やんちゃな女侠客

 武山たけやままことがそれを手に入れたのは、幼少期からの長い長い上海生活を終え、日本へ渡ろうとしていた数週間前のことだった。ふらりと立ち寄った骨董品店。その片隅でほこりを被っていた箱の中に、それはあった。

 店主はいかにも風変わりな老婆で、武山がその箱を見せると「ようやくそれを見つけ出す奴が現れたか」などと言ったものだ。店主曰く「この環は世界を繋ぐ力を有している」云々とのことだったが、頭のネジが緩んでいるのかと思ってろくに話も聞かず、とりあえず気に入ったから売ってくれと言って買い取った。店主はそれを「遁甲とんこう金環きんかん」と呼んだ。


 世界を繋ぐ力――そんなものはバカバカしいと思いつつ、ある日ほんの冗談のつもりで店主から教えられた口訣こうけつを唱えた。するとどうだ、本当に異界への門が開いてしまったのだ。

 それだけ聞けば実に狂った話なのだが、事実なのだからどうしようもない。試しに足を踏み入れてみれば、そこは中国在住のころに見た歴史ドラマのような世界で、話す言葉も食べ物も似通っている。唯一の明らかな違いといえば天に二つ並んだ月だ。

 以来、武山は時折そちらの世界を訪ねては、その風光明媚な景色を眺めたり、旨い料理と酒に舌鼓を打ったりして気晴らしをしていたのである。


 それがまさか、刀剣を携えた者に迫られ、怪我をした少女を連れ帰る事態になろうとは。


 金環の門を抜け、武山は何とか命の危機を脱してこちらの世界へと帰還した。ついでに、怪我を負った少女を抱えて。最前は死んだかと焦ったものだが、意外にも彼女は数分もせずに息を吹き返した。思ったよりも傷が浅い、と言うよりも、思ったより少女の体が丈夫であったようだ。


 少女はヤンと名乗った。あちらの世界ではこよみの読みこそ違えど、季節の区切りは同じ。それに従えば歳は十九だと言う。しかし職業は歳にも見た目にも不相応な、賞金稼ぎだった。今回は下調べであの紅衣白髯の猛者、崇烈しゅうれつを探りに行ったが、気取られてしまいあのような窮地に陥ったのだと。


 ベッドの上で包帯だらけとなったルヤンは居住まいを正し、頭を下げた。

武誠ウーチャンがいなければ私はあの場で死んでいた。礼を言う」

「礼なんて、そんな! ……君のいる世界ではどうか知らないけど、こっちの世界じゃ男が女を守るのは当然のことなんだ」

 最近はそんな必要もないほどに女も強いけど、とは心の中だけに留めておく。実際のところ武山としてもそんな考えは前時代的と思うが、照れ隠しにはちょうど良かろう。

「へぇ、こっちは随分と優しい世界なんだな」

 感心したようにルヤンは微笑む。武山はいたたまれなくなってまた視線を逸らし、血を拭ったタオルをゴミ箱に放り込んだ。


 武誠とは武山があちらの世界で問われた際に名乗る名前で、また二人の会話は中国語だ。武山は日本に移り住んで以来あまり中国語を話す機会はなかったが、あちらとの行き来が頻繁になってからはある程度勘を取り戻していた。


 傷の応急処置はルヤン自身が施した。さて一通りの処置が終わると、ルヤンは早速元の世界へ戻りたいと言う。また夏崇烈に挑むつもりなのは明らかだ。ゆえに、武山は頭を振って遁甲金環を木箱へ仕舞った。

「いくら何でも、あいつらが境界を越えてこちらまで追ってくることはあり得ない。君とその夏崇烈とやらの因縁は詳しく知らないけれど、しっかり傷を治してから挑むのが得策じゃないかな」

「そんな! その間にも夏崇烈はまた悪事を働く。それに、あいつは私の仇でもある!」

「だったらなおのこと。そうだろ?」

 これにはルヤンもしばらく思案していたようだが、ややあってから諦めたように息を吐いたのだった。

「武誠の言う通りだ。そうさせてもらう」


 男女の別を語るなら、二人が同じ屋根の下で夜を過ごすのは些かマズいものがある。しかし周囲に適当な宿泊施設などないし、怪我人を一人にするのも何かあった場合を考えると不安だ。ただ幸いにも、武山は一年ほど前に住まいを移したばかりだった。以前のような六畳一間では自分以外の誰かを入れる余裕はなかっただろう。

 ルヤンを寝室に寝かせ、武山は扉一枚隔てたダイニングの床に寝ることにした。


 さて、翌朝。武山は肌寒さを覚えて目を覚ました。なぜダイニングの床に寝ているのか、その理由はすぐに思い出す。枕元に置いていた携帯電話を引き寄せれば、時刻はまだ午前五時、早すぎだ。しかし二度寝するよりもこの身を切るような冷たさが勝る。フローリングに毛布を敷布団代わりにしただけでは足りなかったか。諦めて身を起こし、寝ぼけ眼を擦りながら洗面所で顔を洗う。そういえばルヤンはまだ寝ているのだろうか。顔を拭きながら洗面所を出て、ふと肌に触れた空気の流れに視線を向ける。そういえばこの風はどこから……。

 直後、武山の頭は冷水よりも鮮烈に覚醒した。なぜだ、どうして、玄関のドアが消失しているのか!?


 瞬間、頭に閃いた可能性を確認するために寝室の扉を開ける。遠慮もなく、勢いよく開け放った。そして案の定と言うべきか、そこにあったのはもぬけの殻のベッドであった。


「ルヤァァァァァァァン!?」


 靴を引っ掛け飛び出す。強引に剥がされたドアは廊下の壁に申し訳程度に立てかけられていた。それを元の形に近いように戻して、武山はアパートの周辺を走り回った。ルヤンがじっとしていられないタイプの人間とは薄々感じていたが、まさかこんなことになるとは! こちらの世界の鍵機構は彼女にとって未知のモノ、理解しがたいのはわかる。が、わざわざドアを外してしまうかね!?


 まもなく武山は最寄りの公園でルヤンを見つけた。瞬間、卒倒するかと思った。ルヤンはどうやら武術の型を演じているらしかった。それは武術を知らない武山にもわかる。だが、しかし。その手には抜き身の短刀があったのだ!

「あ、武誠。おはよー!」

 こちらに気づき呑気に挨拶してくるルヤンの腕を取り、武山は誰にも見られていないことを確認しながらアパートへ駆け戻った。早朝というこの時間帯が不幸中の幸いだ。一体何事かと目を丸くしているルヤンに、武山は努めて冷静にこちらの状況を伝えた。


「いいか、ルヤン。君の世界では武術の鍛錬なんて当たり前のことなんだろうけれど、こちらはそうじゃない。ましてや武器を振るうのは本当にマズい! 人に見つかったら警察……憲兵がやってきて捕まってしまうんだ」

 これにはルヤンも晴天の霹靂だ。

「それでは皆、どこで武芸を磨くんだ?」

「この世界じゃ物好き以外武術なんてやらないんだよ! 特に人前では絶対にやらないんだよ!」

 中国や台湾では太極拳をやる集団もあるだろうが、ここ日本ではまず馴染みのないことだ。それどころか公園のような人目に付く場所で型でも演じようものなら、下手すれば不審人物として通報もされかねない国なのだ。ましてや武器など!

 それはルヤンにとって意外どころか、理解不能だったのだろう。しばし呆然としていたが、ふと閃いたように手を打った。

「そうか、技を盗まれては困るものな! それは納得だ!」

 こちらの言い分はまったく正しく伝わっていないようだが、武山は諦めてそういうことにしておいた。


 週末を異世界訪問に費やした武山は、今日はこちらで一般人として仕事に励まなければならない。予期せず早起きをしたおかげで時間はある。武山は朝食を作りつつルヤンにこちらでの過ごし方を教えた。もっとも、それは下手に出歩かず、部屋の中で静かに過ごせというだけであったが。

「確かに私は怪我人だけど、日がな一日寝て過ごすなんて拷問に等しいよ。こんな狭い部屋じゃ練功たんれんもできないし」

 狭くて悪かったな、あと怪我人は大人しくしていてくれ。心中でぼやきつつ、武山はテレビのリモコンを手にした。ポチっと電源を入れる。それまで沈黙していた四角い枠が突然映像を映し出したので、ルヤンは目玉が飛び出さんばかりに驚いている。

「うえぇぇぇぇ!? なんだこれ、玻璃ガラスの中を人間が動いてる!? え、どうなってんのこれ?」

 笑いたいのを堪えつつ、チャンネル変更ボタンを連打して映画専門チャンネルに切り替える。折よくアジア映画特集などやっている。カンフー映画が盛りだくさんだ。これならルヤンも楽しめるだろう。

「色々な故事ストーリーが楽しめる絵巻物みたいなものだよ。操作方法はここをこう……聞いてる?」

 ルヤンの視線は早くもテレビに釘付けだ。ちゃんと離れて見るんだぞ、とだけ言い残し、武山はアパートを出た。

 ……ドアの修理は後で業者に電話することにした。


 その日は早々に仕事を切り上げて帰った。珍しく早退したいと言ったところ上司に理由を問われたが、「上京してきた妹が風邪をひいたから」などとそれらしい嘘をでっち上げた。

 薬局で昨夜足りなかった医薬品を買い足し、帰路につく。すると今朝ルヤンを見つけた公園に人だかりができているのを見つけた。周囲を囲むフェンス越しに、十人からの人間が中を覗き込んでいる。

 ――嫌な予感がした。慌てて駆け寄り人垣の後ろから公園内を覗き込む。そして、案の定と言うべきか。そこに見たのは凄まじい速度で武術の型を演じるルヤンだった!


「ルヤァァァァァァァン!?」


 叫んでしまってから、己の過ちを悟る。彼女に集中していた視線が一気に自分に集まったのを悟り、武山は慌てて公園に駆け込んだ。「あ、武誠!」と声をかけてくるルヤンの手を取り、全速力でアパートに駆け戻る。おかしい、今朝も同じようなことがあった気もするのだが。違うのは背中に感じる痛いほどの視線だけだ!


「何してんのぉ!? 部屋で大人しくしていろって言ったよね!?」

 武山の動揺を知ってか知らずか、ルヤンは満面の笑みに興奮した様子で武山の肩を逆に掴み返し激しく揺すった。

「あの玻璃の板、すごいんだ! 何人もの達人が絶技ばっかり繰り出して! 酔っ払いが酒を呑みながら戦ったり、ボールを蹴ったら芝生の大地を根こそぎ吹っ飛ばしたり! あれは一体どんな流派なんだ? 型取りしたくても十の二、三しかできやしない!」

 ああなるほど、そういうことか! 武山は心中深く納得した。つまり、ルヤンはカンフー映画に影響されてその真似事を演じていたわけだ。武山は何とも言葉に詰まった。誰しも少年時代に似たような経験があるはずだ。彼女を責めるのは難しい。

「あれは作り物の映像だよ。実際に存在するわけじゃないし、誇張ばっかりさ」

 ひとまず現実を教えて落ち着かせようと試みるが、ルヤンは興奮醒めやらぬ様子でテレビの前に舞い戻った。電源の切り方がわからなかったのだろう、点けっ放しだ。放送されていたのは少年が武術の達人に教えを乞うていじめっ子と勝負する映画、のリメイク。食い入る、の表現そのものといった態である。離れて視るようにとの言葉はやはり聞こえていなかったらしい。アジア映画枠の後は往年の名作が目白押しだったようだ。武山が好きな「子供が知恵と度胸で大人の悪党を懲らしめる」映画もある。残念、仕事がなければ観たかった。


「――武誠」

「うん?」

 諦めて夕飯の支度を始めた武山へ、ルヤンは画面を凝視したまま言った。

「こちらの世界は夢のようだ。こんなにも凄い武功わざを、いくらでも、こんなに間近で見られるだなんて」

「言っただろ。それは作り物だって」

「だとしても。すごいものはすごいんだ」

 ちらりと視線を向けてみれば、ちょうどルヤンもこちらを振り向いていた。にかっ、とはにかむ。

「武誠の言う通り、しばらくは療養に専念するよ。もっともっと、達人の技を見たいんだ」

 武山はもう一度、それは作り物だと言いかけた。が、ルヤンが血気にはやらないならそれでも良いと思えた。そうか、とだけ返して夕飯作りに取り掛かる。


 棚上げだ。――心中毒吐いた。これは、棚上げに他ならない。友人からの誘いに対する返答を遅らせている。それと何の変わりがある?

 彼女があちらへ帰る日を一日でも長く伸ばせるなら何でもいい。いつか来るその日を棚上げにできるなら、何だって準備しよう。できることなら、永遠に。


「――バカだな、俺は」

「え、何?」

 自嘲の呟きは日本語だったため、ルヤンには聞き取れない。武山は何でもないと返して心中頭を振る。


(自分の人生に悩んでいる俺が、他人の人生に干渉しようだなんて、滑稽にもほどがある。ルヤンはルヤンで進むべき道を決める。彼女が帰りたいと言ったその日が、彼女を返す時だ)

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