第2章
水葬王と青の乙女1
城へ連れ戻されたリカシェは、従士に見守られながら城の北棟に自室を選び、青いドレスに着替えさせられた。不思議な光沢のある青の衣装は、霧をまとっているように薄く、まるで神話の登場人物になったかのようだったが、鏡を見て思ったのは。
(私に青いドレスは似合わない)
という冷静な評価だった。
子どもの頃、母親が娘時代に着ていたというドレスを着たら、従兄弟たちから『似合わない』とさんざん笑われたことを思い出した。そのドレスはレースがたくさんついた水色の可愛らしい意匠のもので、幼い頃から袖を通せる日を心待ちにしていたのだが着たのは結局それきり。最後には従妹に譲ってしまったのだった。
ため息をついて別のドレスを選んだ。隣室は衣装部屋になっており、時代も流行も異なるドレスが多数保管されていた。適当に選んだ部屋でこれだとすると、もしかして別の部屋にも同じだけ衣装があるのだろうか。考えるだけで目が回りそうだ。
いつも着ているような茶色や深緑色のドレスがいいのだが、水葬都市では過ぎた望みだろう。王からして青、従士や兵士まで青、水色、白の服だった。そんなことをつらつら考えていると、茶色のドレスを『嫁き遅れみたいだ』と言われたことまで思い出して気が重くなってきた。
中途半端に後継としての教育を受けたリカシェは、父や親類の男性たちにとってそれはそれは可愛くなかったらしく、特に従兄弟たちは何かにつけて悪し様に言ってきた。水色のドレスの件で傷ついたこともあったが、いちいち気にするのも無駄だと聞き流してきた。忘れたつもりだったというのに、今になって思い出している。
『可愛げのない女』
『偉そうな口をきいて。これだから本を読む女は』
『誰もお前なんて好きになるものか』
衣装を前に座り込みそうになり、壁に手をついて息を逃がす。
(ここまでうんざりするのは、きっとハルフィス王が美麗すぎるせいでしょうね……)
下手な格好はできない、と思うのだ。きっと歴代の花嫁たちを最も悩ませたにちがいない。
そしてリカシェは、普段の自分なら絶対に避けるであろう、白いドレスを手に取ったのだった。
やがて窓の外の青がゆっくりと濃くなっていき、紺碧に染まっていった。昼は明るい青、夜は暗い青ということだろう。時計はどこにも見当たらず、時間の概念はないに等しいようだったが、活動時間と休息時間はある程度分けられているらしい。だが空腹を感じなかった。喉の渇きもない。
外出するとまた何を言われるかわからなかったので、ひたすら部屋の中を検分した。金粉を撒き散らした紗が吊り下げられた、広く柔らかな寝台。青い炎が灯る照明器具。貝殻のような手触りの見たこともない魚の像。残念だったのは本棚だった。たくさん入っているので手に取ってみると、ほとんどが装丁の異なる神話書、次に多いのは氏族の歴史を綴ったもの。娯楽本は詩集だけだった。
(花嫁たちが持ち込んだものかしら。神話書は水葬する時に持たせるから、もしかして棺に入れたものは水葬都市に持ってくることができるのかもしれない)
多分リカシェが寝巻きだったのはそういうことだ。もしそれがわかっていたら、ここでは手に入らなさそうなものを持ってきたのに。
ハルフィスと話した時、彼は『捧げ物をすれば』と言った。彼の望むものを与えれば、リカシェが地上に戻ることができるのだ。彼が何を供物として求めるか、それを見つけることができれば。
(もう少しあの方のことを知らなければいけないわ。何も必要ないと言ったけれど、そんなわけがないもの。生きているのだから。どんなささやかであっても、きっと願うことがあるはず)
扉が叩かれた。
「はい」と返事をすると、姿を現したのはセルグだった。
「失礼いたします。リカシェ様。王がお呼びです」
ぎくっとした、その直後、かあっと頬に熱が上った。セルグが扉を開け放したまま立っているので、行きたくないとは言えなかった。
北棟からさらに奥。リカシェがまだ探索していない、静かな場所に案内されながら頭の中に浮かぶのは、兵たちの前でしたあのやりとりだ。
(……『枕』)
つまりそれはそういうことよね。そんなやりとりを大勢の前でしたのよね!
意趣返しにしても性格が悪すぎる。言いつけを破って外出したのは悪かったし、その後に屁理屈をこねたことも反省するが、そんな話題を持ち出して貶めなくてもいいではないか。
(もし従兄弟だったら一回殴ってるわ……)
「こちらです」
藍色に沈む城は、あちこちに明るい青の火が灯されていて真昼のようだ。炎の色が青いからといって、明かりもまた青いわけではないらしく、どちらかというと白っぽい水色だった。壁や柱、天井と至るところに反射して、煌々としている。
その棟は他の場所よりひっそりしていて、廊下は馬が駆けられるくらい広く、扉も窓も何もかも大きかった。
セルグが示した扉には、太陽と月と星の浮き彫りが施されていた。ただそれだけなのに、まるで宝石や金銀をあしらった神話書の表紙のようだ。
「ハルフィス王。リカシェ様がお越しです」
「入れ」
セルグに促され、リカシェは室内に足を踏み入れた。
青白い部屋。どうやら生活するための場所を一つにまとめてあるようで、思いきり走ることができるくらい広い。帳のかかった寝台があり、書物をするための机もあった。くつろぐための調度品と、本が詰まった棚が目につく。
入り口で立ちすくんでいると扉が閉まった。慌てて振り返るが誰の姿もない。
今度は衣擦れの音がした。耳の奥をぞわぞわくすぐるような音に、首筋からかあっと熱くなっていく。
(ああもう、何を怯えているの私。場を切り抜けるためには、じっとしているより動くのよ!)
固い決意のもとに振り返ったリカシェは、すぐさま後悔することになった。
先ほどリカシェの前に現れたハルフィスは、襟の高い上着に戦闘用の外套という隙のない服装だった。
それが今は、裾を引きずる白い寝巻きに身を包み、美の女神よりもしどけなく優麗な姿をしているのだ。
思考は真っ白になり、ぽかんと口を開けていた。本人は当然自分に見惚れることもなく明るいうちに見せた表情のまま、悠々と部屋を横切っていく。その途中で立ち尽くすリカシェに気付いたのか、こちらに顔を向けた。
灯明の光のしずくが星の流れになる、その銀色の髪。
「…………綺麗……」
ハルフィスはわずかに目を見開いた。
驚愕を目撃して我に返り、リカシェは慌てて口を塞いだ。
(し、しまった。うっかり……!)
失言をどのように皮肉られるのかと構えたリカシェだったが、ハルフィスは目をそらし、手にしていた玻璃の器を机の上に静かに置いた。そうした動作ひとつひとつは、気を抜けばうっとりしてしまうほど優雅だ。このまま黙っていると見惚れてしまいそうなので、急いで笑顔を貼り付けた。
「お呼びと伺いました。なんの御用でしょう?」
「おおよそわかっているのではないか? 『枕』の件だ」
密かに息を飲み下す。笑え、なんてことないと笑っていなければ背を向けて逃げ出してしまいそうだから。
「……恐れながら、王陛下にはわたくしのような『枕』が必要だとはまったく思えませんわ。この枕は口もきけば手も足も出ますので、たいへん危険かと存じます」
ほう、とまったく興味深そうにない相づちがあった。
「そのように危険とは、まるで星神の子が乗る神馬のようだな」
星神の子が馬に乗ると、それは人の目には流星となって映る。白い炎のたてがみを持った神馬を手に入れようと人間は縄をかけたが、あっという間に燃え尽くされて灰も残らなかったという。
内心は(そこまで言うか!)と怒りがめらめら燃えていたが、リカシェは追従の微笑みで頷いた。
「ええ、ですから今回は」
「だが、それを御してみるのも悪くない」
「えっ……」
そう言って寝台に向かって歩いていくので、リカシェは愕然とした。
ハルフィスは今にも倒れそうに青ざめるリカシェを一瞥し、命じる。
「来い」
一気に血の気が引いた。
ここで這いつくばって許しを請うべきか、それともその気をなくすまで思いきり抵抗してみるべきか、次の手を考えなければならなかった。しかし思考の奥底で、失望し、悲しんでいるらしい暗い呟きが聞こえてきた。
(ああ彼もまた女を組み伏せて喜ぶ種類の男なのか――)
リカシェはふらふらになりながら彼の言葉に従い、寝台に近づいていった。
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