水葬王と青の乙女2

 夜空を切り取ったような帳の向こうに引き入れられた身体は、白い敷布に沈み込む。靴を脱ぐ暇も与えられない。浮いた足から片靴が落ち、起き上がろうとついた肘だったが、のしかかってきた身体によって再び柔らかな寝台に縫い止められてしまう。

 彫像のように見えたハルフィスの体温、見ただけでは窺い知れなかった身体付きや呼吸を近くに感じて、くらくらとめまいがする。生きているものでなければ感じられないものばかりだ。

 銀細工の睫毛。どんな深い闇の中でも青く輝く瞳。東の陶器よりも滑らかな肌や鼻梁。薄い唇は守り石のような淡い色だ。幕を降ろすようにして銀の髪が彼の肩からこぼれ落ち、リカシェの上にかかっている。

 リカシェの呼吸は浅くなり、視界は暗く、意識が揺れるあまり、自分のいる場所や時間すらもわからなくなりつつあった。存在が消えてなくなりそうだったのを引き戻したのは、髪に触れたハルフィスの手だった。ひゅっと鋭く息を飲んだ瞬間、彼はぐっと眉間に皺を寄せると、猫が退くようにしてリカシェの上から離れた。

 呆然と身体を起こすリカシェは、寝台の端に腰掛けてため息をつくハルフィスを見た。

「その役目を課すつもりはないと最初に言ったはずだ」

「――――」

 情欲を持たず獣のようでもない冷たい水葬王の目は、つまらないことをしたとでも言いたげに不機嫌だった。生意気なリカシェを懲らしめるつもりでこんなことをしたらしい。

「……冗談が過ぎるのでは?」

「私はその冗談を真実にできる。最初に私を侮ったのはそなただ。物怖じせぬ勇気は称賛に値するが、私にも自尊心はある」

 そこまで言って、ハルフィスは黙り込んだ。訝しそうな顔をして覗き込む。

「……泣いているのか」

 ぽたっ、と膝の上に雫が落ちた。

 リカシェは慌てて顔を拭った。言われるまで泣いていることにまったく気付いていなかった。

「こ、これは、気が緩んだだけです。緊張が解けただけで……」

 ああどうしよう。止まらない。ぽろぽろと勝手に溢れてくる。

 涙を拭っていると女々しく見えてしまうのが嫌で、膝の上で拳を握り締める。そして、身体を横倒しにして膝を抱えた。

「……何をしている?」

「枕です」

 顔が見えないように手で隠して言う。

「枕だから口を利きません。泣いてもいません……」

 敷布に涙が吸い込まれていく。

 寝台が軋み、ハルフィスが位置を変えたのがわかった。そうして枕になったリカシェを見下ろしていたかと思うと、その髪をそっと撫でた。

「っ……」

 いたわるように優しく。慰めるみたいに。

 そうして降ってきた声は静かだった。

「度が過ぎたようだ。黙らせるにしても悪手だった。この通り詫びる」

 涙が引っ込んだ。

 神話の人が――水葬都市の神王が、私に謝っている!

 どんな顔をしてそれを言っているのだろう。見たいような、見たくないような。でも自分の泣き顔は見られたくない。だからといって指の間から覗くのも、目だけを出すのも子どもっぽい。

 結局顔を隠したまま言った。

「……詫びているように聞こえません」

 誰が聞いてもふて腐れた声だったせいか、さすがの水葬王も笑いを禁じ得なかったらしい。

 その顔を見てやりたいとリカシェは濡れた手を下ろした。しかしハルフィスは仮面のような感情のない綺麗な顔をしていて、自分の失態を見られているという悔しさが増すだけだった。

 だが、彼はそうしたリカシェの心の動きを見て取れるのに興味を惹かれたらしく、その視線はリカシェの顔に留まり続けていた。

「……可愛くない女の泣き顔を見て面白うございますか」

「可愛くないと言った覚えはない。捏造するな」

「でもそう思っていらっしゃる」

「それは容姿の美醜か、それとも物言いについてか?」

「どちらも」

「自身でそう思うのならばそうなのだろう。そなたは己の思い込みを相手に貼り付け、それを確認しては『こうだからこのようになるのは仕方がない』と考えて、安堵しながら己を痛めつける呪いをかけている。相手がどのように考えているかを知ろうともせずに」

 何か言おうとして、何も言葉が出てこなかった。

 けれど何か、とても重要な啓示を受けた気がする。

「すぐにはわかるまい。必要な時に思い出すだろう」

「ええとつまり…………あなたはどのようにお考えになっているのですか?」

 そう、それを聞いていない。結局可愛くないと思っているのかどうか。

 ハルフィスは答えた。

「可愛くないかどうかというなら、媚を売らぬところが好ましいと感じる」

「っ!!」

「だが」とハルフィスは心を浮かせるリカシェに水を浴びせかけた。

「減らず口が耳に障る。若さゆえのことだろうがもう少し柔軟性を身につけよ。いちいち噛み付いているといずれ首の根を押さえられるぞ」

 ぐうっとリカシェは黙り込んだ。遥か年上の神王に指摘されるなら、それは確かに自分の欠点なのだ。

「……肝に銘じます」

「言うは容易い」

(そういうあなたは一言多いのよ!)

 むっとする気力も戻ってきた。残った涙をぬぐいながら長いため息をつく。取引する材料を手に入れようと思ったのに振り回されてばかりだった。

 ふと疑問が湧いた。

「ところで……どうして枕なのですか?」

「何の話だ?」

「『枕になれ』という命令はあまり聞いたことがないので気になりました」

「ああ……何代前かの花嫁が、寝具に装飾するレースだの、帳だの襟飾りだのを作っていたのを思い出しただけだ。深い意味はない」

「花嫁……」

 リカシェのように白百合の棺で水葬された娘が過去にいたのだ。リカシェの部屋の隣の衣装部屋からも、それが多数に及ぶことがわかる。だが彼は名前も思い出せないようだった。

「望むものはあるかと尋ねると、かぎ針と絹糸が欲しいと言った。それから部屋にこもって出てこなくなり、いつの間にか冥府の門をくぐっていた。この城のどこかにその部屋があるだろう」

 そう言って、彼は寝台の奥に進むと、リカシェの隣でごろりと横になった。

「っ!? な、何!?」

「何を驚く。ここは私の寝台だ。問答に疲れたゆえ、もう休む。そなたは好きにしろ。ここで寝ても寝台は優に広い」

「それはそうですが!」

「うるさい」

 そう言うと彼は目を閉じてしまった。幸いなのか、腹がたつのか、悔しいのかわからないが、花嫁に名前以上の役割を求めないと宣言したあの言葉は事実らしい。とても穏やかな表情で眠ろうとしていた。

(どうしてくれよう……!)

 額を小突いてやろうか。それとも上にのしかかって安眠を妨害してやろうか。子守唄を歌って嫌がらせをするのもいいか。隣にいる者に興味を示さないハルフィスに一矢報いてやりたいという気持ちが膨らんでいく。

 そう考えて寝顔を見下ろしていると、ぱちりとハルフィスが目を開いた。

「決まらぬのなら命じてやろう。そこで『枕』になれ。目を閉じて夢の神の名を呼び、素直に眠りの歌声に耳を澄ましていろ」

 それだけ言って、また目を閉じてしまう。恐らく呼びかけても無視するつもりだ。やりとりが面倒になってきたのはリカシェも同じで、できれば横になってしばらく何も考えないでいたかった。

(……いいわ、お許しが出たんだし。『枕』になってやろうじゃないの)

 身体を横たえ、ちゃんと枕を引き寄せて頭に当てる。

 仰向けで目を閉じるハルフィスは、眠る横顔も凛と美しい。

 小さく息をこぼして、リカシェは枕に顔を埋めた。眠れるだろうかと不安になったのは杞憂で、しばらくすると声が聞こえてきた。夢の神が眠りに誘う子守唄だ。本当に聞こえるのか、と思ったその直後、リカシェは歌声に包まれて眠ってしまった。

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