悪人討伐

 ちん大人の邸宅は近しい位にある他の役人宅と比べても、二回りほど大きい。あくまで噂でしかなかったが、賄賂を頻繁にやり取りしているのだとまことしやかに語られていた。

 だったらその内のいくらか、こちらに分けてくれても差し支えあるまい――夏崇烈らはその夜、陳大人宅の門前に現れたのだった。


「こんなところにネズミが三匹も、よくぞ集まったものだ」

 さて今しも襲撃を始めようかとしたところ、ふと背後からそんな声が。夏崇烈らの驚くまいことか、振り返った瞬間、その胸元で何かが弾けた。ぼたぼたと滴る液体。色が付いている。

 向かいの屋根上に何者かがいる。見上げようとしたところで、また何か球体が投げつけられた。禿頭の男がそれを掴む、と、それは手中でぐにゃりと弾性を持って変形し、しかる後にはじけ飛んだ。中の色水が盛大にぶち撒けられる。


「あいつだ! 夏の兄貴、あのときの女だ!」

 まさしく、屋根上にいたのはルヤンである。嘲笑の笑みを浮かべつつ、ルヤンは次に爆竹を取り出した。右手を近づけると、ボッと音を発してその指先に火が灯る。夏崇烈らはもちろん、ライターという物の存在を知らない。幻術かと目を見張った一瞬が仇となる。ルヤンが放った爆竹はもう目の前にあった。


 パパパパパパパパパパパパパパンッ! 死者さえ目を醒ましかねない大音響!


「何事だ! 何の音だ!?」

「門の外だ。すぐに調べろ!」

 陳大人宅がにわかに騒然となる。そこへルヤンはさらに追い打ちをかけた。

「盗人だぁ! 捕まえろぉ!」


「小娘が!」

 即座に身を翻したルヤンを追って、夏崇烈らは屋上へ飛び上がる。三人とも身を軽くし自在に空を駆ける軽功けいこうの技には長けている。が、突然禿頭の男が体勢を崩して滑落した。夏崇烈ともう一人は目を丸くする。禿頭の兄弟は見かけによらず彼ら三人の中で最も軽功に優れるのに、その彼が足元を掬われるだと?


 夏崇烈はふと、その屋上の瓦がぬらぬらと光っていることに気づいた。触れてみればなるほどタネが割れた。屋上には洗剤がぶちまけられていたのだ。


「いたぞ、盗人だ! 捕らえろ!」

 陳宅の正門が開かれ、警備の者がわらわらと飛び出す。たちまち禿頭の男を押し包んでしまった。夏崇烈は血相を変えた。何だこの警備の多さは! 事前に調べていたよりも何倍も数がある。

「あの女か!」

 眼光から烈火を噴く勢いで吠える。これはあの女が何か仕組んだに違いない。よくも兄弟を、許すまじ!


「夏の兄貴、どうする?」

「牢破りなど容易いことだ。今はあのクソ女を斬り刻む!」

 後ろ髪を引かれながらも、夏崇烈とその義弟はルヤンの後を追った。さほど距離を置くことなく、間もなくルヤンはある楼閣の影に姿を消す。窓や戸口に板が打ち付けられ、廃業して久しい酒楼と見えた。


「裏へ回れ。俺は正面から行く」

 常に真正面から攻めるのが夏崇烈のやり方だ。二手に別れて挟撃を謀るにしても、正面を征くのはいつでも夏崇烈だった。


 駆け込む勢いのまま前蹴りを繰り出し、正面扉を蹴破る。――瞬間、背中に強襲を受けた。猛牛の突進かとさえ思える衝撃だ。攻撃されたのだと夏崇烈が認識したのは、吹っ飛んだ先の卓をひっくり返し、頭から粘性のある何かを被ってからだった。

 一体何が――痛む腰を押さえながら振り返れば、戸口に梁のような横木が一本、両端を縄に括られ揺れている。扉を開ければひさしに隠したあれが槌の一撃を放つよう仕掛けられていたのだ。


「その服、良い色だな」


 階上から声。出処を探れば、扉向かいの二階の回廊にルヤンの姿がある。

「まだら模様も似合うじゃないか」

 言われて己の体を見下ろす。なんという事だ、真紅の衣が青黄緑その他様々な色に塗り潰され、見るも無残な有様だ。擦ってみてもまったく落ちない。それもそのはず、夏崇烈が浴びたのはペンキだ。落ちるわけがない。


 夏崇烈は常に真紅の衣を纏う。この白髯と紅衣を見れば、誰しも震え上がったものだ。すなわち、それは夏崇烈にとっての旗印、余人が畏怖すべき象徴であった。

 それを汚された。夏崇烈の自尊心を、真っ向から踏みつけにした。赦されることではない。赦してなるものか!


 大喝一声、夏崇烈は階段を駆け上がり回廊に飛び込む。真正面にルヤンの姿を捉え――その視線は一瞬で遥か下方に落ちた。いや違う、夏崇烈の体ごと、もっと正確にはその床板ごと、真下に落ちたのだ。階段を上った先の床は木材ではなく茶色に塗った発泡スチロールに挿げ替えられていた。

 一階に背中から叩きつけられた瞬間、もうもうと粉塵が巻き上がった。落下地点には大量の小麦粉が敷かれていたのだ。まだら模様だった衣は一転、今度は真っ白に染まった。ただでさえ怒り心頭に発していた夏崇烈は、己の怒りにはまだ先があることを知ることとなる。


 頭上で足音。ルヤンが中庭側へ出たのだ。夏崇烈は一挙動で立ち上がり、こちらもまた中庭へ続く扉を越え――瞬時に後ろを振り向いた。また正面扉と同じ仕掛けがないか警戒したのだ。が、何も襲ってこない。杞憂だったかと安堵しながら後ろ向きのまま踏み出す。

 その足を取られた。何も存在しないはずだったのに、何かに引っ掛けられたのだ。まさかこの世にこれほど細く、これほど強靭な糸が存在するなど夏崇烈は思いもしない。当然だ。足首を狙って仕掛けられたその糸は異界より持ち込まれたものなのだから。加えて粉塵に包まれた中ではもはや目視など不可能である。

 咄嗟に両手を壁に突いて転倒を逃れようとしたが、粉まみれの手の平では摩擦が足りない。するりと滑った。背中から倒れこんだ夏崇烈の体は、今度はひとりでに中庭へと突進する。夏崇烈の体が乗ったのは床ではなく、滑車を備えた荷台だったのである。


「おおおおおおおおおおっ!?」


 あまりの不測の事態に夏崇烈は為す術もない。鮮魚か何かのような扱いのまま欄干を外された廊下を瞬く間に飛び越える。その先に待ち構えていたのは、池だ。しかしここは廃業されて久しい酒楼、池を満たすのは清水ではなく汚泥である。夏崇烈はその中へと放り出されたのだ。


「滑稽だね、実に滑稽だ! 夏崇烈、お前、泳ぎは苦手だったかい?」

 夏崇烈は全身余すところなく泥まみれで、もはや容貌の判別すらつかない有様。それをルヤンは正面から眺められるよう回廊の先へ回り込み、わざわざ手を叩いて囃し立てる。夏崇烈が罵詈雑言を浴びせてやろうと口を開きかけたその瞬間、奥の部屋から爆音と爆炎が生じた。耳を聾するほどの音量、目を焼くほどの光量だ。一体何が起こったのだ? 夏崇烈は息を呑んで言葉も出ない。


「あんたの弟分は丸焼きになったみたいだ。あっちは加減がわからなくてね、やり過ぎだったかな? まあ、死んだところで私にはどっちでもいいけど」

 夏崇烈はもちろん、裏口から侵入した弟分がブービートラップで服に火を点けられ、慌てて目の前にあったガソリンを張った鼎に飛び込んで自爆させられたとは知りようもない。だが、自分たちが虚仮にされているということだけは理解した。この酒楼には幾多数多の罠が仕掛けられている。すべてあの女の陰謀だ!


 殺す。

 顔面に貼り付いた泥を引き剥がし、夏崇烈は誓った。

 必ず、殺してやる。

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