水葬王と青の乙女3

 爽やかな青の光が差し込んでいた。

 覚醒してすぐのぼんやりとした目で寝台の天蓋を見る。そう、ここは水葬都市。地上から離れた冥府の門前、死者の都の城、その王の寝台。

 起き上がるとその人はいなかった。室内のどこにも見当たらず、気配が残っていないことから、すでにどこかへ行ってしまったのを感じ取った。

(……期待したわけじゃないのに、なんだか残念なのはどうしてだろう)

 簡単に身支度を整えて部屋に戻る。着替えを終えた時、扉が叩かれた。

「はい」

「失礼いたします。花嫁様」

(……女の人?)

 てっきりセルグかと思ったのに。だがアーリィではない。新しく聞く女性の声に、リカシェは自分から扉を開けに行った。

 外にいた女性は、水色の髪を高く結い上げ、花瓶を思わせる襟も袖も慎ましい衣服に身を包み、愛らしい顔立ちをしていた。彼女は扉が開けられたことに驚いた顔をしたが、すぐに平静さを貼り付け、深々と頭を下げた。

「我が主人が、花嫁様をお招きしたいとのことです。お受けくださいますでしょうか?」

 この城の主はハルフィスだが、どうも様子が違う。

「恐れ入りますが……どなたからのお招きですか?」

「青の乙女ニンヌ様にございます」

 リカシェは息を飲んだ。

 水葬都市のもう一人の神。数々の恋の浮名を流し、青の乙女とうたわれる女神。そして、ハルフィスの妹だ。

 なんとか驚きを飲み下したリカシェは、呼吸を整え、頷いた。

「喜んで参ります、とお伝えください。いつお伺いすればよろしいですか?」

「これからお茶をご一緒したいとの仰せです」

 承知したリカシェは少し待ってもらうように言い、昼のお茶会を想像しながらそれにふさわしいドレスと靴を選び、髪を結った。そして部屋を出ると、案内されるままに西棟に向かった。

 西棟は、建物は平たく、ほとんどが庭園のような広い場所だった。実際に歩いてみると、休暇に使うような小さな館や小宮殿を想定してあるようだ。だが植物はなく、硝子でできた柱を絡め合わせた彫刻や、神話を彫り込んだ白い柱が設置されている。進むほどに様子は変わり、時代を遡るようにして柱の数が増し、祈りの宮がそびえる神々がいた頃の景色が現れる。

 青の世界が白の世界に変わり、その最奥の庭の東屋に女神はいた。

 蒼の髪。真珠の肌。碧玉の瞳。空を手にしてまとったようなドレスは、裾にいくほど夜と星が輝く。ごくりと息を飲み干したのは、視線だけで白銀のレースを織り上げたように思えたからだ。

 ハルフィスが冷たい月なら、ニンヌは宝石の花だ。光を内包した青碧玉の化身。髪やまつげ、爪の先に至るまで、この世の美しいものを集めて作られている。

 リカシェは自然と膝を折り、声がくだされるのを待った。

「今度の花嫁は赤い娘か」

 氷晶の声はひんやりと、嘲笑を含んでいるのに鈴を鳴らすように澄んでいた。

「名は?」

「……リカシェ・アスティアスと申します」

「そう。そちらにお座りなさい」

 ニンヌは自身の向かいにある椅子を示し、リカシェが腰掛けるのを待って、お茶を運ばせた。陶器の器に注がれたお茶は水のように透き通っている。

「お飲みなさい」

「いただきます」

 そう言って器を取った時、ニンヌの目がきらりと光ったように見えた。

 なんだろうと思いながら器に口をつけた瞬間、リカシェは声をあげそうになった。

「美味しいでしょう。この城にある泉の水で煮出した、月の葉のお茶よ」

 水自体に味がないのに、口に含んだ途端、凄まじい苦味が広がる。飲み下すのに勇気が必要だ。リカシェの顔は歪みそうなのに、ニンヌはうっとりするような微笑を浮かべてそれを飲んでいる。

(なに、これ……えぐみがすごい。私が苦く感じているだけなの)

「こちらもお食べなさい。銀蓮の花びらよ」

 口の中を洗いたくて、差し出された白い花びらを口に含む。

「っ!」

 舌の先を痺れさせる辛味が走り、一瞬息が止まる。

 さすがにこれはおかしいと思わずにはいられなかった。けっして美味とは言えないものばかり勧められている気がする。

「いつも……これらを召し上がっているのですか?」

「ええ」

 ニンヌはそう答えて花びらを噛んでいる。

「どうやらあなたの口に合わないようね」

 すうっと波が引くように感情の遠のいた言葉が、リカシェの頬を打った。

「お茶に花びらをひたすと、美味しく飲めるのではないかしら?」

 リカシェはニンヌを見た。

 そうして見た微笑みは、ハルフィスと共通する冷たさを滲ませていた。けれどそこにいやらしさを感じるのは、リカシェが女で、こうした場面に数多く立ち合ったからかもしれない。

 ニンヌの言う通りお茶に花びらをひたしたとしても、口に含んだそれを噴き出して粗相したことになるか、言われたことを断って機嫌を損ねるという展開になるだろう。

「……ニンヌ様は、普段何をしてお過ごしなのですか?」

 ニンヌは一瞬だけ不審そうな顔をしたが、素直に答えてくれた。

「あなたたちとそう変わらないわ。本を読んだり、刺繍をしたり、散歩をしたり。仕事をしたりして。城は兄上の領域だから愛想がなくてつまらないけれど、街の方は面白くってよ」

「退屈に感じることはありませんか?」

 何かに気付いたのか、一拍置いて、彼女は答えた。

「……そうね。とても退屈。水葬都市のものが美しいのは、それが永遠に美しいから。喪失と後悔を恐れるからこそ、世界のすべては儚く輝く。この城に暮らすことがわたくしへの罰とはいえ、ここには花も咲かないのよ」

 青の乙女ニンヌは恋多き女神として知られる。神々とも人間とも、あるいは動物の王たちとも恋をした結果、多くの事件を起こしてきた。月の神に恋をしたものの、彼にこっぴどく振られた彼女は復讐を誓い、様々なものを利用した結果失われた命があったことを大神に咎められ、水葬都市に永久に幽閉されることになったのだった。

 そして、長い時をこの城で過ごしている彼女は、恋の輝きを胸の底にしまい込み、葉をなくした木のように、寒々しい自分を持て余しているようだった。

 だからといって、やってきた者に嫌がらせをして楽しむことが許されるというわけではないけれど。

(同情はするわ。それだけ地上を愛して、心を残しているということだもの)

 恋をしたことがないリカシェだが、家族に対する愛はわかる。

 弟の存在を愛おしみ、その未来を守りたいと思う。彼の人生を幸福と喜びで彩ってほしいと願っている。

 だから地上に戻りたい。あの子が命を奪われる前に。

 リカシェは花びらを器にぶち込むと、それを一息に煽った。

「ちょっ、それは……!」

 味を感じないように一気に流し込み、大きく息を吐く。顔が歪むのはどうしようもなかったが、目を丸くするニンヌに向かって、そのまま引きつった笑顔とも呼べない笑顔を浮かべた。

「ごちそうさまでした。めずらしいものを堪能させていただきました。それでは、わたくしはこれで失礼させていただきます」

 席を立ち、丁寧に膝を折る。何か言われる前にさっさと背を向けた。嫌がらせに笑顔で付き合えるほど人間ができていない自覚があったからだ。礼を失する前にさっさと離れるのがいい。

 お茶の用意をした女官が、去ろうとするリカシェに慌てて頭の下げるのに、少しだけ溜飲を下げた時だった。

「…………、ふ……、ふふっ、あはっ、あはははははは!」

 哄笑が響き渡り、リカシェはぎょっとして振り向いた。

 美女らしからぬ大口を開けて、ニンヌが笑っている。

(なっ……何が起きたの……!?)

 お腹を抱えて涙を浮かべ、ひいひいと引きつった声で笑い続ける主人に、女官は信じられないものを見たかのように硬直している。あられもない姿に、リカシェもどうしたらいいのかわからず、妙な姿勢のまま動きを止めていた。

「ははっ、あはっ……ふ、ふふっ、ああもう本当におかしい! リカシェ、こちらに戻ってきてちょうだい。シェンラ、あれを持ってきて」

 軽く飛び上がって下がっていく女官の心境を慮りつつ、リカシェは向き直った。ニンヌがまとっていた冷ややかな壁は消え、絶世の美女だが明るく爽やかな光をまとった少女のような人が現れている。

 シェンラが両手で包み込めるような小壺を持って戻ってきた。ありがとうと言いながら受け取ったニンヌは、その蓋を開けると、匙を使って金色に輝く雫を茶器の中に入れた。

「これは黄金蜂の蜜。これを入れないと、滋養があっても苦くて飲めやしないの」

 リカシェが眉をひそめると、くすりとニンヌは笑った。

「お詫びのしるし。飲んでくださる?」

 上目遣いに微笑むといたずら好きの少女にしか見えない。

 お茶は甘い蜜と花の色をしていた。再び席に着いて口をつけるのを、ニンヌはにこにこと眺めている。

 お茶は香りからして違っていた。薔薇、蘭、林檎、オレンジ。嗅ぐだけで飲み干したくなる。そっと口に含んだ途端、口いっぱいに幸せな甘さが広がった。焼きたてのパイにかぶりついた時ような、渇いた喉に水をたっぷり飲み干したような、心にまで満ちるものが身体中に浸透していく。

「美味しいでしょう?」

「はい」

 リカシェが声を弾ませると、ニンヌは嬉しそうだった。そして表情を改めると、手を膝に下ろし、頭を下げた。

「あなたを侮ったことを謝罪します。アスティアスのリカシェ。そして、あなたの寛容さに敬意を表します。あなたの誇り高さと勇気は得難いものです」

 優美な微笑とともに与えられたそれは、紛れもない謝意であり、祝福の言葉だった。

「許してくれる?」

 その後に心配そうに尋ねられると、笑わずにはいられなかった。くすっと笑みをこぼして、リカシェは頷いた。

「はい。あんな悪戯をした理由を教えてくださるのなら」

 ニンヌは右手で頬を押さえた。

「あなたはきっと知らないでしょうけれど、水葬都市にやってくる花嫁といったら、それはもうみんな判で押したような反応しかしないの。捧げられるものとして教育されてきたからかしら? 何をしても『仰せのままに』とか『かしこまりました』としか言わなくて、敬虔な信徒として兄上やわたくしに接してくれるのよね。まあ死にゆく者に己の思うがままに行動せよと言っても、難しいのはわかっているのよ。だって兄上の機嫌を損ねたら消滅させられると考えるに違いないもの」

 憎悪を向けてきた者がいなかったわけではないけれど、とニンヌは言う。

「あまりにも飽きてきたので、毎回新しい花嫁が来たら悪戯をするようになったの。だいたいは、わたくしを気遣って何も言わないわ。あるいは遠回しに口をつけなくなる。面と向かって抗議する者は一人いたかしら。でもそれもわたくしが言い負かしてそれきり。ええ、趣味が悪いのは知っていてよ。けれどわたくしを突破しないと、時が止まった兄上の心は熔かせやしないもの」

 井戸端でおしゃべりをするように一息に言うと、ニンヌは喉を潤した。

「だからあなたの堂々としたふるまいはとてもよかった。そういう向こう見ずなところ、大好きよ。素敵だわ。無謀と勇気は紙一重だけれど、心が宿れば剣にも炎にもなる。だからきっとわたくしの悪趣味な試しにも意味があったのよ」

 もう少し考えて行動した方がいいのかもしれない、と改めさせられたような気もしたが、ニンヌの賞賛は心からのもののようだった。裏側に込められた希望も。

「ニンヌ様は、わたくしに何か期待をしているということですか?」

 察しがいい、と青の瞳が語った。つぶやきめいた声は慎重になったからかもしれない。

「あなたなら、兄上を変えられるかもしれない」

 初めて自分の考えを口にするのかもしれない、ニンヌはゆっくりと確かめるような口調で言った。

「兄上の心は動かない。水葬都市の王となった時から、彼は何にも心を傾けずにきた。最初の頃は花嫁を慈しもうとしていたように思うけれど、敬われ、距離を取られるごとに、その心は凍りついていった。今とはなっては誰もそれに触れられない。だから彼の中には何もない。空っぽなのよ」

 恋という心の熱と高まりを愛した女神は、そう言って目を伏せた。

「このままではいつか彼は朽ち果てる。力を得るためのものが存在しないのだから、己の何もかもを使い果たして干からびていくでしょう。そんな姿は見たくない」

「だからといって、わたくしに何かできるとは思えないのですが……」

 家族を心配する気持ちは理解できるし、助けてほしいと思っていることもわかった。けれどリカシェはここから出て行くことを望んでいた。役に立てるとは思えない。ましてや、あの水葬王を変える方法なんて思いつかない。

「あなたは地上へ戻る方法を探していると聞いたわ。そんなあなたに兄上のことを見ていてほしいと頼むのは、無理な話かもしれない」

 リカシェの不承知の理由は、ニンヌも事前に理解していたようだ。しかし、語気を強めてすがるような目をする。

「それでも心に留めて、気にかけてほしいの。それを承知してくれるのなら、わたくしは出来る限りあなたに力を貸すわ」

 それこそ地上に戻るために取り成してもいいという。

 リカシェは迷った。ここで頷いて、何もできなかったら申し訳が立たないからだ。それにハルフィスとつながりを持ちたいと思うほど、彼に思い入れがあるわけではなかった。

「――……」

 それでも思い出したのは、泣いて顔を隠すリカシェに伸ばされた、不器用で優しい慰めの手だった。

 その心は本当に凍っているのか。何も感じず、空っぽなのか。

(――知りたい)

 慰めてくれた彼が何も感じていないなんて思えない。何を見て、何を思うのか。何を経てここにいるのか。見てみたい、聞いてみたい、確かめたいというそれは不思議な欲、リカシェの心の表面をくすぐる暖かい何かだった。

「……お役には立てないかもしれません。わたくしは、どうやらあの方と話すと言い合いになってしまうので」

 けれどその答えで十分だったようだ。ニンヌは心からほっとしたように微笑み、ありがとうと囁いた。

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