双月の大英雄
古月
二つの月の下
燦然と輝く二つの月を眺めながら、男は深く息を吐いた。
視界を遮る物の何もない
もう一度息を吐く。憂えているのではない、困憊しているのでもない。心が解き放たれ、体が緩むからこそ漏れる息だ。
――今なら、答えを出せるかもしれない。
男はふとそう考え、衣服の襟の合間から手を差し入れて、二つの品を取り出した。一つは携帯電話、もう一つは色褪せた金環だ。金環の方は、今は関係ない。そちらはまた懐に仕舞って、もう一方の手で携帯電話の画面を点ける。
画面に表示したのは昼間に届いた一件のメール。送信元は大学から付き合いのある友人だ。
『例の件、考えてくれたか?』
内容はそれだけ。それだけだが、彼を深く悩ませるには十分な一文だった。彼は随分長いことこの問いかけにどう返すべきか悩んでいた。
友人が言っているのは、起業の話だ。件の友人が非凡な才覚を有していることは十分承知しているし、事業計画を聞いた限りでもなかなかに面白そうな内容だった。
いい加減にそろそろ返事を送るべきだ。それはわかっているのだが、未だ心は決め兼ねている。どう答えるべきか。どうするべきか。
「別に、やりたくないわけじゃないんだ」
それなりの仕事をこなし、それなりの成績を上げ、それなりに充実した生活を送る。今はそれで満足している。幸いにして努めている会社はいわゆるブラックでもなく、市場はなかなかに安定している。このまま定年を迎えるまで安泰でいられる確率は高い。
反面、日々に退屈しているかと問われれば、そうだと答えるだろう。もっと楽しいことを、前のめりになって取り組めることに人生を費やしたいとも思う。
平々凡々のまま今の安定を保つか、あるいは賭けにも等しい綱渡りに挑むか。
しばらく青光りする画面を見つめ、やがて腕を降ろす。目の前には二つの月。こちらが現代の日本ではないと示す記号の一つだ。男は指先を掲げて左の月を指差した。こちらが今の生活。そして右の月、こちらが新しい生活。この後もし、これら二つの月のどちらかに変化があれば、そちらを選んでみようか……。
苦笑が漏れる。やれやれ、己の人生をそんな運任せに委ねるほど思考力をすり減らしてしまったか。しかし悩んでも悩んでも答えが出ないなら、そんなくだらない方法もありかも知れない。もっとも、いくらここが異世界だからとて、天上の月に異変が起こるなんてあり得ることではないが。
そう思った瞬間、月が消えた。一切の光が消えた。ぎょっとした。何が起こったのだ? 目を見開いた時にはもうすでに、月も星もまた元通りに夜空に舞い戻っていた。いや、違う。月も星も消え去ったりはしていない。何者かが頭上を飛び越えたのだ。
「殺暸她!(殺せ!)」
慌てて上体を起こせば、両脇を何者かが物騒な言葉と共に駆けて行く。瞬間、どっと冷や汗が噴き出る。そんなまさか。街で聞いた限りでは、この周辺に住む者は居らず、盗賊の類も出ないはずだ。これはいったい何事だ?
間もなく、チィンと金属音が響き始めた。茣蓙を放り出し、腰を低く葦の背を越えないようにしながらそちらへ近づく。本来ならば気づかれないうちに逃走すべきところだろうが、今の彼の頭には状況を把握したい欲求の方が勝っていたのである。
葦をかき分けて覗き見れば、月下に飛び交う人影が二つ。一方は肩幅の広い体躯に禿頭、手には幅広短柄の大刀。もう一方は全身をすっぽりと黒衣に包み、細身で月光を背に負いながら跳躍しつつ、左手で鞭を繰っている。腰に一振りの剣を提げているようだったが、そちらは引き抜かれていない。なぜなら右腕はだらりと下げられており、怪我を負っているのが明らかであるからだ。
鞭が唸り、大刀を持った男を強襲する。が、男は鞭を弾き返しながら距離を詰める。伸ばした手が黒衣の端を掴んだ。ぐいと空中にあるその体を引き寄せながら、大刀の先端を突き入れる。黒衣の人物はしかしその大刀の背を蹴ってさらに跳躍、禿頭の直上を飛び越えた。ビリィ! 大刀によって黒衣が斬り裂かれた。
あっ、と思わず声が漏れる。一つは黒衣を脱ぎ捨てたその人物が眼前に着地したため。そしてもう一つは、黒衣の下から現れたその姿が、横顔が、年若い少女であったためだ。すらりと伸びた手足はやや日に焼けた褐色、その肌が見えたのは衣装が腰と胸回り周辺しか覆っていない布地の少ない造りであるため。頭の後ろで結った長髪は赤銅の輝き。そしてこちらの声に気づいて驚愕した瞳は黒真珠と見紛うかのような光彩を放っていた。
一瞬見惚れかけた視界の端で、大刀を持ったのとは別の男が腕を振り被っているのが見えた。
「小心!(気を付けろ!)」
思わず言葉が喉を突いて出た。少女が振り返る。男の手から何かが風を斬って飛び出した。鞭が唸る。パァン、と音を発して一つを叩き落したが、
「還有一個人。殺!(もう一人いるぞ。殺せ!)」
マズい。男はようやく自身の過ちを悟る。もっと早くに逃げていたら、うっかり声を発していなければ、彼らはこちらに気づかなかっただろう。だがもはや存在は露見した。そして、彼らは少女もろともに自分を殺すつもりだ。
「你殺臭丫頭,我殺暸他(くそアマを殺せ、俺が奴を殺る)」
手裏剣を投げた男が大刀を持った男に言う。大刀を持った男はこくりと頷き、裂帛の気合と共に少女へと襲い掛かった。その横をすり抜けるようにして、投擲を仕掛けた男は両手に短剣を引き抜き接近する。
この展開に男は飛び上がるほどに驚き、動転した。慌てて逃げ出そうとするも足が絡んで転倒してしまう。
「や、やめろ! 不要杀我! 我不会武术,救命啊!(殺さないでくれ! 俺は武術なんてできないんだ、助けてくれ!)」
そんな言葉を叫んだところで、殺戮者が聞く耳を持とうはずもない。二つの銀光がみるみるうちに迫る。もうダメか! 押し退けるように両腕を前に突き出しながら、彼は目を閉じた。いや、閉じようとした。
地面が爆ぜ、双短剣の凶手が急停止する。少女の鞭がその進行を阻んだのである。少女は返す鞭で自身に斬撃を放とうとしていた禿頭の男の手首を打つ。ぐっと呻いてその手が大刀を取り落とした。その隙に少女は身を翻し、無様に尻を突きながら無意味に伸べられたその手を取る。その背後から飛び掛かろうとした双短剣の男の足目がけて鞭を放り投げる。足元を絡められて相手は転倒した。
「快跑!(逃げろ!)」
引き摺られるようにしてようやく走り出す。最初はまた足が縺れそうになったが、追手から距離が開いたことで心に若干の余裕ができ、速度が出る。すると次第に耳元でビュウビュウと風が唸り始め、足が宙に浮き始めた。男はまた仰天した。
「すごい、すごい! これが
「甚麼?(なんだって?)」
少女がそう言って振り向いたときだった。シャッ、と旋風が吹きつけ、二人は一瞬にして地面に転がった。すでに草原を抜け、森の奥深くへ入っている。ゴロゴロと転がった男は岩壁に体を打ち付けてようやく止まった。
「啊啊啊啊啊……!」
少女が呻いている。その左肩に短い矢が突き刺さっているではないか! 先ほどの旋風、急激な失速はあれが原因だ。少女は左腕で何とかそれを掴むと、力任せに引き抜いた。ガタガタと体が震え、大地にぽつぽつと紅の花が咲く。男は咄嗟に駆け寄ろうとして、しかしびくりと体を硬直させる。少女もまた弾かれたように立ち上がり、腰の剣を左手で引き抜いた。
「夏崇烈,是你……!(
少女が憎々しげに闇へ問う。その中から草木を踏みしだいて姿を現したのは、烈火を思わせる深紅の衣装、白髪白髯の老いた男。しかしその全身からは煌々と覇者の威風が発せられ、気圧された男には息さえ詰まるかと思われた。
夏崇烈、というのがその者の名だろう。その灰色の眼光はまず少女を見据え、次に大地にへばっている男を見、そして侮蔑の色も顕わにまた少女へ向き直る。
「對,我就是夏崇烈。――然後呢?(そうだ、俺こそが夏崇烈だ。――それで?)」
「我殺暸你!(殺してやる!)」
少女は目を爛爛と光らせ、怪鳥の如き気合と共に夏崇烈へと飛び掛かった。その頭部へ斜めに剣を送り込む。夏崇烈は微動だにしない。あと数寸!
だがその瞬間、少女の手から剣が弾け飛んだ。斜めに飛び出した剣は回転しながら飛翔し、一本の木にドスンと突き刺さる。武器を失った少女は何が起こったか把握するより先にその場を飛び退く。いや、飛び退こうとした。地を蹴ったその直後、夏崇烈の背後から何かが飛び出し、少女の胸の真中を
「危ない!」
落下する少女の体を何とか男は受け止めた。おい、大丈夫か? 体を揺すって問いかけるものの、反応はない。まさか……まさか死んでしまったのか? 男はいよいよ体を硬直させ、奥歯を鳴らした。彼女が死んだなら、次は? 次は誰が死ぬ? 誰が殺される!?
夏崇烈の背後から二つの影が現れる。先ほど草原で襲ってきた禿頭と短剣の二人だ。短剣を操っていた男の手には、今は少女が使っていた鞭が握られている。先ほど剣を弾き飛ばしたのも、少女を打ったのもこれだ。三人は揃ってこちらへ歩みを進める。
「救命,救命啊……!(助けて、助けてくれ……!)」
「救命? 哈哈哈,那我讓給你選。――你先死,還是她先死?(助けてくれだと? ハハハ、ならば選ばせてやろう。――お前とその女、どちらが先に死ぬ?)」
元より彼らに慈悲の心など期待できるはずがない。それはわかりきっていたことであったはずなのに、救いを求めた己がバカであったと男は後悔した。
一体何を間違えたのだろう? 友人の誘いに対する答えを早々に決めなかったことが元凶だろうか。あれに対する返答を悩まなければ、今日この日こちらの世界へ渡って来ることはなかった。この少女に出会うことも、今目の前に立ちはだかる悪漢どもと遭遇することはなかった。――ああ! 俺はこの異界の地で、名も知らぬ少女と共に、名も知らぬ相手に殺されて死ぬのか!
ブーッ、ブーッ、ブーッ。
ふと、胸元で何かが震えた。はたと思い出す。星空を眺めたまま眠りこまないよう、こちらの世界に長居してしまわないよう、携帯電話にアラームを仕掛けていた。これが鳴ったら、元の世界へ帰るのだと。何があっても元の世界に帰るのだと。それがいつもの習慣だった。
何があっても、どころではない。今がまさに、帰るべき時なのだ!
悪漢たちとはまだ距離がある。男は懐から例の色褪せた金環を取り出した。あちらに見えないよう、少女の背中に隠すようにしながら口元に寄せる。ぶつぶつと小さく何事かを呟く。
ピクリ、先頭を行く夏崇烈の眉が動いた。
「你做甚麼!(何をしている!)」
こちらの動きを気取られた! だが、
刹那、閃光が走る。昼と見紛うほどの煌々たる光。真正面からその光を受けた夏崇烈らは一様に目を押さえて後退する。あまりに強すぎる光は一時的に視力を奪う。しかもこの夜闇に目を慣らしていたのも仇になった。
忽然と光が消え失せ、夏崇烈はようやく目を開いた。しかしそこにはもはや、誰の姿も無かったのである。
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