1−3

 肉体的にも精神的にも疲れ切っていたのか、大山は一度も目を覚ますことなく朝を迎えた。

 カタカタと音がするのに気づいて薄目を開ければ、頭上から声が降ってくる。

「ヤマ様、朝でございますよ」

「ん?……あ、はい。おはようございます」

「おはようございます。いま、お部屋を暖めますね」

 優しげな老婦人の笑顔に、大山は困惑して目をしばたたいた。えっと、誰だっけ?

 続けて、今朝も会場に並ばなければ、と考えたところで、ようやく昨日からの現実が追いついてきた。

 異世界での朝か。なんだか、まだ夢を見ているようだ。

「もうすぐ、朝食のお時間ですの。食べられるようでしたら、下の食堂までお越し下さいね。場所はわかりますかしら」

「はい……大丈夫です」

 もぞもぞと毛布を出れば、すでに鎧戸は開けられて薄明かりが差し、部屋は再び火の精霊の力で暖められ、蝋燭の火は消えていた。

 かなりの早朝だ。窓の外には、白み始めた灰色の雲が広がっている。今日は曇りだな、と大山はぼんやり考えた。

 隣のベッドを見下ろせば、目を爛々と光らせて本を読む男がいる。

 こいつ徹夜で読んでいたのかよ。大山は素早く本を取り上げると、細田の頭まで毛布を被せた。部屋が明るくては眠れないだろうと、せっかくシーニャが開けてくれた鎧戸も半分だけ閉め直す。外の冷たい空気が舞い込んで、大山の眠気も完全に吹き飛んだ。

「あにすんだよもー」

「寝なさい。朝ごはんは持ってきてやるから、少しでも寝ておけ」

「んー」

 反論するかと思われた細田だが、今度は素直に眼鏡を外した。毛布からにょきっと出て来た手から眼鏡を受け取り、箪笥の上に置いておく。

 それでも信用できないので、借り物の本は全てトート・バッグに入れて持ち歩くことにした。コミケ帰りで良かった。予備の袋なんて、普段は持っていない。

 昨日と同じ食堂で、灰色ローブたちと共に朝食をとり、不安げなガヤンを宥めて寝室に取って返す。朝食は野菜と燻製肉のスープに、芋の煮っころがし、夕食にも付いていた茶色い木の実だった。シーニャに頼んでひとり分の食事と茶を持ち帰った大山は、四角いお盆を箪笥に置いて細田の様子を見る。

 友人は、ぐっすりと眠っていた。

 蝋燭は全てちびてしまっていたので、音を立てないようにして鎧戸の半分を開け直す。ふと窓の下を見れば、灰色ローブの数人がロバに似た毛の長い動物に乗り、山道を下って行くところだった。

 ふむ。はて?

 昨日、俺たちはこの異世界に召喚された。

 勇者様などと呼ばれ、宗教施設で食事と部屋を世話され、いまもこうして放置してもらっている。だが、それで済むはずがない。

 さっきのは、勇者の召喚が成功したことを誰かに報告するための伝令だろうか。確か、ガヤンよりも偉い人が、大きい街に居るとか言っていたし。だよな? 単純に、どこかへ仕事に出かけて行くのだとは楽観できない。

 こうしてはいられないな。

 だが、どうすればいいのか。

 細田は、まだ数時間は寝かせた方がいい。いくら頭脳の細田と言っても、寝不足で頭が働くはずもないのだ。目が覚めれば勝手に飯を食うだろうし、このままそっとしておこう。

 大山は、朝食の時と同じ服装で部屋を出た。寝間着の上に肩掛けを羽織り、腰にひざ掛けを巻いた情けない格好である。こうでもしないと、吹きさらしの廊下を歩くのが辛かったのだ。

 だが、廊下を半分も行かないうちに、階段を上がってくるシーニャと行き会った。フードを下ろした老婦人が、にっこりと笑いかけてくる。

 うーん、またか。タイミングの悪い。

 シーニャは背後に、二人の女性を伴っていた。どちらも中年くらいだろうか。フードを被っているので顔は良くわからないが、肌には皺も少ないし、長く下ろした髪も黒々としている。そして、腕に大きな布の包みを抱えていた。

「ああ、シーニャさん。先ほどはどうも」

「いいえ。ダダ様は、お食事を召し上がりましたか?」

「それが、まだ寝ておりまして。昨夜ゆうべは、ずっと本を読んでいたんですよ。なんで、昼頃まで休ませてやって下さい」

「まあまあ。ずいぶんと熱心でいらっしゃいますのね。さすがは賢者様です」

 なんぞそれ?

 大山は、賢者という呼称に首をひねったが、問い返す間もなくシーニャが続ける。

「お二人は、どうぞお好きなようにお過ごし下さいな。いまちょうど、お着替えをお持ちしたんですよ」

 包みを持った女性たちが、声もなく頭を下げる。昨日のガヤンもそうだったが、彼らが頭を下げる時は首から上で頷くようにするだけで、日本人のお辞儀とは違った仕草だ。鼻から上も隠れているので、表情がわからず少し怖い。

「はあ、着替えですか。何からなにまで、ありがとうございます」

「こちらこそ、昨日はご不便をおかけしました。それでですね。ダダ様は私たちと同じくらいですが、ずいぶんと痩せていらっしゃいますし、ヤマ様は……その、お体がとても大きくていらっしゃるでしょう」

「まあ、でかいですね」

 大山は、現代の日本でも大柄な部類だ。身長が百九十二センチ、体重は百キロを超える。脂肪よりも筋肉が勝るとは言え、横幅も目の前の女性たちの二倍はあるだろう。

 この世界に来てからというもの、周囲の人々が細田と大差ない身長なので、大山は久しぶりに自分の巨漢ぶりを再認識していた。

 江戸時代の相撲取りとか、こんな気分だったのだろうか。

 現に、いま着ている寝間着は貫頭衣がちょうど良いだけで、他は縫い目が千切れそうなくらい張っている。その貫頭衣すら、作りから見るに、普通の体型なら楽に着られる余裕を持っているようなのだ。自分に合った着替えがもらえるなら、とてもありがたい。

「こちらの二人は、うちの道会どうかいのお針子ですの。勇者様方に、お体に合ったお召し物をご用意しようと思いましてね」

「なんと。それは嬉しいです。ですが……」

「ええ。ダダ様がお休みになっているのでしたら、下のお部屋で、先にヤマ様の服をお作りしましょう」

「お気づかい、ありがとうございます」

 本当は、この建物や周囲を観察がてら散歩でも、と思っていたのだが、冬用の衣類など持っていないので仕方がない。大山は、素直にシーニャと二人の女性に従った。

 昨日、ガヤンと話し合っていた客間に通されると、大山は二人のお針子に寝巻きを剥ぎ取られ、下着の上下だけで採寸をされる。片方が目盛りの付いた紐で体を測り、もう一方が紙に結果を書き付けていくのだが、彼女たちはずっと無言だ。完全な仕立て服を作るらしく、やたらと細かい場所まで測られるのには参った。

 ものすごく暇だ。落ち着かない。

 シーニャはその間、椅子の位置を直したり、食堂から長テーブルを運んだりと、まめまめしく働いている。テーブルを運ぶときだけ年配の男性が協力していたが、彼も部屋が整うとすぐに退出してしまった。

「えーと。やりにくいですかね? ちょっと、しゃがむか何かしましょうか」

 足の型から始まり、徐々に上へと採寸していた女性が、胸の辺りになると手が回らなくなった。それでも無言のまま、相方の女性に身振り手振りで手伝ってもらっているのを見て、大山は声をかけてみる。

 女性たちは驚いたように顔を上げたが、お互いに目配せをした後、こくこくと頷いた。

「じゃ、こんな感じで。あ、腕も上げますか?」

 大山が膝立ちになると、女性たちもほっとしたようだ。試しに上げた腕にも手を添えて、彼女たちの都合の良いように角度を変えてくれる。

 しかし、喋らないな。修道院なんかだと、普段から沈黙しておく決まりがあるんだっけ。神主さんやお坊さんも、あまり喋らないイメージだし。

 この中ではゆいいつ会話をしてくれるシーニャも、いまはテーブルに布を広げたり、裁縫道具を準備したりと忙しい。

 つらい。

 話しかけても返事は無いし、そもそも話しかけるネタも思いつかない。細田を連れて来たかった。あいつ、なんだって徹夜しやがったんだ。体調が第一って、お前の口癖だろうが。だから夏コミでも、ちゃんとホテルをとって……。

「あーーっ!」

 突然の大声を上げた大山に、採寸していた女性たちがぎょっとしたように飛び退く。

「やっべえ。ホテルのチェックアウトしてねえじゃん。支払いもまだだし……え、これどうすんの。訴えられちゃうの?」

 衣類や旅行用品などの荷物も、大半はホテルの部屋に置いたままだ。さらには肝心の戦利品が一日分、丸ごと放置してある。

 大山の頭から足先まで、音を立てるように血の気が引いていった。自分たちは、どこぞのお話で活躍する主人公のように、元の世界でお亡くなりになったわけでは無い。

 謎の光る円柱で、強制的に転移させられているのだ。

「つうか、家が。仕事が。うわあ、すっかり忘れてた……コミケ三日目どころの騒ぎじゃねえぞ」

「あの、ヤマ様? いかがなさいました」

 心配そうに近寄ってくるシーニャに、大山は半笑いで首を振った。

「いえ、その、お気になさらず……ちょっと、頭が混乱して……やっぱり全員ぶっ飛ばす」

「えっ、ぶっとば……?」

「シーニャさんたちじゃないですよ。もっと悪いやつの話です」

 はっはっは、と笑ってみせたが、シーニャは怯えた顔で身を引いてしまった。うーん、失敗した。俺、すぐに本音が口に出るからなあ。

 ニャー!

 その時、どこか遠くから猫の鳴き声のような音がした。

 シーニャたちも聞こえたらしく怪訝そうに顔を上げると、またしても頭上から、か細い悲鳴が届く。

「……ちゃー! 山ちゃーん!」

「あ、ダダか。すみません。呼ばれてるみたいなんで、ちょっと失礼しますね」

 どうやら、目を覚ました細田が恐慌状態に陥っているらしい。

 採寸してくれていた女性たちに頭を下げ、大山は手刀を切りながら客間を出た。

 うわ、さっむ。そういや、下着しか着てなかったわ。



「おーい、どうしたダダ」

「山ちゃん! 大変だ! アメーバが! 地球外生命体が!」

「うん、いいから落ち着け。何があった」

 寝室に戻ってみれば、細田はベッドの隅で毛布を被り、怯えた猫のように丸くなっていた。うーん、可愛くない。こういうのは、女の子にやって欲しい。

 細田が毛布の下から、涙目でこちらを凝視してくる。白目が赤く血走って、隈も昨日より濃くなっていた。

「いま、いま起きて、トイレ行きたくて」

「うん」

「そしたら、なんか黄色いのが、グニャってなって!」

「あーはい。アレね」

 トイレのナントカ虫だ。あの、粘液状スライムみたいな、うんちを食べてくれる虫。そうか、説明してやるのを忘れていた。

 昨日から、色々なことを忘れてばかりだな。やっぱり、まだ頭が混乱しているのだろう。いつか、考えてから行動できるまでに落ち着くと良いのだが。

「トイレの中に、変な生き物が居たんだろ?」

「なにあれ! なにあれ!」

「あれね、この世界のトイレ用の虫なんだって。俺たちが出した物を食べてくれるらしいよ」

「はあー? なんだそれ!」

「うん、俺にも意味がわからないんだけどね。シーニャさんが言うには、この世界じゃ当たり前に使う虫らしいよ。大丈夫だって。俺もトイレを使ったけど、ちょっと動くだけで暴れたりはしなかったし」

「んな、意味わかんねーよ! もうやだー、帰りたいー」

「そうだね、トイレに虫とか意味がわからないね。でも、本当に大人しくて便利な虫だから。視界に入れなければ無害だから」

「むりー……」

 弱々しく呟いて、細田がばったりと伏せてしまった。

「あたまいたい……めがまわる」

「ああもう、空気が薄いのに叫ぶから」

 細田の呼吸が荒い。大山は友人の細い体をそっと支えてやった。寝不足で大声を出すなんて、頭の良いこいつが無茶をしたもんだ。よっぽど、トイレのナントカ虫が怖ったのかな。

「ほら、ゆっくり深呼吸な。あんまり騒ぐなよ。高山病になったって、病院には行けないんだから」

「ガヤンさんが……治してくれるでしょ……医者だし」

「んな、楽天的な。あの人は、俺たちを召喚しやがった元凶だぞ。そんなのに頼る気か?」

「おお……山ちゃんが正論を……だよなあ、あいつ、ぶっ飛ばしたいなあ」

「お茶でも飲むか? もう冷めてるだろうけど」

「のむー」

 箪笥の上を見れば、朝食も手付かずだった。これは駄目だ。少なくとも自由に行動できるまでは、食事と睡眠を面倒見てやらないと。

 二杯目の茶を飲み干す頃には、細田の頭痛も治まったようだ。まだ青い顔をしているが、体がふらついたりはしない。

「そうだよ、トイレだよ……なにあの紙。ゴワゴワするし、破れるし」

「あれねー。何か植物の繊維みたいだな。虫が食べられるようにかね? 昔のちり紙の方がまだマシだよ。本の紙も荒いし、そっちの技術はガラスほど進化してないっぽい」

「奇跡の力が使えるくせに……製紙技術が遅れすぎ……」

「あんまり考えるなって。別に、この世界の紙を発展させようとか、考えちゃいないんだろ?」

「当たり前だ。こんな国がどうなろうが、俺の知ったことか」

 細田が、茶碗を睨んだまま吐き捨てる。

「山ちゃん。俺たちは絶対に、日本に帰るぞ」

「おう。やってやろうぜ。俺らから、夏コミ三日目を奪った罪は重い」

 ちょっと格好つけて言えば、細田も歪んだ笑みを返した。

「そうともよ。こんな馬鹿みたいな世界で、人生終わらせてたまるか」

 細田が眼鏡を直す仕草をして、そこに目的の物が無いのに驚いたような顔をするので、大山は箪笥に置いてあった眼鏡を手渡してやった。

 眼鏡をかければ、ほっとしたように息をつく。改めてこちらを見上げた細田の顔は、先ほどと打って変わって、いやに真剣だった。

「大山」

「なんだ?」

「俺は、ここを出て国都こくとを目指そうと思う」

「うーん、意味がわからん」

 大山はまだ、本の内容を教えてもらっていない。どういうこと? と首を傾げれば、細田は枕元から数枚の紙を取り上げた。

 自分の荷物にあったメモ用紙だ。いつの間にか、筆記用具を借りられていたらしい。まあ、いいけど。

 メモ用紙には、短い文章が記入されている。

〈ちょっと適当に返事してて。本題はこっち〉

 こちらが読むだけの時間を置いて、一枚目のメモ用紙がベッドに置かれた。まだ手の中にあるメモ用紙にも文章が用意されているようだ。紙芝居かな?

「どのみち、国都には行かなきゃならない。ガヤンのじいさんは、俺たちを使って国教会のトップを目指す、みたいなこと言ってたし」

「あー、うん、そうね」

 適当に返事って難しいね、と思いながら頷けば、すぐに二枚目の紙がかざされた。

〈はい注目。魔法のお時間です〉

「なら、こっちから乗り込んでも問題ないだろ」

「えー。そうかなあ?」

 細田が、目の前に右手の人差し指を立てる。大山の視線は、自然と細い指先に向いた。

 前触れは、なにひとつ無かった。

 ただ、ポッという空気の弾ける音がしただけだ。

 ところが細田の指先には、手品のように炎が点っていた。

「……は?」

 顔面の皮膚が、確かな熱を感じる。綺麗な穂先の形をした小さな炎は、まったく揺れることなく明るい赤から青へ、また赤へと色を変える。これは、本物の火なのか?

 大山が、混乱の中でも火傷の心配をし始めた頃、その炎は音もなくパッとかき消えた。

 目を見開き、も出来ないまま硬直する大山に、細田は歯を剥き出して笑う。

〈この会話、わざと聞かせてる〉

「そうだって。きっと、道長どうちょうさんとやらも大歓迎してくれるぞ」

〈夜にまた相談〉

「なんたって、俺たちは勇者様なんだからな」



 しばらくして、シーニャが様子を見に来てくれた。

 ご丁寧に食事を温め直してくれたので、細田に残さず食べさせてから、一緒に客間まで下りる。採寸の続きだ。

 とは言え、これから新しい服を仕立てるには時間がかかるだろう。大山は細田だけを部屋に戻した後、シーニャにお願い事をしてみた。

「お散歩、でございますか」

「ええ。あんまり動かずにいると、体が鈍っちゃうんで。どこか、歩き回ってもいい場所を教えてくれませんかね?」

「そうですねえ。この道会と、お庭の辺りでしたら。ただ、近くに畑がございますので、そこにはお入りにならないで下さいますか」

「ありがとうございます。あ、もし心配でしたら、適当に見張っていてください」

「いえ、そこまでは……」

 シーニャは言葉を濁したものの、見張りが付くだろうことは予想できていた。問題は、自分がそうとわかっていて、気にしない素振りが出来るかどうか。

 俺、演技とかしたこと無いからなあ。

 細田は、わざと会話を聞かせている、と言ったのだ。筆談だったけど。あの男が確信を持ってそう断言するなら、自分たちの会話や行動が筒抜けなのは事実だろう。

 考えない、考えない。俺は盗聴も監視も、まったく気にしていませんよー。

 お針子のひとりが当座の衣服として、上着とズボンを貸してくれた。上着は防寒具か雨具らしく、鞣し革をぎ合わせたゆったりめのポンチョだ。本来は灰色ローブの上から着るのだろう。前の合わせは三角を作務衣のように重ねて、頂点をそれぞれ紐で結わえるようになっている。もちろん、大山にはちょうど良い大きさだが。

 ズボンも丈がまったく足りないが、幅はあるので寝間着の上から履くことが出来た。これに自前の靴下とスニーカーを装備すれば、外に出ても問題ない。たぶん。

 いや、普通に寒いな。

 建物から数歩も離れないうちに、大山は散歩に出たことを後悔した。灰色の空は朝よりも雲が濃く、木々がざわめくほど風が吹いている。

 くそう、昨日のうちに服を洗濯しておくんだった。圧倒的に衣類が足りない。後で、洗濯洗剤があるかシーニャさんに訊いてみよう。

「さて。そんじゃ、試しにやってみますか」

 あの後、細田から筆談で指示された項目は二つある。

 まずは、周囲の様子をざっと確認すること。姿の見えない監視者には、自分たちは逃げ出す算段をしていますよ、と口頭で伝えてあるので、これは好きにやっていいだろう。せいぜいヤキモキすればいいのだ。

 シーニャの言いつけ通り、まずは建物に沿ってぶらぶらと歩く。それにしてもでかいな。幅は廊下と部屋を合わせた分しか無いのだが、奥行きがとにかく長いのだ。今朝も、廊下を行ったり来たりするのが面倒だった。もうひとつくらい、階段を作ってもいいのに。

 玄関前の庭を端まで行けば、昨日下って来た道とは別に、やや幅の広い土の道が麓の方へと伸びていた。今朝、ロバっぽい動物に乗った数人が向かった道がこれだろう。

 ここから、人里に下りられるのかな?

 いま居る場所は山頂に近いので、どこを目指すにしろ山を下る必要がある。ガヤンの言っていた東西南北を地球のままに受け取るなら、昨日、歩きながら見下ろしていた低い山々が南側だ。大きな街は、かなりの遠方にありそうだった。

 建物の南側は庭の続きになっており、乾燥した土が剥き出しの平らな広場と、周囲を取り囲む低木で構成されている。低木を良く観察すると、細い枝に茶色い実がいくつも付いていた。食事に出されるデザートだ。ここで栽培しているのか。

「うん、美味い」

 すでに逃げ出す気満々なので、勝手に木の実をつまみ食いする。コミケ三日目の恨みは高く付くぞ。この程度、利子にもならない。

 そのまま広場を進むと、突き当たりの斜面に畑が見えて来た。日当たりの良い地形を利用して、段々畑がいくつも並んでいる。近づくなと言われたので眺めるだけだが、寒い季節らしく青菜や根菜っぽい葉に、萎びた黄色い白菜に似た野菜しか並んでいない。さらに上には木製の小屋がいくつか建っているが、大山はざっと見渡すだけにした。

 誰も居ないなあ。

 建物をぐるりと回って北側は、低い崖と雑木林だ。林は木がまばらで雑草も少なく、昨日の屋根なし建造物を確認できるほど見通しが良い。この距離を十分もかけて歩いたのは、崖や林のある場所を大回りに避ける道だったからだろう。

 どう考えてもおかしい。

 生活感が無さすぎる。あれだけ大勢の人々が生活していて、洗濯物のひとつも干されていなければ、畑の世話をしている人も見当たらない。ロバのような動物が居たはずなのに、厩も無ければ、それらしき臭いもしない。

 魔法か? そのへん、魔法でどうにかしているのか?

 建物は確かに大きいが、灰色ローブたちが全員、屋内で身を潜めているわけでもないだろうに。実に不気味だ。

 よし、司令の二つ目に進もう。

 大山は再び玄関側に向かいながら、徐々に歩く速度を上げていった。小さな庭、大きな庭。木の実の生る低木の列を過ぎて、段々畑を横切ると再びの崖だ。腕を振り回しながら建物を二周もすれば、体も温まってくる。準備運動はこんなもんかな? 三周目になると、彼は軽いランニングに移行していた。

 細田のメモ書きは、とてもワクワクする内容だった。

〈神様とか精霊とか、とりあえず忘れろ。この世界には、なにか不思議な力がある〉

 冷たく乾いた空気をリズム良く呼吸する。腕をしっかり振って、ただ前だけを見据えて走る。

〈朝に、シーニャが蝋燭を消すのを見ていた。ランプに向けて、ただ指を振っただけだ。杖も呪文も必要ない。これは、そういう力なんだ〉

 走れはしれ。チーズになった虎のように。あれ、バターだっけ? どっちでもいいか。昔の漫画やアニメで、脚が渦巻きになる描写があった。あれよりも速くだ。足を前に出し続けろ。土埃を上げて走れ。音よりも速く駆ける超人のように。

〈俺たちに、神様の奇跡とやらは必要ない。映画にもあったろ? 肝心なのは想像力だ。この世界中に、自由に使える不思議な力が存在すると思え〉

 震える顔の肉や、風でバタつく服が邪魔になったので、大気を全身で取り込むように意識する。大山の体は、一瞬だけつんのめった後で、驚くほど軽くなった。服はまだ揺れるが、もう動きを邪魔しない。

〈その力が酸素になるなら、呼吸している限り高山病になんかならない。それを血管にまで取り込めるなら、呼吸すらも必要ない〉

 周囲の景色が、飛ぶように過ぎる。もう、何周目を走っているのかわからない。ひと気が無くて良かった。いま誰かにぶつかったら、相手はピンポン玉のように弾き飛ばされるだろう。

〈世界の力に溶け込め。お前はなんでも出来る。力の大山が、文字通り力だけの存在になれる〉

 どれだけ走っても、体は軽快で息も上がらない。経験したことの無い速度で急カーブを切っても、足は力強く地面を捉え続けた。両目に意識を集中すれば、流れるようだった景色も鮮明になる。

〈ちょっくら暴れて、その力を見せつけてやれ〉

 大山は最後に力いっぱい地面を蹴ると、右手に見えていた崖を斜めに飛び越えた。

 まるで、撃ち出された大砲だ。ふと思い付いて、体の周囲に透明な殻を構築する。あの、フロントガラスに似た素材の障壁だ。自分を守るなら、防護壁になるだろうか。どちらにしろ、いちど触ってぶん殴った物なら、想像力だけで再現できる。

 高度が落ちるのを感じて、大山はくるりと前転してみた。見えない球体は弓なりに落ち続け、その中で体が自由に動かせる。

 空中を飛んでいたのは、ほんの数秒だろう。すぐに、あの屋根のない建造物が迫ってきた。飛び上がった時は着地点のことなど考えていなかったが、このままだと壁にぶつかりそうだ。こんな建物、壊してしまっても心は痛まないのだが、喧嘩を売るのは後の楽しみに取って置こう。

 自身を守る殻を柔らかく、ゴムのような材質に変更する。次の瞬間、大山の防護壁は石の壁にどしんとぶつかって跳ね返った。そのままゴロゴロと地面を転がって、近くにあった巨石でまた跳ねる。やがて、透明なボールが勢いを失ったので解除すれば、大山は尻からぽとんと地面に落ちた。

「なんだこれ、面白えな!」

 腹から笑い声を上げて、大の字に寝そべる。

 空は灰色で、風も真冬のように冷たかったが、大山はまったく寒くなかった。自分の体は、いまや完全に大気と混じり合っている。世界の不思議な力を細胞のひとつひとつが味方にしている。

「すげえぞ。いまなら、なんでも出来そうだ」

 寝転がって待てば、坂道を上って来る気配がした。世界の力を受け取っていながら、中途半端にしか使えていない灰色ローブたち。その小さな力の波紋が、ありありと感じ取れる。

 細田よ、お前さん本当にすごいわ。

〈神様だの精霊だのは、この強大すぎる力を調整する存在だ。そんなもの無視だ、クソ食らえだ〉

「ヤマ様! いったい、なにをなさっておられるのです!」

 駆け寄って来た灰色ローブは三人。先頭はガヤンだった。総白髪の老人が、この高地で息を切らすことなく走っている。そういうことだ。そういう世界なのだ。

「すみません。散歩していたら、ちょっと足を踏み外しまして」

 ゆっくりと立ち上がって笑顔を見せれば、ガヤンの顔が苦々しげに歪む。すぐに心配そうな表情で隠されたが、大山は老人の一瞬の変化を見逃さなかった。

〈勇者もクソ食らえだ。俺たちで、このクソッタレな異世界に喧嘩を売りに行くぞ〉

 それ最高だな、細田!

「いやあ、いい運動になりました。景色も良いし、最高の遊び場ですね、ここは」

「いや……さようですか。ですが、あまり遠くへ行かれませんように。この辺りには他に住む者もおりませんし、危険な場所も多いのですぞ」

「そうなんですか。ああ、凶暴な動物が出たり?」

「動物……も、おりますな。とにかく、ヤマ様はまだ、この地に不慣れなのですから。ここは、ひとまず部屋にお戻り下さい」

「はいはい」

 ガヤンと二人の男に促されて、大山は素直に道を下って行った。なんだか、追い立てられる猛獣の気分だ。そんな腰の引けた格好で取り囲まなくてもいいのに。俺はもう暴れないよ?

 暴れるなら、細田と一緒にやるからね。

 楽しみにしていてね!



 寝室の前まで付いて来たガヤンたちは、いちど部屋の中の細田を確認すると、大山を押し込んで勢い良く扉を閉めた。

「また、昼食の頃にお呼びします」

「はーい」

 扉越しに明るく答えてやり、細田に向き直る。友人は、まだベッドの上であぐらをかいていた。

「よう、ダダくん。ただいまー!」

「なにが、ただいまーだ。お前、なに考えてんの?」

 あれ?

「それに、なんだよさっきの。山ちゃん、いつからハルクになったんだ」

「えっと? いやね、軽く走っとこうと思ったら……」

「もう、意味がわからねえよ」

 細田が、メモ用紙の一枚をピラピラと振っている。近寄って見れば、そこには乱暴に書きなぐった一文があった。

〈あそこまでやれとは言ってない〉

 あれえ?

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