に立っていることさえ忘れそうなほどに、失意のどん底へと落ちていく。
その時――エルの携帯端末が着信音を響かせた。彼女はあたふたと視線を彷徨わせ、動揺した心を落ち着けることも忘れて、通話に出ていた。
予想通りの相手が、耳元で怒りに満ちた声でささやいた。
『さて、これはどういうことかしら? あの道化は何者? あなたの仲間なの?』
エルは頭を抱えて震えながら、必死に首を横に振る。いつの間にか口の中は乾ききっていて、まともに言葉を発するのもままならなかった。
「違う、知らない、違うんだ……違う、私は、知らない……知らなかった!」
『それじゃ済まされないわね。あなたは失敗したの。その意味、わかる?』
「〝
もはや冷静な思考力も失い、エルはただひたすらに懇願した。
「頼む……必ず、結果を出す……だから、頼む……!」
情に訴えても無駄な相手であるのはわかってはいたが、気の利いた言葉も何も思いつかなかった。ただ『
永遠とも思えるほどの長い沈黙の後――不意に、電子音が聞こえた。それがシャルロット側のキャッチ音だと気づく余裕さえ今のエルには無い。だが、結果的にそれが人質の延命に繋がった。シャルロットは溜息をつき、会話を早々に終わらせようとした。
『一時間だけ待ってあげるわ。それまでにどうにかしなさい』
「――ッ! 必ず取り返す! 必ずだ!」
その返事を聞き届けることすらなく、通話は切れる。エルはひとまず首の皮が繋がったことに腰が抜けそうなほどの安堵を覚え、深々と溜め息をつく。
しかしもたもたしている暇などなかった。与えられた猶予はあまりにも短い。
「アフィン……ッ!」
エルはもつれそうになる足で、外へと急いだ。
靄の張り詰める頭を必死に動かしながら。すぐにも折れそうな心を何度も叱咤しながら。
クライブ・ファーニバルを捕まえる方法だけを考え続けた。
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