歯痒い

髭眼鏡

歯痒い

 歯が痒い。

 痛いではなく痒い。

 痒みがこれほどまでに耐え難いものだったとは、知らなかった。



 始まりは、男が会社への通勤のため電車に揺られているときの事だった。

 歯に違和感を覚えた。

 小さな予兆のような疼き。歯が浮いているような感覚、妙な感覚。

 はて、歯磨きは欠かしたことがないのだが。

 帰りに歯医者にでも寄って行こうか。

 そう思いながら再び揺れに身を任せた。

 今日は大事な会議があった。

 大きなプロジェクトのプレゼンが控えている。ジンクスを気にする男にとって、朝から少し不幸なことだった。

 午前の仕事を無事に乗り越え、そんなことなどすっかり忘れていたのだが、さあ昼飯だ、という段になってぶり返して来たのだ。

 今度は違和感というには少し大きい。

 例えば、額の前を指で指されたようなむず痒さ。我慢できるけれど気になる掻痒感。

 これは本当に虫歯かもしれない。

 昼食の後の歯磨きを念入りにする。患部を念入りに磨くが、疼きが解消されることはなかった。

 午後の仕事は苦痛だった。

 疼きはやがて痒みに変わる。

 痒みは次第に大きくなり、ついには耐えられなくなった。

 よく比喩表現において歯痒いと表されるが、実際身に降りかかるとしたらこれほどまでに歯痒い思いをするのか。

 左の上顎の奥歯、正確に言えば第ニ大臼歯の、これが厄介なのだが、表面ではなく芯が痒いのだ。

 舌で懸命に舐めてみても、思い切り歯噛みしても痒みがとれない。頰の上から掻いてみても解消されることはなかった。

「うーっ……」

 唸ってみたところで変化はない。

 頰をつねってみる。鈍い痛みが走る。

 おお、これならば痛みに神経が集中して痒みが気にならない。

 男は鈍痛にうっすら涙を浮かべながらも満足していた。

 ところが、痛みがひくとすぐさま歯の痒みが襲ってくるのだ。

 これでは堪らない。慌てて再び頰をつねる。しばらくして恐る恐る手を離してみる。またもや痒みが襲ってくる。

 これでは堂々巡りではないか。

 どうしたものかと思案する。これでは仕事にも身が入らない。

 どうしたものかと思案してあると、脳内に光明が見えた。

 乱雑に置かれた資料の山に手を伸ばす。そこから大ぶりのクリップを手に取った。

 これならば恒久的に痛みを感じられ、しかもハンズフリーである。仕事中だから顔には挟めない。彼はシャツを捲ってあまり気味の腹の肉を挟み込む。

 痛い。

 痒みを忘れるくらい痛い。

 ああ、これで安心だ。

 そう仕事に戻った。




 激しい痒みで身をよじる。

 頰の上からガリガリ掻き毟るが、掻痒感が無くならない。口に手を突っ込んでみても意味がない。四苦八苦して頰を掻き毟る。激しく掻くものだから爪の間が赤く滲んでいく。

 ああ、痒い。

 辛抱たまらず定時で会社を飛び出した。

 これはおかしい。尋常ではない。

 もしかすれば何かしらの病気ではなかろうか。明らかに通常の痒みではない。

 息を切らし切らし、這々の体でやっと歯科医院に辿り着く。玉のような汗が額に滲む。

「すみません、予約した北見ですが!」

「はい、北見様ですね。今日はどうしましたか?」

「歯が痒くて痒くて堪らないんです!」

「なるほど。ではこちらの用紙に記入をお願いします」

 もどかしい。こんなものすっ飛ばして早く診てもらいたい。早くどうにかしてくれ。もう我慢の限界だ。

 貧乏揺すりが止まらない。どうにもならない苛つき。その間にも歯の痒さが続いている。

「北見さん」

 ようやく呼ばれた。

 時間にすれば五分程の待ち時間だったのが、男には二時間にも三時間にも感じられた。

「口を開けてください」

 言う通り大きく開く。歯科助手が棒状の鏡を差し込む。

「んー、歯は綺麗ですねぇ。炎症もないし、エナメル質の欠損もないですね」

 そんなこと言ったって、現実問題苦しんでいるのだ。

「レントゲンを撮ってみましょう」

 促されるままレントゲン室に入る。

 痒い。痒い。痒い。

「うーん」

 レントゲンを見た歯医者も唸っている。

「問題はないようですけどね。至って健康的な歯ですよ」

「だって、こんなに痒いんですよ!? もっと詳しく調べてください!」

「そうは言ってもねぇ」

「そうだ! 痛み止めをくれ! もう耐えられないんだ!」

 しかし医者は頷かない。

「痛み止めとには痒みを止める効果は無いんですよ」

 暗い谷底に突き落とされたような感覚。あまりにも残酷な宣告。痒さはその存在感を増して、精神を犯していく。

「……抜いてくれ」

「え?」

「歯を抜いてくれ! もう堪らない! こんなに苦しいなら歯なんてもう要らない!」

 あまりの剣幕に気圧されたのか、医者も渋々従った。

 麻酔が注射される。痛覚が遮断され、感覚が無くなる。

 ようやく生きた心地がした。

 そうか、麻酔があれば痒さを気にしなくていいのか。

 しかし、麻酔を私が入手するのは現実的ではない。少し後悔はあるが、やはり抜歯するほかないだろう。

 無事に縫合も済み、抜糸とインプラントのため来週分の予約をとる。

「麻酔は三時間程度で切れますので、その間はお食事は控えてください」

「はい、本当にありがとうございました」

 晴れやかな気分だった。

 爽快感すら感じる。

 あれだけ苦痛だった痒みも、喉元過ぎればでどんな風だったかすっかり忘れてしまった。

 今日は疲れた。

 晩飯も食えないし、早く寝よう。

 男はゆっくりと帰路につくのであった。




 強烈な痒みで飛び起きた。

 麻酔が切れたんだ、と思った。

 時刻は午前二時。

 ふと疑問が湧く。

 どうして、また同じところが痒いんだ?

 医者によれば歯茎に炎症はなく、神経も正常だと。

 だが、確かに痒いのだ。抜歯した場所が。

 指を突っ込み、歯茎に当てる。ぶよぶよとした触感がするばかりで何もない。隣の歯を触ってみても、どうにもなっていない。

 違う。

 歯茎じゃない。

 もう少し、下だ。

 元々歯のあったところだ。

 あたかもそこに歯があって、その内側にある芯から強烈な掻痒感が発せられているようだ。

 痒い痒い!

 幻肢痛、というものを聞いたことがある。

 失った腕や足、それらが元あった場所が痛む難病なのだという。

 これはそれに似ている。

 さしずめ幻歯痒げんしようとでも言えようか。

 痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い!

 地獄の始まりだった。

 男はのたうち回る。

 ノミや蚊に全身くまなく刺される。

 かぶれやアレルギーで蕁麻疹が出る。

 あるいは不潔な体から湧き上がる痒み。

 それらの痒みを凝縮して一点に集めたような掻痒感。掻いてしまえれば楽になるというのに、それが叶わない苦しみ。

 痛みの方がマシだ。

 歯医者から処方された痛み止めを飲む。効果はないと言われたが、気休め程度にはなるのではないか。

 しかし、いくら待てど痒みは緩和しない。

 気が狂う痒み。

 頭をガンガン壁に打ち付ける。脳が揺さぶれるほど頭を振り回す。大声で叫ぶ。飛び跳ねる。吐くまで水を飲み続ける。便所を舐める。何をやっても紛れない。

 痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い!

 頰を掻き毟る。遂には皮膚が破けてだらだらと血が流れる。しかし痛みどころではない。痒いのだ。

 尋常ではない!

 やはり病気なのだ!

 男は救急に電話する。

「はい、火事ですか、救急ですか?」

「歯が痒いんだ! どうにかしてくれ! 頭が狂いそうだ! 痒い、痒い、痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い!」

「もしもし、大丈夫ですか? 住所は何処ですか? 他に症状は––––」

 もはや男には聞こえていなかった。頭の中が痒さの事でいっぱいだった。

 掻きむしりたい。

 今すぐ口に手を突っ込み、上顎を引っぺがして引っ掻きたい。

 痒い。

 痒い!

 痒い痒い痒い!

「ぁあああああああああああァァァああああああァァァあああァァァああああァァァあああアァアアァアァァァあああアァア!!!」




 時間の感覚が麻痺していた。今ここは一体何処で、何時の、何なのか。

 記憶も混濁している。

 確かに、昨日会社に行って、プレゼンをして、歯医者に行って。

 そこではたと気がつく。

 痒みが消えていた。

 歯茎を触る。指が当たる感触だけがする。幻の歯の感覚など一切なく、ただただ歯抜けの男になっていた。

「は、はは」

 安心した途端笑えてきた。かと思えば涙が溢れる。もうあんな痒みに耐えるだけの生活を送らなくていいんだ。

 ここは病院だろうか。

 白い壁紙と白い天井、白いベッド。枕元にはネームプレートとボタン。ナースコールだろう。

 電話した後どういう経緯でこうなったのか聞きたかった。男はナースコールで看護師を呼び出した。しばらくして、白衣を着た女性ががやってくる。

「あ、北見さん。起きられたんですね」

「はい。あの、私どのくらい寝ていました?」

「二日です」

 なんと、二日も寝ていたのか。後で会社に電話しなければ。こっぴどく叱られるだろうが仕方ない。

「大変だったんですよぉ。搬送されてきたときはすごく暴れていたし、顔がぐちゃぐちゃに掻き毟られていたから」

 顔?

 手を顔に当てる。包帯が巻かれていた。

 そうか、あまりの痒みに負けて力尽くで掻きむしったのだった。

「傷、残りますかね?」

 こんな顔で出社した日にはなんと説明していいのか分からない。

 歯が痒くて?

 駄目だ、絶対通用しない。

「今は整形の技術が凄いですからね。殆ど目立たないくらいには治りますよ」

 ホッと胸を撫で下ろす。どうやら仕事に支障はなさそうだ。

「それで、私はなんの病気だったんですか?」

 当然の疑問。

「ごめんなさい、詳しいことは先生に聞いてもらわないと」

 まあ、そうか。病名の告知を看護師は行えないのだろう。

「でも、きっと良くなりますよ。それまでは今みたいに麻酔を定期的に投与しますけど、すぐに––––」

「え?」

 なんと言った?

 麻酔を定期的に投与?

 今みたいに?

 今麻酔がかかっている状態なのか?

 それはおかしな話だ。だって、さっき歯茎に触れた感触があったぞ。歯に触れた感触があったぞ。

「麻酔、切れてませんか?」

 男の問いに、看護師が噴き出した。

「やだなぁ、ついさっき投与したばっかりですよ。北見さん寝てても暴れるから」

 嘘だ。

 冗談を言っているだけだ。

 そんなことがあるはずが。

 麻酔が、効かなくなっているなんて。

 予兆がした。

 あれが来る予兆。

 死すら生ぬるいあの苦しみが。



 ぼり。

「痒い」








 痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い





「聞いた? 302号室の北見さんのこと」

「聞いた聞いた! なんでもうちのモルヒネを盗んで、その後飛び降りたんでしょ?」

「そうそう。一命は取り留めたらしいんだけど、半身不随で未だに意識不明らしいわよ」

「ひゃー、悲惨ね」

「気味が悪いのが、意識がないのに毎晩うわ言のように呟いてるらしいのよ」


「痒い、って」

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歯痒い 髭眼鏡 @HIGEMEGANE

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