逃亡者たち

2−1

「いいからやれ!」

 細田の怒鳴り声に、大山は椅子を倒す勢いで立ち上がった。

 立って一瞬、どうすればいいんだっけ、と迷いが頭を過ぎったものの、目の前の老人がぽかんとこちらを見上げているのに気づいて平静を取り戻す。

 作戦は単純極まりない。

 壁をぶち抜いて、天井をぶち抜いて、荷物を取ったら逃げる。

 客間の壁をぶち抜いて、玄関広間の天井をぶち抜いて、寝室から荷物を回収したら、闇雲に逃げる!

 とにかく逃げる!

「ダダ!」

 声を掛けただけで、細田が背中にしがみつく。大山は、おぶさった彼の脚を掴んで引き上げると、後は信じて駆け出した。

「な……待て!」

 ガヤンが上ずった声を上げるの無視して、右の拳に世界の力を纏わせる。超でかいパンチ、発動!

 思い切り腕を振り抜けば、まだ二メートルは距離のあった壁が、轟音を立てて吹き飛んだ。壁材と石材が粉々に砕かれ、粉塵を舞わせてガラガラと落ちてくるが、構わずに大きく空いた穴を飛び越える。

 玄関広間の中央に立ち、次は天井だと上を向けば、背中の細田が少しずり落ちた。

「やま、山ちゃん……落ちる」

「はやっ。もうちょっと頑張れよ!」

 ええい、仕方がない。大山は肩越しに細田の寝間着の首根っこを掴むと、その細い体を肩に引きずり上げた。

 ぐえっ、という声がして、彼の持つトート・バッグが腹にぶつかったが、まったく痛くない。友人をしっかり担いで、頭上に円錐形の防護壁を構築する。

 大ジャンプで、天井をバリアごと突き抜ける!

 身を屈め、思い切り垂直に飛び上がる。衝撃は防護壁が引き受けた。大山の想像した通りに、彼は玄関広間の天井を突き抜け、さらに客間の天井にぶつかる寸前で止まる。

 そのまま穴に落ちても面白くないので、防護壁を直径三メートルほどに広げてから、前方に一回転して距離を取った。

 防護壁を解除すると、両足がすとんと床に落ちる。よし、ここまでは順調だぞ。

「よし、荷物」

「おう……わかった……」

 肩から下ろしてやると、細田はよろよろと歩いてリュックに手を伸ばした。荷物はリュックサック二つのみだ。要らないであろう物やゴミを全て出して、大切な同人誌を中心に詰め直した。カナちゃんのお使い品は選別してビニール袋に包み、奥できちんと保護してある。それをすてるなんて、とんでもない!

 ゴミと判断した物は、まとめて細田が灰にしてくれた。

 いやあ、面白い見ものだった。立つ鳥跡を濁さず、ってね。

 細田がリュックを背負い、胸の前のストラップを留めたところで、一階の廊下に数人が躍り出てくる気配があった。階下の玄関広間からは、床の穴を通して石礫が飛んでくる。次いで、鋭い水鉄砲のようなもの。

 全てを咄嗟に作ったライオットシールド型の防護壁で弾き返し、大山もリュックを掴む。防護壁の向こうからは、バチバチと剣呑な音が響いた。

「ダダ、ベッドの上で待機」

「おう」

 自分もベッドに上がり、体にぴったりと沿うようにストラップを調整したリュックを背負う。

 この後に作る防護壁は、少し工夫が必要だ。

 以前、仕事で地下シェルターのある家を施工したことがある。シェルター本体は専門の企業がいくつかあるので、そちらで用意してもらうのだが、住宅との兼ね合いもあって調整に時間がかかったものだ。

 各部品の詳細や設計図面まで、ばっちり頭に入っている。

 用途が地震でも津波でも、地下シェルターの本体は鋼板や鉄板の円筒形だ。それに断熱材や塗装を施してあるが、強度の面では関係が無い。シェルターは地面を掘って、基礎とアンカーで水平に固定し、地上部に出入り口や通気口を繋げて埋め戻す。

 埋めてからも内装が終わるまで、シェルター販売企業の担当者が残っていたので、大山はなんとなく気になっていた核シェルターについても訊いてみたのだ。

 核シェルターは輸入品が中心だが、作りは地震用とほとんど同じだという。扉が分厚かったり、通気口のフィルターが特殊だったりするだけだ。埋没する深さが増え、周囲を分厚いコンクリートで固めるらしい。

 なら、作るのは三重の防護壁だな。

 階段を駆け上がった数人が廊下を戻ってくる気配に、にやりと笑う。さあて、さっさとトンズラしますか。

 大山は細田を胸に抱きかかえると、引き裂いてあった毛布をおんぶ紐のように回して、がっちりと固定した。まるでコアラの親子だ。それから、南側の壁を殴るために拳を握り込む。細田は、お互いの腹の間にトート・バッグを詰め込んでいた。

 細田が、こちらの肩越しに鼻から上を突き出して、後ろを見る。両腕は大山の脇の下から伸ばして、いつでも攻撃できる体勢になれば準備完了だ。

「壁をぶち抜いたら、一気に山を下りるぞ。攻撃するなら、発射点は俺たちを中心に、三メートル以上は外にしてくれ。バリアを張るからな」

「了解。つうかこれ、ものすごく嫌なんだけど」

「うるせえよ。俺だって嫌だ」

 細田が、怪力を発揮できないのが悪い。ろくに風呂にも入っていない野郎と抱き合っていても、俺のせいじゃない。

 床の穴からは散漫な攻撃が続いており、そちらはライオットシールド型の防護壁で防いでいる。だが、扉の向こうで様子を窺っている数人は、いつ突入して来るかわからない。

「よし、行くぞ」

「あ、ちょい待ち! あれ、あれも持ってく!」

「なにをだよ!」

「あそこの、風呂敷包みみたいなやつ! 山ちゃんなら、首に引っ掛けられるだろ」

 あれあれうるさいので体ごと振り返ると、箪笥の上に見覚えのある布の包みがあった。

 どこかで見たと思えば、お針子の二人が抱えていた包みと同じ色だ。

 素早くベッドを下りて、包みの結び目を確認する。布は厚手だが正方形で、まさに風呂敷包みだ。四隅を交互に結んであり、上の輪はかなり大きい。これなら、頭を突っ込んで担げるだろう。ちょっと泥棒みたいだが。

 ずしりと重い荷物を手に、大山は首を傾げた。

 え、なに。シーニャさん、こっちの味方だったの?

「山ちゃん、急げって! なんか、外にも人が居る!」

 首だけで振り返った細田が、窓の下を見て悲鳴を上げる。ええい、考えている暇は無いか。

 大山は、風呂敷包みを細田の首に掛けた。

「なんで俺なんだよ!」

「お前は攻撃するんだろ。俺が担いだら、視界が塞がる。お前は小さいから、俺なら前がちゃんと見える」

「くそう、反論できねえ」

「片手で押さえといてやるから」

 背後で、扉が音を立てて開かれた。

「行くぞ!」

 南側の壁を壊したかったのだが、仕方がない。大山は、超でかいパンチで窓ごと西の壁をぶち破ると、前だけを見て大きくジャンプした。

 すぐさま、防護壁を展開。走って逃げるために、上にだけ蓋をした円筒形だ。いちばん内側に、散歩中に作った柔らかいゴム風のものを直径二メートル、厚さ三センチで作る。自分の両腕を思い切り振り回しても当たらない広さだ。

 真ん中に鋼板と同じ強度で、厚さ五センチ。外側には、コンクリートを想定して一メートルの厚みを持たせる。

 コンクリート風の防護壁にだけ、黄色で色を付けた。視界を邪魔しない程度の淡い色だが、細田の攻撃を発射させる目安にはなるだろう。危険ですので、立ち入らないで下さいね。

 防護壁が完成すると同時に、建物から五十メートルは離れた雑木林に落下する。木々がコンクリート風の防護壁でへし折れ、メキメキと押し潰された。よし、きちんと体を中心に離れず付いてくるな。

 着地する寸前で、靴底にも固い平皿のような防護壁を追加すれば、地面に何があっても踏み潰せる。バキバキと木の枝を砕く音に続けて、どすんと大きな地響きが鳴る。

 ふう、と息をついて、大山は細田を抱え直した。風呂敷包みも落ちていない。よし。

 足元は小さなクレーターになっていた。平皿だけ解除して、円筒の防護壁ごと木々を押しやりながら平らな地面に移動する。さて、南はどっちだっけ?

 建物の位置を確認して南側の斜面に向き直ると、周囲になにか明るいものが降ってきた。パラパラと、光る粉も見える。

 細田が耳元で叫んだ。

「火矢だ! あいつら、弓矢で攻撃してくるぞ」

「なに、大砲までは問題ない」

「マジか。よっしゃ、こっちも攻撃するぞ。お前は走れ!」

「がってん!」

 大山は、前方の障害物をすべてぶち壊すつもりで走り出した。

 外側の防護壁はコンクリートの強度なので、太い樹木を倒したり、大きな岩に引っ掛けたりする度に削れてゆく。だが、障害物がまばらになる度に構築し直せばいい。これ、便利すぎるなー。

 背後では、なにかが飛んで行くヒュンヒュンという音がしたかと思うと、少しの間を置いて爆発音が響き渡る。細田の攻撃だろうか。

「おい、ダダ。殺すなよ」

「わかんねえよ! もう、建物も見えねえ」

「走って山を下りるのはいいけど、これじゃ後をつけるの簡単だな。どうするよ」

「なんか、崖みたいな所で飛び降りろ。空を飛べ! お前ならできる!」

「んな、無茶な!」

「出来るんだよ! 四の五の言わずにやれ!」

 耳たぶを引っ張られて、鼓膜が破れるのではないかという大声で怒鳴られる。ちょっと、唾が飛んでる! きたない!

「飛べたら、スーパーマンって呼んでやるから!」

「いや、それは遠慮します」

 無我夢中で走るうちに、前方が明るくなってきた。木々が途切れている。本当に崖があるのか?

「飛ぶぞ!」

「おう!」

 もう、なにも考えずに地面を蹴る。

 遠くへ。空へ。

 飛べと言うなら、どこまでも飛んでやる!



 大山は、確かに崖から飛んだ。

 飛び降りたのではなく、頭から斜め上空に飛び出したのだ。防護壁の上部を円錐形にして、外側のコンクリート風は解除する。重量は無いが、短い鉛筆のような形になったので、それはもう見事な速度と飛距離を叩き出したのだ。

 飛びながら前を向けば、眼下に広がる森林と遠い平野、おそろしく高い山脈のような山がある。右手には、薄っすらと見える海と水平線。そして、どこまでも続く曇天の空。

 このまま、放物線を描いて飛んで行き、適当なところでパラシュートでも開こう。大山は、そんな風に考えていたのだが。

 飛翔体となっていた大山の体が落下し始めた時、着地するであろう場所にあったのは、巨大な湖だった。

 一瞬、琵琶湖かな? と思う。そのくらい広い。深い緑の森に囲まれて、灰色の空を映した水面が、どこまでも広がっている。

「なあ、ダダ。お知恵拝借。急ぎで」

「なに……なんの用で」

 細田の声が震えている。気がつけば、友人は細い腕と脚で、大山の体にがっちりとしがみついていた。顔も肩口に埋めて、眼鏡がずり落ちそうになっている。

 ええー。もしかして、高いところも怖いの? 人に飛べって言っておいて。

「ちょっとね、問題が発生した。高速で水面に叩きつけられる場合、どんな形のバリアなら衝撃が殺せる?」

「は? すいめん? なんで」

「いいから急いで! 秒で!」

「いやいや、高度は? なんで水?」

「ものすごく高い所から、もうすぐ湖に突っ込むの! 考えて!」

「んなの知るか! 高所からなら水もコンクリも変わらねえよ!」

「了解、突っ込むわ」

「わー、待てまて! せめてロケットみたいに! こう、先っちょを紡錘形に!」

「よし、身構えろ」

「えー!」

 大山が防護壁の先端に丸みを持たせて全体を伸ばし、解放部も塞ぎながら、ロケットってこれでいいんだっけ? と考えたところで、二人は頭から湖面を突き破った。

 想像で構築しているはずの防護壁が、着水の衝撃に押し潰される。ぐいっと体から引き剥がされるように後退した円筒は、大山が細田の頭を抱え込んだところで、ごつんと頭頂部に当たって止まった。

 内側をゴムにしておいて良かった。ちょっと痛かったけど。

 ロケット型の防護壁は、その後もしばらく水中を進んでいたが、やがて勢いを無くしながら傾き、徐々に沈んでゆく。周囲は、どこまでも水だ。細かい気泡が壁の表面を取り巻いて、上方へと滑り落ち視界から消える。緑色に曇った水中は、数メートル先も見通せない。

 というか、なんで沈むんだ? ああ、俺が鋼板だと思っているからか。

 防護壁に重量は無いはずなのだが、大山の想像では防護壁の二枚目が鋼板だ。そこにロケットという要素も加わった。とても重たいものだと考えているので、中に空気が詰まっている円筒でも、世界の力は大山の想像通りに振る舞って返すのだろう。

「ダダ、もう大丈夫だぞ。着水成功だ」

 リュックの上から背中を叩いてやるが、反応が無い。細田の体は、カタカタと小刻みに震えていた。

「ほーそだ。湖に到着しましたよー」

「いき、息が出来ない……」

「出来ます。嘘をつくんじゃありません。変なこと言うと、世界の力さんに窒息させられるだろ」

「俺、泳げない……溺れる」

「しゃあねえなあ。じゃあ、ちょっと浮くか試して、船みたいに出来たら声かけるから」

「うん」

 うん、じゃねえよ。ちったあ働け。

 大山は、防護壁を球体に変更した。今度の素材はポリカーボネートの断熱中空板だ。自分の扱ったことのある建築資材なら、簡単に想像できる。あぐらをかいて細田を抱っこしてやると、大山は頭上を見上げた。

 防護壁の沈没が止まり、ゆっくりと浮き上がっていく。水面が遠いのか、明るいはずの上部は濃い青色だ。

 なんにせよ、脱出は成功だな。

 それから三十秒ほどもかけて、球体の防護壁に包まれた大山と細田は、ゆらゆらと湖面を目指した。



「これ、俺たちの服か? もう縫えたんだな」

 大山と細田は、湖面に浮かべたボート型の防護壁に座り、部屋に置いてあった布の包みを開いていた。

 畳まれた布は、いま着ている下着や寝間着に似た形の、この国の衣服らしい。もちろん寝間着よりも複雑な作りで、立体的に縫われている。しかも、大小合わせて着替えが複数枚あった。

 小さい方の肌着を広げて、細田が体に当てながら言う。

「まあ……道会のお針子って言うくらいだからな。裁縫も魔法みたいに早いんだろ」

「それにしたって、採寸してから……二時間? 長くても三時間くらいしか経ってなかったろ。早業にも程があるぞ」

「まほうすごいですねー」

「お前さん、自分の興味がない分野だと思考を放棄するの止めろよ。そんなだから、ろくな飯が食えないんだぞ」

「山ちゃんが食わせてくれるからね」

「俺はお前の母ちゃんじゃねえ」

「父ちゃんだもんな」

 ふざけた事を言って、細田が他の衣服もばさばさと広げた。

「おお、ちゃんと俺サイズっぽい。着てみようぜ」

「そうだな。いつまでも寝間着じゃ寒いわ」

 防護壁ボートは、風に揺られて湖のほぼ真ん中を彷徨っている。水中が見えるのは落ち着かないので、灰色に塗ってみた。ただし、オールが無いので流されるままだ。

 どの方面にも岸が遠いので、二人は誰はばかること無く着替えることが出来た。

 下着と肌着は、いま着ているものと同じ作りだが、サイズは自分にぴったりだ。股間を締め付けるほど小さかった以前の下着は、脱ぐと股の部分が破れていた。

 うーん、見なかったことにしよう。

 大山は、不要になった下着をそっと湖に流す。

 おお、動きやすい。

 濃い茶色のズボンに、ゆったりとしたシャツと上着。黒い上着は、作務衣のように紐で左右を結ぶのだが、立襟があるしポケットも付いている。どれも紐で結ぶのに、微妙に日本の服とは違うのが面白い。

 あちこち触っていると、胸の合わせの内側にもポケットがあることに気がついた。固い感触に中を探れば、小さな巾着袋が出て来る。

 巾着袋を開くと、中には大小で二十枚ほどの長方形をした金属板が入っていた。

「なあ、ダダ。これ……」

「ああ。こっちにも入ってた」

 振り向けば、細田があぐらの上で巾着袋の中身を広げている。金色の金属板と、銀色の金属板の二種類だ。

「この国のかねだな。柔らかい金属を型抜きして、図柄を打刻してある。しかし、金貨と銀貨かよ。小銭はねえのか」

「シーニャさんが入れてくれたのかな」

「それしか考えられねえだろ。お、こっちにも何かある」

 大きめの巾着袋からは、革靴が二足出て来た。柔らかそうな鞣し革のスリッポンに似た形で、やはり紐が二組、甲で結ぶように付いている。

 片方の靴をゴソゴソ探り、細田が中から小さな巾着袋を取り出す。手のひらの上で逆さにすると、円形の金属板がジャラジャラと出て来た。

「こっちは鋳造ちゅうぞう貨幣だ。銅製かな? よーし、小銭もゲット。ああ、なるほど……スリ対策に、内側の胸ポケットには貴重品を入れて、小銭は別に持ち歩くってことか」

「至れり尽くせりだな」

 大山も座り込んで、自分の足に合った靴に履き替えた。これから異世界を歩くなら、いつまでもスニーカーを履いてはいられない。

「なあ……シーニャさんって、俺たちが逃げるのをわかってて、お金まで用意してくれたんだよな」

「まったく、親切なばあさんだよ」

「あの人、俺たちの味方なのか?」

「それなー。疑問は尽きないんだよな」

 座って靴の紐を結びながら、細田が何気ない調子で続ける。

「お前はさ、セイサンドウカイ、って聞いて、どんな漢字を思い浮かべた?」

「うん? いや、普通に星、山、みち……」

 普通に? 大山は首をかしげて、違和感に気づく。

「あれ、なんでだ。日本語の名前っぽいな」

「だろ? 言葉が通じているから、最初は気にならなかったんだけどな。他にも、個人名や地名で、たぶんこの国の言葉そのままなんだろう音で聞こえるものと、道士やら呪術士やら、漢字まで思い浮かぶ日本語っぽい名称がある。宗教施設なんて、普通に考えりゃ異国の言葉をまんま聞かされたって、そういうもんかと納得するのにな」

 言って、脱いだ服を適当に丸め始めたので、大山は横から手を出して畳み直す。せっかく着られるサイズなんだから、取って置きなさい。

 細田は盛大に顔をしかめると、残りの服も投げて寄越した。

「文字もそうなんだ。これ読んでみろ」

 トート・バッグから取り出した本を手渡されて、大山は何気なく開いてみた。うーん、やっぱり謎の横文字だ。アルファベットとキリル文字の間の子と言うか、文字だな、とわかる程度の異世界文字が並んでいる。

 Вi Щoeda Гuriiy, Узц……

 うん、わからん。

 しかし、大山が文字を眺めていると、文章の上に水で滲んだような線が引かれ、徐々に別の文章が浮かんでくる。

 チ エザ ホロビ ナガレ……

「……は? なんだこれ」

「いいから、そのまま見ててみろ」

 細田に促されて目を凝らせば、謎の文章の上に、今度ははっきりと日本語の文章が浮かんできた。おそらく文法が違うのだろう、単語や接続詞が前後に入れ替わるのが気持ち悪い。

 エザの地 滅びて 西方に流れる これを崩落の……

「な、読めるだろ?」

「読めるっつーか……なんだこの現象。見てるだけで酔いそうだ」

「慣れれば平気へーき。この便利な翻訳機能から、魔族の門の術とやらに、ひとつ仮説が立てられる」

 耐えられなくなった大山が本を閉じると、細田がそっと取り上げて、うやうやしくトート・バッグに収めた。その貴重品を扱うような仕草に、大山は軽い苛立ちを覚える。そのくらい丁寧に、俺の文房具も扱ってくれませんかね。

「この世界に、不思議な力があるとして……まったくの異世界言語をどうして日本語に翻訳できる? 逆に、俺たちが話していた外来語まで、ガヤンたちが平然と聞き取っていたのはなんでだ。門の術ってのは、この世界と、別の世界を繋ぐ魔法なんだろ?」

「その、別の世界ってのが……」

「ものすごく、限定的なのかも知れない。例えば、地球とか」

 遠くで、甲高い鳥の鳴き声がした。

 ボートに揺られながら声の方向を見やれば、上空に小さな鳥影がある。くるくると旋回して、再び響く鳴き声。

 湖の上は静かだ。ボートはまだ、さざ波ほどの流れに身を任せて、どの岸にも近づいていない。

 ふと吹いた冷たい風に、大山は胴震いした。

「呪術士が使う、見たままの自然現象を再現する術や、ガヤンの治癒の奇跡っていう医術にしたって……実際の怪我や、病気の人間を何度も観察して、ようやく身につける魔法だ。つか、寒いな」

 たまたま無事だったひざ掛けを拾って、細田が肩にまとう。彼は、雲間に光るぼんやりとした太陽を見上げて、静かな声で続けた。

「たまに、ものすごく想像力の旺盛な奴がいて、見たこともない奇跡を扱えるようになったとする。だが、それだけじゃ一代限りの魔法だ。技術として確立するには、そいつが弟子でもとって、気長に教えていかなきゃならん。その辺は、道士について書かれた本にあった」

 大山も、雲に滲む太陽を見た。日が傾いてきている。

 暖かな部屋と、三食提供される食事はもう無い。雨が降っても腹が減っても、自分たちだけで生きていかなくてはならない。

 あの宗教施設から逃げたのは、本当に正しい選択だったのだろうか。

「鉄鉱石の精錬技術にしたって、それまでの経験則から塊鉄炉を作り、木炭と鉄鉱石をどのくらいの比率で放り込んで、どこまで加熱させて……まあ、色々と面倒な工程があるだろ? 出来た塊をぶっ叩いたりな。そういうのを実際に見て、魔法で再現するには、やっぱり個人の観察と理解、ついでに想像力が必要だ。火の呪術士なら掃いて捨てるほど居ても、鉄の精錬までやれる呪術士は貴重だとか書いてあったしな」

 また、鳥が鳴いた。今度は左手の森からで、ギャアギャアと騒がしく鳴いたかと思うと、沢山の小さな鳥が一斉に飛び立つ。

「それなのに、窓に使われていたガラスは、地球で言う近世の板ガラスと遜色ない。服は立体裁断でポケット付きなのに、ボタンを使わない中国や日本みたいな作りだ……文明が、ちぐはぐなんだよ。まるで……」

 森が騒がしい。

 大山は、細田の話を聞きながらも、左手の森に目を凝らした。木々の隙間に、パッと小さな光が走る。耳をすませば、動物が駆けているような音も聞こえる。

「過去にも、地球人が迷い込んでいたみたいだ」

「おい、ダダ。あれ、なんだと思う」

「お前なあ、ひとが真剣に喋ってるのに……なんだ、ありゃ」

 今度は、はっきりと光が走った。すぐに、ドンという爆発音が続く。音は湖面を走って、対岸にまで響いた。

 わんわんと鳴る反響に、腹の底から嫌なざわめきが湧き上がる。甲高く鳴る打撃音は、金属を打ち合う音にも似ていた。

「二つにひとつだな。近づいて様子を見るか、反対側に逃げるか」

「それ、俺に決めさせる気か? うーん……」

「俺は、何が起きているのか知りたい」

「決定権をくれたんじゃねえのかよ。でも、どうやって近づくんだ」

「山ちゃん、ボートの先に座って」

 ほれほれ、と手を振る細田に従い、大山はボートの舳先に座り直した。

 このボート型防護壁は、以前にワカサギ釣りで乗ったローボートと同じ作りだ。エンジンもバッテリーも、エレキモーターも付いていない。そもそも、それらの装備を想像力だけで再現できるほど、大山には知識が無かった。

「とにかく、アレだ。推進力がありゃいいんだろ? 櫂が無いのが痛いな……まあ、いいか」

「ちょっと、細田さん? なにかやるなら、先に……」

「山ちゃんは、前だけ見てろ。舵取りは任せた」

「はあ? 船の舵って、前で調整するもんじゃねえだろ」

「知らん。行くぞ」

 細田が、船尾で水に手を突っ込んだかと思うと、ゴボッという音がしてボートが揺れた。舳先が持ち上がり、波を立てて落ちる。船体が斜めになって回り始めたので、大山は慌ててボートの縁を掴んだ。

「もうちょいか。それ」

 今度は、ボートがゆっくりと進み出す。細田の居る船尾から押されるようにして、波を割って進んで行く……さっきまで左手に見えていた森とは、反対の方角に。

 大山は舳先を掴み直すと、異変のある森の方角に向けて、思い切り体を倒した。

「ダダ。逆だ、ぎゃく」

「あれ? どうやりゃいいんだ、これ」

「とにかく、真っ直ぐ進むようにだけ気をつけてくれ。後ろ向いてていいから」

「おう、任せた」

 ボートの速度が上がる。背後では、水が泡を立てる音と飛沫の上がる音が続いているが、振り返る暇などない。どうしても蛇行してしまうボートを力技で組み伏せて、目的の岸に向かうよう体を傾けることに集中する。

 ぐんぐんと進むボートは、たまに波頭にぶつかって跳ねながら、まだ異変の続いている岸へと急行した。

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