1−3
肉体的にも精神的にも疲れ切っていたのか、大山は一度も目を覚ますことなく朝を迎えた。
カタカタと音がするのに気づいて薄目を開ければ、頭上から声が降ってくる。
「ヤマ様、朝でございますよ」
「ん?……あ、はい。おはようございます」
「おはようございます。いま、お部屋を暖めますね」
優しげな老婦人の笑顔に、大山は困惑して目をしばたたいた。えっと、誰だっけ?
続けて、今朝も会場に並ばなければ、と考えたところで、ようやく昨日からの現実が追いついてきた。
異世界での朝か。なんだか、まだ夢を見ているようだ。
「もうすぐ、朝食のお時間ですの。食べられるようでしたら、下の食堂までお越し下さいね。場所はわかりますかしら」
「はい……大丈夫です」
もぞもぞと毛布を出れば、すでに鎧戸は開けられて薄明かりが差し、部屋は再び火の精霊の力で暖められ、蝋燭の火は消えていた。
かなりの早朝だ。窓の外には、白み始めた灰色の雲が広がっている。今日は曇りだな、と大山はぼんやり考えた。
隣のベッドを見下ろせば、目を爛々と光らせて本を読む男がいる。
こいつ徹夜で読んでいたのかよ。大山は素早く本を取り上げると、細田の頭まで毛布を被せた。部屋が明るくては眠れないだろうと、せっかくシーニャが開けてくれた鎧戸も半分だけ閉め直す。外の冷たい空気が舞い込んで、大山の眠気も完全に吹き飛んだ。
「あにすんだよもー」
「寝なさい。朝ごはんは持ってきてやるから、少しでも寝ておけ」
「んー」
反論するかと思われた細田だが、今度は素直に眼鏡を外した。毛布からにょきっと出て来た手から眼鏡を受け取り、箪笥の上に置いておく。
それでも信用できないので、借り物の本は全てトート・バッグに入れて持ち歩くことにした。コミケ帰りで良かった。予備の袋なんて、普段は持っていない。
昨日と同じ食堂で、灰色ローブたちと共に朝食をとり、不安げなガヤンを宥めて寝室に取って返す。朝食は野菜と燻製肉のスープに、芋の煮っころがし、夕食にも付いていた茶色い木の実だった。シーニャに頼んでひとり分の食事と茶を持ち帰った大山は、四角いお盆を箪笥に置いて細田の様子を見る。
友人は、ぐっすりと眠っていた。
蝋燭は全てちびてしまっていたので、音を立てないようにして鎧戸の半分を開け直す。ふと窓の下を見れば、灰色ローブの数人がロバに似た毛の長い動物に乗り、山道を下って行くところだった。
ふむ。はて?
昨日、俺たちはこの異世界に召喚された。
勇者様などと呼ばれ、宗教施設で食事と部屋を世話され、いまもこうして放置してもらっている。だが、それで済むはずがない。
さっきのは、勇者の召喚が成功したことを誰かに報告するための伝令だろうか。確か、ガヤンよりも偉い人が、大きい街に居るとか言っていたし。だよな? 単純に、どこかへ仕事に出かけて行くのだとは楽観できない。
こうしてはいられないな。
だが、どうすればいいのか。
細田は、まだ数時間は寝かせた方がいい。いくら頭脳の細田と言っても、寝不足で頭が働くはずもないのだ。目が覚めれば勝手に飯を食うだろうし、このままそっとしておこう。
大山は、朝食の時と同じ服装で部屋を出た。寝間着の上に肩掛けを羽織り、腰にひざ掛けを巻いた情けない格好である。こうでもしないと、吹きさらしの廊下を歩くのが辛かったのだ。
だが、廊下を半分も行かないうちに、階段を上がってくるシーニャと行き会った。フードを下ろした老婦人が、にっこりと笑いかけてくる。
うーん、またか。タイミングの悪い。
シーニャは背後に、二人の女性を伴っていた。どちらも中年くらいだろうか。フードを被っているので顔は良くわからないが、肌には皺も少ないし、長く下ろした髪も黒々としている。そして、腕に大きな布の包みを抱えていた。
「ああ、シーニャさん。先ほどはどうも」
「いいえ。ダダ様は、お食事を召し上がりましたか?」
「それが、まだ寝ておりまして。
「まあまあ。ずいぶんと熱心でいらっしゃいますのね。さすがは賢者様です」
なんぞそれ?
大山は、賢者という呼称に首をひねったが、問い返す間もなくシーニャが続ける。
「お二人は、どうぞお好きなようにお過ごし下さいな。いまちょうど、お着替えをお持ちしたんですよ」
包みを持った女性たちが、声もなく頭を下げる。昨日のガヤンもそうだったが、彼らが頭を下げる時は首から上で頷くようにするだけで、日本人のお辞儀とは違った仕草だ。鼻から上も隠れているので、表情がわからず少し怖い。
「はあ、着替えですか。何からなにまで、ありがとうございます」
「こちらこそ、昨日はご不便をおかけしました。それでですね。ダダ様は私たちと同じくらいですが、ずいぶんと痩せていらっしゃいますし、ヤマ様は……その、お体がとても大きくていらっしゃるでしょう」
「まあ、でかいですね」
大山は、現代の日本でも大柄な部類だ。身長が百九十二センチ、体重は百キロを超える。脂肪よりも筋肉が勝るとは言え、横幅も目の前の女性たちの二倍はあるだろう。
この世界に来てからというもの、周囲の人々が細田と大差ない身長なので、大山は久しぶりに自分の巨漢ぶりを再認識していた。
江戸時代の相撲取りとか、こんな気分だったのだろうか。
現に、いま着ている寝間着は貫頭衣がちょうど良いだけで、他は縫い目が千切れそうなくらい張っている。その貫頭衣すら、作りから見るに、普通の体型なら楽に着られる余裕を持っているようなのだ。自分に合った着替えがもらえるなら、とてもありがたい。
「こちらの二人は、うちの
「なんと。それは嬉しいです。ですが……」
「ええ。ダダ様がお休みになっているのでしたら、下のお部屋で、先にヤマ様の服をお作りしましょう」
「お気づかい、ありがとうございます」
本当は、この建物や周囲を観察がてら散歩でも、と思っていたのだが、冬用の衣類など持っていないので仕方がない。大山は、素直にシーニャと二人の女性に従った。
昨日、ガヤンと話し合っていた客間に通されると、大山は二人のお針子に寝巻きを剥ぎ取られ、下着の上下だけで採寸をされる。片方が目盛りの付いた紐で体を測り、もう一方が紙に結果を書き付けていくのだが、彼女たちはずっと無言だ。完全な仕立て服を作るらしく、やたらと細かい場所まで測られるのには参った。
ものすごく暇だ。落ち着かない。
シーニャはその間、椅子の位置を直したり、食堂から長テーブルを運んだりと、まめまめしく働いている。テーブルを運ぶときだけ年配の男性が協力していたが、彼も部屋が整うとすぐに退出してしまった。
「えーと。やりにくいですかね? ちょっと、しゃがむか何かしましょうか」
足の型から始まり、徐々に上へと採寸していた女性が、胸の辺りになると手が回らなくなった。それでも無言のまま、相方の女性に身振り手振りで手伝ってもらっているのを見て、大山は声をかけてみる。
女性たちは驚いたように顔を上げたが、お互いに目配せをした後、こくこくと頷いた。
「じゃ、こんな感じで。あ、腕も上げますか?」
大山が膝立ちになると、女性たちもほっとしたようだ。試しに上げた腕にも手を添えて、彼女たちの都合の良いように角度を変えてくれる。
しかし、喋らないな。修道院なんかだと、普段から沈黙しておく決まりがあるんだっけ。神主さんやお坊さんも、あまり喋らないイメージだし。
この中ではゆいいつ会話をしてくれるシーニャも、いまはテーブルに布を広げたり、裁縫道具を準備したりと忙しい。
つらい。
話しかけても返事は無いし、そもそも話しかけるネタも思いつかない。細田を連れて来たかった。あいつ、なんだって徹夜しやがったんだ。体調が第一って、お前の口癖だろうが。だから夏コミでも、ちゃんとホテルをとって……。
「あーーっ!」
突然の大声を上げた大山に、採寸していた女性たちがぎょっとしたように飛び退く。
「やっべえ。ホテルのチェックアウトしてねえじゃん。支払いもまだだし……え、これどうすんの。訴えられちゃうの?」
衣類や旅行用品などの荷物も、大半はホテルの部屋に置いたままだ。さらには肝心の戦利品が一日分、丸ごと放置してある。
大山の頭から足先まで、音を立てるように血の気が引いていった。自分たちは、どこぞのお話で活躍する主人公のように、元の世界でお亡くなりになったわけでは無い。
謎の光る円柱で、強制的に転移させられているのだ。
「つうか、家が。仕事が。うわあ、すっかり忘れてた……コミケ三日目どころの騒ぎじゃねえぞ」
「あの、ヤマ様? いかがなさいました」
心配そうに近寄ってくるシーニャに、大山は半笑いで首を振った。
「いえ、その、お気になさらず……ちょっと、頭が混乱して……やっぱり全員ぶっ飛ばす」
「えっ、ぶっとば……?」
「シーニャさんたちじゃないですよ。もっと悪いやつの話です」
はっはっは、と笑ってみせたが、シーニャは怯えた顔で身を引いてしまった。うーん、失敗した。俺、すぐに本音が口に出るからなあ。
ニャー!
その時、どこか遠くから猫の鳴き声のような音がした。
シーニャたちも聞こえたらしく怪訝そうに顔を上げると、またしても頭上から、か細い悲鳴が届く。
「……ちゃー! 山ちゃーん!」
「あ、ダダか。すみません。呼ばれてるみたいなんで、ちょっと失礼しますね」
どうやら、目を覚ました細田が恐慌状態に陥っているらしい。
採寸してくれていた女性たちに頭を下げ、大山は手刀を切りながら客間を出た。
うわ、さっむ。そういや、下着しか着てなかったわ。
「おーい、どうしたダダ」
「山ちゃん! 大変だ! アメーバが! 地球外生命体が!」
「うん、いいから落ち着け。何があった」
寝室に戻ってみれば、細田はベッドの隅で毛布を被り、怯えた猫のように丸くなっていた。うーん、可愛くない。こういうのは、女の子にやって欲しい。
細田が毛布の下から、涙目でこちらを凝視してくる。白目が赤く血走って、隈も昨日より濃くなっていた。
「いま、いま起きて、トイレ行きたくて」
「うん」
「そしたら、なんか黄色いのが、グニャってなって!」
「あーはい。アレね」
トイレのナントカ虫だ。あの、粘液状スライムみたいな、うんちを食べてくれる虫。そうか、説明してやるのを忘れていた。
昨日から、色々なことを忘れてばかりだな。やっぱり、まだ頭が混乱しているのだろう。いつか、考えてから行動できるまでに落ち着くと良いのだが。
「トイレの中に、変な生き物が居たんだろ?」
「なにあれ! なにあれ!」
「あれね、この世界のトイレ用の虫なんだって。俺たちが出した物を食べてくれるらしいよ」
「はあー? なんだそれ!」
「うん、俺にも意味がわからないんだけどね。シーニャさんが言うには、この世界じゃ当たり前に使う虫らしいよ。大丈夫だって。俺もトイレを使ったけど、ちょっと動くだけで暴れたりはしなかったし」
「んな、意味わかんねーよ! もうやだー、帰りたいー」
「そうだね、トイレに虫とか意味がわからないね。でも、本当に大人しくて便利な虫だから。視界に入れなければ無害だから」
「むりー……」
弱々しく呟いて、細田がばったりと伏せてしまった。
「あたまいたい……めがまわる」
「ああもう、空気が薄いのに叫ぶから」
細田の呼吸が荒い。大山は友人の細い体をそっと支えてやった。寝不足で大声を出すなんて、頭の良いこいつが無茶をしたもんだ。よっぽど、トイレのナントカ虫が怖ったのかな。
「ほら、ゆっくり深呼吸な。あんまり騒ぐなよ。高山病になったって、病院には行けないんだから」
「ガヤンさんが……治してくれるでしょ……医者だし」
「んな、楽天的な。あの人は、俺たちを召喚しやがった元凶だぞ。そんなのに頼る気か?」
「おお……山ちゃんが正論を……だよなあ、あいつ、ぶっ飛ばしたいなあ」
「お茶でも飲むか? もう冷めてるだろうけど」
「のむー」
箪笥の上を見れば、朝食も手付かずだった。これは駄目だ。少なくとも自由に行動できるまでは、食事と睡眠を面倒見てやらないと。
二杯目の茶を飲み干す頃には、細田の頭痛も治まったようだ。まだ青い顔をしているが、体がふらついたりはしない。
「そうだよ、トイレだよ……なにあの紙。ゴワゴワするし、破れるし」
「あれねー。何か植物の繊維みたいだな。虫が食べられるようにかね? 昔のちり紙の方がまだマシだよ。本の紙も荒いし、そっちの技術はガラスほど進化してないっぽい」
「奇跡の力が使えるくせに……製紙技術が遅れすぎ……」
「あんまり考えるなって。別に、この世界の紙を発展させようとか、考えちゃいないんだろ?」
「当たり前だ。こんな国がどうなろうが、俺の知ったことか」
細田が、茶碗を睨んだまま吐き捨てる。
「山ちゃん。俺たちは絶対に、日本に帰るぞ」
「おう。やってやろうぜ。俺らから、夏コミ三日目を奪った罪は重い」
ちょっと格好つけて言えば、細田も歪んだ笑みを返した。
「そうともよ。こんな馬鹿みたいな世界で、人生終わらせてたまるか」
細田が眼鏡を直す仕草をして、そこに目的の物が無いのに驚いたような顔をするので、大山は箪笥に置いてあった眼鏡を手渡してやった。
眼鏡をかければ、ほっとしたように息をつく。改めてこちらを見上げた細田の顔は、先ほどと打って変わって、いやに真剣だった。
「大山」
「なんだ?」
「俺は、ここを出て
「うーん、意味がわからん」
大山はまだ、本の内容を教えてもらっていない。どういうこと? と首を傾げれば、細田は枕元から数枚の紙を取り上げた。
自分の荷物にあったメモ用紙だ。いつの間にか、筆記用具を借りられていたらしい。まあ、いいけど。
メモ用紙には、短い文章が記入されている。
〈ちょっと適当に返事してて。本題はこっち〉
こちらが読むだけの時間を置いて、一枚目のメモ用紙がベッドに置かれた。まだ手の中にあるメモ用紙にも文章が用意されているようだ。紙芝居かな?
「どのみち、国都には行かなきゃならない。ガヤンのじいさんは、俺たちを使って国教会のトップを目指す、みたいなこと言ってたし」
「あー、うん、そうね」
適当に返事って難しいね、と思いながら頷けば、すぐに二枚目の紙がかざされた。
〈はい注目。魔法のお時間です〉
「なら、こっちから乗り込んでも問題ないだろ」
「えー。そうかなあ?」
細田が、目の前に右手の人差し指を立てる。大山の視線は、自然と細い指先に向いた。
前触れは、なにひとつ無かった。
ただ、ポッという空気の弾ける音がしただけだ。
ところが細田の指先には、手品のように炎が点っていた。
「……は?」
顔面の皮膚が、確かな熱を感じる。綺麗な穂先の形をした小さな炎は、まったく揺れることなく明るい赤から青へ、また赤へと色を変える。これは、本物の火なのか?
大山が、混乱の中でも火傷の心配をし始めた頃、その炎は音もなくパッとかき消えた。
目を見開き、適当な返事も出来ないまま硬直する大山に、細田は歯を剥き出して笑う。
〈この会話、わざと聞かせてる〉
「そうだって。きっと、
〈夜にまた相談〉
「なんたって、俺たちは勇者様なんだからな」
しばらくして、シーニャが様子を見に来てくれた。
ご丁寧に食事を温め直してくれたので、細田に残さず食べさせてから、一緒に客間まで下りる。採寸の続きだ。
とは言え、これから新しい服を仕立てるには時間がかかるだろう。大山は細田だけを部屋に戻した後、シーニャにお願い事をしてみた。
「お散歩、でございますか」
「ええ。あんまり動かずにいると、体が鈍っちゃうんで。どこか、歩き回ってもいい場所を教えてくれませんかね?」
「そうですねえ。この道会と、お庭の辺りでしたら。ただ、近くに畑がございますので、そこにはお入りにならないで下さいますか」
「ありがとうございます。あ、もし心配でしたら、適当に見張っていてください」
「いえ、そこまでは……」
シーニャは言葉を濁したものの、見張りが付くだろうことは予想できていた。問題は、自分がそうとわかっていて、気にしない素振りが出来るかどうか。
俺、演技とかしたこと無いからなあ。
細田は、わざと会話を聞かせている、と言ったのだ。筆談だったけど。あの男が確信を持ってそう断言するなら、自分たちの会話や行動が筒抜けなのは事実だろう。
考えない、考えない。俺は盗聴も監視も、まったく気にしていませんよー。
お針子のひとりが当座の衣服として、上着とズボンを貸してくれた。上着は防寒具か雨具らしく、鞣し革を
ズボンも丈がまったく足りないが、幅はあるので寝間着の上から履くことが出来た。これに自前の靴下とスニーカーを装備すれば、外に出ても問題ない。たぶん。
いや、普通に寒いな。
建物から数歩も離れないうちに、大山は散歩に出たことを後悔した。灰色の空は朝よりも雲が濃く、木々がざわめくほど風が吹いている。
くそう、昨日のうちに服を洗濯しておくんだった。圧倒的に衣類が足りない。後で、洗濯洗剤があるかシーニャさんに訊いてみよう。
「さて。そんじゃ、試しにやってみますか」
あの後、細田から筆談で指示された項目は二つある。
まずは、周囲の様子をざっと確認すること。姿の見えない監視者には、自分たちは逃げ出す算段をしていますよ、と口頭で伝えてあるので、これは好きにやっていいだろう。せいぜいヤキモキすればいいのだ。
シーニャの言いつけ通り、まずは建物に沿ってぶらぶらと歩く。それにしてもでかいな。幅は廊下と部屋を合わせた分しか無いのだが、奥行きがとにかく長いのだ。今朝も、廊下を行ったり来たりするのが面倒だった。もうひとつくらい、階段を作ってもいいのに。
玄関前の庭を端まで行けば、昨日下って来た道とは別に、やや幅の広い土の道が麓の方へと伸びていた。今朝、ロバっぽい動物に乗った数人が向かった道がこれだろう。
ここから、人里に下りられるのかな?
いま居る場所は山頂に近いので、どこを目指すにしろ山を下る必要がある。ガヤンの言っていた東西南北を地球のままに受け取るなら、昨日、歩きながら見下ろしていた低い山々が南側だ。大きな街は、かなりの遠方にありそうだった。
建物の南側は庭の続きになっており、乾燥した土が剥き出しの平らな広場と、周囲を取り囲む低木で構成されている。低木を良く観察すると、細い枝に茶色い実がいくつも付いていた。食事に出されるデザートだ。ここで栽培しているのか。
「うん、美味い」
すでに逃げ出す気満々なので、勝手に木の実をつまみ食いする。コミケ三日目の恨みは高く付くぞ。この程度、利子にもならない。
そのまま広場を進むと、突き当たりの斜面に畑が見えて来た。日当たりの良い地形を利用して、段々畑がいくつも並んでいる。近づくなと言われたので眺めるだけだが、寒い季節らしく青菜や根菜っぽい葉に、萎びた黄色い白菜に似た野菜しか並んでいない。さらに上には木製の小屋がいくつか建っているが、大山はざっと見渡すだけにした。
誰も居ないなあ。
建物をぐるりと回って北側は、低い崖と雑木林だ。林は木がまばらで雑草も少なく、昨日の屋根なし建造物を確認できるほど見通しが良い。この距離を十分もかけて歩いたのは、崖や林のある場所を大回りに避ける道だったからだろう。
どう考えてもおかしい。
生活感が無さすぎる。あれだけ大勢の人々が生活していて、洗濯物のひとつも干されていなければ、畑の世話をしている人も見当たらない。ロバのような動物が居たはずなのに、厩も無ければ、それらしき臭いもしない。
魔法か? そのへん、魔法でどうにかしているのか?
建物は確かに大きいが、灰色ローブたちが全員、屋内で身を潜めているわけでもないだろうに。実に不気味だ。
よし、司令の二つ目に進もう。
大山は再び玄関側に向かいながら、徐々に歩く速度を上げていった。小さな庭、大きな庭。木の実の生る低木の列を過ぎて、段々畑を横切ると再びの崖だ。腕を振り回しながら建物を二周もすれば、体も温まってくる。準備運動はこんなもんかな? 三周目になると、彼は軽いランニングに移行していた。
細田のメモ書きは、とてもワクワクする内容だった。
〈神様とか精霊とか、とりあえず忘れろ。この世界には、なにか不思議な力がある〉
冷たく乾いた空気をリズム良く呼吸する。腕をしっかり振って、ただ前だけを見据えて走る。
〈朝に、シーニャが蝋燭を消すのを見ていた。ランプに向けて、ただ指を振っただけだ。杖も呪文も必要ない。これは、そういう力なんだ〉
走れはしれ。チーズになった虎のように。あれ、バターだっけ? どっちでもいいか。昔の漫画やアニメで、脚が渦巻きになる描写があった。あれよりも速くだ。足を前に出し続けろ。土埃を上げて走れ。音よりも速く駆ける超人のように。
〈俺たちに、神様の奇跡とやらは必要ない。映画にもあったろ? 肝心なのは想像力だ。この世界中に、自由に使える不思議な力が存在すると思え〉
震える顔の肉や、風でバタつく服が邪魔になったので、大気を全身で取り込むように意識する。大山の体は、一瞬だけつんのめった後で、驚くほど軽くなった。服はまだ揺れるが、もう動きを邪魔しない。
〈その力が酸素になるなら、呼吸している限り高山病になんかならない。それを血管にまで取り込めるなら、呼吸すらも必要ない〉
周囲の景色が、飛ぶように過ぎる。もう、何周目を走っているのかわからない。ひと気が無くて良かった。いま誰かにぶつかったら、相手はピンポン玉のように弾き飛ばされるだろう。
〈世界の力に溶け込め。お前はなんでも出来る。力の大山が、文字通り力だけの存在になれる〉
どれだけ走っても、体は軽快で息も上がらない。経験したことの無い速度で急カーブを切っても、足は力強く地面を捉え続けた。両目に意識を集中すれば、流れるようだった景色も鮮明になる。
〈ちょっくら暴れて、その力を見せつけてやれ〉
大山は最後に力いっぱい地面を蹴ると、右手に見えていた崖を斜めに飛び越えた。
まるで、撃ち出された大砲だ。ふと思い付いて、体の周囲に透明な殻を構築する。あの、フロントガラスに似た素材の障壁だ。自分を守るなら、防護壁になるだろうか。どちらにしろ、いちど触ってぶん殴った物なら、想像力だけで再現できる。
高度が落ちるのを感じて、大山はくるりと前転してみた。見えない球体は弓なりに落ち続け、その中で体が自由に動かせる。
空中を飛んでいたのは、ほんの数秒だろう。すぐに、あの屋根のない建造物が迫ってきた。飛び上がった時は着地点のことなど考えていなかったが、このままだと壁にぶつかりそうだ。こんな建物、壊してしまっても心は痛まないのだが、喧嘩を売るのは後の楽しみに取って置こう。
自身を守る殻を柔らかく、ゴムのような材質に変更する。次の瞬間、大山の防護壁は石の壁にどしんとぶつかって跳ね返った。そのままゴロゴロと地面を転がって、近くにあった巨石でまた跳ねる。やがて、透明なボールが勢いを失ったので解除すれば、大山は尻からぽとんと地面に落ちた。
「なんだこれ、面白えな!」
腹から笑い声を上げて、大の字に寝そべる。
空は灰色で、風も真冬のように冷たかったが、大山はまったく寒くなかった。自分の体は、いまや完全に大気と混じり合っている。世界の不思議な力を細胞のひとつひとつが味方にしている。
「すげえぞ。いまなら、なんでも出来そうだ」
寝転がって待てば、坂道を上って来る気配がした。世界の力を受け取っていながら、中途半端にしか使えていない灰色ローブたち。その小さな力の波紋が、ありありと感じ取れる。
細田よ、お前さん本当にすごいわ。
〈神様だの精霊だのは、この強大すぎる力を調整する存在だ。そんなもの無視だ、クソ食らえだ〉
「ヤマ様! いったい、なにをなさっておられるのです!」
駆け寄って来た灰色ローブは三人。先頭はガヤンだった。総白髪の老人が、この高地で息を切らすことなく走っている。そういうことだ。そういう世界なのだ。
「すみません。散歩していたら、ちょっと足を踏み外しまして」
ゆっくりと立ち上がって笑顔を見せれば、ガヤンの顔が苦々しげに歪む。すぐに心配そうな表情で隠されたが、大山は老人の一瞬の変化を見逃さなかった。
〈勇者もクソ食らえだ。俺たちで、このクソッタレな異世界に喧嘩を売りに行くぞ〉
それ最高だな、細田!
「いやあ、いい運動になりました。景色も良いし、最高の遊び場ですね、ここは」
「いや……さようですか。ですが、あまり遠くへ行かれませんように。この辺りには他に住む者もおりませんし、危険な場所も多いのですぞ」
「そうなんですか。ああ、凶暴な動物が出たり?」
「動物……も、おりますな。とにかく、ヤマ様はまだ、この地に不慣れなのですから。ここは、ひとまず部屋にお戻り下さい」
「はいはい」
ガヤンと二人の男に促されて、大山は素直に道を下って行った。なんだか、追い立てられる猛獣の気分だ。そんな腰の引けた格好で取り囲まなくてもいいのに。俺はもう暴れないよ?
暴れるなら、細田と一緒にやるからね。
楽しみにしていてね!
寝室の前まで付いて来たガヤンたちは、いちど部屋の中の細田を確認すると、大山を押し込んで勢い良く扉を閉めた。
「また、昼食の頃にお呼びします」
「はーい」
扉越しに明るく答えてやり、細田に向き直る。友人は、まだベッドの上であぐらをかいていた。
「よう、ダダくん。ただいまー!」
「なにが、ただいまーだ。お前、なに考えてんの?」
あれ?
「それに、なんだよさっきの。山ちゃん、いつからハルクになったんだ」
「えっと? いやね、軽く走っとこうと思ったら……」
「もう、意味がわからねえよ」
細田が、メモ用紙の一枚をピラピラと振っている。近寄って見れば、そこには乱暴に書きなぐった一文があった。
〈あそこまでやれとは言ってない〉
あれえ?
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