1−2
大山たちが……正確には、細田とガヤンが会話をしている間に、窓の外では日がずいぶんと傾いていた。
山奥は日が落ちるのが早いと聞くし、この建物には照明器具が蝋燭しかない。ましてや日照時間の短い冬だ。これからご飯なら夕ご飯なんだろうな、と思って腕時計を見る。
大山の腕時計は、午後の二時半を指していた。
おや、と思って良くよく見るが、時刻は変わらない。それどころか、長短針とは別に設置してある秒針が、ぴくりとも動いていない。
「……なあ、ダダ。時計が止まってるんだけど」
「マジか。うおお、やっべえな。これ、ソーラー式だぞ」
細田の使っている腕時計は、完全防水のデジタル時計だ。ちょっとお高めの買い物だったので、自慢げに機能を説明してくれたことがある。秒のコンマ二桁まで表示する液晶画面をこちらに向けられて、大山はぞっとした。細田の時計も、時刻は14:32:08だ。
「ケイタイは? 他のデジタル物も」
「あ、おう……」
促されて、大山はハーフパンツのポケットからスマートフォンを取り出す。夏コミの会場では、自分の代わりに戦ってくれるモンスターを集めるゲームを起動していたはずなのだが、その画面は真っ暗だった。
「え、うそ。俺のポクモンが」
スマートフォンは、ホームボタンも電源ボタンも全く反応しない。慌てて床に置きっぱなしのリュックを開き、タブレットとモバイルバッテリーを取り出すが、こちらも同じだった。タブレットは電源が入らないし、バッテリーはLEDランプが点かない。
「ちょっとー。こっちのパターンは勘弁して欲しいんですけどー」
「知識チートが使えないのは痛いな。辞書とか事典とか、結構良いの入れてたんだけど」
「俺のポクモンとダラステが! ログボが!」
「いや、ゲームはどうでもいいだろ」
「良くねえよ!」
「あ、あの……どうかなさいましたか」
ガヤンが、おろおろと手を揉みながら話しかけてきて、ようやく大山は落ち着いた。
いやいやいや、これが落ち着いていられるか! アプリの実装から、毎日欠かさず遊んできたのに!
「いえ、こちらの話です。お気になさらず……後で関係者を全員ぶっ飛ばすんで」
「山ちゃん、最後のは余計だよ」
気持ちはわかるけどね、と細田が笑って、一冊の本を開いて見せた。
とてもエロくて素晴らしい内容の、漫画同人誌だ。可愛い女の子と可愛い女の子が、可愛い服をはだけてニャンニャンしている。あら、良いですね。
でも、キャラクターに見覚えが無い。後で教えて欲しいな。
「こっちは無事みたい。山ちゃんは、いつもお絵描きの道具を持ち歩いてたでしょ? それはどうなの」
「ああ、一通りは持ってるけど……お、大丈夫だ」
スケッチブックは描きかけと新品の二冊。次の新刊用に途中までネームを描いてある方眼ノートが一冊に、こちらも新品が一冊。半分ほどページの残っているメモ用紙。どれも記憶にあるものと変わりない。
机に立てて置けるペンケースは大型で、必要以上の筆記具が詰め込まれている。そこから消せるボールペンを取り出して、メモ用紙にグルグルと試し書きをしてみた。きちんと線が引けるし、消しゴム代わりのラバーで擦れば、意味のないグルグルが綺麗に消える。
大山は何年も前からパソコンとペンタブレットで絵を描いているが、脳に降りてきた着想を素早く出力するためには、アナログの道具がいちばんだ。ネタを溜め込むためには、常に出力装置を持ち歩く。これが大事なんですよ。
「全部、元のままだし、ちゃんと使える」
「良しよし……それ、ものすごく大切だからね。絶対に無くさないように」
「あっ、はい」
「まあ、一番大切なのは、今日の戦利品なんだけどね」
「ですよねー」
気がつけば、ガヤンさんが置いてけぼりで口をぽかんと開けていたので、大山は手早く荷物を片付けた。
「すみません、お騒がせしました。もう大丈夫です」
「俺も大丈夫。あ、荷物はこのまま持っていたいんですけど、いいですよね?」
「はい、それはもちろん」
二人が大荷物を担いで立ち上がると、ガヤンもひざ掛けを丁寧に畳んで席を立った。
「では、食堂にご案内いたします」
ヤッター! ごはんが美味しいよ!
広々とした長方形の部屋に、長テーブルとベンチが三列に並ぶ食堂には、すでに他の灰色ローブたちが勢揃いしていた。先ほど、シーニャが茶を運んでくれたのと同じワゴンがいくつかあり、そこに鍋や食器、料理の大皿が並んでいる。配膳係も灰色のローブ姿だが、袖を捲り上げて白い前掛けをしていた。とてもわかりやすい。
ここでは全員が席に付いてから食事が配膳されるとのことで、入り口に近い席にガヤンと並んで待つことしばし。
全員に食事が行き渡り、一斉に不思議な仕草をしてから食器を取り上げたので、大山も「いただきます」と手を合わせる。
メニューは質素だ。大麦の粥に、焼いた鳥の肉、菜っ葉をおひたしにしたようなもの。小さな椀に、茶色の木の実らしきものがゴロゴロ入っていたので、ひとつ摘んでみると、ぷちっと弾けて甘い汁があふれてきた。デザート付きとは素晴らしいな。
まず、大麦の粥だ。荒く挽いた麦を水で煮ただけの代物ではない。どうやら鳥のガラで出汁をとっているようで、塩は薄いのに飽きの来ない味わいだ。ガラに残っていたのだろう鳥の肉もちょっと入っているし、薄茶色でクニクニとした食感の具もある。とても美味しい。これなら丼で五杯はいける。
焼いた鳥の肉は、ガラを取ったためか骨なしで、謎の甘辛い味がした。あまりべたつかない甘みと、ピリッとする香辛料っぽい味の混じる液体がまぶされて、表面が軽く焦げる加減で焼いてあるのだ。これも美味い。五羽分くらい食べたい。
菜っ葉のおひたしは、昔に食べたえぐ味と甘みの強いほうれん草に似た味だ。ほうれん草よりも細長く、ほとんど茎を食べるような植物なのだが、これがまた美味い。甘酸っぱい出汁に浸っていて、シャクシャクとした歯ざわりが箸休めにちょうどいいのだ。まあ、箸は無くて、二股のフォークなんだけど。
そして、甘い木の実だ。大きさはビー玉ほど。茶色の外皮は薄く、ナッツのような風味がする。中は白くて柔らかいライチのような果肉で、固い種がひとつあった。周囲の人々を観察すれば種だけを残しているので、大山も皮ごと甘い実をいただく。ちょっと口に残るが、食べられないほどではない。
とても美味しい食事でした。ごちそうさまです!
「山ちゃん、よく食べるなあ」
よく噛んで、お行儀よく、しかしあっという間に食べ終えた大山を見て、細田が呆れたようにつぶやく。細田の食事は、粥が少し減っているだけだ。
「どれも美味いもん。俺、美味ければなんでもいいんだよね。日本食にこだわり無いし」
「気に入ったなら、俺の分も食べる?」
「お前はもっとしっかり食え。残すな」
めっ! と睨みを利かせて、食後の茶をすする。先ほどの薄い麦茶風のお茶だが、大麦が出たということは本当に麦茶なのかも知れない。少ない食事をお代わりするのは躊躇われたが、この茶はテーブルごとにお代わり用のポットが置かれていたので、遠慮なく好きなだけ飲ませてもらうことにする。
「前から思ってたんだけどな、ダダは食わなすぎるんだよ。大学の学食より量が少ないんだから、このくらい食えるだろ?」
「うむ……」
細田は眉を寄せて椀を見下ろし、木のスプーンで粥をかき混ぜる。まったく、なにが気に入らないんだ。こんなに美味しいのに。
「この、なんかグニグニしているやつ……なんだろうな」
「キノコだろ。キクラゲの親戚だよ」
「ほんとかあ? じゃあ、こっちの葉っぱは? 変に酸っぱいけど、くさって……」
「ダダくん、ストップ。それ以上はいけない」
思い出した。大学時代に、いちどだけ聞いたことがある。
細田の母親が、猫も跨ぐ脅威のオリジナル料理を作る腕前……つまりは、マズメシ料理人だったとか。
しかも専業主婦だったものだから、記憶にあるまともな食事はインスタント食品や学校の給食など、外部のものばかり。高校に上がって弁当を持たされそうになり、泣いて暴れてバイトを始めた彼は、給料を全て食事に突っ込むようになったとかなんとか。
聞くも涙、語るも涙の悲しい過去である。
そのせいか、細田はいまでも自分で料理をするし、めったに外食をしない。どうやって作っているかわからない料理が怖いそうなのだ。化学調味料や合成着色料は気にしないし、原材料の詳細にわかっている食品は安心なので、インスタント食品も大丈夫。他にも、内容表示の明確なコンビニ飯やジャンクフードは平気で食べるので、明らかに母親の料理が原因の精神的な病だ。かわいそうに。
「じゃあ、端から説明してやるから」
細田は自分で料理をするくせに、実はあまり腕が良くない。最低限、食べられれば良いといった男飯ばかりなので、食材にも詳しくないのだ。
ここは、俺の出番だろう。世界の珍味を渡り歩いた、自称グルメの知識がうなるぜ!
「このおひたしは、とても新鮮です。いいね? 菜っ葉はほうれん草の仲間。ヒユ科って聞いたことないかな……ないか。日本に生えている雑草でも、似た種類で食べられる葉っぱがあるんだよ。だから安全です」
「うーん」
「この甘みはハチミツ。ちょっと酸っぱいのは、オレンジ色の細かいのが入っているでしょ? これが酸味の正体です。拾って噛んでみなさい。柚子の皮が、さらに酸っぱくなったみたいな味がするから。あとは塩が少々」
「本当に詳しいな、お前」
「おう、なんでも聞いてくれ。焼き鳥の味付けは、こっちもハチミツと塩少々をお粥にも使っている出汁で伸ばしてある。辛いのは赤い粉ね。これ、唐辛子の仲間だと思うよ。唐辛子より香りが少なくて辛味が強いから、量が少なくて目立たないけど。ほら、変な材料は使ってないだろ? 安心して食べなさい」
「おう……まあ、田舎の宗教施設で、ゲテモノ料理も無いか」
「無いない。どちらかと言えば、素朴で質素な料理です。出汁をとったり、材料を無駄にしないように考えてあるから、そこは手間がかかってるけどね」
「わかった。食べる」
よーし、いい子だ。
ようやくスプーンの進み始めた細田を横目に監視しつつ、大山は茶をすする。それにしても落ち着かない食事だ。
灰色ローブたちは、フードを下ろしてみれば普通の人間だった。肌の色は概ね茶色で、髪はほとんどが黒だ。顔立ちはガヤンと同じく中東風で、ぱっちりとした二重瞼に黒目がちな瞳。眉もくっきりしているし、若い人ほど濃い睫毛がバサバサ生えている。
年齢も様々なら、男女の比率もやや男が多いくらいで、テーブルの一列はガヤンを始めとする老人たち。二列目に青年から中年層が座っており、三列目には若者がいた。中には、十代前半にしか見えない人もいる。
幼い子供が見えないので、この組織の中で結婚や出産をしているわけでは無いのだろうが……ううん、わからん。
そして、全員が無言で食事をとっている。
まあね、食事時に無駄話をしないってのは、神社とかお寺もそうだからわかるよ。でもさあ。黙って食べるなら、チラチラこっちを観察しないでくれないかな。まったく落ち着かないったら。
「ごちそうさま」
細田が手を合わせたので見てみると、食事は綺麗に平らげられていた。いや、粥に入っていたキノコが残っているな。まあ、このくらいは目をつむろう。スプーンと二股フォークしか無いのに、器用なことしやがって。
大山は、細田の小さな頭をポンポンと叩いてやった。
「お、食ったな。偉いえらい」
「お前は俺の父ちゃんか」
灰色ローブたちも食事を終えたようで、それぞれに食器を重ねている。大山もそれを真似すると、白い前掛けをした人たちが端から食器をワゴンに片付けてくれた。ワゴン隊が先に食堂を出て行き、他の人たちもどこかへと消える。
広い食堂には、大山と細田、ガヤンの三人だけが残された。
暖炉で薪の燃える音が、やけに耳につく。窓の外は、すっかり暗くなっていた。いつの間にか壁の燭台にも火が入っていたが、蝋燭の明かりだけでは薄暗いし寒々しい。耳をすましても生活音があまり聞こえないので、灰色ローブたちは寝る時間なのだろう。
茶器も片付けられてしまったので、大山は手持ち無沙汰に食堂を眺める。
「さて、それでは先ほどの話の続きですが……」
「あ、それ明日でもいいですか?」
ガヤンが口を開いたが、細田はそれを素早く遮った。
「実はね、今日は俺たち、とても疲れているんですよ。ちょっと戦場から帰ったばかりで」
「戦場……ですか」
「ええ。大変な戦いでした」
ちょっと細田さん。なにをおっしゃっているんですかね?
「ま、それはそれとして。俺たちはまだ、この世界のことをろくに知らない。先ほどガヤンさんに聞いた話も、じっくり消化したいですし」
「はあ……」
「なので、そうですね……この国や、神様について書かれた本ですとか、地図なんかがあったら読ませていただけませんか。事前にしっかり勉強すれば、ガヤンさんのお話も飲み込みが良くなると思うんですよ」
まーた、調子の良いことを。お前はさっき、ガヤンさんの話を苦もなく理解していたでしょうが。
だが、大山は細田を邪魔しない。頭脳の細田がそうしたいと言うなら、脳筋の自分はそれに付いて行くのみだ。
「今夜、休める場所くらいは用意していただけるんでしょう?」
「それはもちろんです。いま、シーニャたちに寝室を整えさせておりますので」
「シーニャさんって、ここの家事を取り仕切ってらっしゃるんですか?」
「家事と言いますか、火を扱う仕事を主に担当しております。彼女は火の精霊を祀る里、ロヤの出身でしてな。自身も、とても優秀な呪術士なのです。火の精霊の呪術士は、なにか事故があっても、すぐに火を消すことができますから」
「ほほう……ということは他に、水や風の精霊もいたり?」
「はい、おられます。そうした精霊の加護を持つ呪術士たちが、得意な仕事を担っておりますので、このような山奥でも生活ができるのです」
「なるほどねえ」
ちょっと自慢げなガヤンに、細田が気のない返事をする。大山も、そんな能力者を集めて、わざわざ不便な山奥で生活しなくてもいいのにな、と不思議に思った。
この建物のある土地は、木々もまばらな岩だらけの高地なのだ。近くに川も無いように見えたし、道だってろくに整備されていなかった。むしろ、こんな土地にどうやって、石材を組み上げた巨大建造物を建てたのだと問いたい。
これも魔法かな。魔法すげえや。
「ガヤンさんには、どんな能力があるんですか?」
「わしは道士として、治癒と遠見の奇跡を賜っております。道士とは、神の奇跡を行う祈祷師のことですな。シーニャたちのように自然の力は操れませんので、家事仕事は身の回りがせいぜいですが、普段は
「お医者さんなのか。すごいな」
感心したように目を開いて、細田がガヤンをまじまじと見つめる。眼鏡越しの凝視を受けて、老人の肩が少し仰け反った。
「しかし……そうなると。ここに居る人たちは、みんな何かしらの能力を……神様や精霊さんから、奇跡や加護を貰っていることになるんですね」
「はい。道会に入るには、道士や呪術士としての能力が必要ですので」
「うわあ、完全に能力主義だー。リアル神様のいる宗教施設は大変だな」
細田のこの台詞には目を白黒させるガヤンだったが、返事は必要なくなった。
ちょうど、シーニャが部屋に入って来たのだ。
「山長様、勇者様方のお部屋が用意できました」
「おお、そうか。ありがとう。では、勇者さま……」
「あ、申し遅れました。
そう言って頭を下げる細田に、慌てて大山も続く。
「俺は、大山
「ホソダ、ダダハル様に、オオヤママ、ルオ様、ですな」
「いえ、ダダです」
「俺は、ヤマです」
「はあ……では、ダダ様、ヤマ様とお呼びしても?」
ぜひそれで、と二人は改めて頭を下げたのだった。
「うむ、予想通りの部屋と、予想外の設備だな。こりゃすごいわ」
シーニャに案内された部屋は、二階の一番奥にあった。
天井と柱しかない廊下を端まで歩き、急な階段を登ってまた端まで戻る。つまりは、最初に入った玄関広間の真上である。
壁には木板が貼られ、床に客間と同じ敷物が一枚。敷物を挟んで両側にベッドが二つ置いてある。窓はベッドの間にひとつで、いまは木製の鎧戸が閉められていた。家具らしきものは、窓の下に小さな箪笥があるだけの簡素な部屋だ。
日本の十畳間より、少し広いだろうか。暖房器具は暖炉ではなく、ベッドの足元に火鉢が置いてある。寝る場所なので、盛大に薪を燃やすわけにもいかないのだろう。だが、火鉢が二つにしては部屋が暖かい。
聞けば、シーニャが火の精霊に頼んで、部屋の空気を暖めてくれたのだとか。
火の精霊つよい。すごく便利だ。
いちど暖めても、朝までには冷えてしまうのですが、とシーニャは恐縮していたが、それでも便利なことには違いない。簡易ヒーターにもなる能力があるなら、山奥の生活でどれほど重宝されることか。
「トイレもあるぞ。良かったな、ダダ」
「うん、適当に確認しといてくれや。後で俺にも教えて」
「おう、任せろ」
細田はすでにベッドの片方であぐらをかき、ガヤンに借りた本を貪るように読んでいる。そう、ちゃんと本があったのだ。
厚手でざらついた薄茶色の紙に、黒いインクで手書きしたものを束ね、厚手の表紙と裏表紙を紐で縫い付けてある平綴じ本だ。背表紙が無いので柔らかく開きやすいが、乱暴にするとバラバラになりそうなので、大山はすぐに手放した。もっと頑丈な製本にしてほしいものだ。
中身は横書きの謎文字が並んでいるのに、細田はちゃんと読めるらしい。本を読んでいる時の彼は他のことを全く意識しなくなるので、大山は友人を放置して、シーニャに部屋の説明の続きを頼んだ。
寝室の横にある扉を開くと、洗面台とトイレがある。陶器のタライを置いた棚と、蓋のない洋式便座に似たおまるだが。
おまるを覗くと、腰掛けの中は丸い筒状で、黄色いベタベタしたものが半分ほど貯められていた。予想した臭いはまったくしない。なんだこれは。
「あの……ここで、小水やらをするんですよね。中身はどうするんですか?」
付き添ってくれているシーニャに聞くと、彼女は、不思議そうに首をかしげた。
「出したものは、そのウドノ虫が食べてくれます。ウドノ虫が赤くなったら、もう食べられませんので教えて下さいね。取り替えないといけませんから」
「虫……これ、虫なんですか」
「ええ、そうですよ。ヤマ様のお国には、ご不浄用の虫はおりませんの?」
「トイレに虫は……いますね。こんなに大きくはないですけど」
微妙にすれ違った会話をして、さらに奥の部屋に入る。
「こちらが、お風呂になります。お湯は使い終わったら、この栓を抜いて流してしまって下さい」
「お風呂! すごい、ちゃんとお湯が張ってある」
風呂場は石造りの小部屋で、浅い木の桶とスノコが置いてある。桶は大山がしゃがんでどうにか入れる大きさだが、中に湯気の立つ湯がたっぷり汲まれていた。明かりは蝋燭のランプひとつで、これもまた風情があっていい。
大山が喜びの声を上げると、シーニャはにこにこ笑って風呂場の扉を閉める。
「お礼なら、後でローリーとギリにお願いしますね。あの子たちのおかげで、この道会ではお水に困りませんのよ」
「ええと、はい。機会があれば、ご挨拶させてください……あ、そうか。その二人が、水の精霊の力を使えるということですね?」
「そうですの。本当に、ありがたいことです」
フードを下ろしたシーニャは、丸顔を笑い皺でいっぱいにした、素敵な老婦人だった。若い頃は、さぞかし美人だったろうとわかる小顔で、白いものの混じる灰色の髪をおかっぱにしている。髪にうねりがあるので、ちょっとお洒落なパーマをかけた風なのが可愛らしい。
「お湯が冷めないうちにお入り下さいね。それと、こちらがお着替えです。ヤマ様はお体が大きいので、少し小さいかも知れませんけど」
「いえ、十分です。ありがとうございます」
「はい。では、ごゆっくりお休み下さい」
最後に衣類の入った籠の場所を教えてくれて、シーニャは部屋を出て行った。これで、朝までは細田と二人だ。
まあ、変な魔法みたいな力がある世界なのだし、覗きや盗聴の心配は尽きないんだけどね。
「すまんが、ダダさん先にお風呂に入って来てくれんかね。俺が入ると、お湯が半分以下になりそうなんだよ」
「んー……無理。風呂いい」
「いいってことは無いだろうよ。夏コミの後だぞ」
「やだ……」
細田に声をかけるが、やはり聞いてくれない。いくら部屋が暖かいと言っても、彼はまだ半袖Tシャツにジーパン姿で、せっかく借りた肩掛けやひざ掛けも放り出している。これはどうしたものか。
「まったく、風邪でもひいたらどうすんだよ」
仕方なく、大山は先に風呂を使うことにした。
ベッドに服を脱ぎ捨てて、スニーカーを引っかけ風呂場に向かう。おお、冷えるひえる。室内履きとか無いのかな。聞き忘れてた。
シーニャからは風呂用にと、端を縫った手ぬぐいくらいの布が四枚渡されていた。一枚で体を洗い、もう一枚で濡れた体を拭うのだろうと予想される。石鹸は見当たらないが、代わりに灰色の粘液を入れた壺が置いてあった。これで洗うのだろうか。試しに手桶で湯をかぶり、粘液を体に塗ってみる。
「おお……ざらざらする。塩が入っているのか」
粘液は、粗塩の入った洗浄剤だった。素材は不明だし泡も立たないが、ハーブのようなすっきりした匂いと、塩で垢がゴリゴリ落ちる感触が気持ちいい。大山はご機嫌になって、粘液と布で全身を磨き上げた。
さっぱりして桶に浸かると、やはりかなりの湯が床に溢れてしまう。石の床を流れていく湯に、大山はがっかりした。もったいない。これだから、細田を先に入れたかったんだ。
ゆっくりと湯に浸かって温まれば、緊張感が抜ける代わりに、これまで忘れていた不安が湧いてくる。
異世界。異世界なんだよな。人種も、建築様式も、生活の常識すらもまるで違う。トイレに、うんちを食べるナントカ虫がいるなんて、予想外もいいとこだ。今後も、色々と驚かされそうで怖い。
まあ、食事は美味かったな。量は少ないけど。ガヤンさんとシーニャさんも親切だ。灰色ローブたちも大人しい。しきりに観察はされるものの、不信感や攻撃的な意思を感じる視線は無かった。自分たちは歓迎され、もてなされる立場だとわかる。
ただし、いまのところは、という注釈付きで。細田の動向次第では、このナントカ会と大喧嘩になってしまう可能性が高い。
自分たちには、なにも無い。異世界で流通している金や、生活に必要な道具をなにひとつ持たないのだ。せめて生活基盤が整うまでは、細田を暴走させないように気をつけよう。
俺は、力の大山だからな。たったひとりの友を守るためなら、内にも外にも、この力を振るいますとも。
よし、と覚悟を決めて、大山は風呂を上がった。
歯を磨くのは塩だと聞いていたので探せば、洗面台に棚があり、水差しと木のコップ、塩の壺、先を真っ直ぐに落とした丸筆が二本置いてあった。歯ブラシ付きとはご丁寧な。
ほかほかの体を丁寧に拭い、口の中もすっきりさせて、大山は用意された着替えを広げてみる。
「ええ……これ、どうやって着るの。ああ、こっちがパンツ?」
前立の存在で、辛うじて下着とわかった白いズボンは、太腿の半ばまでの長さがあった。腰は、ぐるりと通った紐で締める。
上に着る肌着も白で、こちらは長袖のTシャツに似た単純な形だ。シーニャの言う通り小さいので、大山の体ではパツパツになってしまう。
「切れ目があるから、こっちが前か。で、この古代服みたいなやつを着る、と」
茶色のズボンはゆったりしており、キツいのは腰回りだけだった。こちらも前にある紐を結んで、大事な前立の開き具合を確認する。最後に、イカ形の貫頭衣を着れば完成だ。
「うおーい。室内履きあるじゃん」
籠の一番下には、植物の繊維を編んだ履物があった。鼻緒の無いサンダルのようなもので、指が完全に出てしまう。ガヤンたちは革靴を履いていたので、これは室内用の履物なのだろう。
衣服も上下それぞれに二枚だけだし、これは寝間着と室内履きなのだ。そうとわかれば、体が温かいうちにさっさと寝てしまおう。
大山は、風呂の残り湯を手桶に汲んで、残りは言いつけ通りに流してしまった。間違いなく、細田は風呂に入らない。換気用の木窓も開けて、すのこを壁に立てかけ、蝋燭は吹き消しておく。
うむ、こんなもんでいいだろう。
「ダダー。ちょっと顔上げろ。三分でいいから」
寝室に戻ると、細田はまだ本に顔を突っ込んでいた。その頭を容赦なく掴んで、大山は本を取り上げる。
「おい、なにすんだ」
細田が、こちらを射殺すような目で睨んできたが、大山は怯まない。いや、ビビってはいるけど。
「いいから、三分だけな。寝間着に着替えて、布団に入ってから続きを読みなさい。風邪ひくから」
返事は無かったが、大山は手早く細田の服を脱がせていった。はいはい、いい子ですねー。眼鏡にご注意くださいー。ほら、腕上げてー。
靴下も脱がせて、パンツ一枚になった細田の体を残り湯で絞った手ぬぐいで拭いてやる。まあ、上半身だけでいいだろう。細田が、その間にも本を手繰り寄せようとするので、五冊あったそれをまとめて枕元に避難させた。
「これ、寝間着ね。ほら、ちゃんと立って」
「もう三分経ったろ」
「まだです。上も着て。かぶるだけだから」
なんとか、パンツ以外の寝間着を着付けてやり、毛布を重ねただけの固いベッドに押し込むと、細田は礼も言わずに本に飛びついた。まったく、どんな面白いことが書いてあるんだか。
「俺は先に寝るから、ほどほどにな。寝ないと体力が保たないぞ」
「んー」
「おやすみー」
箪笥の上のランプは点けたまま、大山は毛布に包まって壁を向いた。もう、固いベッドの素材を気にする余裕もない。体感では夕方の六時にもなっていないだろうが、とにかく眠かった。
眠りに落ちる前、大山の意識に浮かんだのは、明日のコミケ三日目には参加できないんだな、という残念な思いだけだった。
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