義を見てせざるは

 武山は時期を見計らっていた。酒楼の頂上、四階の高さから、眼下に中庭の様子を伺っていた。

 この酒楼の罠は武山とルヤンの二人で仕掛けたものだ。武山の好きな、例の「子供一人が知恵と度胸で大人の悪党どもを懲らしめる映画」を参考にしたのだ。

 作戦は成功だ。夏崇烈は自尊心をズタズタにされ激高している。その目前にルヤンが立てば、一直線に突進するだろう。その時が勝負だ。武山は手中のリモコンを握り締めた。スイッチを押せば投網が発射され、夏崇烈を捕えるのだ。


(来い、さあ来い!)

 すでに心臓は口から飛び出さんばかりに暴れている。早く踏み出せ、早く。その瞬間が決着の刻だ!


 が、事態はここに来て思わぬ展開を見せた。ルヤンを凝視し今にも襲い掛かりそうだった夏崇烈が、突如身を翻して逆方向へと走ったのだ。建物の陰に消えたその背中を武山はたちまち見失った。まさか、逃げたのか? ルヤンによれば、夏崇烈は自尊心の大きい男、その尊厳を傷付ければ必ず挑発に乗ると。これは見込み違いだったか?


「……げろ。武誠、逃げろ! 気づかれた!」

 耳元でルヤンの声。二人は無線機トランシーバーで連絡を取れるようにしていた。これまではすべて順調だったが、ここに来て初めて通信が入ったのだ。

「奴を追い詰めすぎた! 武誠、夏崇烈はそっちに向かっている!」

「なっ――!?」

 武山はすぐさま窓から離れ、反対側へと走った。楼の最上階は一面が一つの大部屋だ。向かいの窓は外の通りに面している。緊急事態に備えて準備しておいた縄を投げ、外に出る。これを辿って降りれば外へ逃げられる。


「――どこへ行く?」

 武山は心臓が止まるかと思った。足を降ろした屋根のへりを、塗料にまみれた手が掴んだのだ。

 怯んだその一瞬、夏崇烈の体が屋下から飛び出す。夏崇烈は罠があるかも知れない階段ではなく、外壁を登って来たのだ。通常ならば容易にはできない芸当だが、軽功と怒りの力がそれを可能にした。

「異界の者が、よくも俺たちを愚弄してくれたな!」


 夏崇烈は激怒していた。これまでに抱いたことの無い強烈な感情――しかしそれ故に、本来の冷静さを取り戻したのだ。

 ルヤンの発火の技、罠に用いられた材質の品々。どれも見知らぬものばかり。そしてもう一つ。あの日あの夜、ルヤンと一緒にいた男は何者だ? あの二人はどうやってあの場から消え失せた?

 それらの疑問と謎と不可解とを繋ぎ合わせ、夏崇烈ははたと閃いたのである。

(あの男は異界よりの来訪者だ。今もこの俺を罠に嵌めようとしている!)


 果たしてその直感に等しい閃きは的中したのである。蹴りが飛び、武山の体は出てきたばかりの窓枠を逆行してまた反対側の壁に叩きつけられた。五臓六腑が破裂するかとさえ誤認するほどの衝撃だ。武山はたちまち前後不覚に陥った。息すらまともに出来ない。


 シャン……。冷たい音が揺れる脳髄に染み渡る。ああ、これは映画でよく聴く音だ。剣を鞘から抜いた音。まぶたを無理やりこじ開けて前を見る。夏崇烈がこちらへ歩み寄る。

 武山は心中で自嘲する。やめておけば良かったのだ、こんなバカげた真似は。自分はただの、現代日本を生きるしがない会社員。義侠を気取って何の益にもならない賞金首刈りに手を出すなど酔狂の極みだ。

 君を一人では行かせられないなどと、格好つけてそんな言葉を口走ったあの時の自分を殴り飛ばしてやりたい。出過ぎた真似だ。領分を超えた行いだ。口を閉ざしルヤンの征くを見送ってやればよかった。……本当に?


「夏崇烈! 武誠に手を出すな。私が相手だ!」

 階段を駆け上がってルヤンが姿を見せる。さっと振り返り剣先を上げる夏崇烈。ふん、と鼻を鳴らす。

「ここまで卑劣な手を尽くしておいて、今さら正々堂々の勝負などと抜かすつもりか?」

「弱者が強者へ挑むのに、詭道奇策を用いるのは卑怯とは言わない」

 ルヤンが言い返すと、夏崇烈は大口を開け大笑した。愉快痛快とでも言わんばかり、屋根も壁もビリビリと震えた。

「ものは言いようだな! 良いだろう。正々堂々と――二対二でカタを付けよう!」

「後ろだ!」


 武山が叫ぶと同時、ルヤンの背後の窓から真っ黒な人影が飛び込む。その手には双短剣。現れたのはガソリン爆発によって黒焦げにされた夏崇烈の義弟だ。服は消し炭になって貼り付き、髪もほぼほぼ燃え尽きている。

 先の夏崇烈の大笑は彼を呼び寄せるためのものだった。飛び込んだ勢いのままルヤンの心臓を貫こうと短剣を突き出す。ルヤンは素早く剣を抜いてこれを受けつつ、腰に巻いていた鞭を夏崇烈へ向けて放った。カキィンッ! 武器と武器とがぶつかり合う。

 夏崇烈は鞭を掴み取るや、勁を発しながら剣を一閃、鞭を断ち切る。

 ルヤンはその場を飛び退いた。そのままでは前後に敵を置いて不利になる。それぞれを前方に相手取る間合いを測り、たちまち剣光を散らして十数合を渡り合う。しかしこちらはただ一振りの剣、対するは三刃。加えて元の力量からしてルヤンは夏崇烈らに劣る。悪条件しか揃っていない。優勢など取れるはずもなく、ただただ追い詰められるばかりだ。


「武誠……!」

 大きく間合いを切りつつ、ルヤンは武山のそばへと駆け寄った。肩を掴みぐいと引き立てる。

「私が活路を開く。全力で走れ!」

 武山の返答など聞かずルヤンはまた前に飛び出し、追撃を仕掛けようとしていた夏崇烈らに猛攻を浴びせた。一瞬、夏崇烈らが押される。ルヤンが先程までと異なり、防御を捨てて全力を攻めに費やしているからだ。捨て身で繰り出される強力かつ連続した攻めにさしもの夏崇烈らも後退を余儀なくされる。

 そこに、ほんの僅かな道が開いた。今しかない! 武山は飛び込む勢いでその間隙を縫い、縄を垂らした窓縁に寄る。

「ルヤン、早く来い!」

 窓の外へ身を乗り出しながら武山が呼ぶ。だがルヤンは寄るどころかむしろ夏崇烈らを反対側へと押し込もうとしている。

「二人一緒には無理だ。武誠、先に行け」

 先も後も無いことはすぐにわかった。直後、夏崇烈の上段蹴りがルヤンの右手首を壁に叩きつけた。右腕ごと剣を封じた形だ。首を狙って振り込まれる夏崇烈の剣をルヤンは残された左手で受ける。手首を掴み膠着状態に入った。そこへ双短剣が脇腹を狙って伸びる。ルヤンに受けられようはずもない。


 なぜそんなことをしたのか、武山自身でもわからない。夏崇烈を討つのに協力したいとルヤンに申し出たとき、どうしてと問われたことを思い出す。武山の中には確たる理由などなかった。金も名誉も欲していない。ただ一つ、強いて理由を上げるならば――。


「ルヤァァァァァァァン!」


 持てる力のすべてを投じて、武山は双短剣を突き込もうとする男の腰へ組み付いた。だけでなく、その体を持ち上げる。抱き上げるようにしてラガーマンさながらに走った。一瞬だけでもいい。できるだけ長く、ルヤンの前から敵を減らすのだ。武山の頭にはそれしかない。

 両肩に灼熱の痛み。ルヤンに向けられていた短剣が武山の身を貫いたのだ。ぐっと呻く武山、だが離さない。止まらない。ついに二人の体は窓を突き破り外へと飛び出した。地上四階の空中へ!

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