1−4
ガリガリと、細田の握るボールペンが走る。
〈あのさ、夜にまた相談しよう、って伝えただろ。ちょっとその辺の木でも引っこ抜いて、わあ、山ちゃんの怪力すごーい! くらいのパフォーマンスをしてくれれば良かったんだよ? なにあれ、やりすぎでしょ〉
「ダダ。細田ちゃんよ、ごめんな」
困った大山が声を掛けても、細田はメモ用紙を引き千切るようにめくって止まらない。苛立ちと不機嫌を隠しもしない顔で、一心に文字を綴っている。
〈ドカドカ音がするから外見たらさ、山ちゃん地面を抉って走ってるしさ、そのうち目で追えなくなるし、電車が走ってるみたいな音を立て始めるし〉
「ダダくんってば、ちょっと落ち着いて」
「これが落ち着いていられるか!」
「本当にごめん。ちょっとはしゃいじゃったのは認める」
細田が顔を上げた隙を逃さず、大山はその手からボールペンを取り上げた。メモ用紙も引き寄せて、読みやすいよう大きく文字を書く。
〈ダダは、トウチョウの心配してヒツダンしてるんでしょ? それ、解決するかもしれない〉
うーん、漢字が咄嗟に出て来ない。俺、本当に頭が悪いな。
「でも、頼むから落ち着いてくれ。また体調が悪くなったらどうすんの。な?」
「……そうだな。わかった」
細田が、ため息をついて手のひらを突き出してくる。大山がボールペンを渡せば、今度は落ち着いて文字を書いてくれた。
「まあ、もうあんな無茶は止めとけよ。心臓止まるかと思ったわ」
〈三行でよろしく〉
「俺は、昼飯まで寝てるから」
言って、本当にベッドに寝転ぶので、大山は返事を書いたメモ用紙を細田の顔の前にかざしてやる。
「本当にごめんなー。ダダは睡眠不足なんだから、寝とけねとけ」
〈あのバリアみたいなやつが作れた。もう一度やってみる。その中なら声出して大丈夫?〉
細田の反応は劇的だった。
眼鏡の奥の目がかっと見開かれ、また乱暴な手にボールペンとメモ用紙を奪われる。
〈お前、本当に馬鹿だろ〉
ちょっと? さすがに怒りますよ?
大山は、先ほど自分の周囲に構築した防護壁を思い出しつつ、今度は形を四角形にしてみる。広さは二つのベッドを囲めるくらい、高さは天井までだ。
いちど作ってしまえば、想像だけで大きさも形も自由に操作できる。これ、便利だわー。野宿をしても、雨風がしのげるといいな。
疲れてはいないものの、寝転べる場所があるのに立っているのは馬鹿らしい。大山がベッドに座り、指でOKサインを作れば、細田は恐るおそるといった仕草で立ち上がった。そっと伸ばした手で防護壁を触り、ぐるりと範囲を探るように歩いた後、頭痛を堪えるように額を鷲掴みにする。
「考えられん……本当にやりやがった……」
「なあなあ、これで普通に喋っても大丈夫だろ? 一応、音も漏れないように作ったつもりなんだけど」
「え、なに? 俺、山ちゃんを煽りすぎた? 変なスイッチ押しちゃった?」
「おい、少しは褒めろよ」
大山は半ば本気で睨みつけたのだが、細田はへらりと笑ってベッドに倒れ込んでしまう。その体は、完全に脱力していた。
「いやね、褒めますよ。褒めますとも。すごいよ山ちゃん。たださあ……さすがに……こんなのは、俺も予想してなかった」
「なんでだよ。お前が出来るって言ったんだろ?」
毛布に顔を埋めてモゴモゴ言う細田が心配になり、大山の怒りもしぼんでいく。
「おーい、ダダくん。本当に、どうしたんだよ」
細田のベッドに座り直し、突っ伏したままの肩を叩いてみる。眼鏡が歪むから、うつ伏せは止めなさい。
「お前だって、あれじゃねえか。指で、ライターみたいに火を点けたろ?」
「あんなのは、ただの楽しい化学実験だ。お前がやったのは、まったく別の物なんだよ。気づけよ」
「すまんが、ちゃんとわかるように説明してくれんかね。俺の頭が良くないのは知ってるだろ?」
「誰がそんなこと言った。お前は頭が良いよ……俺より、ずっと良い。柔軟性の塊だ」
むくりと起き上がって、細田が眼鏡を直す。あぐらをかいて座った彼は、いつもより小さく見えた。
「悪い……俺も、ちょっと動揺した。あと、あのメモな。抽象的に書きすぎたかも知れん」
はあーと長いため息をつくと、細田は心底から疲れ切ったような笑みを浮かべる。それは、彼が大きな失敗をしたときの、自嘲の表情にも似ていた。わけがわからず、大山の胸が不安にざわつく。
あれ。俺、本当になにかやっちゃった?
「この世界には、なにか不思議な力がある」
「お、おう」
「それをなんて呼んだらいいか……まあ、四大元素やらマナやら、最近のファンタジーだと魔素か? そういう、科学や
俺は、そこから考えを改める必要があった、と細田が続ける。
「なんてったって、目の前でガチの魔法を使われたんだからな。受け入れなきゃ、どうしようもないだろ。で、自分でも試そうとしたんだが、これが上手くいかない」
細田の、骨ばった手が人差し指を立てる。ポッと音を立てて炎が立ち、しばらく燃えた後で手を振ると、煙も残さずに呆気なく消える。
「最初に試したのは、火の発生だ。部屋の中でこっそりやる必要があったから、発火点の低い木炭を熱して発火させようとしたんだ。火鉢に残ってたやつな。それだって、最低でも二百五十度にしなきゃならん。蝋燭の芯は木綿糸だったんだぞ? ありゃ、火もなく発火させるのに、五百度は必要なんだ」
「完全に実験じゃねえか。よく火事にならなかったな」
「まあ、ここにはシーニャさんっていう消火班が待機してるみたいだし?」
「まーた人頼みか。お前、案外そういうとこあるよな」
なんでもやってみよう精神で大学院まで進み、いまでは企業の研究員になっている細田だが、興味があるのは実験と結果だけだ。成果を出しても、その後の実用や発展には感心がなく、後は誰かよろしくで放り出す。それでも首にならないのだから、一応は企業に貢献しているのだろう。たぶん。
一度、細田の上司という人物に会ったことがあり、彼がしみじみと言っていたものだ。「こいつが利益と損失を計算できるのは、伝送理論だけだから」意味は良くわからなかったが、彼の口調と表情から、大山はその苦労をひしひしと感じ取った。本当に世話が焼けるのだ、細田という男は。
「いくら勇者でも、ひとの家を燃やしたら放り出されると思うぞ」
「まあまあ。それは失敗したんだからさ」
「お前が?」
「そうなんだよなあ。火が出るどころか、どんなに頑張っても、一度だって温度を上げられなかったんだ。炭のかけらを温めるだけなら、いっそ自分の手で握ったほうが早い。まったく、笑っちまうだろ」
短く息を吐き出して、細田の脱力していた体が起き上がる。少し調子を取り戻してきたかな、と大山は思った。
「だいたい、不思議な力で物質を加熱させる、ってなんだ? なにかの物質が熱を持つには、他からより高い熱を伝達させる必要がある。ある木材が二百五十度に熱せられたら発火するとして……どっから、そのエネルギーを持ってくるんだよ? 意味がわからんだろ」
「確かに……でも、それならアレじゃね?」
大山には、化学の知識があまりない。よく大学を卒業できたものだと自分でも思う。細田の言っている意味もわからないので、天井をぼけっと眺めてから、思い付いたままを口にする。
「シーニャさんは、ただ火を作ったんじゃないか? 不思議な力さんに頼んで。で、用が無くなったら、火を不思議な力に戻せばいい」
「お前……本当に馬鹿だな。ほとんど天才に近いぞ」
「またそれか。なんなんだよ、さっきから」
「それなんだよ! この世界の魔法使いは、無知にあぐらをかいた馬鹿ばっかりなんだ!」
細田が、ベッドを力いっぱいに殴る。へなちょこパンチなのと、木板に毛布を重ねただけのベッドなので、ポコッという音が間抜けだ。続いて彼は、毛布の下からスケッチブックを取り出した。
おい、それも俺のじゃねえか。使うなら、ひと言お願いしますよ。
「あのじいさんに借りた本の一冊が、呪術士の入門書だった。精霊の加護で、自然の力を操るってアレだ。期待するだろ? それが、なんだよあれは。加護の種類には、生まれ育った土地が関係しているだとか! 女性には火の呪術士が多いだとか! 加護を得るには、自然の力により近づく必要があるだとか! まったく、ケツを拭く役にも立たん、ゴミみたいな本だったんだがな」
「ダダ、口が悪い」
「他に
「名簿って……それに、地図があったのか」
「驚くだろ。しかも全国版をあっさり寄越しやがった。あんなん、よそと戦争の経験がある国なら軍需品で国家機密扱いだぞ……まあ、それは置いといて。見てみろ」
スケッチブックには、細田が描き写したらしい国の地図と、主要な地名、細かな文字がごちゃごちゃに書き殴られている。てか、絵が下手だなあ。元の地図は見ていないが、この抽象画じみた図では、逃亡の役になど立たないのではないだろうか。
「ロヤってのは、あのばあさんが生まれた土地だろ。ここだ。この国で言う里は、住民が百人から五百人にも満たない村みたいなもんで、他にいくつかの里が集まって
「言っておくけど、地名なんて覚えないからな……ふむ? なんだか細長いんだな」
「山に沿って、東西に伸びているんだ。この辺りに
「ええと……製鉄が身近で火をよく見るから火の呪術士で、採掘するから、土の呪術士ってことか?」
「良しよし、付いてきてるな。ところが、いまのハカ郷は住民のほとんどが鉄鉱石を採掘する鉱夫で、製鉄は呪術士に頼ってる。むしろ火の呪術士を育てるために、製鉄のための炉と技術を保存してるってんだから話にならん」
細田の饒舌家な面が出てきたので、大山は、うんうん頷いて大人しく拝聴する。元気になってきたな。良かったよかった。
「本当に、馬鹿みたいだろ。この国でも、いちどは製鉄の技術をある程度まで発展させたはずなんだ。そのうち高炉も作れただろうし、地球の歴史みたいに産業革命が……いや、その前に森林破壊か。どっちがいいんだろうな。俺にはわからん」
細田の指が、細長い土地から右側に滑り、今度は歪んだ円に近い土地を指し示す。ぐにぐにした縦線が引かれているのは、街道だろうか。
「こっちは、農業が盛んな郷だ。麦や綿花が有名らしくてな。二本の川に挟まれていて、そういう農作物を国都まで船で運んでいる」
川かよ。この地図、細田しか使えねえぞ。暗号じゃないんだから、俺に描き直させてくれ。
「この郷には、風と水の呪術士が多い。よそとの比較で、の話だがな。星山道会だけでも、十人いる風の呪術士のうち四人、八人いる水の呪術士のうち五人が、このミイタ郷の出身だ。他は、もっと近い郷や里からバラバラに集まってるってのに、偏りすぎだろ」
「へえ、そんなにいるのか」
シーニャさんは、水を汲める呪術士が二人いるため、生活用水に困らないようなことを言っていた。他の人たちは、どんなことができるんだ? ただ水の呪術士と言っても、能力が色々あるのだろうか。
「で、風の呪術士ってのは?」
「よくわからん。空でも飛べるのかね? まあ、風読みっていう、天候や風向きを読める特別な呪術士が居るらしくてな。そういう奴らは、特に農業や船での輸送で重宝されるから、高給取りらしいぞ。他にも、大きな川や、海沿いにある
細田が今度は左手を上げると、お椀のように丸めた手のひらを上にして、大山の鼻先に突き出してきた。
ぴったりと閉じた指の第二関節あたりまで、どこからともなく透明な水が湧き出してくる。やばい、細田が本当に魔法使いみたいだぞ。
「精霊の加護を持つだの、自然の力を操る呪術士だのと考えるから、用途が狭くなる。呪術士の入門書には、なんらかの精霊の加護を得たら、その術を伸ばすために五年は訓練しろと書いてあった。こんな風に」
細田の手がくるりと反転して、溜まっていた水が毛布にこぼれ落ちる。
「おい……!」
いや、落ちたはずだ。大山は慌てて手を出したが、水がかかったはずの毛布は少しも濡れていなかった。ただ、触っている一部分だけ、毛布が少しひんやりとしている。
「え、あれ? さっきの水は」
「水を自在に取り出して、蒸発させるまでが、訓練の第一課程だな。すると、晴れて水の呪術士と認められ、国都で勉学を修める資格が得られます。将来は安泰ですね、おめでとう! ってわけだ」
鼻で笑った細田が、スケッチブックを閉じて枕元に投げた。だから、それ俺のね。
「本当に、馬鹿みたいだ。やってられるか」
「ほーそだ。お前、馬鹿ばか言うの止めろって」
「うるせえ。俺の口が悪いのは生まれつきだ。いいか、大山」
細田が身を乗り出して、真正面から見上げてくる。指でコツコツと、こめかみを突かれるのが怖い。
「お前のその、おそろしく素直で柔軟な頭が、なにを成し遂げたのか考えてみろ。俺の映画の受け売りみたいな言葉だけで、お前はジェット推進でも使ってるのかって速度で走って、その足で地面をガリガリ削りまくって、この道会の連中を恐慌させた挙句に、どっかへ飛んでった。なんだありゃ。道士や呪術士の名簿にも、お前みたいな奴は居ないんだぞ」
「え、いや……でも」
簡単だった、と言おうとして、その言葉を飲み込む。実際、驚くほどに簡単だったのだ。こうしたい、と考えたときに、すでに自分の体は世界の力と同化していた。
というか、世界の力ってなんだ。
細田のメモにあった言葉じゃねえか。自分は文字通りに受け取ってしまったが、この不思議な力は、いったいなんなんだ?
細田が離れても、大山の体は硬直し、頭が熱を持ったように考えを巡らせていた。いまでも自分は、世界の力を感じている。防護壁は維持できているし、やろうと思えば、この大きな建物を更地に変えるのも一瞬だろう。
それが、ありありと想像できる。
まるで……漫画やアニメのヒーローたちのように。
「それが、俺たちと、この異世界の奴らの違いだ。知識と想像力だよ。せっかく不思議な力があって、コツさえ掴めば、火も水も簡単に生み出せるのにな。俺は、そこに気づくのに時間がかかったが……火なんて、発火の原理から、燃焼する物質と温度の種別まで知ってる。どんな火が欲しいのか頭で理解していれば、後は、不思議な力でそれを再現するだけで良かったんだ」
酸素を知っていれば、酸素というものが血液中でどんな役割を果たすか理解してさえいれば、世界の力を使って全身で取り込むことができる。呼吸さえ省略して……だが、それには肺や呼吸がなんのために必要かという、人体の知識が必要だ。血液や細胞、代謝によって排出される、二酸化炭素という気体についても。
大山には簡単な理科程度の知識しかなかったし、その記憶もいまは朧げになっている。それでも、全てが可能だった。あの時には、足りないエネルギーはそのへんから貰っちまえ、くらいの考えでがむしゃらに走ることが出来たし、筋肉も関節もまったく疲労しなかった。
あれ、これおかしくね?
ぐるぐる考えていると、細田に頬を叩かれた。ペチペチと軽くだが、指が細いのでちょっと痛い。
「おい、あんまり難しく考えるなよ。お前は超人ハルクだ。なんか不思議な力で自由に怪力を発揮できるし、謎のバリアも張れる。それでいいじゃねえか」
「いいのかあ? いまさらだけど、これおかしいよな」
「おかしくない。良くやった。褒めてつかわすぞ」
「なんだよそれ」
さっきとは立場が逆だ。大山が、まだ混乱して口も閉じられずにいるのに、細田はニヤニヤ笑って得意げにしている。
「あ、じゃあ……ダダも適当に考えたら、魔法が使えるようになったのか」
「魔法か。魔法だよなあ。もっと面白いことも出来るぞ。そりゃ、勇者様って呼ばれるわけだ」
ここが違う、と細田が自分の頭を指差す。
うん、細田の頭脳は俺より上等だからね。なにが出来るようになったのか、想像するのも恐ろしいわ。
「ところが呪術士って連中には、自然現象が見たまま、経験したままの存在でしかない。水の呪術士なら、とにかく水に触れて、水がどんなものか考えて、それを不思議な力で再現する訓練を繰り返すんだ。水という液体が、水素と酸素の化合物だって知識も無いんだぜ? そりゃ、科学技術が発展しないわけだよ」
エイチ・ツー・オーだな。そのくらいは知っているぞ。
「俺は、そこに引っ掛かったんだ。ひと晩中考えて、小一時間も炭やら紙やらを発火させようとして、また本を端から読み返して、ようやく全部を放り投げたんだぞ! ったく、クソが!」
「ダダ、クソもだめ」
「まったく、遠回りさせられたもんだよ。それをお前は……えらい。本当にすごい」
頭を撫でられたが、あまり嬉しくない。
細田が、濃い隈のある目を光らせて、悪魔のような笑みを浮かべているからだろうか。
「これで、いつでも脱出できるぞ。そうと決まれば、荷造りだ」
「ダダ様、ヤマ様。そろそろ、お話の続きをよろしいですかな」
ガヤンの台詞は、疑問形ではなかった。
昼食を終えると、それまでと違い三人の男が客間にまで付いて来て、二人が扉の前に、ひとりがガヤンの後ろに立つ。どうやら大山のひと暴れが原因で、この集団の警戒度は数段飛ばしに跳ね上がったらしい。
いいね、いいね。そう来なくっちゃ。
細田が肩をすくめると、ガヤンはあからさまな安堵の息をつく。
「どこまでお話ししましたか……そう、星神リュージャ様のご神託でしたな。まずは、ここ三十年の戦についてご説明しましょう」
大山は、昨日の会話などろくに覚えていない。だが隣に、頭脳の細田という頼れる相棒がいるため、すっかり信頼して任せていた。
さっきは俺、その細田からの指令すら間違えちゃったしな。大人しく地蔵になっておこう。
「発端となりましたのが……わが国が、魔族の突然の襲撃をなんとか押し返し、戦場がザリ平原で落ち着いた頃の一報でした。前線におりました道士のひとりが、魔族の術に神々の奇跡が及んでいないと気づいたのです」
「うん? ちょっと待って下さいよ」
細田が、ぐいと身を乗り出す。
「昨日はガヤンさん、魔族の不思議な術を闇の魔術と呼んでいる、って言いましたよね。それが、ドウリャ国の道士たちの共通認識だと」
「はい、確かに」
「そう言えば、魔族についても外見すらあやふやな説明だったな。てことは、それまでガヤンさんたち……この国の人々は、魔族という種族について、あまり知識が無かったんですね」
「その通りです。この国の東方にあります黒の森は、大陸の外れでしてな。魔族どもは古来より、海を越えた別の大陸に住まわる伝説のような存在でした。見た目も言葉も、わしらとはまったく別の種族です。当然、これまで交流はほとんどございませんでした」
「ほとんど、ですか」
「過去に数回、国の学者が調査のために訪れたことはあるようです。また、漁師の船が東の大陸に流れ着くこともありました。しかしこれまでは、魔族どもも彼らを送り返すだけで、この国に関わって来ることは無かったのです」
すっかり観察に回っている大山は、ガヤンが脚の上で組んだ指をせわしなく動かしていることに気がついた。
お、話が進まなくてイライラしているのかな。細田を相手に、一方的な説明をしようったって無理だよ。
昨日だって、細田は唐突に人種や地理の説明を始めたり、日本の神について演説をぶったりして話を引き伸ばした。あれは、完全に細田のいじわるだ。最初から、ガヤンの説明など聞くつもりがないのだろう。
さらには、会話を勝手に打ち切ったしな。こういう奴なんですよ、すみませんね。
「そこへ、突然の襲撃です。黒の森の海岸線には、いくつか漁を営む里があったのですが……いまは、どうなっていることやら」
「それは心配ですねえ。あ、それで? 魔族の使っている術が、この国のものとは違うと判明したと。その後、どうしたんです」
んで、自分の都合の良いように話題の矛先を振り回す、と。
これ、会社でもやってないよね? 上司さんの胃が心配だよ。
「はい……その報告を受けた国王陛下は、
ガヤンの言葉に、ため息が混じり始めた。口調が丁寧なのと、もじゃもじゃした白い髭の動きに視線が誘導されて目立たないが、よく観察すれば老人の頬が引き攣っているのがわかる。
でも、この人はキレたりしないんじゃないかな、と大山は思った。亀の甲より年の功。宗教施設を三十年も仕切って来た彼なら、細田が本気で煽り始めても自制しそうだ。
その時は、俺が暴れるんで問題は無いんですけどね。
「ところがその後、十五年かけても闇の魔術を再現することは叶いませんでした……これは、昨日お話しましたか」
「で、神様にお願いしたと」
「ええ、ええ。その通りです。あらゆる道会の祈祷に、最初にお応え下さった神こそ、我らが星神リュージャ様でした。ご神託は、すべての道士らに夢として現れました……魔族の術に、異世界への門を開く
ガヤンが、またぞろ難しいことを一気に喋って、その黒く光る目でこちらを見つめてくる。
「そして、立ち現れた勇者様。それこそが、ダダ様、ヤマ様のお二人なのです」
老人は、いちど瞑想するように目を閉じて、深く頭を下げた。
「なにとぞ、我らのため……この国のために、そのお力を貸していただけますよう、道会を代表してお願いいたします」
いや、無理でしょ。
最初から、大山と細田の回答はひとつだ。
平和な日本で、オタクとして幸福の絶頂にあったあの瞬間から、いきなり異世界に転移させられた。それも、三日間開催される夏コミの、二日目に! 三日目の閉会後なら良いとか、そういう問題ではない。
自分たちは、小説や漫画やアニメという娯楽を消費し、課金ゲームや同人誌に金を突っ込み、自らの妄想を発散させる場を人生をかけて楽しむ、オタクという人種なのだ。現代日本でしか、生存の不可能な生き物なのだ。
チェンジで、って言ったよね?
真っ先にお願いしたのに、聞いてなかったのかな。
いや、聞いていたか。無理なんだっけ?
「無理でもなんでもやれよ、おい」
「山ちゃん、声に出てる」
「おっと、失礼」
「そうは言われましてもね……この国を救うってのは、具体的にどうしろとおっしゃるんです?」
細田が、椅子にふんぞり返って腕を組む。
「戦争は、ザリ平原とやらで膠着状態なんですよね。そこまで出かけて、魔族を蹴散らせと? 異世界から、了解もなく略取した、たった二人しか居ない、こんな世界とは無関係の俺たちに?」
ひと言ずつ吐き捨てるように言って、細田が鼻を鳴らす。
「ご冗談でしょう。死んでもお断りです」
「そこをなんとか……」
「なりません。つか、どう考えてもならねえだろ。馬鹿か、お前は」
空気が凍りつくのがわかった。
部屋の出入り口とガヤンの背後に立っていた灰色ローブたちが、身を固くしてこちらに注目する。
三人とも武器は携帯していないようだが、彼らは魔法のような力を使う。この建物の、すべての住人が道士か呪術士である、とガヤンは言ったのだ。大山が大暴走をしたので、この場に居る男たちは、腕に覚えのある人物で揃えてあるに違いない。
大山は、世界の力をゆっくりと呼吸した。徐々に、力がみなぎってくるのがわかる。全身の筋肉を引き絞った弓のように整え、いつでも飛び出せるよう身構える。
ガヤンが、ゆっくりと頭を上げた。その目には、先ほどまでの穏やかな色など無い。冷たく光る瞳は、細田に、そして大山にと、感情を乗せずに移動した。
誰が先に動くのか。それとも、まだ宥めにかかってくるか。
時間が引き伸ばされたかのように、硬直した一瞬が続く。だがその緊張は、突然に開かれた扉で霧散した。
「あら、すみません」
ドス、と音がして、その向こうから女性の慌てたような声がする。
「ぶつけてしまいましたね。ごめんなさい、痛くしませんでした?」
見れば、廊下側の扉に手をかけて、シーニャが男のひとりに頭を下げている。男は無言で一歩下がったが、片腕を上げてシーニャの入室を遮った。
「
「シーニャ……この部屋には、話が終わるまで立ち入らぬようにと」
「ええ、うかがいましたとも。けれど私、この後は畑に出なければなりませんでしょう? ですので、先にダダ様のご用事を済ませないと、と思いましてね」
ガヤンの押し殺した声や、部屋の中の張り詰めた空気に気づかないのか、シーニャはにこにこ笑って小首をかしげる。
そして、なんとも身軽に屈み込むと、自分を遮っていた男の腕の下をさっとすり抜けて来た。
「すぐに済みますから、お目こぼし下さいな」
大山は、呆気にとられてシーニャの動向を見守る。このおばあさん、とんでもない大人物だな。
「ダダ様、先ほどは失礼いたしました。せっかくお休みになっておられたのに、お手を煩わせてしまって」
「ああ、いや……服を作って頂くんですから、採寸くらいは」
さすがの細田も、目をぱちくりさせている。シーニャは、ガヤンに軽く頭を下げて、細田の正面に回り込んだ。小さな老人は、すっかりシーニャの背中に隠れてしまう。
「そのとき、こちらをお忘れになったでしょう? 中を拝見しましたら、とても大切な物のようでしたので、お預かりしておりましたの。お食事の時にでもお渡ししたかったのですけど、手が空きませんでね。すっかり遅くなってしまいました」
差し出した両手には、半分に畳んだトート・バッグがあった。それ、俺のですよね、と大山が思ったところで、シーニャと目が合う。
ぱち、とウインクされた。ますます意味がわからない。
「どうぞ、中をご確認くださいな。無くされたものなどありませんかしら」
「はあ……ああ、これですか」
細田がバッグを開いたので、隣に座っていた大山も覗き込むと、中身はやはり五冊の本だった。自分が不摂生な友人から取り上げて、持ち歩いていた物だ。採寸の時に、どこかに置き忘れていたらしい。
「はい、全部ありますね……」
細田が、小さく息を飲んだ。
次いで、眼鏡の奥の目が細められ、薄い唇が引き攣ったように歪む。笑いとも、怒りともつかない表情だ。しかし細田は、間を置かずに平静な声で続ける。
「ありがとうございます。確かに、俺の大事な物でした。助かります」
細田がトート・バッグを脇に抱えるようにして持つと、シーニャはほっとしたように笑って胸を押さえた。
「いいえ、これで私も安堵できますわ。それでは、仕事がありますので、これで」
ひょい、と身を翻して、扉の前で振り返る。
「山長様、お邪魔してすみませんでした」
「うむ、いや……まあ良い」
鷹揚に頷くガヤンと、三人の男にも頭を下げて、シーニャは客間を出て行った。
後には、すっかり弛緩した空気が流れる。まったく、つむじ風のようなおばあちゃんだったな。大山も気が抜けて、のろのろと前に向き直ると、いきなり横から二の腕を叩かれた。
「山ちゃん、いまだ。やれ」
え、待って。
まだ、心の準備が出来ていないんですけど!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます