第8話 ジルグム

 アメリカ自然史博物館はセントラルパークの西側に位置した。ニューヨーク最大級の博物館で、多数の展示物を扱っている。とりわけ恐竜の化石が目玉であり、連日多くの家族連れと観光客で賑わったいた。そして正面入り口右手、館内に併設された地球宇宙ローズセンターではプラネタリウムが上映されている。全体的にレトロな雰囲気の本館と比べて、そこは宇宙ステーションを連想させる近未来的な空間だ。

 〝最古の天象儀オールド・プラネタリウム〟はそこに特別展示されていた。〝スターキューブ〟の特別展示と張り合うようにして。もちろん投影はされないが、それによって見られる映像は最新鋭のプラネタリウムによって再現されている。

 ひとまずエル達は一般客に紛れてホールに展示される〝最古の天象儀オールド・プラネタリウム〟を見ていた。ただし人が多いため、少し離れた後ろから。それは想像してたよりも小さく、片手でも持ち運べそうな代物だ。天象儀というよりも万華鏡のようである。

「我々が注意せずとも、ここの警備は厳重だ」 

 エルは周囲を見渡し、警備員の配置を確認していた。

「特に今日は日曜だし、人入りも多い。何かしら行動を起こされない限り、犯人を見つけるのは至難だな」

「そうね……さすがに盗みに入るとしても夜間かしら」

 リナリスは腕を組み、気の無い風にしながらも、しっかりと出入り口の位置を確認していた。そこで彼女は深々と嘆息する。

「となると、今日は夜通しワゴンで張り込みなのかしらね?」

「憂鬱だな」

「先週やったばかりだものね。おかげで最近、肌が少し荒れてきたの」

 リナリスがムンクの『叫び』のように頬を押さえて嘆く。そんな彼女の肌をまだまだ一〇代のように滑らかだと感じていたエルは、怪訝そうに顔を覗きこんだ。

「どこが?」

「ここが」

「あ、本当だ、可哀相に」

「ありがと」

 リナリスは悲しげに溜息をつき、しかしすぐに気を取り直すように告げた。

「ごめんなさい、少しお手洗いに行ってくるわ。ワイアットの見張りはお願いね」

「ああ」

 請け負ったエルは相棒と一旦別れ、近くから〝最古の天象儀オールド・プラネタリウム〟を眺めていたワイアットの傍へと近づいた。今は他の客もいなかった。彼女が隣に立ったことに気付き、今まで黙り込んでいたワイアットがハッと顔をあげる。

 そしてやや間を空けてから、微笑んで告げた。

「紀元前のものでこれだけ精密な代物を作れるなんて、グロリア時代も信じたくなるね」

 エルは彼を振り返らぬまま、淡々とした口調で返す。

「〝塵法術ナノ・ウィッチクラフト〟も、つい十数年前までは存在していなかった。それに〝ユグドラシル〟なんて代物があるんだ、かつて人類が英知を極めていたのだとしても、不思議じゃない」

「それだけの技術を得ても、人々が星の輝きに心を奪われていたのは、今も昔も変わらないわけだ」

 エルはきょとんとして彼の顔を見た。その反応に、ワイアットは少し赤面する。

「ごめん、ちょっとキザだった?」

「人類はまるで進歩していない、ということか?」

 エルの的外れな受け取りに、ワイアットは少し唖然としたが、訂正はしなかった。

「ああ、うん……そうかもね」

 そうしてワイアットは再び黙り込む。その反応が浮かれていた昨日とは打って変わって憂鬱そうで、エルは気になった。

「どうした? 様子が変だ」

「あ、いや……ジルグムは……本当に生きてたんだなって、改めて思ってさ」

 なるほど――とエルは理解する。昨日の浮かれた反応は、いわば現実逃避的な昂揚であったのかもしれない。一晩時間を置くことで、彼は正確に自分の置かれた状況を理解したようだ。死んだはずの兄が蘇り、再び事件を起こしている。終わったはずの悪夢が再開したとなれば、誰であろうと気が滅入るだろう。

「ジルグムとは、仲の良い兄弟だったのか?」

 その問いかけに意外そうな顔でワイアットが振り返り、次いで苦笑し首を振った。

「子どもの頃のジルグムは、よく俺の面倒を見てくれたし、俺も懐いていたけど……いつも、あの人が何を考えているのかわからなかった気がする。いや……実際、何もわかってなかったんだろう。あんな惨い人殺しを、平然としてしまう兄だなんて、これっぽっちも思っていなかったから……」

 無言で言葉を聞きながら、エルは少しだけ彼に同情していた。もちろん泣き落としで信頼を得ようという魂胆かもしれない。方々から注意を受けているので、その可能性は忘れない。無条件で信じるには、彼とはまだ何の信頼関係も築けていなかった。

 だが仮にその反応が本物であるならば――エルにも少しわかる感覚だった。

「人は人の心を読めない……どれだけ慕っていても、わからないものはわからない」

「もう慕っていない。両親が、それに多くの人が殺されたんだ」

「あ、いや……」

 エルは少し慌てる。今のが別の誰かを指した言葉であると気付き、少し顔を赤くした。

 幸い、ワイアットはそれには気付いていなかったが。

「だが認めたくなくても、兄弟である俺にはあの男を捕まえる義務がある。――いや……違うな。それもひょっとすると、自分のためかも」

「……どういうことだ?」

「悪夢を見るんだ……毎日のように。兄が惨殺した被害者の写真を、俺は警官として何度も見ていた。それがジルグムの犯行だと知ってから、自分がその人たちを切り刻んでいる夢になった。あの人たちが殺されたのは、ジルグムの異常性をもっと早くに見抜けなかった俺のせいでもあるんだ……」

 ワイアットは大きく息を吐き出してから、エルの方へと向き直り、決然と告げていた。

「この悪夢を終わらせたい。もうこれ以上、犠牲者を出させない。ジルグムを捕まえて、必ず電気椅子に座らせてやる」

 エルはしばしその瞳を真っ直ぐに見つめ返す。嘘を言っている風には見えない。これで演技なら相当な役者だ。もちろん世の中にはそういう手合いがいることをエルも知っていたし、先ほどゼルギウスから忠告を受けたばかりだ。だが――

 疑いを晴らすチャンスを与えるぐらいは、許しても良さそうだった。

 どこぞの誰かと違って、彼はエルにしっかりと〝理由〟を打ち明けたのだから。

「……意気込みはいい。結果を出してくれ」

 だがエルは突き放すような言葉をあえて容赦なく彼に与えた。途端、ワイアットは少し傷ついた風に言葉を失ってから、苦りきった笑みを浮かべる。

「手厳しいな」

「私に優しさを期待するな」

「確かに、そうだね。すまない、俺はまだ何も役立っていない」

「その通りだ」

 エルは一切遠慮なく頷き認める。

「――しかし私たちもそれは同じだ。未だ連続殺人犯を野に解き放っている」

 目を見張るワイアットに、エルは言葉を続けた。

「お前が無能であったかどうかは、事件が解決したあとに判断してやる。せいぜい力になってくれよ。そして決して裏切り者で無いことを期待している」

 それがエルの出した回答だ。彼女はあくまで公平だった。ワイアットの決意が真実か否かは関係ない。ジルグム達を凶悪犯逮捕すること――それが最優先事項だ。その結果さえ出してくれれば、エルは初めて彼を信じることが出来るだろう。

 そのように一歩離れた位置から、エルは彼の存在を認めた。

「……」

 彼女の言葉がよほど意外であったのか、ワイアットは呆然としたまま何も言わなかった。

 ややあってから、エルは眉を吊り上げて首を傾げる。

「……私の結論は変だったか? 私としては、これでいいと思ったんだが」

「あ、いや……君が優しいのか優しくないのか、よくわからなくてさ」

「なんだそれは……」

 そこでワイアットは、不意に耐え切れなくなったように軽く噴き出し笑い出す。

 何の笑いかわからず、エルは目を瞬き――そこでリナリスがその場に戻ってきた。

「お待たせ。――あら、お邪魔したかしら?」

「何を? ――さあ、そろそろ館長に話をしに行くぞ」

 エルはいつものさばさばとした調子で告げ、意識を仕事のそれに切り替え歩み出す。

 その後方でリナリスが少し考え込むように顎に手を当てた後、ワイアットに尋ねていた。

「で、どうだったの?」

「え、何が?」

「いえ、何でも」

 今の反応だけで全て理解したと言わんばかりに、リナリスは先行するエルの背を追った。

 取り残されたワイアットはわけがわからず、両手を拡げることしかできなかった。


                 ◆


 ブルックリン東、レッドフックの人気の無い廃工場。

 中流から下流層の住まうそのエリアに、場違いなまでの高級車――黒のジャガーXJが登場した。ビルの愛車だ。従来品でも一〇万ドル以上はするそれは、様々な最新システムを組み込む改造で更に費用が嵩んでいる。

 テロリストの拠点である疑いのある現場で、戦々恐々としながらFBIの登場を待っていた市警のオーウェンも、その瞬間は苦い顔をせずにはいれなかった。齢六〇を過ぎながら今だ巡査部長の彼がこのジャガーを手に入れるには一年分以上の給料が消し飛ぶだろう。連邦捜査官に対して別段敵対意識を持たない彼でさえ、このときばかりは卑屈な嫌悪を感じざるを得なかった。

 それでも、やっとこの厄介な現場を丸投げできる相手の登場はやはりありがたかった。

 オーウェンは新米の頃、凶悪犯に腕を撃たれた苦い経験から、出世をまるで無視し、上手く立ち回って安全な案件ばかりを取り扱ってきた。給料は高いほうがいいには決まっているが、命より大切なものではない。

 引退も間近に迫りつつあるというのに、わざわざ危険な山を抱える必要は無かった。この手に余る凶悪事件は危険好きの捜査官にでも任せておけばいい。――少なくともオーウェンは自分の考えに何の恥じも感じていなかった。ジャガーから降り立ったビルとロックスは、まず廃工場前に佇み待っていた二人の市警のもとへと向かった。

「わざわざすみません、お待ちしていましたよ」

 整えた口髭をした小太りの男――オーウェンが進み出る。

 彼に対してビルは胸ポケットから身分証を取り出した。

「FBIのラングフォードだ」

「ロックス・ロナードです」

 相棒のロックスが後ろから続く。

「八一分署のオーウェン・ウッド巡査部長です。こっちは相棒のゲイリー」

 オーウェンの相棒――ゲイリーはがっちりとした体格の四〇代の男だった。オーウェンよりもずっと摂生に努め、必要以上な仕事はしないが、決して手を抜くこともないといった雰囲気がある。彼らは手早く握手を交わし、挨拶もそこそこにビルが本題へ移った。

「持ち主不明のトラックが待機させてあると聞いたが?」

「ええ、そうです。どうぞ中へ。と言っても私の家じゃないんですがね」

 オーウェンのジョークに、ロックスだけが笑みを浮かべていた。巡査部長も自身の緊張を和らげるために言っただけで、反応など期待していなかっただろう。

 四人は廃工場の中へと入った。そこは放置されてからかなり時間が経つのだろう。薄暗い屋内は埃っぽく、用途不明の機材がそこかしこに転がっている。

「正直、私も最初はよくある神経質な住民の通報かと思いました。けどどうも、普通の廃墟には見えなかったんです。警官としての直感ってやつですかね」

 もっともらしく語るオーウェン巡査部長の言葉は少々胡散臭いものがあったが、ロックスは話をあわせて彼を持ち上げた。

「見事な直感です。特に適確な行動を促す直感は大事ですからね」

 それは早々にFBIに連絡を入れたことに対する謝辞でもあった。市警が協力的であれば、連邦捜査官は仕事が何倍もやりやすくなる。このようなテロに関わる凶悪事件となればFBIの専門だが、出世欲が強い警官ならば決して手柄を譲るまいとして情報を独占することが多い。事件が解決できればそれでも別に構わないのだが、彼らの捜査は旧態依然のもので目立った功績が出せず、結果事態を徒に悪化させてしまうのが常であった。

 やがて四人が辿り着いた工場の奥には、幌つきのトラックが三台停めてあった。どれもまだ真新しい。まず間違いなく、工場が放棄された時に捨てられたものでは無いだろう。

「埃も被っていない。一台で少なくとも一〇人は運べる」

「それが三台も。確かにこれは怪しいですね」

 ビルとロックスは慎重に車の状態を調べた。下手にこじ開けようとはせず、まず罠の類いがないかをチェックする。

「車のナンバーは?」

 ビルは車の下やタイヤをマグライトで照らしながら問い、それにはゲイリーが答えた。

「調べましたよ。名義はシックスシープカンパニーとなっていましたが、これが完全なダミー会社のようで……」

「購入経路は?」

「それは現在調査中です。――もちろんすぐに突き止めますよ」

 別に責めているわけではなかったが、どこか言い訳がましくオーウェンが言い添えた。

 構わずビルは立ち上がりながら、静かな口調で呟いた。今度は隣の相棒に向けて。

「これを使って、どこかに襲撃をかけるつもりだったのだろうか」

「我々の追っている事件と関連していると思いますか?」

「中東の男が目撃されたというだけでは、なんともな」

 マンハッタン島を西に越えたブルックリンは、多種系統の人々が民族ごとに別れてコミュニティを形成し暮らしている。南のベイリッジに行けばアラビア語ばかりで、そこがアメリカとは思えないだろう。テロ活動が頻繁に起こるようになってからは何かと人種差別によって謂れの無い敵愾心――または畏怖を受ける彼らは、わずかでも怪しげな動きを見せればこうして通報されることがあり、何かと問題になっていた。

 本来、宗教的に平和主義な彼らからすれば、一部の過激な者たちと纏めて同じ危険な人種と思われることにさぞ迷惑していることだろう。――もちろんコミュニティを離れてこんな人気の無い場所をうろついていたのなら、それも疑われても仕方は無いのだが。

 そして事実、事件性が高く見られるものが、この場所で発見された。

 ビルはしばし黙考した後、周囲を見渡した。

「もう少し辺りを詳しく調べてみよう」

「そうですね。――では、私が踊りましょうか」

 ロックスの発言に、市警二人はそれがどういうジョークか考える羽目になった。しかし上司のビルはニコリともせずに頷きかける。決してそれは冗談の類いではなかったからだ。

 ロックスは僅かに笑みを浮かべ、そしておもむろに踵を鳴らした。カッ――と、よく響く音が駆け抜ける。市警達は呆気に取られていた。彼らはそこで初めて、若い方の捜査官がタップシューズを履いていることに気付いたのだ。ロックスは靴底に金属の貼り付けられたそれをはきながら、今の今まで全く足音を鳴らさず歩行していた。

 市警の目も気にせず、彼は踵で音を立て、更に数歩進んで踵を鳴らす。傍目には彼の気がふれたようにしか見えなかった。もちろんロックスも遊んでいるわけではない。

 彼の踵は今、〝塵法術ナノ・ウィッチクラフト〟によって潜水艦などに用いられるアクティブ・ソナー同様の効果を齎していた。

 反響定位――音を鳴らし、物体から跳ね返ってきた音によって周囲の状況を探るというものだ。効果範囲はさほど広くは無いが、数度踵を叩けば彼の脳裏には周囲の物体が手に取るように把握できた。言わば蝙蝠と同じ能力を手にしたロックスの前では、たとえ誰がどれだけ上手く息を殺して隠れても物の数秒で居場所を割り出されてしまうだろう。

 彼が子どもならば、おそらく友達の誰も『かくれんぼハイドアンドシーク』には誘うまい。

 十数秒とかからずロックスはとあるものを発見し、〝踊る〟のをやめた。

「ビル、こっちです」

 ロックスが奥へと歩み始め、ビルが迷わず後に続き、二人の市警も唖然としたまま追従。

 数フィート先にガラクタが山積みになっている箇所があった。注意しなければ気付かないが、そこだけ不自然に物が多く見える。

「すみません、手伝ってもらえますか?」

 ロックスがその一角を示し、戸惑いつつも捜査官二人は力を貸して、共にそこから邪魔な物をどかせる。すると掘り出した場所に、簡素な造りの、取っ手つきの鉄板が現れた。

 ビルが慎重にそれを引き上げる。するとそこには地下へと伸びる梯子が確認できた。

「なんてこった……」

 オーウェンがポカンと口を開け、ゲイリーが信じられないといった様子で目をむいていた。〝塵法術ナノ・ウィッチクラフト〟の技術は極めて秘匿性が高いため、知らぬ者からすれば彼らが本当に魔法使いにしか見えなかったのだろう。

「なるほど、いかにもですね」

 災害救助犬さながら、ピンポイントでその場所を探り当てた当の本人の方が、涼しい顔をしている。

「いったいどうやったんだ? それが噂の――」

「申し訳ない。教えたいのは山々ですが、機密なので」

 ロックスは温和に微笑みかけるが、その瞳に何とも言い難い圧力を感じ取り、市警二人はそれ以上は口を閉ざすしかなかった。

 梯子の先がどこへ繋がっているのかはわからない。しかしこの状況で、わざわざ隠されていた地下ともなれば、テロリストが潜伏している可能性も考えられた。

「降りるぞ。――私が先行する。ロックスは援護を」

「了解です」

 その高い索敵能力を考えるならばロックスが前衛向きにも思えるが、その実、火力に乏しく攻めてにかける。一方ビルの能力は攻撃的で、散弾銃のように範囲が広いため、前方に味方がいると巻き込む危険があった。故にロックスはビルと組む場合、後方からのサポートに徹するようにしている。

「自分達はどうすれば?」

 二人が迷いも無く梯子を降りようとしているので、オーウェンが慌て出した。

 何が待ち構えているかもわからない地下に、一緒に行くのは勘弁したいのだろう。

 もちろんビル達も余計な荷物を背負うつもりはなかった。

「ここに残ってくれ。我々が一〇分経っても戻らなければ応援を呼んでほしい」

「お安いご用で」

 オーウェン達は心底安堵した様子で請け負っていた。


 梯子はさほど長くは無かった。降り立った先でビルはホルスターから銃を抜き放ち、マグライトと共に構え、壁を照らす。下水路ではない。通路があり、部屋わけもされている。

 どうやら別の施設の地下。そこに廃工場の床に穴を掘って直結させたようだ。

 もちろんこちらも今は元の持ち主が放棄した場所のようである。奥へと続いているが、先は入り組んでいて見渡せない。

 ロックスが続いて降り立つのを確認し、ビルは口を閉ざしたまま手信号を送る。

 応じてロックスが一度だけ踵を鳴らし、周囲の状況を確認。次いで首を振り、最低でも周囲三〇フィート内には誰もいないことを伝えた。

 ビルはそれでも口は噤んだまま、慎重な足取りで進行を開始。ロックスの反響定位は優秀だが、放つ音も大きいため敵側にも位置を教える危険がある。極力使用回数は控えるべきであった。それに〝ユグドラシル〟から魔力のバックアップがあるとはいえ、体内ナノマシン操作には高い集中力が必要となり、精神的消耗が激しい。それは言わば玉乗りしながらのジャグリングのようなものだ。調子に乗って使い続ければ知らぬ間に疲労が蓄積して使用不能に至るため、乱用は禁物である。安全圏であるはずの三〇フィートを慎重に進んだ後、二人の捜査官はボイラー室へと辿り着く。錆び付いた旧世代の機械釜の巨体がいくつか並ぶ。

 パイプの上でネズミ達が、二人の斜め上を走り去っていく。人を恐れての逃走。

 向かってきた方向から考えて、奥に人がいるということか?

 ビルが前方の安全を確保し、再び相棒へ反響定位の使用指示。

 そうしてロックスが踵が音を鳴らした瞬間、闇の向こう側から銃声が鳴り響いた。ばら撒くようなフルオート射撃――自動小銃カラシニコフだった。こちらの接近を既に察知し、待ち伏せしていたのだ。

会敵コンタクトッ!」 

 ビルとロックスは咄嗟に遮蔽物――ボイラーへと身を隠し、弾丸の雨が火花を散らす。

 二人は怯まず、すぐさま応戦。襲撃者の正体も未だ不明だが、命の危機とあっては迷わず拳銃を撃ち返す。先手を取ったはずの相手は瞬く間に返り討ちにあって胴と頭を射抜かれる。だが安堵する暇も無く――

「四時方向!」

 相手の位置を把握していたロックスが、回り込んでいた敵を知らせる。ビルが対応し、回り込んできた一人を適確に撃ち抜いた。

 そこで出し抜けに周囲の照明が灯り、一気に視界が確保される。闇に慣れ始めた目には眩しかったが、目を晦ませている暇は無かった。

 次々と奥の部屋から武器を持った男達が現れ、各々手に持った武器を乱射する。

再装填リロード!」

 手早く空の弾倉を捨て、懐から取り出した新たな弾倉を装填する。そうしながら、先ほど後方から回り込んで返り討ちに倒れた男が、中東系であることを確認していた。

 周囲に響き渡る男達の怒号も、インド・イラン語派の独特な響きがある。

 どうやら当たりを引いたらしい。ただし釣り上げるための障害も大きい。

 細い釣り糸が切れるどころか、嵐の海に引きずり込まれかねない勢いだ。

「正面に五人! 後方は任せて!」

 会敵してしまえば今更音を気にする必要も無く、ロックスは身を低くしたまま何度も踵を鳴らして敵の位置を把握していた。数の上では圧倒的に不利だが、ビルとロックスのコンビはこのような屋内での閉鎖された場所でこそ部類の強さを発揮する。ロックスの能力が短距離索敵において有能なのは言わずもがな、ビルもまた、既に〝塵法術ナノ・ウィッチクラフト〟を行使していた。

 彼が先ほどから撃っている弾丸には、目には見えない――そもそも物体としては存在しない魔力の糸が伸び、銃口と繋がっていた。もちろん任意に切り外しが可能なものだ。

 糸は導線。弾丸は避雷針。そしてビル・ラングフォードの能力は――〝電撃〟

 そうとは知らず、銃撃で応戦していた男達は優勢と見るや距離を縮めようとし――刹那、空間を激しい雷撃が駆け抜ける。空間が破裂するような乾いた音が響いたと思うや否や、五人の男達が瞬く間にその場に昏倒していた。

 ただ闇雲に射撃している風を装いながら、ビルはその糸を蜘蛛の巣のように巡らせていた。一定空間内では撃てば撃つほど、効果範囲は広まり、彼は有利になる。

 ビルの〝ワンド〟適性能力はC+。平凡レベル。優秀な若手達と比べれば頭一つ分以上に劣る。ただしこの適性判定はあくまでも〝出力量〟に重きを置いている。すなわちどれだけの威力で術を行使できるか、というものだ。だが〝塵法術ナノ・ウィッチクラフト〟は個々の特性によって異なるため、必ずしも威力が高ければ優れているというわけではない。

 ビルが操る〝電撃〟は本気で放っても百万ボルト以下――せいぜいスタンガン程度の威力。ただし彼は軍人ではなく捜査官であり、殺害ではなく逮捕を目的としている。

 殺傷可能レベルまで電撃の威力を上げる必要に迫られたことは無かった。

「ビル! 誰かが奥へと逃げています!」

「追うぞ!」

 形勢が一気に逆転し、ビルとロックスはすぐさま移動を再開し、更に奥へと進む。

 物陰に隠れた男が隙を衝こうとしていたが、ロックスによって場所を見抜かれていた。

 逆に死角から背後に回りこんだビルが、銃床で伏兵の後頭部を殴り、昏倒させる。

 そこでロックスが通路の奥に目をすがめ、ハッとなり叫んだ。

「サマドらしき男を発見!」

 ビルは彼の視線の先を振り向く。駆け去る男の後姿。遠目ゆえに判然とはしないが、確かに資料で見た写真の男と特徴が似ていた。彼が本当にサマドならば、今し方襲い掛かってきた男達は彼を逃がすため捨て石になった連中だ。

「絶対に逃がすな!」

 全速で走るにはあまりに入り組んでいたが、二人は放たれた猟犬のような速度で猛追をはじめた。そうして走りながらビルは携帯端末に連絡を入れる。

「ビル・ラングフォード特別捜査官だ! ブルックリン、レッドフック一〇二番街、ビアード通り沿いの廃工場地下! サマドと思しを男を発見した! 現在、テロリストと交戦中! 敵は自動小銃を装備! 至急一帯を封鎖、応援を頼む!」

 そこで角に隠れていた男がナイフを振り上げて飛び出し、しかしその動きを予測していたロックスは、難なくそれを摑んで防ぐ。そして逆に相手の腹部へ掌を叩き込んでいた。あたかも中国拳法、八極拳の『発勁』のような動きだが、本質はまるで違う。

 これもまた〝塵法術ナノ・ウィッチクラフト〟。彼の能力は索敵だけではなく、激しい振動を直接敵対者に伝えることも可能であった。全身をまるでシンバルのように揺さぶれ、男は今までの人生で味わったことのない衝撃に目を剥き、泡を吹いて倒れる。

 中度レベルの脳震盪。おそらく目覚めても二日は気分の悪さが抜けないだろう。

 その男が囮になっている間に、サマドらしき人物は更に奥へと逃げていた。

 彼の目指す先には階段があり、扉からは外の光が漏れ込んでいる。大急ぎでそちらへ向かう彼を――だが回り込んで横の通路から飛び出したビルが体当たりし、そのまま壁に叩きつけた。男は抵抗しようとするも、先んじてビルの電撃が炸裂。

 迸る鬼火の閃光。激しい痙攣――男は陸に上がった魚のように震えた後、白目を剥いて気絶。ビルはその身体を支えゆっくりと座らせ、そこでようやく安堵に大きく息をついた。危うく取り逃がすところであった。さしもの彼も普段通り泰然自若とはいかず、肩で息をしながら、やれやれとスーツの乱れを整える。

「ロックス!」

 ビルが呼びかけると、相棒の若きエリート捜査官は素早く追いついてきた。ロックスは汗一つかかず涼しい顔をしたまま、そこに座り込む人物を見て微笑む。

「やりましたね」

「確認がまだだ。君が見てくれ」

 ビルは少々、体力の衰えに面白くないものを感じ、ぶっきらぼうに告げていた。

 彼もサマドの写真は何度も目にして顔を覚えていたが、抜群の記憶力を持つロックスが確認するほうが確実であった。もちろん、ビルも既に九割九分は疑っていなかったのだが。

 どこまでも慎重なボスに苦笑しつつも、ロックスは気を失って俯くテロリストの顔を手で持ち上げて見やる。

「どうだ?」

「サマドです、間違いありません」

「よし、いいぞ」

 そこで初めてビルが初めて口の端を吊り上げる。手強い凶悪犯二人の片割れを確保できた。いや、個の戦力で言えばジルグムの方が上だが、テロリストとして危険なのはサマドの方だ。この功績はかなり大きい。更に情報を引き出せば、一気にジルグムの逮捕にも繋がるかもしれなかった。ビルはサマドの前に膝をつき、まず彼の両手を後ろに回して手錠をかけた。次いで眠る男の耳元で軽い電撃を放つ。痺れるような耳障りな音に、サマドはビクリと跳ね上がり、覚醒。目を見開いて荒い呼吸をした。

 その息が整うのも待たずにビルは問いかける。

「FBIだ。サマド、英語は喋れるか?」

 対してサマドは中東の言語で何事かを告げる。挑むような調子で。全く理解できずビルは振り返り、ロックスも首を横へ振った。

「どうやら通訳が必要だな。よし、このままオフィスまで――」

 その時、凄まじい戦慄が二人に背後から襲いかかった。

 吹きつけた突風。急襲する斬撃。

 ビルとロックスは咄嗟にその場から飛び退き、瞬間、鋭い銀光が孤を描いて空間を薙いでいた。〝ワンド〟によって身体能力が向上、五感が鋭敏化した捜査官だからこそ間一髪の回避が間に合った。だが一般的な能力しか持たない――しかも座り込んでいたサマドにはその死神の一撃を躱わすことなど無理な相談であった。

 恐るべき斬撃はサマドの身体を上下真っ二つに両断し、のみならず奥の壁に巨大な一文字を刻む。飛び散る鮮血。ゴトリと音を立てて、上半身と、手錠に繋がった肘から先の両手が落ちていた。即死は疑う余地なし。飛び退いていたビルとロックスは、瞬間苦々しい顔になる。捜査官達への奇襲ではなく、彼の口封じこそが真の目的であったのか。

 しかもわざわざ、もう一人の首領格自らいて。

 その場に現れたのはハンサムな顔立ちの男性。首筋には天使を喰らう髑髏の刺青。いかに慎重なビルも、こればかりはロックスに確認するまでもなかった。彼こそがジルグム・バーンレイド――〝ニューヨークの切り裂き魔〟と呼ばれた殺人鬼であることを。

 捜査官二人は驚愕しながらも、すかさず銃を構える。

「動くな! バーンレイド!」

「今すぐ武器を捨てろ! 少しでも近づけば撃つ!」

 警告する彼らを意に介した様子も無く、ジルグムは味方だったはずの男の亡骸へ語りかけていた。

「今までありがとうサマド。君には本当に感謝している。やはり現役テロリストから学んだことは多かったからね。本当はまだまだ役立って欲しかったし、助けるつもりだったが……すまない、ちょっと遅すぎたみたいだ」

 さも残念そうに告げるジルグムに、二人は唖然とするしかなかった。ほんの些細な時間差で味方を斬り捨てた冷酷さもさることながら――

 テロリストのやり方を学ぶ――たったそれだけの目的で、この男はテログループに接触を持ち親交を深めたのだ。それはもはや狂気としか言いようがない。

 理解と共に、ビルの胸中で天秤の針が大きく傾く。危険度で言えばサマドの方が上と判断していたが、それは全くの思い違いだ。この男こそ、真の脅威。決して野放しにしてはならない危険因子であった。ジルグムがそこで思い出したように捜査官たちに視線を向け、一歩前に出た。刀を手にしたまま。

「撃て!」

 ジムの判断は敢然として揺るぎなく、咄嗟の射殺にも迷いはなかった。ただの一歩でも、この男に接近を許すことは命に関わることであると判断して。

 二人の射撃は精確だった。だが連続で放たれた銃弾の悉くを、ジルグムは手にした刀の腹で受け流す。その動きはあまりに早すぎて、動画を早回しで再生しているかのようだった。全ての弾丸が、射線を大きくずらして周囲に散る。

 驚愕に凍りつく捜査官二人。ジルグムの立ち居地は丁字路の丁度中央。ビルとロックスはそれぞれ別の通路。はからずとも地の利を得て放たれた計二〇発以上の十字掃射が、しかし一発たりとも相手に届かなかったのだ。

「――ッ! ジルグム! 私が相手になってやる! かかってこい!」

 挑発をしながらビルは空弾倉を落とし、新たな弾倉を装填した。その隙も相手を懐におびき寄せるための罠。弾は逸らされたとはいえ、ビルの弾丸には未だ〝糸〟が繋がった状態。不用意に踏み込めば全身が〝電撃〟にさらされることだろう。

 しかし――ジルグムは周囲を見渡し、皮肉気に鼻を鳴らした。ビルにしか見えないはずの〝糸〟が、まるで彼にも見えているかのように。

「当然逮捕はお断りだが……二対一はさすがに厳しいかな」

 そして次の瞬間には、ジルグムは前ではなく後ろへと跳んでいた。高速で階段を駆け上がり、出口へと向かっていく。――この状況で、まさかの逃走。

 ビルとロックスは不意を衝かれるも、間髪入れずに追走を開始した。

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