第6話 大泥棒と捜査官

 怒涛の快進撃を予期させる大きな発見を手にしたものの、残念ながらその後は特に何の進展も無かった。ジルグムとサマドに繋がりがあるとするなら、目的はテロ行為だろう。

 だがそこから先は見当がつかなかったのだ。ただの連続殺人鬼に過ぎなかったジルグムがどのような経緯でテロ組織との手を取ったのか――あまりに経緯が見えてこない。

 結局その日の捜査はそこまでとなり、休日出勤ともあって早めの退社を許可されたエルは、上司の言葉に甘え早々に帰宅した。もちろん小脇に事件の資料を抱えつつ。前日に別の事件をようやく終わらせたばかりで、疲労の溜まっていたエルではあったが、今朝の重要案件のことも、もちろん忘れてはいない。妹との約束を破ったせめてものお詫びにと、エルは帰りにドーナツを買っていた。アフィンの大好きなハート型のストロベリー味。

 だが、帰宅したエルを出迎えたのは無人の部屋であった。

 部屋にかけられたメッセージボードには『ウェイトレスのアルバイト、八頃には帰宅するよ。アフィン』というメモが貼り付けられていた。携帯端末での連絡よりも、こうした昔ながらの書置きをアフィンは好んでいた。温かみがあって好きなのだそうだ。

 現在時刻は一七時五分。アフィンはまだ若い女の子なので、何事が無くても一八時を過ぎれば一度電話をする約束をし、それを健気に守っていた。夜になってからの送り迎えも、エル達の伯父が行ってくれる。伯父はここブラウンティアの大家だった。だからこそ両親も安心して姉妹の二人暮らしを許可していたのだ。

「夜まで一人か……」

 一八時には連絡が入る――逆に言えば、それ以外の時間に姉の側から連絡するのは、仕事の邪魔になることを意味している。疲れた時こそ、まず妹の声が聞きたいものなのだが。

 エルは小さく溜息をつき、ペンを取ってメモの端に『早く帰ってきてね』と付け足し――次第に恥ずかしくなってメモを丸めて屑篭に捨てた。何故かますます寂しくなったが、そこで足下に擦りつくふわふわした感触に気付く。愛猫のリリィが、かまってほしそうにしていた。

「リリィ。ああいや、別にお前を忘れてたわけじゃないよ。ほら見ろ、証拠品だ」

 言いながらエルはしゃがみ込み、ドーナツと共に買ってきた猫用のクッキーをプレゼントした。口で受け取ったリリィは嬉しそうにカーペットを転がりながらそれを食べた。

「好物だろ? ふふっ、美味いか?」

 愛猫の愛らしい姿に和まされ、しばらくそのおなかを軽く撫でてやった。

 ややあって立ち上がり、凝った肩を軽く揉んで、首を振る。

「シャワーを浴びてくるよ。後で一緒に遊ぼうな」

 

 浴室でエルは頭の上から熱めのシャワーを受け止め、その熱湯が全身に染み渡るのを感じながら、目を伏せて思考をめぐらせていた。アメリカン・インディアン博物館にジルグムが潜入したのは早朝の五時頃。発覚は七時ごろ、第一発見者は警備会社の警備員。センサーが停止していることに気付き、博物館に電話確認を取るも繋がらないことから現場に向かい、そこでバラバラになった展示物の山と警備員の死体を発見し、通報。同時刻にATM泥棒が起きていたため、対応、発覚が遅れたらしい。

 ジルグムの侵入経路は、鍵がこじあけられた痕跡からおそらく屋上からと推測されるが、方法は不明。博物館の周囲の建造物は全て車道を挟んでいるため、〝ワンド〟の使用でも無い限り飛び移るのは不可能。割れた窓ガラスの縁に何かを引っ掛けた傷があることから、壁面をよじ登った可能性もあるが、どちらかといえばこちらは逃走経路。

 館内に入り込んだジルグムはモニタールームの警備員二名を殺害し、制圧。続いて警備システムを操作し、セキュリティの全てをダウンさせた後に〝スターキューブ〟を盗むに至った。その過程で他の警備員五名――つまりは見張り全員を殺害している。

 八人の死者、全てがバラバラに切断された状態――明らかな過剰殺害。セキュリティを押さえたのなら、出さなくても良かったはずの犠牲者。彼の行動の大きな矛盾点の一つ。計画的犯行の中に含まれる無秩序。

 警備員達は皆、銃を携帯していたが、そのどれもが発砲した形跡なし。銃を抜く暇すら無く斬殺されたのだと思われる。しかし博物館四階では展示物の多くが切断し破壊されていた。状況から見て何者かと交戦したものと思われる。――第三者の可能性。

 しかし他に盗まれたものは無い。第三者とは目的が同じで、ジルグムが一枚上手だったのか、協力関係を途中で裏切ったか、たまたま鉢合わせたのか。

 博物館内のセキュリティは見事に無効化しながら、外のカメラには堂々姿を晒す迂闊さも気になるところ。中の警戒と外の警戒に対する温度差――これもあべこべ。

 別の注目点。ジルグムの今回起こした事件は、五年前とは大きく異なる。以前は惨殺そのものが目的だったが、今回は目的あっての惨殺。プロファイリングの観点から言えば、まるで別人の犯行。この謎めいた差異はいったい何なのか?

 サマド・サフルメドが首謀者で、ジルグムが実行犯である可能性。仕事であり趣味であるのか? では彼らが〝スターキューブ〟を欲した理由とは何か?

〝スターキューブ〟が魔力装置としての役割がないことは専門家の調査で既にわかっている。決してそれを手にしたからと、〝チューバ・ミルム〟が撃てるわけではない。

〝スターキューブ〟と〝チューバ・ミルム〟。――この二つに今のところ、繋がりは感じられない。彼らの目的は一体は何のか? 撃てない兵器を撃つ方法があるのか? それとも別の使い道があるのか?

 なんであれ、その計画の先に、多くの死という結果あることだけは間違いない。

 そこからエルは悶々と堂々巡りへの思考へ陥る。明らかにパズルのピースは不足していた。しかしじっくり時間をかければ、それだけ被害者が増える可能性は高まるだろう。

 エルは風呂上りに再度持ち帰った資料を調べてみることにした。何か見落としがあるかもしれない。

 伏せていた目を開け、彼女は一旦思考を切り上げて身体を洗うことに。石鹸を泡立てて、それを腕や脚に塗っていく。陶磁のような滑らかな肌から、指先で丁寧に汚れを落す。

 その心地良い快感にリラックスしていた彼女は―― 

「……ッ!」

 異変に気付き、一瞬呼吸を止めた。

 ナノマシン〝ワンド〟によって発現した〝塵法術ナノ・ウィッチクラフト〟の能力は個々に特化するものが異なる。一番最初に成功させた奇跡が魔術のイメージとして強く心に残るのが原因だった。専門知識の身についている場合は、特にその能力が強まることが統計的に証明されている。エルの扱う能力は〝熱力学〟に関わるものであり、術を行使していなくとも普段から周囲の熱変化には過敏となっていた。その超感覚が、リビングに冷たい風が入り込むのを感じていたのだ。誰かがベランダの窓を開けた。アフィンが帰宅したならばまず入り口の扉を開けるだろうし、彼女はまだあと三時間は帰ってこない。リリィも論外。彼女には鍵の閉まった重い窓は開けられない。結論――不法侵入。

 七階の窓から無断で入ってくる人間は、どう控え目に考えても悪人だ。そしてこのタイミングでそんな人物が現れるとすれば誰か――最悪の可能性さえ想像できた。

 エルは襲撃を警戒する猫のように、瞬き一つせず目を見開いていた。そしてシャワーのコックを捻らず出しっぱなしにしたまま、音を立てずに摺り足で移動。

 裸の身体にバスタオルを巻きつけ、濡れた前髪を後ろになでつける。そして着替えを置いた棚から、拳銃を摑み持ち上げた。仕事柄、彼女は就寝中や入浴中でも警戒して傍らに銃を置くようにしていた。よもや実際にその習慣が役立つ日が来るとは思わなかったが。

 転ばぬ先の杖が役立った喜びよりも、激しい怒りが先立つ。場合によっては、アフィンが部屋に一人でいる際にこの侵入者が現れる可能性もあったのだ。相手がこそ泥であれ、強姦魔であれ、そして殺人鬼であれ――到底許せはしない。

 エルは胸の奥の激昂を抑えつつ、無音の足運びでドアの前まで移動。片手で銃を握ったまま、もう一方の手でノブを捻り――一気に飛び出して両手で銃を構えた。

「動くなッ!」

 かくして部屋に忍び込んだ侵入者は、彼女の一喝に驚いて飛び上がり、ほぼ反射的に両手を上げていた。

「ちょっ、待ってくれ! 撃つな!」

 そこにいたのは、スーツ姿をした若い男性だった。炎のような赤い髪に、翡翠色の瞳、細く引き締まった身体を包む、おろしたてのオースチンリード。

 クライブ・ファーニバル。通称〝カーニバル・フェイス〟。いついかなる時も遊び感覚で宝を盗むお祭り男。ニューヨークを拠点に活動する、最近名の知れた泥棒だ。

「く……クライブ……?」

 予想の斜めをいく相手の登場に、エルは不意を衝かれ一瞬ポカンとしたものの、すぐに自失から立ち直り、銃を突きつけながら厳しい表情で命じた。

「両手を頭の後ろに」

「おい、エル――」

「言われたとおりにしろ!」

 高圧的に命じられ、クライブは何か言いたげに困り顔をしつつも、いったん指示に従って頭の後ろに手をやった。

「そのまま膝をつけ」

 それにも従い、クライブは膝をつく。エルは慎重に相手に近づき、銃を握ったまま片手でボディチェック。その間、相手の顔は極力見ないようにした。

「エル――」

「黙れ」

 丸腰であると確認した後、彼女は再び後ろへ距離を取った。鬼のような形相で睨む彼女に、クライブは少し傷ついたような顔をしながら、チラリと銃口に目を向けた。

「なあエル、そんなもの向けないでくれ――」

「一体何のつもりだ? 不法侵入して、私の寝首をかくつもりだったか?」

「俺は人殺しはしない。知ってるだろ? だいたい寝首かくって、まだ六時前だぞ?」

「では何をしに来た? 何故忍び込んだ? 答えろ!」

 犯罪者に不法侵入を受けて、エルは興奮し攻撃的になっていた。相手がクライブ・ファーニバルであるならば、特に。

 すっかり頭に血が上っているエルに対し、クライブはただひたすら困り顔をしていた。

「あー、エル、その前にひとまず服を来てくれないか? あまりに君がセクシーで、目のやり場に困る。いや、俺はいいんだけど、そっちが困るんじゃ――」

 クライブが言葉を紡ぐ間に、みるみるうちにエルの顔は赤くなっていった。

 バスタオル一枚の自分の格好を、ようやく思い出したように。

「な、何をジロジロ見ているんだ、このバカ!」

「後ろ向けは命じられて無いし」

「目を閉じればいいだろ!」

「銃を突きつけられて? 怖いし無理」

「い、いいから、後ろを向け! 今すぐ!」

「はいはい……」

 癇癪を起こすエルに、クライブはどこか理不尽めいたものを感じている様子ではあったが、従って膝立ちのまま反転し背を向ける。

「というか、早く服を――」

「うるさい! 私が目を放した隙に逃げるつもりだろ!」

「なあエル、いったん落ち着いてくれ。俺は君に話があって来たんだ。だから逃げるつもりはないよ。着替えるなら、ちゃんと待つから」

「話だと? なら何故、わざわざ窓から侵入した? やましいことがないなら、正面から来ればいい」

「そしたら立場が危うくなるのはエル、お前の方だろ? 捜査官が泥棒と会ってたなんて情報が漏れたら色々まずいじゃないか。相手が勝手に侵入したならまだ言い訳のしようもある。まあ、俺が監視カメラに映るのが嫌だったってのもあるけどさ」

「……」

 あまりにクライブが落ち着いた調子でいるため、エルは段々と落ち着きを取り戻し、相手が嘘を言っていないことを信じ始めていた。あるいはそのために根気強く、クライブは冷静に語りかけていたのだろう。

 だが気が緩むと同時に、身体の強張りが抜けたのが悪かったのか――途端、彼女の身体を包んでいたバスタオルがほどけ、一気に下へ落ちていた。

「ひゃあっ……!」

 タオルの落ちる音とその悲鳴を聞いて状況を察したクライブは、激しい葛藤に駆られた様子で身を揺すった。

「振り向いていい!」

「やっ、ダメッ! 絶対ダメッ!」

「一〇秒! 一〇秒間だけでいいから!」

「長いわ! コンマ一秒でも見たら撃ち殺してやる!」

「待て早まるな!」

 ここで下手に刺激しては本気で引き金を引かれかねないと、クライブはゆっくりと言い聞かせた。

「エル、わかった、絶対見ない。あと見ないし逃げないから、さっさと着替えて来い」

 しゃがみ込んだエルは羞恥のあまり目尻に涙さえ浮かべながら、しかし銃を手放せないため、胸に抱いたタオルも再び巻くこともできず――葛藤の末に、彼の言葉に従う他ないと諦める。二五歳とはいえ『純潔の誓い』を立てた生娘の彼女には、男の前で全裸で居続けるなど到底耐えられなかった。

「そ、そのままでいろ……っ! いいなっ! に、逃げるなよっ!」

「いいぞ、任せろ、逃げないぞ!」

 するとエルは大慌てで逃げ込むように、すぐ手前の寝室へと逃げ込んでいた。そちらのほうがバスルームより近かかったからだ。

 大きくバタンと音を立て、扉が閉まる。次いで鍵の音。

 今し方の喧騒が嘘のように、シンと静まり返った室内。一人取り残されたクライブは、ややあってから膝立ちをやめてその場に座り込む。そうしてやれやれと溜息をつき――昔に戻ったような賑やかなやりとりに、思わず苦笑を浮かべた。少々険は強くなったが、エルは相変わらず、恥ずかしがり屋の可愛い女の子のままだ。


 その一〇分後、二人はテーブルを挟んで向かい合い座っていた。

 きちんと着替え終えたエルは不機嫌を露わに相手を睨みながら、腕を組み苛々と指で肘を叩いている。先ほどのように銃こそ手にしていないが、いつでも構えられるようテーブルの上にそれを置いていた。対して向かいに座るクライブは、苦りきった表情をしていた。それもそのはず、背中に回した両手に手錠をかけられ、椅子の格子に固定されていたからだ。着替えてから戻ってきた彼女に、問答無用でそうされたのである。

 ようやく落ち着いて話し合いができる状態――というには些か以上の冷遇。

 しかもエルはそうして相手を睨むばかりで、一向に口を開こうとはせず、空気は痛いほどに張り詰めていた。

 エルにとってクライブ・ファーニバルは因縁深い犯罪者だ

 だがもちろん、二人の関係はただ捜査官と犯罪者というだけではない。彼女にとってクライブは物心ついた頃からの幼馴染であり、一五歳の頃に彼が行方不明になるまで、二年に渡って付き合っていた相手でもある。つまり彼は、元恋人の犯罪者なのだ。

 その胸中は複雑という言葉だけでは言い現せない程に複雑だった。

「あー……そのパジャマ可愛いね。よく似合ってる」

 クライブが場の空気を和ませようと思ったのか、気さくな調子で告げていた。エルが着ているのは、薄いイエローを基調とした花柄のパジャマだった。フリルの使い方がいかにも少女趣味だが、大人びた見た目のエルに、これが意外なほどよく似合っている。

 何かとエルに可愛らしい格好をさせたがる母親からの誕生日プレゼントだった。

 しかしその賛辞を聞いた途端、彼女は不機嫌そうだった目を更に細くして睨んでいた。

「からかうために来たのか? 戯言しか吐けないなら今すぐ連行するぞ」

「おいおい、おっかないな。別にからかってない、率直な感想だ」

「……フン、馬鹿話に興味は無い」

 いかにも気を害した様子で顔を背ける彼女に、クライブは「気難しいなぁ」と小さく溜息をつく。だがその椅子の下でエルの両脚が前後へ小刻みに揺れていることには気付かなかった。

「……それで、話とは?」

「ああ、うん、それな。――今朝起きた博物館での事件については知ってるよな?」

「私も捜査に加わっている」

「だろうと思った。だから伝えに来たんだけど、あの現場に俺もいたんだ」

 あっけらかんと打ち明けられ、エルは思わず目を見張る。確かに第三者の存在は可能性として高いと思われたが、よもやそれがクライブなどとは夢にも思わなかった。

「……続けろ」

「ジルグム・バーンレイドを見た。おっかなかったよ、目があった瞬間襲い掛かられた。展示品が滅茶苦茶にされてるの、全部あいつのせいだ。まるでミキサーだったぞ」

「お前は、どこも怪我してないのか?」

「見ての通り、どこも失ってないよ。間一髪だったけど」

「……そうか」

 エルはホッと息をつき、クライブがその反応に微笑む。

「安心してくれた?」

「……は? まさか。状況確認しただけだ」

 殊更に不機嫌面を装い、エルは質問する。

「出し抜かれたと言ったな? お前もやつが盗んだとされる〝スターキューブ〟を狙っていたのか?」

「狙っていたけど、やってはいないから、逮捕は無しな?」

 未遂でも犯罪、それに不法侵入だが、その件はひとまず置いておいた。

「〝スターキューブ〟がどういうものか、その価値をお前は知っているのか?」

「結構高いらしいね」

「それだけか?」

「本当にそれだけ。〝スターキューブ〟に他の用途があるんじゃないか、というのは俺も考えたよ。なんせ殺人鬼がわざわざ手に入れようとした代物だからな。けど調べてみても、特に有力な情報はなし。ただ――」

「ただ?」

 クライブはにやりと笑みを浮かべ、得意気に人差し指を立てる。

「やつのポケットに盗聴器付きの発信機を仕掛けた。ちょっと相手が横を向いた隙に、指でピンと弾いてね」

「本当か!」

 思わずエルは腰を浮かべた。人を細切れにする刀の使い手にそんな事を出来るクライブの技量にも驚きだが――ともかく、それが真実なら功績は大きい。上手くいけば一気に犯人逮捕にさえ繋がるだろう。

「それをすぐに――」

「もう気付かれて壊されたよ」

 肩透かしを受け、エルは大きく落胆し、再び椅子に腰を降ろした。

「あー、なんかごめん、ぬか喜びさせた?」

「いや……それで、壊される前に何か聞いたか?」

「やつらの会話を少しばかり」

「やつら? ――ひょっとして、会話の相手は年配の男だったか?」

 エルはその会話の相手がサマドだったのではないかと予想したのだが、クライブは首を横へ振っていた。

「違う。鮮明とは言い難かったけど、若い女の声だった。〝フェル〟と呼ばれていたよ」

「フェル……?」

 一体何者か――エルは疑問に思いつつ、新たな容疑者の名をしっかりと記憶しておいた。

「会話はどんな内容だ?」

「マネキンがどうとか、懐かしいとか、あと〝グッドモーニングアメリカ〟を見ながら色々議論してたな。与太話だよ。ゲストのガードナーの曲は中々に痺れるとか、そんな感じ」

「随分、のん気だな……何か有用な情報は?」

「一つだけ。やつらの次の狙いは〝最古の天象儀オールド・プラネタリウム〟らしい」

「〝最古の天象儀オールド・プラネタリウム〟……? ということは、アメリカ自然史博物館か」

 〝最古の天象儀オールド・プラネタリウム〟とは、その名の通り紀元前に作られたとされる人類最古のプラネタリウムの投影機だ。公転周期などの影響で今とは大きくズレがあるものの、投影される星の位置関係は寸分の狂いもなく完璧だ。それだけ精巧なものが保存状態も良く発掘されたことは奇跡的であり、まさしく天文学的な値段がつけられていた。今やアメリカ自然史博物館の目玉の一つである。そして〝最古の天象儀オールド・プラネタリウム〟は〝スターキューブ〟と同じ遺跡から発掘された品だ。

「やつらは、プエブロ新遺跡の発掘品を集めているのか?」

「かもね。ただ今朝の件もあってか警備はかなり厳重で、さすがに日を改めて、仲間との合流を待ってから、協力して盗み出すつもりらしい」

「その人物の名前は?」

「言ってなかった」

「盗聴先の住所はわかるか?」

「盗聴がバレた時点で引き払ってたよ。一応場所を教えとくけど、もぬけの殻だぜ」

 クライブは予め用意しておいたらしく、胸ポケットにルーズリーフの切れ端が畳んで入ってあった。どうやら自分が手錠をかけられることも想定していたらしく、少し取りやすいようにしてある。エルは手を伸ばして紙片を受け取りながら、そこで改めていぶかしむ。

「お前……何故、私にこんな話をしにきた? 何を企んでる?」

 その準備の良さ――そして何の駆け引きも無しに次々と情報を提供する姿勢は、正直なところ妙でしかない。彼にはメリットもないどころか、捕まる危険さえあるというのに。

 エルの問いに、クライブは何でもないことのように告げていた。

「マンハッタンにはダチも多いしね。凶悪な殺人鬼にはさっさと消えてもらいたいんだ」

「それは……つまり、ただ逮捕に協力したいだけだと?」

「そう。それだけ」

「……」

「信じられない?」

 クライブが僅かに微笑みながら、顔を覗きこむ。もちろん、エルは内心まだ疑わしく思っていた。幼馴染と言っても、相手は詐欺師だ。そう簡単に信じられるわけが無い。

 だが――エルは一つ溜息をついてから、頷いていた。

「いや……いいだろう、一応信じてやる」

 少なくとも、彼が殺人鬼と手を組むような事だけはないと、そこだけはエルも確信していた。そこまで性根は腐っていないと。

 ジルグムの次の狙い――クライブのもたらした情報が真実ならば、かなり有用なものである。でまかせにしては説得力があるし、今は他に調べる先もない。もし万が一、これがクライブの用意した何らかの罠だとしても――特に問題は無かった。

「ありがとう。――じゃあ話はそれだけだから、そろそろこれ外してくれないか?」

 クライブが後ろ手に繋がれた手錠をジャラジャラと鳴らす。

 受け取った紙片の住所を見ながら、エルはわざとらしく小首を傾げた。

「なぜ?」

「なぜって、もう帰るんだけど――」

「お前は立派な犯罪者だ。逃がしてやる道理はない」

 エルは一〇年前に別れたクライブと再会してから、ここで初めて、ニッコリと笑みを浮かべた。男を見惚れさせるには充分の魅力的な笑みだが、この場においてはクライブの背筋を凍りつかせるものだった。

「じょ、情報提供したのに?」

「うん、協力は感謝する。事の顚末はちゃんと報告してやるよ。面会室でな」

 クライブの罪状は窃盗、不法侵入、器物破損、等々――立証困難な分を差し引いても実刑二五年にはなるだろう。元恋人を刑務所に送り込むことにはエルも当然として胸が痛むが、これ以上罪を重ねられるよりはずっと良かった。

「あ、こいつ本気だ。――あー、ほら、なんというか、幼馴染特権で見逃してくれないかな?」

 どこまでもおどけた調子でクライブが誤魔化すように笑い、だが一方でエルは瞬く間に笑みを消して真剣な表情へとなっていた。

「だったら……いい加減に教えろ。何故、お前はそうなった?」

 一〇年前――当時付き合っていたクライブとエルは、とある約束を交わしていた。

 少年だった頃のクライブは捜査官だった父親に憧れて同じ道を辿ることを目指し、そんな彼に幼い頃から影響を受けていたエルも、彼と共に捜査官になることを夢見た。

 だからこそ、大人になったら二人で捜査官になり、多くの犯罪者を捕まえようと誓いあったのだ。一〇代の少年少女にありがちな、時間によって現実に押し潰されるタイプのはかない約束。だがエルは挫折せず、その誓いを健気に果たそうとした。

 一五歳の頃に行方をくらましたクライブも、捜査官となれば探すことも出来るであろうし、なにより彼も約束を守るためにその道を進むことを信じたのだ。

 しかし彼女の健気な思いは、見事に踏みにじられた。

「お前が家族を失ったことは、深く同情している……とても傷ついただろう。だがそれは犯罪に手を染めていい免罪符にはならない。それぐらい、お前もわかっているはずだ」

 母が病死し、父子家庭だったクライブは、一〇年前に父親と姉を失っている。つまり家族全員を亡くしたのだ。

 彼の姉――ナタリー・ファーニバルがジャン・イノバンという青年に強姦され、しかし裁判では合意の上での性行為であったと無罪判決になり、むしろこれは慰謝料目当ての詐欺であると反訴され、結果ナタリーが有罪となった。ジャンはジェイムズ・イノバン当時ニューヨーク州知事の息子であったため、凄腕の一流弁護士を雇い、このような不条理ともいえる結果を勝ち取っていたのだ。

 これをクライブの父親――ロバートが激怒し、後日その若者の居場所を突き止め射殺。FBI捜査官の立場を濫用したロバートの罪は重いとし、死刑は確実と言われていた。だがその前にロバートは獄中で自殺。その後、ナタリーが自責の念に駆られ、彼女もまた後を追うように自殺している。事態を知った当時一五歳のエルは、もちろん葬儀に駆けつけもした。その時のクライブは失意のどん底にあったが、まだ二人で交わした約束をしっかりと覚えていた。

 まだ学生だった彼らだったが、大人になって独立するのは、そう遠くない話だった。

 だがその後、クライブは唐突に姿を消した。連絡もつかなくなった。それから八年後、今より二年前、彼は捜査官となったエルの前に再び姿を現した。ニューヨークを駆け回る大泥棒〝カーニバル・フェイス〟として。

 当初こそエルは彼が自暴自棄になった結果、堕落したものかと思った。だからこそエルは自責の念に駆られもした。失意のさなかにあった彼をちゃんと支えきれなかった自分も悪かったのではないかと。しかし――どうにも様子がおかしかった。

 彼が盗むのは基本的に有名美術品や骨董品――高価な物ばかり。そうして得た物を次々と金に変えては、義賊気取りに恵まれない下級階級の市民に振り撒いた。高額医療を払えない者や、その日の食事もままならぬ失業者達、多くの孤児を抱える教会に。

 市民の半数は彼の行動を支持し、応援さえしていた。

 彼の行動を捜査官として追ううちに、エルの同情は段々と怒りへと変わった。

 悲しみにくれているにしては、彼の犯罪はどこか享楽的だった。家族の死という格好の言い訳を得て、今の人生を勝手気ままに楽しんでいるかのようであった。

「どれだけ善意を振り撒いたって、お前のやってることは犯罪だ! お前に、信じていた相手に手錠をかける私の気持ちがわかるか!」

「……すまない」

「謝罪なんて求めてない!」

 怒りの声をあげるエルの目尻には、いつの間にか涙が浮かんでいた。

「ずっと、待ってたのに……私は約束を守ったのに……お前は――」

 滲んだ涙を拭いながら、エルは首を振る。

 そうではない。エルはただ、真相が知りたかったのだ。何故、クライブがこうなってしまったのか。何をどのように考えその場所に至ったのか。たとえその内容が許せない話であっても、知れればそれで良かった。エルは未だ引きずる過去を終わりにすることができる。彼を見限り、何の迷いもなく逮捕できた。

 もし仮にそれが仕方の無い、許せる話なら――もちろん、それでも捜査官として見逃すことはない。その両腕に手錠をかけるだろう。ただし待つことが出来た。彼が罪を償うそのときまで。エルは待つのが得意だった。もう一〇年も待ったのだから。だが何も打ち明けてもらえないなら――エルは途方にくれるしかない。見限ることも、許すことも出来ず、過去に引きずられて、一歩も前に進めない。

 この胸にこびり付いて離れない切ない気持ちを、どう処理していいかわからないからだ。

「なあ、クライブ……教えてくれ……どうしてなんだ? どうして、その道を選んだ?」

 エルは震えそうになる声をなんとか押さえ、問いかける。クライブは彼女の傷ついた表情に酷くショックを受けたのか、戸惑った様子で辺り見渡す。

 やがてその口が開かれ――

「ただいまーっ」

 途端、玄関先から少女の明るい声が響いた。エルの妹、アフィンのものだった。

「なっ、あ、アフィン!」

 エルは驚きのあまり、振り返りながら腰を半端に浮かせていた。廊下の向こう側で、アフィンは姉の反応にきょとんとして首を傾げる。

「ふぇ? どうしたの、お姉ちゃん? そんなに驚いて」

「いや、だって――」

 言い掛け――そこで窓の開閉する音を聞き、エルはハッとして再び前を向いた。

 さっきまでテーブルの前に座っていたクライブが、そこから姿を消していた。椅子には解かれた手錠が残され、開いた窓から吹き込む風にレースのカーテンが静かに揺れている。

「クライブ……」

 思わず舌を巻くほどの早業だった。妹に気を取られた隙を衝かれたとはいえ、FBI捜査官の目の前からまんまと逃げおおせるとは。

 いや――あるいは今の瞬間まで、エルは彼の前で無防備なまでにただの女だったのかもしれない。エルは自分の迂闊さ、そして答えを取り逃がした口惜しさに、悔しげにテーブルに手をつき、深々と溜め息をつく。

「えっと、誰かお客さんが来てたの?」

 無論、そんなことは露知らず、リビングまでやってきたアフィンが不思議そうな顔をしていた。どうやら彼女はクライブの後ろ姿をチラリとも見ることはなかったらしい。

 もちろんアフィンには非などなく、エルも責めるつもりは毛頭ない。しかし疑問はあった。まだ時刻は一八時にすらなっていないという点だ。

「アフィン、今日はバイトでは……?」

「え? うん、そうだよ。人手足りて無いって店長さん泣いてたから……あれ、メッセージ残しといたよね? 六時前には帰るから、ご飯は一緒に食べようねって」

「え……?」

 何かが食い違っていた。『ウェイトレスのアルバイト、八頃には帰宅するよ。アフィン』

 メッセージボードには、たしかにそう書かれていたはずが――

「あいつ……!」

 次の瞬間、エルはそのカラクリに気づいて頭を抱えそうになる。つまりあのメッセージは、エルが帰宅する前に部屋へと忍び込んだクライブが、アフィンの字を真似て書いたものだったのだ。一流詐欺師の彼にとっては、筆跡を似せることなどお手の物だろう。

 何のためか――もちろん、今さっきの隙を生み出すための仕掛けだ。最初から拘束されるのも逃がしてもらえないのも想定済みだったのだろう。

 出し抜かれたのは悔しいが――それよりも、そうとは知らずメッセージの返事をこっそり書いた自分が、エルは恥ずかしくなる。

「お姉ちゃん、どうしたの? 私、何か誤解させてた?」

「いや、うん、大丈夫だ。私が勝手に勘違いしてただけだよ。――おかえりアフィン」

 そうしてエルは平静を装い、いつも通り妹を抱擁し――しかしアフィンはじっとりとした目で姉を睨んでいた。

「お姉ちゃん、何か変。私に隠し事してるでしょ?」

「へ、変? どこが?」

「目、真っ赤になってる」

「これは、さっきシャワーで、シャンプーの泡が入ったんだ」

「ふうん? そのパジャマだって、可愛いすぎるから着るの嫌がってたのに」

 痛いところを衝かれ、エルは思わず顔を赤くする。

 妹の疑いを誤魔化すのに、それからしばらく時間を要していた。

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