第10話


 あいつの話はいつかしないといけないと、ずっと思っていた。けれど、こんなことをきっかけにだなんて、夢にも思っていなかったよ。

 あいつが昨日、刺された。

 あいつは今では世界的に有名なギタリストで、アーティストだ。けれど、俺と出会った頃は、そこら辺にいるただのガキだったよ。と言っても、俺とは三つしか変わらないんだけどな。

 あの日の俺はいつものようにここで、ギターを弾いていたんだ。聞き屋の仕事はまだ、本格的にはしていなかった。まぁ、いくつかの依頼を解決し、報酬も得てはいたんだが、言ってしまえば副業ってところだったんだよ。俺自身では、ストリートミュージシャンを気取っていたからな。

 あんたさ、なかなかいい感じじゃん。

 曲が終わり、一息ついていると、あいつがそう言って話しかけてきたんだ。俺はそっと壁にギターを立てかけ、腰を降ろした。あいつは俺の前に向かい合って腰を降ろしたよ。

 今の曲はあんたが作ったの? 気持ち悪い曲だよ。今まで聞いたことがないからな。俺は好きだけどさ、ここじゃウケないっしょ。

 あいつはまだ、高校生だったはずだよ。今と変わらない口調は、ちょっとばかり生意気だな。

 ちょっといいかな?

 あいつはそう言って、俺のギターに手を伸ばした。普段の俺なら絶対に断るんだが、あいつには不思議な魅力があるんだよ。俺は黙って、あいつの行動を見守った。

 いいよなぁ。ギターが弾けるとさ、カッコいいじゃん! こんな感じだったか? おぉー! いいじゃんいいじゃん!

 正直、驚いたな。あいつは俺の曲を一度聞いただけだったんだ。完璧とは言えないが、なんとなく形にはなっていたよ。コードの押さえ方なんかはめちゃくちゃなのに、それっぽく聞こえるんだから凄いよな。

 家にギターとかあるのか?

 俺の質問に、あいつは答えなかった。ただ夢中になってギターをかき鳴らしていた。悔しいよな。俺の演奏に足を止める人は少ないのに、あいつの演奏には、めちゃくちゃなその演奏にもかかわらず、多くの人が足を止めて眺めていたんだ。

 ギターって、こんな感じなんだな。あいつはそう言って、ギターを壁に立てかけた。また来るよ。そう言ったあいつの顔は、とても満足気だった。

 俺はその日、ギターを弾かなかったよ。あいつが弾く姿が頭から離れなかったんだ。俺が弾くことで、その余韻を崩してしまうのが怖かったんだ。あいつの音色は、俺の頭の中だけでなく、この街全体に浸透していたからな。

 次の日もまた、あいつは俺の前に現れる。ギターを勝手に弾き、勝手に帰っていく。週に三日は来ていたはずだ。そんな毎日が、何ヶ月か続いたんじゃないかな。あいつの腕前は見る間もなく上達し、俺は聞き屋としての仕事で忙しくなり始めていた。あの頃の俺は、ギターを手に取る時間なんてほとんどなかったな。今よりも忙しく、まさに聞き屋の名をこの街に売り込んでいる最中だったんだよ。まぁ、俺がそうと意識をしていたわけじゃないんだけどな。

 家でも練習しているのか?

 俺があいつにそう聞いた。あいつは頷いた。当たり前だろと、言いたげだったな。少しばかり不満げでもあったよ。きっとあいつには、練習をしているっていう感覚がないんだよ。あいつにとってギターを弾くことは、歯磨きと同じなんだよ。いいや、それはちょっと違うかもな。歯磨きをさぼるやつは多いからな。あいつにとっては小便と同じってことだ。溜まった感情が溢れ出すんだよ。それを抑えることなんてできっこない。まさに小便だな。

 それにしても、上達が早いな。俺より上手だよ。なによりお前は、ギターに好かれている。羨ましい限りだよ。

 そうかな? なんてあいつは嬉しそうに笑った。

 家ではどんなギターを使っているんだ?

 あいつは俺の問いに、一瞬空気を止め、難しい表情を作った。

 ギターは持ってないって言ったろ? あいつは少し、イラッとしていたな。

 だったらどんな練習をしているんだ? 当然の質問だよな。

 こうやってさ、右腕をネックに見立てて左手の練習をしたりさ、 ハンドクリップで指を動かしたりもしているよ。右手の練習は難しいよな。輪ゴムで作った自家製器具で練習しているんだよ。指でも弾いているけどさ、自家製のプラスティックピックを使っても練習しているんだ。

 そう言ってあいつは、ポケットから自家製ピックを取り出した。それを使って曲を奏でた。聞いたことのない曲だった。とても心地よい曲だ。俺はあいつが満足するまで、静かに耳を傾けていたよ。今でも一番好きな曲だ。残念だけど、代表曲ではないな。静かなあいつが、俺は好きなんだ。激しいあいつよりも、あいつらしさを感じられる。

 俺が作ったんだけど、どうかな? 家で考えていたのとちょっとイメージが違うけど・・・・ なんて奴だと思ったよ。ギターが家にないのに、ギターの曲を作ったんだ。俺は勝手に想像していた。あいつの家にはピアノかなにかの楽器があるんだってね。ベースかマンドリン? そんなことも考えたくらいだ。けれどあいつは言ったよ。家に楽器なんてないってさ。

 俺がギターを弾いて歌を歌っても、喜ぶ誰かは少ない。けれどあいつの場合は違う。耳にした全ての人が、喜ぶんだ。立ち止まらない者もいるが、それはただ忙しいだけで、心が喜んでいるのを見て取れる。あいつの曲は、誰もが心を震わせるんだ。

 あいつが来ると、人が集まる。俺が歌っても、あまり集まらない。悔しいけれど、それが現実だった。あいつは、すでに十数曲のオリジナルを完成させていた。あれだけのギターを弾きながら、歌まで歌うんだからな。あいつはまさに天才で、噂はプロの世界にまで伝わっていた。そして、事件が起きた。と言っても、俺とあいつとの間の、今へと繋がる小さな事件だ。

 ライヴが決まったんだけどさ、あんたも来るか? チケット代を払えなんて言わないからさ、心配はするなって。

 あいつにそう言われ、俺は複雑だった。その日は娘の誕生日だったんだ。どっちが大切だって言われれば、間違いなく娘だと答えるが、迷ったのは事実だ。俺はあいつに曖昧な返事をしてしまった。正直に言えば良かったのに、言えずに言葉を濁したんだ。しかもあいつが帰った後、突発的な事件が起きた。俺はギターを置き去りに、この街を走り回った。この街じゃまぁ、よくあることだ。万引き、喰い逃げ、引っ手繰り。そんな奴を追っかけて捕まえるのも、結構大事な仕事だったりするんだよ。そういうことの積み重ねで、街からの信頼を得るんだ。

 俺が戻ったとき、ここにギターはなかった。ギターケースだけは、相変わらずそこに立っていたよ。俺の帽子を被ってな。驚いたけど、不思議と腹は立たなかった。なんとなくだが、犯人は分かっていた。あいつなら仕方がない。次の日のライヴで使うんだなと、勝手に想像していたよ。

 次の日俺は、ギターなしで初めてここに座ったんだ。どこでライヴをするのか聞いていなかったから、きっとギターのことをついでに、あいつが顔を出すと考えていた。けれどあいつは、来なかった。俺はそれ以来、あいつとは会っていない。あいつは有名人になったから、俺はよく顔を見ている。あいつも俺の噂を聞いているようで、人伝いに言葉を交わすことはたまにある。俺とあいつは離れている時間の方がうんと長いが、まるで兄弟のような繋がりを持っているんだ。一緒にいた時間が短いにも関わらずな。だから俺は、今回の事件には、自ら首を突っ込んでいくんだよ。

俺はふと、置きっ放しにしていたギターケースに目を向けた。なにかの予感があったんだな。中を開けると、あいつからのメモと、チケットが一枚、入っていたよ。

 案外に綺麗な字だったな。ギターは俺が取り返しておく。明日は絶対観に来いよな。そんなことが書かれていたよ。すぐには意味がわからなかったが、そういうことだ。盗んだのはあいつじゃないってことだ。チケットを渡すつもりだったんだろうな。俺が走り回っている間にここに来て、偶然ギターが盗まれる現場を目撃したんだ。どうしてケースを持っていかなかったのかは、その時点の俺にはわからなかった。あいつが余裕綽々でメモを取った理由もな。

 俺はすぐに家に帰ったよ。妻に説明をして、誕生日の娘を連れてライヴを観に行った。娘はまだ幼かったが、音楽が好きでね、俺はそういう場所に連れて行くのを楽しみにしていたんだ。残念ながら長男は、その日熱を出していた。言っちゃ悪いがちょうど良かった。チケットは一枚だった。未就学児は無料と言っても、普通は保護者一人に子供一人だろ? 心配しなくてもいい。その後、息子も連れて何度もライヴを観に行っているからな。もちろん自腹でだよ。楽屋なんかを尋ねたりはしない。俺は純粋に、あいつの音楽を楽しみに行っているだけだからな。友として会いに行っているのとはちょっと意味が違うんだ。

 あいつのライヴは、素晴らしかったよ。たった一人で、俺のギターを抱えて歌っていた。 ここで歌っている姿と同じだよ。あいつの基本はここなんだって感じて、嬉しかったな。あいつは今でも、どんなに大きなステージに立っても、ここでのときと同じように堂々としている。

 初ライブだっていうのに、客は千人近く、チケットはソールドアウトだってさ。ダフ屋も結構出ていたよ。ライヴハウスとしては最大規模だ。いつどこでそんなにも人気者になっていたのか、俺はまるで気づかなかった。確かにあいつがここで歌うと、人が集まる。しかし、それとライヴハウスを埋め尽くすのとはわけが違う。俺は当時、ネット社会にはまるで疎かったんだ。

 今思えば簡単な理由だった。誰かが撮影したあいつのここでの演奏をネットにアップした。それが評判になり、ファンが増え、音楽関係の仕事をしている誰かの目にとまった。よくある物語だよ。俺がそれを知らなかったってだけのことだったんだ。

 娘はその日以来、あいつの大ファンだ。俺が知り合いだと言っても、信じてくれない。チケットだってあいつから貰ったんだと言ったが、まるで信用していない目つきでふーんなんて言いやがる。まぁ、仕方がないか。いつか会わせてやろうと考えているよ。

 ギターを最初に盗んだ犯人は、その週のうちに、判明したよ。そいつは俺の前に座り、話し始めた。ギターがなくなり、専任の聞き屋になってからの初めての客ってわけだ。

 あの人のライブ、僕も観たんすよ。まさか聞き屋のお兄さんに娘さんがいたなんて知らなかったな。

 俺はそいつを知っていた。この街でお気に入りの楽器屋の店員だ。俺の歌を聞いてくれていた数少ない一人だよ。

 あの人、天才っすよね。知っています? 未だに家には楽器が無いらしいっすよ。一昨日、たまたま店に来て、話したんすよ。そしたらライヴのチケットくれて・・・・

 そいつはなぜか言葉を詰まらせたよ。俺は予感した。次に出てくる言葉をな。

 ごめんなさい・・・・

 また言葉を詰まらせる。感情がこもっているのか、わざとしているか、微妙だったな。まぁ、わざとなんだろうがな。俺には言葉の色が見えるんだが、微妙な感情は判断に困ることがあるのも事実だよ。そもそも感情ってのは曖昧なんだ。色の名前だってそうだろ? この国じゃああまりにも多くの色が存在する。その名前ってのが、まさに曖昧だったりするからな。

 そっか、お前だったんだな。まぁ、いいんじゃないか? 昨日のライヴ観たんだろ? だったら分かるだろ。あのギターは、あいつが弾いてこそなんだよ。俺じゃぁあの音色は出せないんだ。

そいつはずっと困った目をして俺を見つめていたよ。

 まぁ、一応聞くけどさ、なんで盗もうとしたんだ? こんな目立つ場所で盗みはまずいだろ? 置きっ放しの俺も悪いけど、誰かに見られると思うだろ、普通はな。特にお前はこの街の人間だろ?

 僕は、聞き屋のお兄さんが弾くこのギターの音が好きなんす。確かにあの人とは違うけど、それがまた魅力的なんすよ。あの日、ギターを見ていたら、どうしても弾いてみたくなって・・・・ 誰もいなかったし、ちょっと触るくらいならいいかなって・・・・ それで手を伸ばそうとしたら、あの人が叫んだんすよ。

 なに遊んでんだ! ってあいつらしい叫び方だよな。その声を聞いて、そいつはビビったようだ。反射的にギターを掴み走り出した。

 けれど不思議なんすよ。あの人、すぐには追っかけてこなかったんすから。どうしてっすかね?

 それはそうだろう。そいつは服装も髪型も目立つんだ。一昔前のグルーピーみたいなんだよ。そいつの場合は似合っているからいいけどな。俺が真似したらインチキロッカーにもなりゃしない。

 それでも居場所はすぐにバレちゃいましたよ。店に戻れば安心だと思ったんすけどね。あっ、もちろんギターは後で返すつもりだったんすからね。

 あいつの余裕は、俺にも理解できる。犯人が特定できたんだ。しかも見た顔で、予想通りの方向へ逃げていく。その余裕から、俺へのメモにつながったんだな。

 僕の顔を見ると、あの人は笑ってくれたんすよ。なんだか嬉しかったすけど、ちょっと怖いなとも感じたっすね。そしたらあの人、なにか言いたいことあるだろ? って言うんすよ。意味は分かってたんすけど、思わず僕、明日のライヴ頑張って下さいねって言ったんす。そしたらあの人、大笑いしていたんすよ。そして、お前面白いなって言いながら、昨日のチケットをくれたんすよ。僕は代わりにギターを差し出したんす。

 そいつはそこまで話した後、すいませんでしたと頭を下げた。俺はそこで大笑いだ。お前、面白い奴だったんだな。

 俺のそんな言葉に、そいつは、そうっすかねぇと言いながら ヘラヘラ笑っていたよ。

 そいつは今もこの街にいて、今では少し場所の変わった同じ楽器屋で店長を務めているよ。哀しいことに、当時のスタイルは失われている。髪をバッサリと切り、スーツにエプロン姿のそいつは、いかにもっていう楽器屋の店員になってしまったんだ。口調もだいぶ、それらしくなっているしな。

 あいつとの思い出は、案外に少ないんだな。俺はずっとあいつと一緒にいるつもりでいた。このギターケースが、その繋がりを保っていると、俺は感じていたんだ。しかし、どうなんだろうな。こんな事態になると、不安しか感じられなくなる。

 あいつが刺された事件は、世界中に知られている。正直、俺が動かなくても事件は解決するんじゃないかとも思うよ。けれど俺は、動くんだろうな。動かずにはいられない。

 あいつは自宅マンションから出てきたところを待ち伏せされ、刺された。ラフな格好で、一人だった。財布も免許書も持っていない。ポケットに小銭がジャラジャラ鳴いていただけだ。コンビニにでも行こうとしたのだろう。エントランスから姿を現わすのは、そんなときぐらいだそうだ。普段は車で、地下の駐車場から出発する。しかも、自分では運転しないそうだ。いい身分だよな。

 俺は取り敢えず、あいつが刺された現場にでも行こうかと考えているんだけど、なんだか目の前に妙な奴がしゃがもうとしている。

 やっぱり、動くんすか? だったら僕も、手伝いますよ。

 そいつはまるで口調が変わらない。見た目は変わっても、中身は昔のまんまってことだ。まぁ、店ではこんな口調じゃないってことは知っているんだが、本人にツッコミは入れていないよ。

 今日はちょっと気合い入れていきますよ。僕は絶対、あの人を刺した犯人を探し出しますからね。店にはもう、しばらく休むかもって言ってあるんすよ。

 そいつはエプロンをしたままの姿でここにいる。本気で犯人探しをするつもりなのか疑わしいよな。できれば帰って欲しい。こんなのと一緒に都会へは行きたなくないからな。

 悪いんだけど、俺は一人で行くよ。それが俺のスタイルだって、お前なら知っているだろ? 気持ちだけでじゅうぶんだよ。お前はお前の仕事をすればいいんだ。

 ・・・・けど、それじゃあ気持ちが収まらないっすよ。

 こういった事件が起きたんだ。大抵の奴はそう感じているだろうな。けどな、俺たちにはなにもできない。警察に任せるのが一番だろ? それにあいつはまだ、生きているんだしな。お前は大人しくしているんだな。

 そんなこと言って、聞き屋のお兄さんは行くんすよね? ズルいっすよ。

 全く面倒な奴だ。その通りだ。俺はズルいんだよ。それが仕事でもあるしな。そんな思いでそいつを睨み、立ち上がる。さて、出掛けるとするかな。

 歩き出した俺の背後に、そいつの気配がついてくる。まぁいいかなって思った自分が情けない。

 俺は電車であいつの刺された現場まで行くことにした。バイクでもいいんだが、そいつのことを考えると面倒だ。そいつはずっと、俺との距離を保ちながらついてくる。乗るつもりのない電車に乗ろうとしたりしてそいつの反応を楽しんで遊んだりはしても、決して言葉は交わさなかった。理由なんてないが、そいつが話しかけてこないんだから仕方がない。俺に気でも使っているのだろう。ついてきているというより、偶然を装っているというテイのようだ。まるでバレバレだけどな。

 現場にはついたが、なにも得ることはなさそうだ。あいつがここで刺された。そう感じるだけで、俺は涙が我慢できない。そっと頬を伝う涙に、自分の弱さを感じた。

 くそっ! どうしてこんなことに!

 俺の背後でそいつが嘆く。気持ちは分かるが、こんな場所で大声を出しては欲しくない。俺は涙を拭い、歩き出す。どこへ行けばいいんだ? こんなにも俺って、無意味な存在だと感じたことはない。勝手の違う街で起きた事件だ。調べる術は、ほとんどない。警察だって、ここでは俺には味方しない。あいつに会いに行こうか? いいや、それじゃダメなんだ。俺の目的は、犯人逮捕じゃない。その動機を知りたいんだ。

 これからどうするんすか? あの人に会いに行きましょうよ。僕、入院先調べたんすよ。この近くらしいっすよ。

 俺の背中に、そいつが話しかける。俺は振り向き、首を振る。それじゃぁダメなんだよ。そんな心の声は、そいつにも届いたようだ。

 帰り道、俺はそいつと並んで歩く。おかしな奴だ。道中ずっとエプロンをしたままだ。それが自然なんだろうな。道行く人々の好奇の視線をまるで感じていない。俺の方が恥ずかしくなるよな。

 結局また、ここに戻って来た。俺はやっぱり、ここで始めるしかないんだと思っている。情報を待つんだ。それしか俺にできることはない。焦ることはないってことだ。

 なにか分かったら僕にも連絡下さいよ。絶対っすからね。

 そいつはそう言い、店へと戻っていった。頭を掻きながら歩く後姿は、なんだかとても疲れて見えた。

俺はここで、いつものように他人の話を聞いている。あいつのことが話題にはのぼっても、有力情報はなかなか出てこない。この街ではこれが限界なのかと、半ば諦め始めていたよ。けれどやっぱり、俺は運がいい。待てば必ず、情報は流れてくるものなんだ。

 やっとあんたに会えたよ。

 目の前に立つこの男を、俺は知っている。と言っても、こうして話をするのは初めてだ。ステージの上のこの男を見たことがあるってだけだ。

 あの日あんたを見かけたんだ。それでちょっと気になることがあってさ、こうして来たんだけど、一緒にいたあいつは誰なんだ?

 この男がなにを言いたいのか、分かりはしたが理解はできない。楽器屋の店長と一緒にいた所を見られたんだろう。しかも多分、あいつの現場近くで。それにしてもなぜだ? こんなことを聞くためだけに俺に会いにきたのか? 面識はないはずなのにな。

 そんなに警戒するなって。俺のことは知っているんだろ? 俺もあんたを知っているよ。あいつはいつも、あんたの話ばかりするからな。今でもそうだよ。あいつはなんも変わらない。

 俺は確かにこの男を知っている。けれど妙だな。この男の言葉には違和感がいっぱいだ。

 あいつは目を覚ましたのか?

 さすがは聞き屋だな。ちゃんと話を聞いてくれる。そうだよ。あいつは今朝、目を覚ました。そしていきなり、あんたの名前を出したんだ。聞き屋を止めてくれってさ。これは事件じゃない。事故なんだ。騒ぎを大きくしないで欲しいってさ。あいつらしいんだか、らしくないんだか、正直俺にはわからないね。

 ふんっ・・・・ そういうことか。俺にはあいつらしい言葉にしか聞こえないよ。

 よほどあんたのことが心配なんだな。側にいた俺たちのことなんて目にも入っていなかったんだからな。

俺を危険な目に遭わせたくないとも取れるが、それは違うな。余計な詮索をされたくないんだろうな。あいつはきっと、誰かを庇っているんだ。犯人かも知れないし、犯人の身内か誰かなんだろうな、きっと。

 それだけを言いに来たんじゃないんだろ? 俺と一緒にいた奴を探してどうするんだ?

 それはわからない。気になった。そうとしか言いようがないな。あの日あんたはあの現場で泣いていたろ? その後ろであの野郎、どんな態度をしていたか知っているか? 俺は全部見ていたんだ。正直俺は、あんたと一緒にいなかったら、あんな奴はぶん殴っていたかも知れないな。

 この男がその場にいた記憶はない。あの日、そこには誰もいなかったはずだ。どうしてこの男はそれを知っているんだ? 楽器屋の店長がどんな態度だったかなんて、俺には興味がないんだよ。俺が知りたいのは、この男の真意だ。

 あんたはあいつのバンドメンバーだろ? それだけの関係じゃないってことか? あの日はあいつの部屋から覗いていたのか?

 ・・・・やっぱりあんたはあいつの兄弟だな。聞き屋ってのは、こんなにも質問ばかりなのか? 今日のあんたはやけにおしゃべりだ。

 俺は基本、おしゃべりなんだよ。黙って聞いているように見えても、心の中じゃぁ喋りまくりだ。こんな風にな。

 たまにはこういうのもいいだろ? それより俺の質問には答えないつもりなのか?

 この男の正体は、あいつのバックバンドのベーシストってとこだ。今の音楽の世界じゃかなり有名なんだそうだ。 海外でも名が通っているらしいよ。俺はまぁ、かなり好きだよ。この男のベースは、胸が熱くなる。踊りたくなるというより、動きたくなるんだ。走り出す衝動が止まらない。

 俺はさ、あいつと一緒に暮らしているんだよ。勘違いするなよ。ゲイじゃないからな。俺にもあいつにも、女は大勢いるからな。まぁ、そういう関係が一度もなかったかって言われたら、肯定はしないが、否定するつもりもないんだけどな。

 あいつの音楽は、日々変化する。基本はアコギ一本だが、バックバンドを率いてエレキに持ち替えることも多いんだ。アコースティックバンドのときもある。オーケストラだって連れてくる。ときにはシンセを前面に押し出したり、DJを引き連れたりもする。つまりはなんでもありなんだ。音楽って本来そういうもんだ。楽しければなんでもいいんだよ。ジャンル別けなんてつまらないことは言うなってんだ。音楽そのものを楽しむのが一番だ。アカペラだってタップダンスだって口笛だって、あいつは平気な顔で取り入れているんだ。

 あの日はな、一階のロビーで寛いでいたんだよ。窓から外の通りが覗ける位置のソファーに腰掛けていたんだ。ポットに入れたコーヒーを飲みながら、本を読んだり、アイディアをメモしたり、スマホで曲を打ち込んだりするのが日課でね。まぁ、それは普段の日常での話だけどな。あの日はあいつの病院から帰ってきたばかりで、部屋に戻る気分じゃなくてさ。ロービーでボーッと外を眺めていたんだよ。そしたらあんたの姿が飛び込んできた。俺は外に出て話しかけようかと思ったんだぜ。後ろの奴に気づくまではな。

 奴がなにをしたって言うんだ? 俺には感じられなかったな。奴はいつもと変わらず、可笑しな男だったよ。

 けれど現実、俺は気づいていた。楽器屋の店長からは、心が感じられない。嘆きの言葉も、口先だけだった。それでもそいつは、確かになにかを心配していた。それと同時に、あいつへの愛だけはしっかりと感じてできたんだ。

 あんたの後ろでぼけっとあくびをしていたんだよ。現場には目もくれていなかった。あいつの視線は、どこか上の空。恐らくだけど、俺とあいつの暮らす部屋を眺めていたのかも知れないな。

 それがどうかしたのか? 俺には興味ないね。

 あんたは感じないのか? 奴はきっと、なにかを隠している。

 そんなことは分かっているんだ。けれど俺は、今はまだ、気にしないことにしている。楽器屋の店長が事件の鍵を握っていたとしても、そこを無理にこじ開ける必要はないと思う。自然と開くのを待てばいい。

 聞きたいなら直接聞けばいいよ。そいつはすぐそこの楽器屋の店長だからな。あんたがどう思っているかは知らないが、そいつはただのバカだ。なにかを隠しているかも知れないが、そんなことはどうでもいいんだよ。俺はただ、どうしてなのかを知りたいだけだからな。

 それを奴が知っているかもって話だろ? あんたはそうは思わないのか?

 残念だけど、それは違うな。そいつが知っているのはきっと、別のことだ。それがなんなのかは、そのうち分かるんじゃないか?

 ・・・・あんたがそう言うのなら、そうかもな。けれど俺は奴に会いに行くよ。それは問題ないだろ?

 勝手にすればいいと俺は言う。男は勝手にするかと言いながら、楽器屋の方に歩いて行った。

 俺はあいつの言葉を考える。俺を止めろ? あれは事故、騒ぎをでかくするな、か・・・・ 全く、面倒なことを言うやつだよ。まぁ、意識が回復したのなら、それは嬉しいことだけどな。

 聞き屋ってのは実在するんだな。知らなかった。空想の産物だと思っていたよ。

 俺の目の前に、また可笑しな奴がやってきたよ。こうも来客が続くのも珍しい。普段の俺は、案外と暇なんだ。

 あんたもあいつの関係者か?

 俺としては珍しく、フライングの質問だな。

 あいつって? まぁ、多分だけど、ちょっと違うな。あいつってあの人のことだろ? 俺はあの人とは面識がないからな。けれどそうだな。俺はあの人の大ファンってとこだよ。

 目の前の男は、なんとなくだがあいつに似ている。服装を真似しているのか? いいや、醸し出す雰囲気が、あいつに近いようだな。

 ネットで噂になっているのは知っているだろ? 本当なのか?

 なにを言っているんだ? 俺はネットには頼らないんだよ。聞き屋ってのは、実際にこの耳で聞いた情報を元に動くんだ。この男は、俺のことを知らない。そのネットでの噂を確かめに来たってとこだ。

 どんな噂だ? 悪いけど俺は、電子の言葉は信じないんだ。生の言葉が聞きたいね。

 俺の勘が働いた。噂の根源は、案外と近くにいるものなんだ。

 聞き屋とエプロン男、犯人は現場に舞い戻る。二人の姿を目撃したものは数多い。俺は知りたいんだ。あんたがそうなのか? あんたの噂はよく聞くよ。いい噂も、悪い噂もな。あんたは今や、都市伝説なんだよ。

 エプロン男、か・・・・ どうしてなんだ? 楽器屋の店長が今回の事件のキーマンだってのは分かっている。しかし、どうしてこうも情報が漏れている? 俺の勘では、怪しいのはやっぱり、あの男。楽器屋の店長だよ。どんな意図がある? それは分からないが、噂の根源は楽器屋の店長で間違いなさそうだな。

 それでどうなんだ? 噂を信じるのか?

 それが分からないからここに来たんだよ。あんたに会えるとは思ってもいなかったよ。所詮は噂。そのつもりだったんだ。けれどあんたは実在した。俺は今混乱しているよ。

 そういうことか・・・・ 俺は悲しいよ。楽器屋の店長が噂を流した理由はなんなんだ? っていうか、本当に楽器屋の店長が噂の根源なのか? 俺も今、混乱している。

 エプロン男は、どこか不自然なんだよ。普通さ、噂っていうのは客観的だろ? 聞き屋についての噂は、確かに客観的なんだよ。けれどさ、エプロン男が絡んだ噂になると、突然主観的になるんだよ。自ら噂を流しているんじゃないかって、そう疑うのは自然な流れなんだよ。

 俺は噂を目にしていない。それでも感じられる違和感。その理由を知るには、やっぱり楽器屋の店長に会う必要があるな。この勢いのまま、こいつを連れて行ったら面白い。さて、どうするかな?

 一緒に行ってみるか? エプロン男はこの先の楽器屋で働いているよ。俺もちょっと会って話したいことがあるからな。

 っていうか、その噂ってどんなんなんだ? 聞き屋のくせに、聞き忘れとは情けない。

 俺は立ち上がり、店へと足を急がせる。これで全てが解決するんだとの、期待は少ない。後ろをついてくるこの男の言う噂ってやつも、あてにはならない。きっと、あの日二人で現場に行ったことが噂になっただけなんだろうな。

 あんたはどうするつもりなんだ? エプロン男に会ったところでなにをする? あの男はバカだからな。多分だが、あんたが思うのとは違う意図なんじゃないか?

 そうかもな。俺はただ、真実を知りたいんだ。噂が本当でも、嘘でもどうでもいい。あんたは犯人じゃない。それは分かったよ。エプロン男もきっと、違うんだろうな。だったらなぜだ? 自分とあんたを犯人に仕立てようとした理由はなんだ? 注目を集めたいただのバカなのか? それならそれで構わない。けれどそれも、違うってことだろ?

 ふっ、噂って、そういうことか。だからなんだな。最近客が減っていた。特に、俺世代の客がな。バカバカし過ぎる。エプロン男も同感だろうな。そう思ったからこそ、噂を流したんだ。あの男は、なにかを知っていて、それを隠しているんだよ。

 まぁ、会えばわかるだろう。すぐそこだよ。そこの楽器屋の店長なんだよ。

 店に入るとすぐ、エプロン男の顔が見えた。俺はそっと近づいた。俺がなにしに来たか、わかるか?

 ・・・・さっき来た人のことっすか? 今は上でベース弾いていますよ。なんなんすかね? 色々聞かれましたっすけど、なんか変わっていますよね。あの人のことが心配なのは分かりますけど、僕に話を聞いたって意味ないっすよね。あの日のこと聞かれましたけど、僕はただ聞き屋のお兄さんについて行っただけっすもんね。

 そういえばそんな奴がいたなと、俺はすっかり忘れていた。こいつは聞いてないんだな。あいつの意識が戻ったことを。教えればきっと、事件は解決に向かうんだろうがな。

 お前が噂の根源か? なにを考えているんだ? 俺はさ、色々と知っているんだよ。教えてくれないか? 片言の外国人、それって誰のことだ?

 俺がまだ聞いていない情報がいきなり飛び出した。なんだか嘘つきばかりだな。こいつも楽器屋の店長も、上にいるベーシストも同じだ。けれど助かるよ。嘘をつくってことは、隠された真実があるってことだ。それを見つければきっと、事件は解決する。まぁ、必ずしもその結果がいいとは限らないけれどな。必要な嘘が存在するのも事実なんだよ。

 俺をあまりなめるなよ。男はそう言い、エプロン男に掴みかかろうとする。知らなかったよ。エプロン男は意外と素早い動きをするんだな。その手をパッと払って、男を押し飛ばした。迷惑だよな。それともわざとか? 男は俺にぶつかり、二人がよろめいた。その隙に逃げ出すとは、バカな奴だ。どうせ捕まるんだぞ。ここは横浜だ。俺の街なんだよ。逃げ切れるはずがない。

 俺はすぐ、電話をかけた。相手は、ホテル経営をしているおばちゃんだ。楽器屋の店長を見つけて欲しい。いつもの場所で待っている。それだけを伝えた。

 くっそ! やっぱりあいつ、なにか知っているんだ!

 男は立ち上がると、走って追いかけようとする。もう手は打ってあるよ。俺の言葉に男は足を止めた。腰でも強く打ったんだろうな。痛そうな顔を引っ込めない。俺はすぐに体勢を整えたが、男はまだふらついている。案外に弱い身体をしているものだ。

 どういうことだ? あいつを逃すつもりじゃないだろうな!

 そんなことはしない。それよりそれは、俺のセリフだけどな。どういうつもりなんだ? 嘘をつくってのは良くないな。お前はなにを知っている? そしてなにを隠している?

 こいつはだんまりでも決めるのかと思ったよ。沈黙が、やけに多い。

 ・・・・あんたはなにも知らないんだな。この事件はかなり大きな話題になっているんだ。噂もそれは星の数ほどだ。エプロン男もその一つに過ぎないんだよ。あいつは・・・・

 それ以上は言わなくていいよ。こいつはあの聞き屋だぞ。すでにもう、気づいているんだろ?

 上の階からベーシストが降りてきた。店内に階段があり、騒ぎが聞こえて降りてきたのだろう。

 なんだか映画やドラマの最後の大物登場って感じに、ポケットに手を突っ込んで、偉そうに足音を鳴らしていやがる。

 それは俺に言っているのか? 思わず俺も映画の主人公のような言葉を発する。まぁ、だいたいは見当がついている。ヒントもいっぱい貰えたし、あいつの性格を考えればな。

 それでどうするつもりだ? 黙って身を引くのか?

 それは分からないな。取り敢えずは、店長に話を聞いてからだよ。

 俺とベーシストの会話に、一人ついてこられない男がいる。こいつはただの冷やかしだな。興味本位でネット検索をし、その延長でここまできてしまった。なんていうか、暇な奴だよ。俺の代わりに聞き屋にでもなれば、きっといい仕事をするだろうな。本気でそう思っているよ。

 俺たちは三人、バラバラに駅へと戻っていく。話すことがないわけでも、お互いを警戒しているわけでもない。ただなんとなく開いた距離をそのままに、足を動かしているだけのことだ。

 俺の仕事場には、おばちゃんがいた。俺の使う椅子に座っている。エプロン男も隣にしゃがんでいる。こっちは地べたに体育座りだ。うなだれているのは演技なのか? おばちゃんが俺に気づき、そいつを小突いた。パッと顔を上げ、俺と目が会うと、口を大きく笑ってみせる。

 この子がなにかしたのかい? とても悪い子には見えないがね。

 おばちゃんから見れば、こいつや俺はまだまだ子供なんだろうな。俺もそう思うよ。こいつは悪い子なんかじゃない。

 ちょっと話を聞きたいだけだよ。いきなり逃げ出すものだからさ、そんなに怯えるなよ。なんて言ったが、それは無理だよな。男三人に囲まれれば、誰でも怯えるよ。しかもこの街の顔役のおばちゃんにまで睨まれているんだからなおさらだな。そいつは、目を潤ませ、作った笑顔のまま固まっている。

 俺はさ、警察とは違う。それはお前だってよく知っているだろ。どういう結果になるかは分からないけど、真実が全てとは俺は思わない。なんでもかんでも警察任せになんてするつもりはないよ。ただな、真実を知らなければ、どうすることもできないんだよ。俺は思うんだ。お前だけなんだろ? あいつさえも知らない真実を知っているのはさ。

 ・・・・僕はさ、あの人のことが大好きなんすよ。それは聞き屋のお兄さんも知っているでしょ? けれどさ、もっと大好きな人がいるんす。僕はその人を守りたいんす。それだけなんすよ。

 エプロン男が話をしている間、二人の男は黙りっ通し。おばちゃんなんて、いつの間にか姿を消している。空気が読める大人って格好いいよな。俺は構わず、会話を続ける。

 片言の外国人ってことか。まぁ、好きなように話せばいいよ。俺はちゃんと、聞いている。心配は意味がないってことくらいわかるだろ?

 あの子は僕のために刺したんすよ。ちょっとした勘違いで、あの人を刺してしまったんすよ。悪気はなかったんす。僕が全部、悪いんすから。

 俺は黙ってこいつの話を促した。私情が溢れたその言葉は、ときに分かりにくくもあるが、まぁ大体の事情は飲み込めたよ。あいつが庇おうとしているのも納得だった。ほぼ予想の範囲内だってことだ。

 つまりはその日、こいつとその恋人のフィリピン人があいつに会うためあの場所に行ったんだ。どうして会いに行ったのかは、聞いてはいるが、意味は分からないな。彼女が会いたいと言うから、連れて行ったと言う。こいつとあいつは友達でもなんでもないんだ。ちょっとした知り合いだ。こいつはあいつの家を知っていたようだが、あいつはきっと、こいつが自分の家を知っていることを知らなかったはず。まぁ、有名人ってのは、プライベートなんてなくていいんだよ。その存在を売り物にしているんだからな。こいつはあいつの家を、ネットで調べたらしい。簡単な時代になったよな。なんの苦労も人脈もいらないんだから。しかし、彼女の真の目的に、こいつは気がつかなかった。まさかだよな。馬鹿げているが、人間の考えっていうのは、そもそもが馬鹿げている。彼女はあいつに嫉妬した。こいつがあいつの話ばかりするのが気に入らなかったそうだ。それだけの理由であいつを刺したという。信じられないが、こいつはそれを真実と思っているようだ。突然の彼女の行動に、こいつは慌てた。何度もあいつに包丁を突き刺す彼女を必死に引き離し、すぐに救急車を呼ぼうとした。けれどそのとき、あいつがこいつの手を止めた。瀕死の状態にもかかわらず、必死に体を動かし、声を出す。警察には連絡するなと言う。救急車への連絡は俺がする。そう言いながら自分の携帯を取り出し、番号を押す。怪我をして動けない。事故に遭ったと言い、簡単な住所を言うと、電話を切った。そしてこいつに、彼女と一緒に逃げろと言った。このことは忘れるんだ。誰にも言うな。これはただの事故なんだ。あいつはこいつにそう言い、早く逃げろと怒鳴りつけ、意識を失った。こいつは少しの間、そこから離れられずにいた。困惑して、足が動かなかったそうだ。彼女もまた、自分がしたことの重大さに気がつき、思考も身体も固まっていた。しかし、救急車のサイレンが遠くから聞こえてくると、慌てて彼女を引っ張り逃げ出した。その際、犯行に使用した包丁を拾い、持ち帰る余裕が、彼女にはあったという。これがあいつの言う、事件の全容だ。

 話し終えた後、こいつは何度もごめんなさいを繰り返し、涙を流した。

 それでその女はどこにいる?

 俺がそう言うと、こいつはわざと項垂れ、こう言う。

 国へ帰したよ。それが一番、安全なんだ。

 俺は少し、思案のため息を零す。これで事件はお終いなのか? そうかも知れない。あいつはきっと、被害届を出さないだろう。さすがに自分で刺したとは言わないだろうが、そうとも言いかねないから怖いんだよな。きっと、これで終わりなんだろうなと、俺は思った。ベーシストも、もう一人の男もそう思ったようだ。こいつをどうするつもりなんだ? ベーシストがそう聞いた。どうするもなにもない。こいつはもう、許されているんだろ? 俺はそう答える。あいつがそう思っているのなら、俺にできることはなにもないよ。

 ベーシストは納得したように帰って行った。もう一人の男はなんだか不満そうだったが、ベーシストに促され、一緒に帰っていく。なにやら話をしていたが、俺には聞こえない。きっと、このことは忘れよう。なんてことを話しているんじゃないかと思う。

 お前はもう店に戻れよ。俺がそう言うと、エプロン男は立ち上がり、頭を下げる。本当にごめんなさいと、大きな声を出した。分かったから、帰れよ。そう言うと、項垂れたまま歩き出した。

 俺は考える。本当にこれでお終いなのか? 一番いいのはそのフィリピン人に会って話を聞くことだ。しかし、それは難しい。まさか飛行機に乗ってまで会いに行けってのか? そこまでする必要はあるのか? 俺は悩んでいた。そして気がつくと、夜になり、終電が走り去って行く。久し振りだな。平日のこの時間にここに座るのは、ギターを弾いていた頃以来だよ。さすがに人通りは少なく、騒めきも少ない。考え事をするにはちょうどいい静けさだ。って言っても、家の中よりは断然うるさいんだけどな。それが俺にはちょうどいい。

 あんたはいつもここにいるんだな。嬉しいよ。相変わらずで。

 懐かしい声が、心に感じる。こうやって話をするのは何年振りだ? 考えるだけ無駄だな。

 こんなとこにいていいのか? 今頃病院は大パニックだろ?

 俺の隣に腰を降ろして座るのは、いつも通りのあいつだ。とても怪我人には見えないな。裸のギターを抱えている。この格好で電車か? さすがに車の運転は無理だろう。タクシーでも拾ったのか? 俺は疑問を全て捨て去った。どうでもいいことだ。こうしてこいつと話ができる。それだけでじゅうぶんなんだよ。

 俺に会いたいって思っていたろ? 分かるんだよ。あんたが本気で願えば、俺はいつでも駆けつけるんだ。

 なにを馬鹿なことを・・・・ まぁそんなことはどうでもいいんだ。本当に元気なのか? 怪我は治るんだよな? このまま死ぬとか言うなよ。

 俺は本気で心配している。死ぬ前の最後の灯火。よくある話だろ?

 怪我の具合はまぁまぁだよ。傷は縫いつけてあるし、中身もまぁ、回復段階だ。安静にしていれば大丈夫だとよ。

 安静って言葉は曖昧だよな。ベッドの上でおとなしくしろってことか? 自宅にいても、外で遊んでいても、無理をせずにいれば安静と言えるんじゃないかって思うんだけどな。ただ寝ているだけでも、汗をかくほど暴れることもある。

 お前さ、なにか隠しているだろ? 楽器屋の店長も知らないことをさ。

 俺には確信がある。しかし、どうしてもピンとくる想像が湧いてこない。

 ・・・・あんたには敵わないな。まぁ、黙っていればバレないと思うんだけどさ、あんたもしつこいからな。深く調べれば、いつかは分かっちゃうんだろうな。

 あいつは少し、恥ずかしそうな笑いを浮かべる。そして静かに、とんでもないことを語り出す。

 俺さ、ちょっとやばい奴らの女に手ぇ出しちゃったんだよ。ヤクザとかじゃないぜ。政治家って奴の裏にいる奴らだよ。そこのボス的な存在の愛人だな。参るよな。俺のファンだと言って向こうから会いに来たんだぜ。どんなつてを使っても絶対に俺個人の知り合いしか楽屋には通すなって言ってあったのにだ。超がつくなんてもんじゃないほどの大物らしいんだよ。俺としちゃ、そんなことは関係ない。いい女だと思ったから連絡先を聞いた。そして関係を持った。それだけのことだ。けれどその大物さんは、案外肝が小さいんだな。俺を殺そうと、あの子を利用したんだ。笑っちまうよな。俺の周辺を色々調べ尽くしたみたいだ。あんたのこともきっと、調査済みだな。それで楽器屋の男が標的にされたんだよ。あいつの女はフィリピン人だ。唆しやすかったんだろうな。あの子がどんな素性かは詳しくは知らないが、きっとまともな観光客じゃないってことだ。もちろん学生でも会社員でもない。まぁ、そこんところはあんたの方が詳しいだろ?

 確かにその通りだ。不法入国者の事件は多い。まぁ、そういう事件に俺が首を突っ込むことは少ないんだがな。そういうのはあそこでさぼっている警察の仕事だよ。

 きっと、脅し文句と金を餌にしたんだよ。本当のことをなんにも知らない楽器屋のあいつは可哀想だけどな。俺は今後も、このことをあいつには言わないつもりだ。あんたもきっと、言わないだろうな。

 お前はどうするんだ? このまま黙っているのか? お前を殺そうとした奴らをそのままってわけにはいかないだろ?

 俺は決めたよ。その大物さんを懲らしめてやろうとな。

 もう手は打ってあるんだよ。ああいった世界も結構大変みたいだな。長い間のさばり続けていると、敵も増える。今はまぁ、落ちぶれ寸前ってとこだな。だからこそ必死に見栄を張る。俺を殺そうとしたのも、その程度の動機なんだよ。俺はそいつらから情報を得て、ある証拠を掴んだんだ。その大物さんを失墜させるような情報だ。まぁわかるだろ? 汚い金と乱れた権力に塗れて生きてきたんだ。悪さをしていないはずがないんだよ。

 だけどそんな証拠、簡単には掴めないだろ? 相手は落ちぶれ寸前とはいえ大物なんだろ? なんだか今回は、本当に俺の出番はなしのようだな。

 それがな、俺には簡単なんだよ。手を出した女ってのは、今じゃ俺の本当の彼女なんだ。俺のためにはなんでもしてくれる。だから俺も、彼女のためならなんでもするんだ。

 いつから計画していた? どうせなら、こんなことになる前に動けばよかっただろ?

 そう言うなって。そうなんでも予定通りにはいかないものなんだよ。情報は掴んだ。証拠もある。後はそれをどこへ流すかだ。俺は本気で悩み、決意していたんだ。あんたの噂はよく聞いていたからな、あんたに任すつもりだったんだよ。こうなる前から、ここに来るつもりでいたんだ。これに全てが入っている。後はあんたに任すよ。どう使ってもいい。捨てたって構わないんだ。

 あいつはポケットから USBを取り出し、俺に投げてよこした。手に取った俺は、顔を歪めた。こんなもんでその大物さんの運命が変わるのか? 不思議な世の中になったものだ。

 分かった。好きに使わせてもらうよ。お前の新曲とかも入れていてくれたら嬉しいんだけだな。

 ハッハー、やっぱりあんたは最高だよ。新曲なら今ここで、二人で作ろう。

 あいつは立ち上がり、俺にギターを手渡した。俺も立ち上がり、適当にギターを奏でる。あいつは足を鳴らし手拍子を取りながら、メロディーを探る。何度か繰り返すうちに、曲が形になっていく。俺とあいつは、朝まで曲を作りは歌いを繰り返した。気がつけば数人のギャラリーが一緒に楽しんでいたが、まさか本物のあいつが歌っていると思う奴は一人もいない。なんせ、重体で入院中ってことになっていたんだからな。それでも大いに盛り上がったよ。もう直ぐ始発って頃には、十曲は仕上がっていたな。そしてギャラリーが消えて行く。家路へと向かうようだ。しかし、理由は他にもあった。俺たちの前に、警官が二人、立ち塞がったからだ。

 特に悪いことはしていないはずだぞ。俺はその二人にそう言う。その二人は笑って首を横に振る。

そんなのは分かっているよ。だけどな、今ここにいるのはまずいだろ? 色々事情は知っているんだ。大人しく病院に戻るんだな。車なら手配済みだ。もう直ぐ、そこまでやってくる。

 あいつは素直に分かったと頷いた。俺には分からないこともあるが、今はまだ黙っていようと思う。あいつが病院に戻った方がいいのは確かだ。早く回復するのを待っているよ。俺はあいつに、またいつでもここに来いよ。そう言った。あいつは、分かっている。ここは俺の家だからな。そう言った。俺は手に持っていたギターをあいつに返す。しかしあいつは、受け取らない。それはあんたに貸しておくよ。そう言った。返すの間違いだろと、言いそうにはなったが寸前で堪えた。分かった。大事にするよ。そう言った。あいつはやってきたパトカーに乗り込み、病院へと帰って行った。俺はギターを、数年ぶりにケースの中にしまった。

 あんたらはどこまで事情とやらを掴んでいるんだ? あいつは本当に、病院に帰れるんだろうな?

少しの不安はある。警察は、いつでも土壇場で裏切るからな。

 心配はない。それより、どうするつもりだ? あいつはあんたに全てを任せたんだろ? そのまま忘れるってわけにはいかないんだぞ。

 そこまで知っているってことか? さすがに驚くよ。警察ってやつは、なかなかな組織だな。

 これは大きな事件になる。警察ではだいぶ前から情報を掴んでいたんだ。知っているか? あいつに情報を流したのは、警察の息がかかった奴なんだ。警察からしてもそろそろ、その大物さんには消えて欲しいってことだ。それでもまぁ、体裁ってものもある。あんたの方から情報を流してもらえると助かるよ。

なんだか面倒だが、俺は了承することにするよ。あいつもそれを望んでいるようだしな。

 分かったよ。知り合いの出版社関係の誰かに当たってみる。それでいいだろ? メディアからのリークなら傷をつく者は少ない。

 あぁ、それで頼むよ。そう言い、警官二人は自分たちの住処に戻っていった。


 ここからはまた、後日談に戻る。あいつは無事回復し、新しいCDを作り、発売した。俺と作った十曲全てをアレンジをほとんど変えずに録音した。クレジットには聞き屋の名前がある。あいつからの報酬は、かなり莫大な印税だよ。世界中で今、売れまくっているからな。契約書へのサインは済ませてある。あいつのマネージャーが一度、顔を出しているからな。

 USBは新聞社に送ったよ。以前ここに来たことがある作家のあいつに紹介してもらったんだ。翌日には新聞の一面に載り、大騒ぎになったよ。その後もあらゆる新聞や雑誌で記事にされ、あいつが言う大物さんは、逮捕された。しかし、保釈中に自殺をしたんだ。それをきっかけに、騒ぎは沈静化した。あいつや俺の関わりは一切報道されていないよ。これでよかったんだ。あまり深くほじると、色々なところに迷惑がかかる。根元が一人死んだんだ。それで良しとしておこう。

 あいつを刺した犯人は、どこにもいない。あいつは意識回復の翌日、記者会見を開いた。俺が刺されたってのは誤報だ。ちょっと転んで怪我をしただけだ。そう言い放ったんだ。運が悪かったんだよ。みんなも気をつけな。

 記者連中の不満の声は大きかった。刺された事実は誰もが承知している現実だったからな。当初は病院側からの会見だって行われたほどだしな。しかし記者連中は、前日のここでの出来事を掴んでもいた。誰かがビデオを撮って、ネットにあげたていたんだよ。あいつにとっては好都合だ。刺された奴がこんなことできるか? だってさ。さすがだよな。

あいつの話はいつかしないといけないと、ずっと思っていた。けれど、こんなことをきっかけにだなんて、夢にも思っていなかったよ。

あいつが昨日、刺された。

あいつは今では世界的に有名なギタリストで、アーティストだ。けれど、俺と出会った頃は、そこら辺にいるただのガキだったよ。と言っても、俺とは三つしか変わらないんだけどな。

あの日の俺はいつものようにここで、ギターを弾いていたんだ。聞き屋の仕事はまだ、本格的にはしていなかった。まぁ、いくつかの依頼を解決し、報酬も得てはいたんだが、言ってしまえば副業ってところだったんだよ。俺自身では、ストリートミュージシャンを気取っていたからな。

あんたさ、なかなかいい感じじゃん。

曲が終わり、一息ついていると、あいつがそう言って話しかけてきたんだ。俺はそっと壁にギターを立てかけ、腰を降ろした。あいつは俺の前に向かい合って腰を降ろしたよ。

今の曲はあんたが作ったの? 気持ち悪い曲だよ。今まで聞いたことがないからな。俺は好きだけどさ、ここじゃウケないっしょ。

あいつはまだ、高校生だったはずだよ。今と変わらない口調は、ちょっとばかり生意気だな。

ちょっといいかな?

あいつはそう言って、俺のギターに手を伸ばした。普段の俺なら絶対に断るんだが、あいつには不思議な魅力があるんだよ。俺は黙って、あいつの行動を見守った。

いいよなぁ。ギターが弾けるとさ、カッコいいじゃん! こんな感じだったか? おぉー! いいじゃんいいじゃん!

正直、驚いたな。あいつは俺の曲を一度聞いただけだったんだ。完璧とは言えないが、なんとなく形にはなっていたよ。コードの押さえ方なんかはめちゃくちゃなのに、それっぽく聞こえるんだから凄いよな。

家にギターとかあるのか?

俺の質問に、あいつは答えなかった。ただ夢中になってギターをかき鳴らしていた。悔しいよな。俺の演奏に足を止める人は少ないのに、あいつの演奏には、めちゃくちゃなその演奏にもかかわらず、多くの人が足を止めて眺めていたんだ。

ギターって、こんな感じなんだな。あいつはそう言って、ギターを壁に立てかけた。また来るよ。そう言ったあいつの顔は、とても満足気だった。

俺はその日、ギターを弾かなかったよ。あいつが弾く姿が頭から離れなかったんだ。俺が弾くことで、その余韻を崩してしまうのが怖かったんだ。あいつの音色は、俺の頭の中だけでなく、この街全体に浸透していたからな。

次の日もまた、あいつは俺の前に現れる。ギターを勝手に弾き、勝手に帰っていく。週に三日は来ていたはずだ。そんな毎日が、何ヶ月か続いたんじゃないかな。あいつの腕前は見る間もなく上達し、俺は聞き屋としての仕事で忙しくなり始めていた。あの頃の俺は、ギターを手に取る時間なんてほとんどなかったな。今よりも忙しく、まさに聞き屋の名をこの街に売り込んでいる最中だったんだよ。まぁ、俺がそうと意識をしていたわけじゃないんだけどな。

家でも練習しているのか?

俺があいつにそう聞いた。あいつは頷いた。当たり前だろと、言いたげだったな。少しばかり不満げでもあったよ。きっとあいつには、練習をしているっていう感覚がないんだよ。あいつにとってギターを弾くことは、歯磨きと同じなんだよ。いいや、それはちょっと違うかもな。歯磨きをさぼるやつは多いからな。あいつにとっては小便と同じってことだ。溜まった感情が溢れ出すんだよ。それを抑えることなんてできっこない。まさに小便だな。

それにしても、上達が早いな。俺より上手だよ。なによりお前は、ギターに好かれている。羨ましい限りだよ。

そうかな? なんてあいつは嬉しそうに笑った。

家ではどんなギターを使っているんだ?

あいつは俺の問いに、一瞬空気を止め、難しい表情を作った。

ギターは持ってないって言ったろ? あいつは少し、イラッとしていたな。

だったらどんな練習をしているんだ? 当然の質問だよな。

こうやってさ、右腕をネックに見立てて左手の練習をしたりさ、 ハンドクリップで指を動かしたりもしているよ。右手の練習は難しいよな。輪ゴムで作った自家製器具で練習しているんだよ。指でも弾いているけどさ、自家製のプラスティックピックを使っても練習しているんだ。

そう言ってあいつは、ポケットから自家製ピックを取り出した。それを使って曲を奏でた。聞いたことのない曲だった。とても心地よい曲だ。俺はあいつが満足するまで、静かに耳を傾けていたよ。今でも一番好きな曲だ。残念だけど、代表曲ではないな。静かなあいつが、俺は好きなんだ。激しいあいつよりも、あいつらしさを感じられる。

俺が作ったんだけど、どうかな? 家で考えていたのとちょっとイメージが違うけど・・・・ なんて奴だと思ったよ。ギターが家にないのに、ギターの曲を作ったんだ。俺は勝手に想像していた。あいつの家にはピアノかなにかの楽器があるんだってね。ベースかマンドリン? そんなことも考えたくらいだ。けれどあいつは言ったよ。家に楽器なんてないってさ。

俺がギターを弾いて歌を歌っても、喜ぶ誰かは少ない。けれどあいつの場合は違う。耳にした全ての人が、喜ぶんだ。立ち止まらない者もいるが、それはただ忙しいだけで、心が喜んでいるのを見て取れる。あいつの曲は、誰もが心を震わせるんだ。

あいつが来ると、人が集まる。俺が歌っても、あまり集まらない。悔しいけれど、それが現実だった。あいつは、すでに十数曲のオリジナルを完成させていた。あれだけのギターを弾きながら、歌まで歌うんだからな。あいつはまさに天才で、噂はプロの世界にまで伝わっていた。そして、事件が起きた。と言っても、俺とあいつとの間の、今へと繋がる小さな事件だ。

ライヴが決まったんだけどさ、あんたも来るか? チケット代を払えなんて言わないからさ、心配はするなって。

あいつにそう言われ、俺は複雑だった。その日は娘の誕生日だったんだ。どっちが大切だって言われれば、間違いなく娘だと答えるが、迷ったのは事実だ。俺はあいつに曖昧な返事をしてしまった。正直に言えば良かったのに、言えずに言葉を濁したんだ。しかもあいつが帰った後、突発的な事件が起きた。俺はギターを置き去りに、この街を走り回った。この街じゃまぁ、よくあることだ。万引き、喰い逃げ、引っ手繰り。そんな奴を追っかけて捕まえるのも、結構大事な仕事だったりするんだよ。そういうことの積み重ねで、街からの信頼を得るんだ。

俺が戻ったとき、ここにギターはなかった。ギターケースだけは、相変わらずそこに立っていたよ。俺の帽子を被ってな。驚いたけど、不思議と腹は立たなかった。なんとなくだが、犯人は分かっていた。あいつなら仕方がない。次の日のライヴで使うんだなと、勝手に想像していたよ。

次の日俺は、ギターなしで初めてここに座ったんだ。どこでライヴをするのか聞いていなかったから、きっとギターのことをついでに、あいつが顔を出すと考えていた。けれどあいつは、来なかった。俺はそれ以来、あいつとは会っていない。あいつは有名人になったから、俺はよく顔を見ている。あいつも俺の噂を聞いているようで、人伝いに言葉を交わすことはたまにある。俺とあいつは離れている時間の方がうんと長いが、まるで兄弟のような繋がりを持っているんだ。一緒にいた時間が短いにも関わらずな。だから俺は、今回の事件には、自ら首を突っ込んでいくんだよ。

俺はふと、置きっ放しにしていたギターケースに目を向けた。なにかの予感があったんだな。中を開けると、あいつからのメモと、チケットが一枚、入っていたよ。

案外に綺麗な字だったな。ギターは俺が取り返しておく。明日は絶対観に来いよな。そんなことが書かれていたよ。すぐには意味がわからなかったが、そういうことだ。盗んだのはあいつじゃないってことだ。チケットを渡すつもりだったんだろうな。俺が走り回っている間にここに来て、偶然ギターが盗まれる現場を目撃したんだ。どうしてケースを持っていかなかったのかは、その時点の俺にはわからなかった。あいつが余裕綽々でメモを取った理由もな。

俺はすぐに家に帰ったよ。妻に説明をして、誕生日の娘を連れてライヴを観に行った。娘はまだ幼かったが、音楽が好きでね、俺はそういう場所に連れて行くのを楽しみにしていたんだ。残念ながら長男は、その日熱を出していた。言っちゃ悪いがちょうど良かった。チケットは一枚だった。未就学児は無料と言っても、普通は保護者一人に子供一人だろ? 心配しなくてもいい。その後、息子も連れて何度もライヴを観に行っているからな。もちろん自腹でだよ。楽屋なんかを尋ねたりはしない。俺は純粋に、あいつの音楽を楽しみに行っているだけだからな。友として会いに行っているのとはちょっと意味が違うんだ。

あいつのライヴは、素晴らしかったよ。たった一人で、俺のギターを抱えて歌っていた。 ここで歌っている姿と同じだよ。あいつの基本はここなんだって感じて、嬉しかったな。あいつは今でも、どんなに大きなステージに立っても、ここでのときと同じように堂々としている。

初ライブだっていうのに、客は千人近く、チケットはソールドアウトだってさ。ダフ屋も結構出ていたよ。ライヴハウスとしては最大規模だ。いつどこでそんなにも人気者になっていたのか、俺はまるで気づかなかった。確かにあいつがここで歌うと、人が集まる。しかし、それとライヴハウスを埋め尽くすのとはわけが違う。俺は当時、ネット社会にはまるで疎かったんだ。

今思えば簡単な理由だった。誰かが撮影したあいつのここでの演奏をネットにアップした。それが評判になり、ファンが増え、音楽関係の仕事をしている誰かの目にとまった。よくある物語だよ。俺がそれを知らなかったってだけのことだったんだ。

娘はその日以来、あいつの大ファンだ。俺が知り合いだと言っても、信じてくれない。チケットだってあいつから貰ったんだと言ったが、まるで信用していない目つきでふーんなんて言いやがる。まぁ、仕方がないか。いつか会わせてやろうと考えているよ。

ギターを最初に盗んだ犯人は、その週のうちに、判明したよ。そいつは俺の前に座り、話し始めた。ギターがなくなり、専任の聞き屋になってからの初めての客ってわけだ。

あの人のライブ、僕も観たんすよ。まさか聞き屋のお兄さんに娘さんがいたなんて知らなかったな。

俺はそいつを知っていた。この街でお気に入りの楽器屋の店員だ。俺の歌を聞いてくれていた数少ない一人だよ。

あの人、天才っすよね。知っています? 未だに家には楽器が無いらしいっすよ。一昨日、たまたま店に来て、話したんすよ。そしたらライヴのチケットくれて・・・・

そいつはなぜか言葉を詰まらせたよ。俺は予感した。次に出てくる言葉をな。

ごめんなさい・・・・

また言葉を詰まらせる。感情がこもっているのか、わざとしているか、微妙だったな。まぁ、わざとなんだろうがな。俺には言葉の色が見えるんだが、微妙な感情は判断に困ることがあるのも事実だよ。そもそも感情ってのは曖昧なんだ。色の名前だってそうだろ? この国じゃああまりにも多くの色が存在する。その名前ってのが、まさに曖昧だったりするからな。

そっか、お前だったんだな。まぁ、いいんじゃないか? 昨日のライヴ観たんだろ? だったら分かるだろ。あのギターは、あいつが弾いてこそなんだよ。俺じゃぁあの音色は出せないんだ。

そいつはずっと困った目をして俺を見つめていたよ。

まぁ、一応聞くけどさ、なんで盗もうとしたんだ? こんな目立つ場所で盗みはまずいだろ? 置きっ放しの俺も悪いけど、誰かに見られると思うだろ、普通はな。特にお前はこの街の人間だろ?

僕は、聞き屋のお兄さんが弾くこのギターの音が好きなんす。確かにあの人とは違うけど、それがまた魅力的なんすよ。あの日、ギターを見ていたら、どうしても弾いてみたくなって・・・・ 誰もいなかったし、ちょっと触るくらいならいいかなって・・・・ それで手を伸ばそうとしたら、あの人が叫んだんすよ。

なに遊んでんだ! ってあいつらしい叫び方だよな。その声を聞いて、そいつはビビったようだ。反射的にギターを掴み走り出した。

けれど不思議なんすよ。あの人、すぐには追っかけてこなかったんすから。どうしてっすかね?

それはそうだろう。そいつは服装も髪型も目立つんだ。一昔前のグルーピーみたいなんだよ。そいつの場合は似合っているからいいけどな。俺が真似したらインチキロッカーにもなりゃしない。

それでも居場所はすぐにバレちゃいましたよ。店に戻れば安心だと思ったんすけどね。あっ、もちろんギターは後で返すつもりだったんすからね。

あいつの余裕は、俺にも理解できる。犯人が特定できたんだ。しかも見た顔で、予想通りの方向へ逃げていく。その余裕から、俺へのメモにつながったんだな。

僕の顔を見ると、あの人は笑ってくれたんすよ。なんだか嬉しかったすけど、ちょっと怖いなとも感じたっすね。そしたらあの人、なにか言いたいことあるだろ? って言うんすよ。意味は分かってたんすけど、思わず僕、明日のライヴ頑張って下さいねって言ったんす。そしたらあの人、大笑いしていたんすよ。そして、お前面白いなって言いながら、昨日のチケットをくれたんすよ。僕は代わりにギターを差し出したんす。

そいつはそこまで話した後、すいませんでしたと頭を下げた。俺はそこで大笑いだ。お前、面白い奴だったんだな。

俺のそんな言葉に、そいつは、そうっすかねぇと言いながら ヘラヘラ笑っていたよ。

そいつは今もこの街にいて、今では少し場所の変わった同じ楽器屋で店長を務めているよ。哀しいことに、当時のスタイルは失われている。髪をバッサリと切り、スーツにエプロン姿のそいつは、いかにもっていう楽器屋の店員になってしまったんだ。口調もだいぶ、それらしくなっているしな。

あいつとの思い出は、案外に少ないんだな。俺はずっとあいつと一緒にいるつもりでいた。このギターケースが、その繋がりを保っていると、俺は感じていたんだ。しかし、どうなんだろうな。こんな事態になると、不安しか感じられなくなる。

あいつが刺された事件は、世界中に知られている。正直、俺が動かなくても事件は解決するんじゃないかとも思うよ。けれど俺は、動くんだろうな。動かずにはいられない。

あいつは自宅マンションから出てきたところを待ち伏せされ、刺された。ラフな格好で、一人だった。財布も免許書も持っていない。ポケットに小銭がジャラジャラ鳴いていただけだ。コンビニにでも行こうとしたのだろう。エントランスから姿を現わすのは、そんなときぐらいだそうだ。普段は車で、地下の駐車場から出発する。しかも、自分では運転しないそうだ。いい身分だよな。

俺は取り敢えず、あいつが刺された現場にでも行こうかと考えているんだけど、なんだか目の前に妙な奴がしゃがもうとしている。

やっぱり、動くんすか? だったら僕も、手伝いますよ。

そいつはまるで口調が変わらない。見た目は変わっても、中身は昔のまんまってことだ。まぁ、店ではこんな口調じゃないってことは知っているんだが、本人にツッコミは入れていないよ。

今日はちょっと気合い入れていきますよ。僕は絶対、あの人を刺した犯人を探し出しますからね。店にはもう、しばらく休むかもって言ってあるんすよ。

そいつはエプロンをしたままの姿でここにいる。本気で犯人探しをするつもりなのか疑わしいよな。できれば帰って欲しい。こんなのと一緒に都会へは行きたなくないからな。

悪いんだけど、俺は一人で行くよ。それが俺のスタイルだって、お前なら知っているだろ? 気持ちだけでじゅうぶんだよ。お前はお前の仕事をすればいいんだ。

・・・・けど、それじゃあ気持ちが収まらないっすよ。

こういった事件が起きたんだ。大抵の奴はそう感じているだろうな。けどな、俺たちにはなにもできない。警察に任せるのが一番だろ? それにあいつはまだ、生きているんだしな。お前は大人しくしているんだな。

そんなこと言って、聞き屋のお兄さんは行くんすよね? ズルいっすよ。

全く面倒な奴だ。その通りだ。俺はズルいんだよ。それが仕事でもあるしな。そんな思いでそいつを睨み、立ち上がる。さて、出掛けるとするかな。

歩き出した俺の背後に、そいつの気配がついてくる。まぁいいかなって思った自分が情けない。

俺は電車であいつの刺された現場まで行くことにした。バイクでもいいんだが、そいつのことを考えると面倒だ。そいつはずっと、俺との距離を保ちながらついてくる。乗るつもりのない電車に乗ろうとしたりしてそいつの反応を楽しんで遊んだりはしても、決して言葉は交わさなかった。理由なんてないが、そいつが話しかけてこないんだから仕方がない。俺に気でも使っているのだろう。ついてきているというより、偶然を装っているというテイのようだ。まるでバレバレだけどな。

現場にはついたが、なにも得ることはなさそうだ。あいつがここで刺された。そう感じるだけで、俺は涙が我慢できない。そっと頬を伝う涙に、自分の弱さを感じた。

くそっ! どうしてこんなことに!

俺の背後でそいつが嘆く。気持ちは分かるが、こんな場所で大声を出しては欲しくない。俺は涙を拭い、歩き出す。どこへ行けばいいんだ? こんなにも俺って、無意味な存在だと感じたことはない。勝手の違う街で起きた事件だ。調べる術は、ほとんどない。警察だって、ここでは俺には味方しない。あいつに会いに行こうか? いいや、それじゃダメなんだ。俺の目的は、犯人逮捕じゃない。その動機を知りたいんだ。

これからどうするんすか? あの人に会いに行きましょうよ。僕、入院先調べたんすよ。この近くらしいっすよ。

俺の背中に、そいつが話しかける。俺は振り向き、首を振る。それじゃぁダメなんだよ。そんな心の声は、そいつにも届いたようだ。

帰り道、俺はそいつと並んで歩く。おかしな奴だ。道中ずっとエプロンをしたままだ。それが自然なんだろうな。道行く人々の好奇の視線をまるで感じていない。俺の方が恥ずかしくなるよな。

結局また、ここに戻って来た。俺はやっぱり、ここで始めるしかないんだと思っている。情報を待つんだ。それしか俺にできることはない。焦ることはないってことだ。

なにか分かったら僕にも連絡下さいよ。絶対っすからね。

そいつはそう言い、店へと戻っていった。頭を掻きながら歩く後姿は、なんだかとても疲れて見えた。

俺はここで、いつものように他人の話を聞いている。あいつのことが話題にはのぼっても、有力情報はなかなか出てこない。この街ではこれが限界なのかと、半ば諦め始めていたよ。けれどやっぱり、俺は運がいい。待てば必ず、情報は流れてくるものなんだ。

やっとあんたに会えたよ。

目の前に立つこの男を、俺は知っている。と言っても、こうして話をするのは初めてだ。ステージの上のこの男を見たことがあるってだけだ。

あの日あんたを見かけたんだ。それでちょっと気になることがあってさ、こうして来たんだけど、一緒にいたあいつは誰なんだ?

この男がなにを言いたいのか、分かりはしたが理解はできない。楽器屋の店長と一緒にいた所を見られたんだろう。しかも多分、あいつの現場近くで。それにしてもなぜだ? こんなことを聞くためだけに俺に会いにきたのか? 面識はないはずなのにな。

そんなに警戒するなって。俺のことは知っているんだろ? 俺もあんたを知っているよ。あいつはいつも、あんたの話ばかりするからな。今でもそうだよ。あいつはなんも変わらない。

俺は確かにこの男を知っている。けれど妙だな。この男の言葉には違和感がいっぱいだ。

あいつは目を覚ましたのか?

さすがは聞き屋だな。ちゃんと話を聞いてくれる。そうだよ。あいつは今朝、目を覚ました。そしていきなり、あんたの名前を出したんだ。聞き屋を止めてくれってさ。これは事件じゃない。事故なんだ。騒ぎを大きくしないで欲しいってさ。あいつらしいんだか、らしくないんだか、正直俺にはわからないね。

ふんっ・・・・ そういうことか。俺にはあいつらしい言葉にしか聞こえないよ。

よほどあんたのことが心配なんだな。側にいた俺たちのことなんて目にも入っていなかったんだからな。

俺を危険な目に遭わせたくないとも取れるが、それは違うな。余計な詮索をされたくないんだろうな。あいつはきっと、誰かを庇っているんだ。犯人かも知れないし、犯人の身内か誰かなんだろうな、きっと。

それだけを言いに来たんじゃないんだろ? 俺と一緒にいた奴を探してどうするんだ?

それはわからない。気になった。そうとしか言いようがないな。あの日あんたはあの現場で泣いていたろ? その後ろであの野郎、どんな態度をしていたか知っているか? 俺は全部見ていたんだ。正直俺は、あんたと一緒にいなかったら、あんな奴はぶん殴っていたかも知れないな。

この男がその場にいた記憶はない。あの日、そこには誰もいなかったはずだ。どうしてこの男はそれを知っているんだ? 楽器屋の店長がどんな態度だったかなんて、俺には興味がないんだよ。俺が知りたいのは、この男の真意だ。

あんたはあいつのバンドメンバーだろ? それだけの関係じゃないってことか? あの日はあいつの部屋から覗いていたのか?

・・・・やっぱりあんたはあいつの兄弟だな。聞き屋ってのは、こんなにも質問ばかりなのか? 今日のあんたはやけにおしゃべりだ。

俺は基本、おしゃべりなんだよ。黙って聞いているように見えても、心の中じゃぁ喋りまくりだ。こんな風にな。

たまにはこういうのもいいだろ? それより俺の質問には答えないつもりなのか?

この男の正体は、あいつのバックバンドのベーシストってとこだ。今の音楽の世界じゃかなり有名なんだそうだ。 海外でも名が通っているらしいよ。俺はまぁ、かなり好きだよ。この男のベースは、胸が熱くなる。踊りたくなるというより、動きたくなるんだ。走り出す衝動が止まらない。

俺はさ、あいつと一緒に暮らしているんだよ。勘違いするなよ。ゲイじゃないからな。俺にもあいつにも、女は大勢いるからな。まぁ、そういう関係が一度もなかったかって言われたら、肯定はしないが、否定するつもりもないんだけどな。

あいつの音楽は、日々変化する。基本はアコギ一本だが、バックバンドを率いてエレキに持ち替えることも多いんだ。アコースティックバンドのときもある。オーケストラだって連れてくる。ときにはシンセを前面に押し出したり、DJを引き連れたりもする。つまりはなんでもありなんだ。音楽って本来そういうもんだ。楽しければなんでもいいんだよ。ジャンル別けなんてつまらないことは言うなってんだ。音楽そのものを楽しむのが一番だ。アカペラだってタップダンスだって口笛だって、あいつは平気な顔で取り入れているんだ。

あの日はな、一階のロビーで寛いでいたんだよ。窓から外の通りが覗ける位置のソファーに腰掛けていたんだ。ポットに入れたコーヒーを飲みながら、本を読んだり、アイディアをメモしたり、スマホで曲を打ち込んだりするのが日課でね。まぁ、それは普段の日常での話だけどな。あの日はあいつの病院から帰ってきたばかりで、部屋に戻る気分じゃなくてさ。ロービーでボーッと外を眺めていたんだよ。そしたらあんたの姿が飛び込んできた。俺は外に出て話しかけようかと思ったんだぜ。後ろの奴に気づくまではな。

奴がなにをしたって言うんだ? 俺には感じられなかったな。奴はいつもと変わらず、可笑しな男だったよ。

けれど現実、俺は気づいていた。楽器屋の店長からは、心が感じられない。嘆きの言葉も、口先だけだった。それでもそいつは、確かになにかを心配していた。それと同時に、あいつへの愛だけはしっかりと感じてできたんだ。

あんたの後ろでぼけっとあくびをしていたんだよ。現場には目もくれていなかった。あいつの視線は、どこか上の空。恐らくだけど、俺とあいつの暮らす部屋を眺めていたのかも知れないな。

それがどうかしたのか? 俺には興味ないね。

あんたは感じないのか? 奴はきっと、なにかを隠している。

そんなことは分かっているんだ。けれど俺は、今はまだ、気にしないことにしている。楽器屋の店長が事件の鍵を握っていたとしても、そこを無理にこじ開ける必要はないと思う。自然と開くのを待てばいい。

聞きたいなら直接聞けばいいよ。そいつはすぐそこの楽器屋の店長だからな。あんたがどう思っているかは知らないが、そいつはただのバカだ。なにかを隠しているかも知れないが、そんなことはどうでもいいんだよ。俺はただ、どうしてなのかを知りたいだけだからな。

それを奴が知っているかもって話だろ? あんたはそうは思わないのか?

残念だけど、それは違うな。そいつが知っているのはきっと、別のことだ。それがなんなのかは、そのうち分かるんじゃないか?

・・・・あんたがそう言うのなら、そうかもな。けれど俺は奴に会いに行くよ。それは問題ないだろ?

勝手にすればいいと俺は言う。男は勝手にするかと言いながら、楽器屋の方に歩いて行った。

俺はあいつの言葉を考える。俺を止めろ? あれは事故、騒ぎをでかくするな、か・・・・ 全く、面倒なことを言うやつだよ。まぁ、意識が回復したのなら、それは嬉しいことだけどな。

聞き屋ってのは実在するんだな。知らなかった。空想の産物だと思っていたよ。

俺の目の前に、また可笑しな奴がやってきたよ。こうも来客が続くのも珍しい。普段の俺は、案外と暇なんだ。

あんたもあいつの関係者か?

俺としては珍しく、フライングの質問だな。

あいつって? まぁ、多分だけど、ちょっと違うな。あいつってあの人のことだろ? 俺はあの人とは面識がないからな。けれどそうだな。俺はあの人の大ファンってとこだよ。

目の前の男は、なんとなくだがあいつに似ている。服装を真似しているのか? いいや、醸し出す雰囲気が、あいつに近いようだな。

ネットで噂になっているのは知っているだろ? 本当なのか?

なにを言っているんだ? 俺はネットには頼らないんだよ。聞き屋ってのは、実際にこの耳で聞いた情報を元に動くんだ。この男は、俺のことを知らない。そのネットでの噂を確かめに来たってとこだ。

どんな噂だ? 悪いけど俺は、電子の言葉は信じないんだ。生の言葉が聞きたいね。

俺の勘が働いた。噂の根源は、案外と近くにいるものなんだ。

聞き屋とエプロン男、犯人は現場に舞い戻る。二人の姿を目撃したものは数多い。俺は知りたいんだ。あんたがそうなのか? あんたの噂はよく聞くよ。いい噂も、悪い噂もな。あんたは今や、都市伝説なんだよ。

エプロン男、か・・・・ どうしてなんだ? 楽器屋の店長が今回の事件のキーマンだってのは分かっている。しかし、どうしてこうも情報が漏れている? 俺の勘では、怪しいのはやっぱり、あの男。楽器屋の店長だよ。どんな意図がある? それは分からないが、噂の根源は楽器屋の店長で間違いなさそうだな。

それでどうなんだ? 噂を信じるのか?

それが分からないからここに来たんだよ。あんたに会えるとは思ってもいなかったよ。所詮は噂。そのつもりだったんだ。けれどあんたは実在した。俺は今混乱しているよ。

そういうことか・・・・ 俺は悲しいよ。楽器屋の店長が噂を流した理由はなんなんだ? っていうか、本当に楽器屋の店長が噂の根源なのか? 俺も今、混乱している。

エプロン男は、どこか不自然なんだよ。普通さ、噂っていうのは客観的だろ? 聞き屋についての噂は、確かに客観的なんだよ。けれどさ、エプロン男が絡んだ噂になると、突然主観的になるんだよ。自ら噂を流しているんじゃないかって、そう疑うのは自然な流れなんだよ。

俺は噂を目にしていない。それでも感じられる違和感。その理由を知るには、やっぱり楽器屋の店長に会う必要があるな。この勢いのまま、こいつを連れて行ったら面白い。さて、どうするかな?

一緒に行ってみるか? エプロン男はこの先の楽器屋で働いているよ。俺もちょっと会って話したいことがあるからな。

っていうか、その噂ってどんなんなんだ? 聞き屋のくせに、聞き忘れとは情けない。

俺は立ち上がり、店へと足を急がせる。これで全てが解決するんだとの、期待は少ない。後ろをついてくるこの男の言う噂ってやつも、あてにはならない。きっと、あの日二人で現場に行ったことが噂になっただけなんだろうな。

あんたはどうするつもりなんだ? エプロン男に会ったところでなにをする? あの男はバカだからな。多分だが、あんたが思うのとは違う意図なんじゃないか?

そうかもな。俺はただ、真実を知りたいんだ。噂が本当でも、嘘でもどうでもいい。あんたは犯人じゃない。それは分かったよ。エプロン男もきっと、違うんだろうな。だったらなぜだ? 自分とあんたを犯人に仕立てようとした理由はなんだ? 注目を集めたいただのバカなのか? それならそれで構わない。けれどそれも、違うってことだろ?

ふっ、噂って、そういうことか。だからなんだな。最近客が減っていた。特に、俺世代の客がな。バカバカし過ぎる。エプロン男も同感だろうな。そう思ったからこそ、噂を流したんだ。あの男は、なにかを知っていて、それを隠しているんだよ。

まぁ、会えばわかるだろう。すぐそこだよ。そこの楽器屋の店長なんだよ。

店に入るとすぐ、エプロン男の顔が見えた。俺はそっと近づいた。俺がなにしに来たか、わかるか?

・・・・さっき来た人のことっすか? 今は上でベース弾いていますよ。なんなんすかね? 色々聞かれましたっすけど、なんか変わっていますよね。あの人のことが心配なのは分かりますけど、僕に話を聞いたって意味ないっすよね。あの日のこと聞かれましたけど、僕はただ聞き屋のお兄さんについて行っただけっすもんね。

そういえばそんな奴がいたなと、俺はすっかり忘れていた。こいつは聞いてないんだな。あいつの意識が戻ったことを。教えればきっと、事件は解決に向かうんだろうがな。

お前が噂の根源か? なにを考えているんだ? 俺はさ、色々と知っているんだよ。教えてくれないか? 片言の外国人、それって誰のことだ?

俺がまだ聞いていない情報がいきなり飛び出した。なんだか嘘つきばかりだな。こいつも楽器屋の店長も、上にいるベーシストも同じだ。けれど助かるよ。嘘をつくってことは、隠された真実があるってことだ。それを見つければきっと、事件は解決する。まぁ、必ずしもその結果がいいとは限らないけれどな。必要な嘘が存在するのも事実なんだよ。

俺をあまりなめるなよ。男はそう言い、エプロン男に掴みかかろうとする。知らなかったよ。エプロン男は意外と素早い動きをするんだな。その手をパッと払って、男を押し飛ばした。迷惑だよな。それともわざとか? 男は俺にぶつかり、二人がよろめいた。その隙に逃げ出すとは、バカな奴だ。どうせ捕まるんだぞ。ここは横浜だ。俺の街なんだよ。逃げ切れるはずがない。

俺はすぐ、電話をかけた。相手は、ホテル経営をしているおばちゃんだ。楽器屋の店長を見つけて欲しい。いつもの場所で待っている。それだけを伝えた。

くっそ! やっぱりあいつ、なにか知っているんだ!

男は立ち上がると、走って追いかけようとする。もう手は打ってあるよ。俺の言葉に男は足を止めた。腰でも強く打ったんだろうな。痛そうな顔を引っ込めない。俺はすぐに体勢を整えたが、男はまだふらついている。案外に弱い身体をしているものだ。

どういうことだ? あいつを逃すつもりじゃないだろうな!

そんなことはしない。それよりそれは、俺のセリフだけどな。どういうつもりなんだ? 嘘をつくってのは良くないな。お前はなにを知っている? そしてなにを隠している?

こいつはだんまりでも決めるのかと思ったよ。沈黙が、やけに多い。

・・・・あんたはなにも知らないんだな。この事件はかなり大きな話題になっているんだ。噂もそれは星の数ほどだ。エプロン男もその一つに過ぎないんだよ。あいつは・・・・

それ以上は言わなくていいよ。こいつはあの聞き屋だぞ。すでにもう、気づいているんだろ?

上の階からベーシストが降りてきた。店内に階段があり、騒ぎが聞こえて降りてきたのだろう。

なんだか映画やドラマの最後の大物登場って感じに、ポケットに手を突っ込んで、偉そうに足音を鳴らしていやがる。

それは俺に言っているのか? 思わず俺も映画の主人公のような言葉を発する。まぁ、だいたいは見当がついている。ヒントもいっぱい貰えたし、あいつの性格を考えればな。

それでどうするつもりだ? 黙って身を引くのか?

それは分からないな。取り敢えずは、店長に話を聞いてからだよ。

俺とベーシストの会話に、一人ついてこられない男がいる。こいつはただの冷やかしだな。興味本位でネット検索をし、その延長でここまできてしまった。なんていうか、暇な奴だよ。俺の代わりに聞き屋にでもなれば、きっといい仕事をするだろうな。本気でそう思っているよ。

俺たちは三人、バラバラに駅へと戻っていく。話すことがないわけでも、お互いを警戒しているわけでもない。ただなんとなく開いた距離をそのままに、足を動かしているだけのことだ。

俺の仕事場には、おばちゃんがいた。俺の使う椅子に座っている。エプロン男も隣にしゃがんでいる。こっちは地べたに体育座りだ。うなだれているのは演技なのか? おばちゃんが俺に気づき、そいつを小突いた。パッと顔を上げ、俺と目が会うと、口を大きく笑ってみせる。

この子がなにかしたのかい? とても悪い子には見えないがね。

おばちゃんから見れば、こいつや俺はまだまだ子供なんだろうな。俺もそう思うよ。こいつは悪い子なんかじゃない。

ちょっと話を聞きたいだけだよ。いきなり逃げ出すものだからさ、そんなに怯えるなよ。なんて言ったが、それは無理だよな。男三人に囲まれれば、誰でも怯えるよ。しかもこの街の顔役のおばちゃんにまで睨まれているんだからなおさらだな。そいつは、目を潤ませ、作った笑顔のまま固まっている。

俺はさ、警察とは違う。それはお前だってよく知っているだろ。どういう結果になるかは分からないけど、真実が全てとは俺は思わない。なんでもかんでも警察任せになんてするつもりはないよ。ただな、真実を知らなければ、どうすることもできないんだよ。俺は思うんだ。お前だけなんだろ? あいつさえも知らない真実を知っているのはさ。

・・・・僕はさ、あの人のことが大好きなんすよ。それは聞き屋のお兄さんも知っているでしょ? けれどさ、もっと大好きな人がいるんす。僕はその人を守りたいんす。それだけなんすよ。

エプロン男が話をしている間、二人の男は黙りっ通し。おばちゃんなんて、いつの間にか姿を消している。空気が読める大人って格好いいよな。俺は構わず、会話を続ける。

片言の外国人ってことか。まぁ、好きなように話せばいいよ。俺はちゃんと、聞いている。心配は意味がないってことくらいわかるだろ?

あの子は僕のために刺したんすよ。ちょっとした勘違いで、あの人を刺してしまったんすよ。悪気はなかったんす。僕が全部、悪いんすから。

俺は黙ってこいつの話を促した。私情が溢れたその言葉は、ときに分かりにくくもあるが、まぁ大体の事情は飲み込めたよ。あいつが庇おうとしているのも納得だった。ほぼ予想の範囲内だってことだ。

つまりはその日、こいつとその恋人のフィリピン人があいつに会うためあの場所に行ったんだ。どうして会いに行ったのかは、聞いてはいるが、意味は分からないな。彼女が会いたいと言うから、連れて行ったと言う。こいつとあいつは友達でもなんでもないんだ。ちょっとした知り合いだ。こいつはあいつの家を知っていたようだが、あいつはきっと、こいつが自分の家を知っていることを知らなかったはず。まぁ、有名人ってのは、プライベートなんてなくていいんだよ。その存在を売り物にしているんだからな。こいつはあいつの家を、ネットで調べたらしい。簡単な時代になったよな。なんの苦労も人脈もいらないんだから。しかし、彼女の真の目的に、こいつは気がつかなかった。まさかだよな。馬鹿げているが、人間の考えっていうのは、そもそもが馬鹿げている。彼女はあいつに嫉妬した。こいつがあいつの話ばかりするのが気に入らなかったそうだ。それだけの理由であいつを刺したという。信じられないが、こいつはそれを真実と思っているようだ。突然の彼女の行動に、こいつは慌てた。何度もあいつに包丁を突き刺す彼女を必死に引き離し、すぐに救急車を呼ぼうとした。けれどそのとき、あいつがこいつの手を止めた。瀕死の状態にもかかわらず、必死に体を動かし、声を出す。警察には連絡するなと言う。救急車への連絡は俺がする。そう言いながら自分の携帯を取り出し、番号を押す。怪我をして動けない。事故に遭ったと言い、簡単な住所を言うと、電話を切った。そしてこいつに、彼女と一緒に逃げろと言った。このことは忘れるんだ。誰にも言うな。これはただの事故なんだ。あいつはこいつにそう言い、早く逃げろと怒鳴りつけ、意識を失った。こいつは少しの間、そこから離れられずにいた。困惑して、足が動かなかったそうだ。彼女もまた、自分がしたことの重大さに気がつき、思考も身体も固まっていた。しかし、救急車のサイレンが遠くから聞こえてくると、慌てて彼女を引っ張り逃げ出した。その際、犯行に使用した包丁を拾い、持ち帰る余裕が、彼女にはあったという。これがあいつの言う、事件の全容だ。

話し終えた後、こいつは何度もごめんなさいを繰り返し、涙を流した。

それでその女はどこにいる?

俺がそう言うと、こいつはわざと項垂れ、こう言う。

国へ帰したよ。それが一番、安全なんだ。

俺は少し、思案のため息を零す。これで事件はお終いなのか? そうかも知れない。あいつはきっと、被害届を出さないだろう。さすがに自分で刺したとは言わないだろうが、そうとも言いかねないから怖いんだよな。きっと、これで終わりなんだろうなと、俺は思った。ベーシストも、もう一人の男もそう思ったようだ。こいつをどうするつもりなんだ? ベーシストがそう聞いた。どうするもなにもない。こいつはもう、許されているんだろ? 俺はそう答える。あいつがそう思っているのなら、俺にできることはなにもないよ。

ベーシストは納得したように帰って行った。もう一人の男はなんだか不満そうだったが、ベーシストに促され、一緒に帰っていく。なにやら話をしていたが、俺には聞こえない。きっと、このことは忘れよう。なんてことを話しているんじゃないかと思う。

お前はもう店に戻れよ。俺がそう言うと、エプロン男は立ち上がり、頭を下げる。本当にごめんなさいと、大きな声を出した。分かったから、帰れよ。そう言うと、項垂れたまま歩き出した。

俺は考える。本当にこれでお終いなのか? 一番いいのはそのフィリピン人に会って話を聞くことだ。しかし、それは難しい。まさか飛行機に乗ってまで会いに行けってのか? そこまでする必要はあるのか? 俺は悩んでいた。そして気がつくと、夜になり、終電が走り去って行く。久し振りだな。平日のこの時間にここに座るのは、ギターを弾いていた頃以来だよ。さすがに人通りは少なく、騒めきも少ない。考え事をするにはちょうどいい静けさだ。って言っても、家の中よりは断然うるさいんだけどな。それが俺にはちょうどいい。

あんたはいつもここにいるんだな。嬉しいよ。相変わらずで。

懐かしい声が、心に感じる。こうやって話をするのは何年振りだ? 考えるだけ無駄だな。

こんなとこにいていいのか? 今頃病院は大パニックだろ?

俺の隣に腰を降ろして座るのは、いつも通りのあいつだ。とても怪我人には見えないな。裸のギターを抱えている。この格好で電車か? さすがに車の運転は無理だろう。タクシーでも拾ったのか? 俺は疑問を全て捨て去った。どうでもいいことだ。こうしてこいつと話ができる。それだけでじゅうぶんなんだよ。

俺に会いたいって思っていたろ? 分かるんだよ。あんたが本気で願えば、俺はいつでも駆けつけるんだ。

なにを馬鹿なことを・・・・ まぁそんなことはどうでもいいんだ。本当に元気なのか? 怪我は治るんだよな? このまま死ぬとか言うなよ。

俺は本気で心配している。死ぬ前の最後の灯火。よくある話だろ?

怪我の具合はまぁまぁだよ。傷は縫いつけてあるし、中身もまぁ、回復段階だ。安静にしていれば大丈夫だとよ。

安静って言葉は曖昧だよな。ベッドの上でおとなしくしろってことか? 自宅にいても、外で遊んでいても、無理をせずにいれば安静と言えるんじゃないかって思うんだけどな。ただ寝ているだけでも、汗をかくほど暴れることもある。

お前さ、なにか隠しているだろ? 楽器屋の店長も知らないことをさ。

俺には確信がある。しかし、どうしてもピンとくる想像が湧いてこない。

・・・・あんたには敵わないな。まぁ、黙っていればバレないと思うんだけどさ、あんたもしつこいからな。深く調べれば、いつかは分かっちゃうんだろうな。

あいつは少し、恥ずかしそうな笑いを浮かべる。そして静かに、とんでもないことを語り出す。

俺さ、ちょっとやばい奴らの女に手ぇ出しちゃったんだよ。ヤクザとかじゃないぜ。政治家って奴の裏にいる奴らだよ。そこのボス的な存在の愛人だな。参るよな。俺のファンだと言って向こうから会いに来たんだぜ。どんなつてを使っても絶対に俺個人の知り合いしか楽屋には通すなって言ってあったのにだ。超がつくなんてもんじゃないほどの大物らしいんだよ。俺としちゃ、そんなことは関係ない。いい女だと思ったから連絡先を聞いた。そして関係を持った。それだけのことだ。けれどその大物さんは、案外肝が小さいんだな。俺を殺そうと、あの子を利用したんだ。笑っちまうよな。俺の周辺を色々調べ尽くしたみたいだ。あんたのこともきっと、調査済みだな。それで楽器屋の男が標的にされたんだよ。あいつの女はフィリピン人だ。唆しやすかったんだろうな。あの子がどんな素性かは詳しくは知らないが、きっとまともな観光客じゃないってことだ。もちろん学生でも会社員でもない。まぁ、そこんところはあんたの方が詳しいだろ?

確かにその通りだ。不法入国者の事件は多い。まぁ、そういう事件に俺が首を突っ込むことは少ないんだがな。そういうのはあそこでさぼっている警察の仕事だよ。

きっと、脅し文句と金を餌にしたんだよ。本当のことをなんにも知らない楽器屋のあいつは可哀想だけどな。俺は今後も、このことをあいつには言わないつもりだ。あんたもきっと、言わないだろうな。

お前はどうするんだ? このまま黙っているのか? お前を殺そうとした奴らをそのままってわけにはいかないだろ?

俺は決めたよ。その大物さんを懲らしめてやろうとな。

もう手は打ってあるんだよ。ああいった世界も結構大変みたいだな。長い間のさばり続けていると、敵も増える。今はまぁ、落ちぶれ寸前ってとこだな。だからこそ必死に見栄を張る。俺を殺そうとしたのも、その程度の動機なんだよ。俺はそいつらから情報を得て、ある証拠を掴んだんだ。その大物さんを失墜させるような情報だ。まぁわかるだろ? 汚い金と乱れた権力に塗れて生きてきたんだ。悪さをしていないはずがないんだよ。

だけどそんな証拠、簡単には掴めないだろ? 相手は落ちぶれ寸前とはいえ大物なんだろ? なんだか今回は、本当に俺の出番はなしのようだな。

それがな、俺には簡単なんだよ。手を出した女ってのは、今じゃ俺の本当の彼女なんだ。俺のためにはなんでもしてくれる。だから俺も、彼女のためならなんでもするんだ。

いつから計画していた? どうせなら、こんなことになる前に動けばよかっただろ?

そう言うなって。そうなんでも予定通りにはいかないものなんだよ。情報は掴んだ。証拠もある。後はそれをどこへ流すかだ。俺は本気で悩み、決意していたんだ。あんたの噂はよく聞いていたからな、あんたに任すつもりだったんだよ。こうなる前から、ここに来るつもりでいたんだ。これに全てが入っている。後はあんたに任すよ。どう使ってもいい。捨てたって構わないんだ。

あいつはポケットから USBを取り出し、俺に投げてよこした。手に取った俺は、顔を歪めた。こんなもんでその大物さんの運命が変わるのか? 不思議な世の中になったものだ。

分かった。好きに使わせてもらうよ。お前の新曲とかも入れていてくれたら嬉しいんだけだな。

ハッハー、やっぱりあんたは最高だよ。新曲なら今ここで、二人で作ろう。

あいつは立ち上がり、俺にギターを手渡した。俺も立ち上がり、適当にギターを奏でる。あいつは足を鳴らし手拍子を取りながら、メロディーを探る。何度か繰り返すうちに、曲が形になっていく。俺とあいつは、朝まで曲を作りは歌いを繰り返した。気がつけば数人のギャラリーが一緒に楽しんでいたが、まさか本物のあいつが歌っていると思う奴は一人もいない。なんせ、重体で入院中ってことになっていたんだからな。それでも大いに盛り上がったよ。もう直ぐ始発って頃には、十曲は仕上がっていたな。そしてギャラリーが消えて行く。家路へと向かうようだ。しかし、理由は他にもあった。俺たちの前に、警官が二人、立ち塞がったからだ。

特に悪いことはしていないはずだぞ。俺はその二人にそう言う。その二人は笑って首を横に振る。

そんなのは分かっているよ。だけどな、今ここにいるのはまずいだろ? 色々事情は知っているんだ。大人しく病院に戻るんだな。車なら手配済みだ。もう直ぐ、そこまでやってくる。

あいつは素直に分かったと頷いた。俺には分からないこともあるが、今はまだ黙っていようと思う。あいつが病院に戻った方がいいのは確かだ。早く回復するのを待っているよ。俺はあいつに、またいつでもここに来いよ。そう言った。あいつは、分かっている。ここは俺の家だからな。そう言った。俺は手に持っていたギターをあいつに返す。しかしあいつは、受け取らない。それはあんたに貸しておくよ。そう言った。返すの間違いだろと、言いそうにはなったが寸前で堪えた。分かった。大事にするよ。そう言った。あいつはやってきたパトカーに乗り込み、病院へと帰って行った。俺はギターを、数年ぶりにケースの中にしまった。

あんたらはどこまで事情とやらを掴んでいるんだ? あいつは本当に、病院に帰れるんだろうな?

少しの不安はある。警察は、いつでも土壇場で裏切るからな。

心配はない。それより、どうするつもりだ? あいつはあんたに全てを任せたんだろ? そのまま忘れるってわけにはいかないんだぞ。

そこまで知っているってことか? さすがに驚くよ。警察ってやつは、なかなかな組織だな。

これは大きな事件になる。警察ではだいぶ前から情報を掴んでいたんだ。知っているか? あいつに情報を流したのは、警察の息がかかった奴なんだ。警察からしてもそろそろ、その大物さんには消えて欲しいってことだ。それでもまぁ、体裁ってものもある。あんたの方から情報を流してもらえると助かるよ。

なんだか面倒だが、俺は了承することにするよ。あいつもそれを望んでいるようだしな。

分かったよ。知り合いの出版社関係の誰かに当たってみる。それでいいだろ? メディアからのリークなら傷をつく者は少ない。

あぁ、それで頼むよ。そう言い、警官二人は自分たちの住処に戻っていった。


ここからはまた、後日談に戻る。あいつは無事回復し、新しいCDを作り、発売した。俺と作った十曲全てをアレンジをほとんど変えずに録音した。クレジットには聞き屋の名前がある。あいつからの報酬は、かなり莫大な印税だよ。世界中で今、売れまくっているからな。契約書へのサインは済ませてある。あいつのマネージャーが一度、顔を出しているからな。

USBは新聞社に送ったよ。以前ここに来たことがある作家のあいつに紹介してもらったんだ。翌日には新聞の一面に載り、大騒ぎになったよ。その後もあらゆる新聞や雑誌で記事にされ、あいつが言う大物さんは、逮捕された。しかし、保釈中に自殺をしたんだ。それをきっかけに、騒ぎは沈静化した。あいつや俺の関わりは一切報道されていないよ。これでよかったんだ。あまり深くほじると、色々なところに迷惑がかかる。根元が一人死んだんだ。それで良しとしておこう。

あいつを刺した犯人は、どこにもいない。あいつは意識回復の翌日、記者会見を開いた。俺が刺されたってのは誤報だ。ちょっと転んで怪我をしただけだ。そう言い放ったんだ。運が悪かったんだよ。みんなも気をつけな。

記者連中の不満の声は大きかった。刺された事実は誰もが承知している現実だったからな。当初は病院側からの会見だって行われたほどだしな。しかし記者連中は、前日のここでの出来事を掴んでもいた。誰かがビデオを撮って、ネットにあげたていたんだよ。あいつにとっては好都合だ。刺された奴がこんなことできるか? だってさ。さすがだよな。

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聞き屋 @Hayahiro

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