06 大脱出


 マンションの共有設備である廊下は、想像を絶する状態だった。

 というのも、築十年程度しか経っていないタワーマンションなのに、コンクリートの壁には蔦や草が生い茂り、見たこともない花を咲かせている。

 それだけでも異様な光景なのだけど、廊下には所々に白い物体が転がっている。

 そう、言わずと知れた人骨だ。

 物言わぬ白い骸を見て背筋を冷たくする。


「あれって、まさしく骨だよね……てか、ファンタジー化してからまだ一ヶ月弱だし、どう考えても白骨化するのはおかしいと思うんだけど……やっぱり、魔物に食われたのかな? ご冥福をお祈りします」


 誰かは分からないのだけど、骸を前にして掌を合わせる。


 これまでヤドカリの如くマンションに篭っていたのだけど、流石に食べ物のが尽きるとヒッキーを続ける訳にはいかない。だから、前回の失敗を反省し、生命線が尽きる前に外へ出ることにした。

 まあ、それとは別に、魔法がそこそこ使えるようになったので、探検したくなったという理由もある。


 消火作業で疲れて爆睡してしまったのだけど、焦げ臭い室内で目覚める。

 木っ端微塵になっている室内に溜息を吐きつつも、取り敢えず防災セットを再びリュックサックに詰め込み、未知なる世界へと飛び出すことにしたのだ。


 実際、この世界が、ファンタジー化が起こる前までは、ごく当たり前に日常を過ごしていた環境だと思うと、未知なる世界と呼ぶのも些かおかしな話だけど、魔物がうろつく現在の野外は、誰が何と言おうとも未知なる世界なのだ。


 そんなこともあって、大きな恐怖に立ち向かい、外に出ると決意するのはの並大抵のことではなかった。

 それでも、僅かな期待にちょっぴりだけ胸を躍らせて、玄関の扉を開いた。いや、開こうとした。

 ところが、玄関の扉は少しだけ動いたものの、全く以て押し開けることができなかった。

 そう、外から見れば直ぐに分かることなのだけど、蔦や草が生い茂る共有部を知らないが故に、頭を悩ませることになった。


 結局のところ、色々と試してみた訳だけど、僅かな扉の隙間から柳葉包丁を上下させることで、少しずつ押し開くことができたので、蔦らしきものが絡まっている状況だと理解した。


 ああ、柳葉包丁に関しては母の趣味だ。昨今は不倫に明け暮れるようになってしまったのだけど、昔は料理が大好きな良い母だったこともある。


 それはいいのだけど、汗だくになって共有部の廊下へと出たのが先程のことだ。

 当然、白い骸を見た時には腰を抜かすほどに驚いた訳だけど、炎獄の魔法使いにとっては、あまりに恰好悪い状態だったので闇に葬ることにした。

 なんてったって、こんなところで汚点を曝け出す訳にはいかないのだ。


「でも、なんで服を着てないんだろ?」


 怖くて凝視できないのだけど、むくろをチラリと見やって、何も着てなかったことを不思議に思う。

 しかし、その理由は直ぐに判明した。


「うおっ! な、なに、物体X……いや、スライムか! びっくりした~~~」


 三匹のスライムが物陰からぴょんぴょんと、兎のように弾みながら飛び出してきたのを目にして、驚きと安堵を立て続けに感じる。


 当然ながら、ヘルメット、黒革の上下、黒革のブーツおよび手袋と、完全武装であり、突然の登場に驚いて数歩下がったものの、ノコノコと出てきたスライムを殲滅するために、すぐさま魔法のワードを唱える。


「炎獄の業火よ! 今、我の力となりて敵を滅ぼさん! 炎撃! 炎撃! 炎撃!」


 相手がスライムなだけに、調子に乗って必要もないワードを唱え、炎の弾を叩き込む。

 野球のボールサイズの炎の弾は、勢いよく飛んで行くと、物の見事に炸裂し、あっという間にスライムを焼き尽くしてしまった。

 これまでの戦いで得た魔黒石のお陰で、いまやスライムなど敵ではないのだ。


「くくくっ、全ての魔物は、この炎獄の魔法使いたる、この黒鵜与夢くろうあとむが全て滅ぼす! 我こそが秩序なり!」


 ぶっちゃけ、スライム三匹なんて鼻を穿りながらでも倒せるようになったこともあり、調子をぶっこいてキメ台詞を吐く。


「決まったーーー! さいこーーーーーーー! って、あ~、黒魔石~~~ん! 無くなったらことだし、急がなきゃ」


 我ながら素晴らしいキメに、思わず感激してしまうのだけど、それよりも大切なことを思い出し、急いで脚を踏み出す。もちろん、スライムが残した魔黒石の回収だ。


 未だ魔法の威力が恒久的なものなのか、魔黒石を吸収して一時的に向上しているのか、その辺りは全く判明していない。

 ただ、どちらにしても、魔黒石を無視することはできない。だって、魔法の威力が増すのだ。無視きようはずもない。


 消えたら拙いと考えると、恰好を付けていたのも忘れて、炎獄の魔法使いなしからぬみみっちさを露呈させながら回収する。

 その時だった。エレベータホールの方から三匹の黒い犬がこちらに向かって駆けてきた。


 ふむ。魔物も動物には優しいのかな……何にしても、犬が生きていて良かった……って……えっ!?


 犬が近寄ってくるにつれて、それが唯の犬ではないのでは? という疑問が膨れ上がる。

 というのも、近づいてきて初めて分かったのだけど、その大きさが異常だったからだ。

 その黒光りする体毛に覆われた犬は、後ろ足で立てば人と変わらないくらいのサイズだろう。


 更に近づくにつれて、その犬が普通でないと、簡単に理解できた。

 何と言っても、犬と大きく違うところがある。

 そう、奴等の額に一角獣のような角が生えているところだ。

 おまけに、まるで獲物を見つけたかの如く瞳を輝かせ、溢れんばかりの涎を撒き散らしている。


「や、やばっ! 魔獣だった! 炎撃! 炎撃! 炎撃!」


 それが、犬ではなく魔獣だと気付き、慌てて魔法をぶちかます。

 今度は恰好を付ける余裕もなく、必要最低限のワードを唱えたのだけど、無情にも魔獣の動きが速過ぎて、ものの見事に的を外してしまう。


「うそ~ん!」


「グギャギャ!」


「グルルルォ!」


「ガルルルッ!」


「無理! 無理! 無理! 無理! 無理!」


 簡単に攻撃を避けた犬型の魔獣が、待ってましたとばかりに飛び掛かってくる。

 もちろん、撫でて欲しいとか、遊んで欲しいとか、甘えているとか、そんな理由ではないと思う。


 奴等の腹減った! と言わんばかりの様子に怯え、絶叫を放ちながら慌ててスタート地点に戻ると、透かさず玄関のドアを渾身の力で閉じる。

 それが間一髪だったのか、それとも間に合っていないのか、一匹の魔物の頭が扉に挟まる。


「うわっ! うわっ! うわっ! いてっ! か、噛むな! あっちいけ! 炎撃!」


「ギャインッ! キャイン! キャイン! キャイン!」


 ドアを閉めようとしていた手を噛まれそうになり、慌てて魔獣の顔に魔法をぶち込む。

 当然ながら、ドアに挟まって逃げることが許されない状況の犬君は、それを思いっきり喰らって後ろに転がり、オレの人生は最悪だと言わんばかりに嘆きの悲鳴を撒き散らす。

 ただ、その魔物が不幸になってくれたお陰で、運よくドアが閉まってくれた。

 そして、すかさず玄関のカギを掛けると、その場に尻餅を突いて安堵の息を吐く。


「ふ~っ、ヤバかった~~~! やっぱ、油断しちゃダメだよね。これからは全て敵だと思わなきゃ……」


 未だに魔獣の悲痛な鳴き声が聞こえる中、背中に掻いた冷たい汗を感じながら己が油断を戒める。

 そして、自分を落ち着かせながらドアスコープから外を覗き見る。すると、のた打ち回る仲間を他所に、残りの二匹がハアハアしながらこちらを眺めていた。


「ちょ、ちょ、ちょっと、勘弁してよ! 外に出られないじゃんか!」


 野外にはこれ以上に凶悪な魔物が居ることも忘れて、犬の魔獣如きを相手に絶望的な気分となる。


 結局のところ、素晴らしき外出計画は、玄関から数歩出たところで犬の魔獣に邪魔されて、もろくも頓挫とんざしたのだった。









 魔法が少しばかり使えるようになったことで、鬼の首を取ったかのように調子をぶっこき過ぎていた。

 それは、早速とばかりに痛いしっぺ返しとなって返ってくる。

 というのも、玄関のドア一枚挟んで、向こう側では三匹の犬魔獣――ヘルドッグが落ち着きなくウロウロとしているのだ。

 とても残念なことに、魔法を顔面に喰らって、己が不幸を嘆いていた奴も復帰したみたいだ。


 ああ、ヘルドッグに関しては、勝手につけた命名させてもらった。

 というのも、便宜上、名前が無いと面倒だと感じたからだ。

 どんな便宜上かだって? そりゃ、この先、誰かに説明することもあるかもしれないし、何よりも独り言には必要不可欠だと感じたんだよ。


 それはそうと、ドアスコープから何度目となるかもわからない覗きを行い、どこまでも落ち込むかの如く深い溜息を吐く。


「まだいるよ~ワンコ達……しつこいと嫌われるんだぞ! 保健所は何をしてるんだよ! って、そんなものは、もう存在しないか……」


 聞こえるとも思えない抗議の言葉を口にしつつ、どうしたものかと頭を悩ませる。

 しかし、これまで動物を飼ったこともなければ、習性に関する知識もないのだ。良いアイデアが浮かぶはずもなく、途方に暮れてしまう。いや、早くしないと陽が暮れてしまいそうだ。

 結局、焦りを感じて苦肉の策を試みることにした。


「ほら、これでも食ってお腹を壊せ!」


 少しだけ開けたドアの隙間から、早い段階で腐らせてしまって、さすがに食べる気になれない旧冷凍肉――現在は唯の腐敗物を放り投げる。


 もちろん、とっくに自然解凍され、いまやドリアンすら悲鳴を上げて逃げ出すほどに、鼻がもげ落ちるほどの腐敗臭を撒き散らしている。

 その臭いは強烈で、ヘルメットをしていても鼻を摘まみたくなるほどだ。ある意味、臭いの逃げ場がないヘルメットの中は最悪だと言える。

 それでも、吐き気を堪えてヘルドッグの動向を確認する。

 しかし、そこで目にしたものは、想像すらしていない光景だった。


「あう……マジか……」


 そう、三匹の内、一匹――顔面に魔法を喰らったヘルドッグが、投げた腐肉に近づくと、誰だ、こんなところにゴミを投げ捨てたのは、と言わんばかりに、それを前足で叩き飛ばしたのだ。

 それだけでも異様な光景なのだけど、腐肉を叩き飛ばしたヘルドッグは、己が前足の臭いを嗅ぐと、手が汚れたじゃないか! と言いたげな表情で壁に生えた草を使って前足を拭いていた。


「二匹は見向きもしないし……オマケに一匹はすっげ~嫌そうな顔してるし……もしかして、お前等、どこぞの美食家なのか!? うわっ! うわっ! うわっ!」


「グギャギャ!」


「グルルルォ!」


「ガルルルッ!」


 美食家風の魔獣にケチをつけていると、奴等は、てめ~を食うんだよ! と叫ばんばかりの勢いでドアの隙間に頭を突っ込んでくる。


「くそっ! あっちいけ! 炎撃! 炎撃! 炎撃!」


「「「 キャイン! キャイン! キャイン!」」」


 上手い具合に炎の弾が命中し、ヘルドッグが三重奏で悲鳴を上げる。

 それに気を良くして、調子に乗ってぶちかます。


「喰らえっ! 炎撃! 炎撃! 炎撃!」


「「「 キャイン! キャイン! キャイン!」」」


 よし! かなり効いてるぞ! この調子だ!


「炎撃! 炎撃! 炎撃!」


「「「 キャイン! キャイン! キャイン!」」」


 ほらほら! 踊れ! 踊れ!


「炎撃! 炎撃! 炎撃!」


「「「 キャイン! キャイン! キャイン!」」」


 ほらっ! もういっちょ!


「炎撃! 炎撃! 炎撃!」


「「「 キャイン! キャイン! キャイン!」」」


 てか、なんで死なないの? なんかおかしくない?


 調子に乗って魔法を叩き込むと、ヘルドッグ達は痛みに呻き、悲鳴をあげて転がりまわっている……はずだ……

 ただ、不思議なことに、なかなか死なないのだ。いや、それどころか、転がりまわるヘルドッグ達の顔が、徐々に恍惚な表情と変わっているような気がする。

 もしかしたら、炎に対する耐性があるのかもしれない。いや、まさかと思うけど……


「ちょ! ちょっ! こいつらドMなの!?」


 つたや草で覆われた共有廊下で、まるで悶えるかのように身を捩るヘルドッグ達を目にして、思わず呻き声を漏らす。


 その姿は、どう見ても苦痛にのた打ち回っているというよりも、快感に身を捩っているようにしか見えない。

 しかし、いつまでもこうしてはいられない。このままだと、どれだけ魔法をぶち込んでもマンションから出られないのだ。

 絶望的な気分と変態を目にした呆れを振り切り、禁断の魔法を放つことを決意する。


「だったら、これでも食らえ! 爆裂!」


 額に流れる汗を感じながら、右手を突き出して禁忌の魔法をぶっ放す。


 当然ながら、目の前で轟音が響き渡り、大爆発が起こる。

 案の定、自身も後ろに吹き飛ばされ、その勢いで玄関のドアが閉まってしまう。


「ぐはっ! けほっ! けほっ! こりゃ、少し小型化させる練習をしないと、いつか自分も死んじゃうよ……」


 室内に転がったまま、咳込みながら反省点を口にする。

 それでもなんとか起き上がり、痛む体に鞭打って玄関のドアスコープから外を覗く。


「つ~、いてて……って、粉塵で何も見えないや……」


 もうもうと立ち込める粉塵とバラバラになった蔦や草が舞い、外の様子はさっぱり分からない。

 それでも、息を潜めていつまでも外を眺め続ける。


 どれくらいの時間が経ったのだろうか。

 とても長く感じるのだけど、おそらくは数分程度だろう。

 ただ、もしかしたら、ヘルドッグが死んだ後に出た魔黒石が消えて無くなってしまわないかと、焦りを感じつつイライラとする。


 焦りを募らせつつもドアの向こうを覗き続けると、少しずつ粉塵が収まり、爆発で小綺麗になった廊下が見え始めた。

 爆発の勢いで蔦や草が剥がれ、コンクリートの床が露になったのだ。

 実際は、コンクリートの上に樹脂が貼られていたのだけど、物の見事に吹き飛んで黒く焦げている。


「なんか、綺麗になったよね……いや、それよりもヘルドッグは? ん~、この角度じゃ分からないや……」


 ドアスコープの範囲が限られていることから、周囲の様子が全く分からない。

 それに焦れて、性懲りもなく不用意にも玄関のドアを開け放った。

 しかし、いつもいつも運命が悪い方に倒れる訳ではないみたいだ。

 視線の先には、三匹のヘルドックが横たわり、その前にはこれまでよりも大きめの魔黒石が三つ転がっていた。


「よっしゃ! よっしゃ! よっしゃーーーーーー!」


 ガッツポーズを取りながら喜びを露にすると、そそくさと魔黒石を手に取る。

 それは、いつもと同じように手の上で消えていくと、沸々と力が漲ってくる。


「これで一歩前進だ! 色々と予想外だったけど、やっと予定通りに進めそうだぞ」


 抑々、魔物と遭遇することは予定に入れていたのだけど、これほどに手間取るとは思ってなかったのだ。

 そして、今回のことで色々と問題点が見えてきた。

 というのも、現時点でスライム以外の敵だと、自分の攻撃が簡単に避けられてしまうのだ。


「どうしよう。なんとか家からは出られたけど、この調子だと瞬殺されそうだ……でも、非常食もあんまり残ってないし……」


 結局のところ、色々と悩んだのだけど、選択肢が限られていて強行軍に出るしかなかった。

 何と言っても、食料が限られているのだ。

 そんな訳で、慎重に進むことを自分に言い聞かせ、ちょっとした物音におっかなびっくりしながらも、魔物が徘徊する野外へと脚を向けるのだった。

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