第9話


 これは、触れてはいけない問題なのかも知れない。デリケートな話は、できるだけしたくない。けれどこれが現実なんだ。世の中のイメージとはかけ離れた現実が、そこら中に転がっている。

 義理のお姉さんの話なんだけどさ・・・・ 話はそこから始まった。商売上、ショッキングな話題は多いが、こんなにも心が揺れたのは初めてだった。結果として俺は、いいことをしたのか、多くの人生を狂わせたのか、今はまだ判断に困っている。

 性転換って、したことある? とんでもないことを聞く奴がいるものだと思ったよ。俺がもし、性転換をしていたなら、元は女だってことだ。わざわざ聞くか? って思ったが、それが奴の語り口だと気がついた。そうやって相手の興味をそそり、話を盛り上げながら進めていく。

 義理のお姉さんがさ、突然性転換したんだよね。なんだかさ、ちょっと変わった人でさ、その気があったってのも、最近になって知ったんだよ。まぁ、僕とは少し距離があるからさ、あまりよくは知らなかったんだけどね。

 奴はいつも、相手が気になる話し方をするんだよ。少し距離がある? なんのだよ! って突っ込みたくなる。

 義理っていっても、本当に義理なんだよね。兄貴の嫁さんのお姉さんなんだから。何度か会ったことがあったって程度だったんだよ。その事実を公表するまではね。

 奴の声はなんだか不自然に野太い。その身体つきは華奢だが、スポーツでもやっていたのだろうと思える芯の太さを感じられた。服を脱いだら凄いんじゃないかって想像できる身体つきだよ。背の高いボクサーの様な感じといえばいいのか? 奴はまぁ、背はそれほどは高くないんだけどな。俺と同じくらいだよ。

義理の姉さんは、日本人じゃないんだ。僕の兄貴はさ、タイで仕事をしていた関係でさ、そこで知り合ったタイ人と結婚したんだよね。

 奴の顔も、ほんの少し東南アジアの様な雰囲気を醸し出している。キックボクシングでもしているのかも知れないと感じたよ。

 タイ人てさ、綺麗な人が多いんだよね。兄貴の嫁さんも凄く綺麗だよ。背が高くてさ、モデルの仕事をしていたっていうくらいだからね。なんていうかさ、ちょっと爬虫類っぽい美人っているでしょ? そんな感じだよ。トカゲっぽいっていうのかな?

 奴もまた、爬虫類っぽい顔立ちだった。どっちかっていうと、蛇のようだな。男っぽくもあり、女っぽく感じる部分もある。ちょっとだけ残念なアイドルのようだ。要するに、イケメンってことだよ。

 けどさ、あの人はあまり、綺麗じゃなかったな。兄貴の結婚式はタイで挙げたんだけどさ、確かにメイクをすればそれなりにいい女だったかも知れないけど、なんていうか、女性らしい輝きが感じられなかった。お店でメイクをしてもらったんだからさ、もっとウキウキするのが女性でしょ? なんだかブスッとしていたな。女でいるのが嫌だったのかも知れないけど、僕にはただ、綺麗な妹に嫉妬しているようにしか見えなかった。そのメイクも、妹の友達のメイキャップアーティストにしてもらったんだよ。今じゃ東南アジアでは有名人なんだってさ。あの人はさ、ずっと妹に嫉妬しながら生きてきたんじゃないかって、僕は思うんだ。裏返しに言えば、憧れていたんだろうね。いろいろ話を聞いていると、そうだって確信する言葉を落としていくんだ。

 奴にはなんだか、違和感が多い。俺はじっと、奴を見つめた。その違和感を見極めようって思ったんだ。しかし、そう簡単にはいかない。奴はかなり、場慣れしている。自分を偽って生きることに慣れていたようだ。

 義理の姉さんは、結婚してから初めて日本に来たんだ。僕の兄貴はさ、結婚を機に仕事を変えたんだよね。なんていうか忙しい仕事でさ、世界中を飛び回っていたんだよ。けれどさ、義理の姉さんがそれを嫌がったんだ。日本に行くならいいけど、他の国は嫌だってね。兄貴は簡単に仕事を辞めてしまったよ。かなりの高給取りだったっていうのにだよ。兄貴は愛をとったんだ。義理の姉さんも同様だね。タイにいればモデルとして活躍できるのに、それを捨てたんだ。主婦として、兄貴と共に生きることを選んだんだよ。素敵でしょ?

 羨ましい話だよな。そうやって愛を感じる人と一緒に過ごせるなんてな。まぁ、俺だって妻や子供を愛しているんだぜ。それから、この街もな。

義理の姉さんが日本に来て、二年目だったかな。急にさ、あの人が日本に行きたいと言い出したんだ。観光? そう思ったが、違っていた。日本語を勉強して、日本の大学に行きたいと言い出したんだ。そしてすぐ、行動を起こした。留学するための日本語学校の生徒募集? なんだかよくわからない広告を見つけ出し、応募した。あの人は、ものすごく勉強ができるんだよ。タイで一番の大学に、奨学金を貰って通っていたんだ。それなのに、卒業後は仕事を辞めてはふらふらを繰り返していた。

 奴はあまり、その人のことが好きじゃないんだなって感じるよ。なにかを嫌悪しているんだろうな。合間合間に苦い顔をする。

 生徒募集には試験があったんだよ。面接もね。あの人は一番の成績で合格して、日本行きを決めたんだ。残念なことに費用は自分持ちだよ。学校の紹介と共にさ、アルバイト先まで紹介してくれるんだってさ。アルバイトをしながら日本にある日本語学校で二年間日本語の勉強をするんだ。そして大学の試験を受けて、受かれば大学生ってわけだよ。

 俺は奴の違和感に、なにか答えを見つけたような気がした。正確な答えまでとはいかないが、奴が嘘をついているんじゃないかと感じたんだ。その言葉に嘘がないのは分かっている。どこか違う場所に嘘が隠れている。

 あの人はすぐ、日本にやって来たよ。千葉にある学校で、学校が用意した下宿に引っ越してきたんだ。僕は会いに行かなかったけど、兄貴は何度も行っているよ。当然かもね。義理の姉さんと一緒に、月に一度は行っていたんじゃないかな。

 俺は思ったよ。わざわざ日本に来なくても、日本語の勉強はできるんじゃないかってな。しかも、知らない国に来てアルバイトをしてまで・・・・ 奴の言うあの人は、三つのアルバイトを掛け持ちしていたそうだ。

 よく頑張っていたんじゃないかって思うよ。たまの休みにはアルバイト先のおっちゃんとデートをしたりもしていたみたいだしね。ディズニーランドに行ったとか言っていたよ。

 凄い人がいるものだって思ったよ。話を聞くと、アルバイトで得たお金は、学費と生活費だけじゃなく、仕送りにも使っていたそうだからな。俺はただ、感心するばかりだった。しかし奴は、あまり快くは思っていないようだった。言葉ではなく、顔に出るんだよな。奴は。

 大学受験は、予想外に簡単だったみたいだね。書類を出して面接しておしまいだよ。なんだか日本語と英語の簡単なテストがあったとかなかったとか言っていたな。あの人は本当に勉強だけはできるからね。こっちに来て二年目にはもう、日本語検定の一級を取ったくらいだからさ。

 そいつがどんなに凄いものなのか、俺は知らない。奴が言うには、日本人が受けても一級は受からない人が多いんじゃないかって言っていたよ。問題集を見たけど、僕なら受からないね。なんて笑っていた。

 けれどさ、今でもそうだけど、喋るのはあまり上手じゃないんだ。難しい言葉を知っていたり、漢字なんかは得意だけどね。話をするとぎこちない。カタコトってほどじゃないけど、いかにも外国人って感じだね。義理の姉さんなんて日本語検定は二級しか持ってないけど、しゃべりは上手だよ。外国訛りだけど、会話で困ることはないね。僕より上手なんじゃないかな?

 奴は随分と贔屓をしているようだった。義理の姉さんを、区別している。どっちも同じ義理だろ? とは聞けなかった。兄貴の嫁さんとは、よほど気が合うんだろうなと思っていたが、それもちょっと違っていたよ。奴は、兄貴の嫁さんに惚れていたんだな。そう考えると、後々の奴の行動が納得できる。

 あの人はさ、国大の大学院に入ったんだ。情報処理っていうの? そういう勉強なんだってさ。本人は言ってないんだけど、東大でも京大でも好きな大学に入れたらしいよ。義理の姉さんが言っていたんだ。私がいるからって理由だけでこの街を選んだってさ。義理の姉さんの家から国大まではさ、歩いても二十分くらいなんだよ。まぁ、あの人は原チャで通っていたんだけどね。俺が義理の姉さんのためにあげた原チャでだよ。乗らなくなったからあげたんだけど、いつの間にかあの人の物になっていたんだ。義理の姉さんは車の免許を持っていてさ、こっちで切り替えていたんだ。けれどあの人は、その原チャを目当てにわざわざ免許を取ったんだよ。はじめから計画通り、そういう人なんだ。今になって色々と計画が崩れているけどさ、ちょっとざまぁみろって気分だよ。

 奴の言うあの人は、奴の兄貴の家に居候していたそうだ。部屋を一つ貸したそうだよ。原チャ付きでね。けれどきちんと家賃というか食費というか、気持ち分は払っていたそうだ。奴の兄貴の少ないお小遣い程度だったらしいけれどな。アルバイトをして学費を払って仕送りを続けていたんだから、それでも立派だよ。まぁ、奴から言わせれば、義理の姉さんが可哀想らしいけれどな。もらった金では食費代にも足りていないってさ。

 大学院ってさ、二年間で卒業なんだってね。なんかその先もあるとかって言っていたけど、あの人は就職を選んだよ。修士課程ってやつかな? 博士じゃないってことらしいよ。

 俺も大学の構造はよくわからないが、そういうことだ。修士課程が終わって博士課程ってのが一般的らしいからな。修士課程だけでも、立派な学歴だよ。奴は少し、なんで博士じゃないだろうって笑っていたけどな。

 卒業後はさ、大手メーカーのなんとかテクノロジーって子会社に就職したよ。結構有名なんだってさ。仕事内容はよく分からないけどさ、海外出張に行かされたり、期待のニューカマーだって、義理の姉さんが自慢していたよ。あの頃はさ、向こうの家族も、みんながあの人を応援していたよ。なんでこんなことになったんだろうね。

 奴はなかなか本題に入ろうとしない。チラッと見せては引っ込める。有名な女優が映画なんかで見せる、詐欺まがいのストリップってとこだな。

 あの人は会社が用意したアパートに引っ越して行ったよ。義理の姉さんは、あの人が千葉にいるときに長男を産み、居候させているときに長女を産んだよ。そして去年、次女が産まれているんだ。みんなとても可愛いんだよな。僕には自慢の甥っ子姪っ子なんだよ。

 そう言いながら奴は、携帯で三人の子供の写真を見せてきたんだ。本当に可愛い子だったな。まぁ、俺の子供たちには負けるけどさ。なんてな。子供ってのは不思議だよ。誰もが平等に可愛いんだ。まぁ、感情的には違いがあるのも事実だが、それは当然だろ? 親っていうのはさ、誰もが平等に子供を愛するものなんだよ。まぁ、どんなことにでも例外があるっていう悲しい現実は無視するとしてな。

 あの人はさ、義理の姉さんが長男を産んだとき、とても嬉しそうにしていたんだ。僕と同じ気持ちだと、始めて湧いた親近感に驚いたのを覚えているよ。けれどさ、長女が産まれたとき、微妙な感情が湧いていたようなんだ。僕には感じられたよ。まぁ、僕も似たようなもんだからさ、ああいった感情は伝わりやすいんだ。

 それって嫉妬だろ? そうとは口には出さないが、人間なんて嫉妬の塊みたいなものだからな。誰もが自分を中心だと考え、自分より優れていると感じると、羨み、嫉妬するんだ。気持ちは分かるが、滑稽だよな。俺はあまり嫉妬はしないよ。自分を知っているからな。自分がどの程度か分かっていれば、無意味な嫉妬はしないものだろ? 羨むくらいなら、嫉妬なんてしないでさ、負けるもんかと努力するのが普通だと思っているからな。けれどな、そんな嫉妬ばかりの人間には嫌気がさすのが現実だな。俺はさ、そういう奴を見ると、自分を知れよと言いたくなるんだ。みっともない嫉妬をして、逆切れをし、自分を正当化する。そんな奴が、街には多く溢れている。断っておくけど、そうじゃない奴だって多く溢れているんだぜ。

 あの人は、自分でも子供が欲しいと考えて、その欲求を止められなくなってしまったんだ。子供のときからそうだったようだよ。一度こうと決めると、その通りになるまで突き進むんだ。日本語の勉強をして日本にやってきたときと同じだよ。それで今度は子供を産むために、色々な策を練ったんだ。

 いい人を見つければいいだろと、俺は安易なことを考えた。仕事ができて頭がいい、大手企業なら独身男性は選び放題だろ? 妹がモデルなら、奴が言うあの人だって、奴が思う以上に綺麗だって、俺は感じていたんだ。しかし奴は言う。あの人に恋人なんてできるはずもないってね。

 顔の良し悪しは好みだからさ、僕はなにも言わないよ。けれどね、あれじゃあ彼氏を作るのは無理だろうって思ったよ。なんていうかさ、理想が偏っていてさ、親戚のお兄さんみたいな人じゃなきゃダメだとか言っていたな。何度かデートはしていたみたいだけどさ、どれも一度きりだったよ。二度目につながるデートはなかったようだね。本気で恋人なんて欲しくなかったんだよ。僕には分かるよ。親戚のお兄さんに憧れていたのも、ちょっと理由が違っていたんだ。

 結婚なんてしなくても、子供がいなくても、そんなことはどうでもいいだろ? 正直言って、今の俺の気持ちとしては、嘘だな。結婚はしたい。子供も欲しい。次の人生が待っていたのなら、もう一度って思うんだよな。けれど、それが全てじゃないとも思うよ。まぁ、妻も子供もいる俺に、いなくて悩んでいる人の本当の気持ちはわからないってことだ。

 あの人は、恋人作りを諦めたんだ。それでも、子供だけは諦めなかった。どうしても欲しかったんだろうね。精子バンクっていうの? そういうところで精子を買ったらしいんだ。けれどさ、なかなか妊娠しなかったんだってさ。それで病院で調べてもらったら、僕は詳しく聞いても意味がわからなかったんだけどさ、つまりは不妊ってことなんだってさ。

 俺もこういう話には詳しくないんだけど、女の人は大変なんだよ。妊娠できない身体だってわかると、それだけで大きなショックなんだ。俺の妻も、思うように妊娠ができなかった頃は悩んでいたからな。その点男は楽だよ。最近は男の不妊症もよく聞くようになったけど、男って奴はさ、なかなか現実を受け入れないんだ。医者に宣告されても、他の病気と違って命には関わりないし、どこかが具合悪くなるわけでもないからな。逆に喜ぶ奴もいたな。これからは浮気をしてもそういう心配ないってさ。まぁ、そいつは特別に腐った野郎だったけどな。

 それでもあの人は諦めなかったんだ。そこからなんだよ。義理の姉さんの家族が苦しむようになったのはね。本当にあの人は、発想が突飛すぎる。それはもしかしたら、僕のせいなのかも知れないんだ。

子供がどうしても欲しいって話はよく聞くよ。不妊で悩んだ夫婦が養子を貰うなんてことは最近では珍しくもない。独り身の女性が精子バンクを利用するのもよく聞く話だ。俺にはとても、突飛な発想とは思えなかった。まぁ、ここまでの話では、だけどな。

 あの人はさ、友達の身体を使って、体外受精をした赤ん坊を産んだんだよ。

 結構な衝撃発言だよな。俺にはなかなか奴の言う言葉の意味がわからなかった。

 代理母出産ってやつみたいだよ。日本じゃまだ珍しいみたいだけど、海外じゃ普通らしいね。あの人はシンガポールに行ったみたいだね。タイだってそれなりに盛んではあるみたいだけど、まぁ、あの人の考えそうなことだよ。できるだけ現実から目をそらすんだ。

 俺はいつの間にか、奴の話を求め始めていた。こんなことは珍しい。早く続きを聞きたいんだ。それなのに奴は、無駄な焦らしを入れてくる。若干だけど、腹が立ったよ。

 あの人は友達をシンガポールまで呼び寄せ、体外受精をした自分の卵子を埋め込んだんだよ。言葉は悪いけど、それが現実なんだ。その結果、見事だよね。友達は妊娠したんだ。

 胚移植っていうんだよ。なんて、当時は俺も知らなかった。奴との話を聞いて、後に調べたんだ。奴の話は、こうして俺が喋るには重たすぎるんだ。だから俺は、少しでも誰もが楽しくなる話にしたいと思っているんだよ。そのために話を曖昧にしたり、ときに詳しくしたりしている。なんて説明も、俺にとっての軽量化なんだけどな。

 あの人の友達は、タイで出産した。当然だと僕は思うよ。あの人の気持ちとしては、日本で産んで欲しかったようだけどね。それって、国交上も色々と難しいそうだよ。日本で産んだら誰だって半分は日本人なんだからね。

 奴の言葉は、ちょっと足りない。外国人が日本で子供を産むと、日本人になれる権利があるってことなんだ。って言っても、それは日本人の立場での話で、国によっては、どこで子供を産んでも、親の国籍しかもらえないって国もあるんだよ。なんて、余計な雑談だな。

 あの人の友達は、タイのあの人の実家で出産前から暮らしていたんだ。出産後もそうだよ。ずっと、あの人の家族が世話を見ていたんだ。当然だよね。生まれた赤ん坊は、あの人の血は受け継いでいても、友達の血は受け継いでいない。けれどさ、産みの苦しみって、絶大なんだよ。産んでない人に、それは分からないんだ。苦しみだけじゃなく、その感動もね。だから僕は、あの人の友達の気持ちも理解ができるんだ。

 俺には分からない感動だけど、男には男の苦しみと感動があるのも確かだよ。俺は、子供が生まれて、価値観がまるで変わったからな。

 赤ん坊の面倒は、当然のようにあの人の友達が見ることになった。あの人の家族も手伝っていたよ。っていうか、本音で言えば、あの人の友達を追い出したいって気持ちだったようだよ。あの人は、友達に代理出産を頼む代わりに、結構な金額を支払ったらしいからね。産んだらお終い、そのつもりだったようだ。

 けれどさ、って始まると、俺は待っていた。しかし奴は、そこで話をとぎってしまった。

 あの人の子供はさ、そりゃあ本当に可愛いんだよね。なんていうかさ、ハーフっていうのはずるいよな。特にアジアとヨーロッパのハーフはね。

 話が奴の言うあの人の子供へと転換された。俺としては驚いたが、どんな子なのか興味があったんだ。そのまま話に聞き入ったよ。

 精子バンクってさ、相手の顔は分からないけど、その情報はきっちり記されているんだってさ。国籍はもちろん、身長や体重、肌の色も、家族構成もだよ。学歴はもちろんのこと、IQまで書いてあるんだってさ。けれどさ、見た目や性格などについては大雑把だって言っていたよ。あの人にはピッタリだと思ったね。なんていうかさ、あの人好みの場所だったんだろうね。

 俺にはよくわからないが、精子バンクにも色々とあるそうだよ。行政だったり、民間だったり、営利目的だったり、非営利団体だったり。国によって法律も違うらしいんだ。なんだか難しいんだよ。まぁ、命を扱っているんだから、当然だよな。っていうか、その割には簡単すぎるか?

 ヨーロッパ人を選ぶあたり、あの人はミーハーなんだよな。確かだけどさ、オランダ人だとか言っていたな。あの人はさ、オランダ代表のサッカー選手のファンだとか言っていたんだ。

 そういう理由だって、ときにはありだろ? 悩みを解決するには、そういった単純な発想が必要だったりするんだ。

 あの人の赤ん坊の可愛さは、僕にも伝わるくらいだからさ、あの人の友達も手放したくなかったんだろうね。ちょっと強引にあの人の実家に居座り、かなり強引にあの人を説得したんだ。

 話がようやく戻ってきた。

 子供が産まれてからも、あの人はいつも通りだったよ。実家には毎日連絡はしていたけれど、会いにはいかなかった。なにを考えているんだって思ったけどさ、裏で恐ろしいことをしていたんだよ。

俺はいつでも子供に会いたい。できれば今も、一緒にいたいよ。自分の子供と会えない時間が続けば、いつも通りになんていられない。それでも仕事をするっていうのが、男の哀しい性だな。

 あの人はさ、子供と一緒に暮らすため、自分を変えたんだ。本人はそうじゃないというけれど、僕にはそう感じられる。もっと簡単な方法は、いくらでもあったはずなんだ。それが証拠に、こんな現実が待っていたんだからね。

 どんな現実かは、すぐにわかったよ。哀しいというか、苦しい現実だよな。

 子供を日本に呼びたい。けれど一人では育てられない。友達は子供の権利を主張し始める。そうだ! って思いついちゃったんだよ。男になればいいんだってね。元々男の人への憧れはあったんだよね。まともな恋愛はしたこともなかったようだし、女の人と一緒にいるのが自然だとも言っていたよ。なんだか僕からしてみればいまいちな言葉だけどさ、本人はそれだけの理由で性転換をしたんだよ。手術をして、ホルモンを打ちまくってね。戸籍も変更したんだよ。僕は知らなかったけどさ、いつの間にか日本国籍まで取っていたしね。それから仕上げに、その友達と結婚までしたんだよ。式をあげるとかじゃなく、書類上のね。それでようやく、日本に呼び出し、あの人は満足したんだ。憧れの妹に追いついたとでも思っているのかもね。おかしな発想だけど、これが現実なんだ。おかげで家族はめちゃくちゃだよ。僕まで巻き込んでね。なんせさ、あの人は、子供を産むときも直前まで内緒にしていたんだ。性転換のことは、隠し通そうとしていたくらいだからね。どこまで本気だったのかは疑わしいけどさ。子供とその友達を日本に呼ぶときさ、不安だったのか知れないけど、自分の母親も一緒に呼んだんだ。バレないわけがないんだ。僕から見ればそれほど変わった感はないんだけどさ、家族が見れば一目瞭然ってやつだよ。それに、あの人の友達が持っていた書類には、はっきりと渡航理由が書かれていたんだ。

 衝撃の展開ってやつだけど、奴は淡々と話を続ける。

 まぁさ、家族との問題があったりしたけどさ、それはそれで上手く転がり始めたんだよね。あの人にとっては、だけどさ。家族を持つってことはさ、それだけで幸せなんだよね。

 なぜだか奴は遠くを見つめる。

 あの人は男ってやつをちょっと勘違いしているんだよね。太っていてだらしない。仕事も適当で、お金さえ稼げばそれでいい。なんて考えているんだよ。だから男になろうとしたんだよ。

 そんな話には、素直に頷けないよな。そんな男もいるが、そうじゃない男もいる。色んな男がいるんだよ。どんな男になるのかは、個人の問題ってことだ。

それを証拠にさ、あの人は仕事を適当にこなすようになってしまったんだ。朝起きられないとすぐに休む。ちょっと用があっても休む。有給はすぐになくなるそうだよ。もう勤めて十年目だよ。溜まっていた有給は出産や手術のために使い切っていたからさ、それでも毎年二十日間くらい貰えているっていうのに、よくクビにならないよね。さすがは大手ってとこかな。期待されていた仕事もさ、自分から辞退したらしいしね。楽な部署に移動させてもらったらしいよ。まぁさ、それが男になったからってのが、あの人なりの言い訳なんじゃないかなって思うんだ。

 そういう人間はどこにでもいるってことだ。国籍も男女も関係ない。俺はそう思うよ。

 まぁ、それでもよかったんだ。周りはどうであれ、三人は上手くいっていたようだからね。って言っても、先週までは、なんだけどさ。なにがどうこじれたのか、あの人の家族は今、バラバラなんだ。友達が子供を連れて逃げ出しちゃったんだ。あの人は慌てまくってさ、義理の姉さんに連絡してきたんだ。誘拐かもしれない。なんて言っていたくらいだよ。まぁ、その義理の姉さんも慌てて僕に連絡してきたんだけどね。義理の姉さんはさ、あの人との間になにかあると、どういうわけか僕に連絡してくるんだ。兄貴によりも先に、だよ。

 なんだか奴は、誇らしげにそう言った。そして奴は、その友達と赤ん坊を探しているそうだ。当てはなく、見つからない。困って俺に話を聞かせたってところだ。もちろん面と向かっての依頼はしてこない。奴も自身での捜索はやめないだろう。

 僕はさ、あの人のためにやっているわけじゃないんだ。だってさ、こうなったのは結局、あの人のせいだからね。可哀想なのは子供だよ。あの子のために、探しているんだ。この先のことはわからないけれどさ、こんな別れはよくないからね。一度ちゃんと、顔を合わせる必要はあるよね。

 俺もそうだが、奴の考えでは事件性はないとの判断らしいな。単純な家出だよ。そう考えるのが一番自然だったよ。

 義理の姉さんのためにも、早く見つけないとね。毎日何度もさ、泣きながら電話がかかってくるんだ。義理の姉さんの哀しむ姿は、見たくないよ。

 そう言って奴は立ち上がり、ちょっとの言葉を残して立ち去った。さぁて、どうするもんかなと悩んだよ。この街に暮らす外国人は多いからな。まぁ、俺の知り合いも多いから、なんとかなると思ったよ。

 直接の事件性はなかったが、この世界は事件で溢れているんだろうな。別の事件が絡み、何人かが捕まってしまったよ。悪いことをする奴は、案外と身近に存在する。

 俺はこの街にあるタイ人街に足を運んだ。今はたいしたことないが、以前は多くのタイ料理屋や食品店や雑貨屋が立ち並んでいたんだよ。それなりに有名だったが、なんでだろうな? 次々に店が潰れて、今では二・三件が残っているだけだ。

 俺は一軒の店に入り、ヤムウンセンとハイネケンを頼んだ。知っているか? 東南アジアで一番人気のビールはハイネケンだったりするんだ。もちろんシンハーも美味いけど、俺の知り合いのタイ人は、たいていがハイネケンを頼むんだ。

 今日はなにか用があって来たのか? あんたが一人で来るなんて珍しい。

 俺の席の向かいに、ちょっと怪しい小太りのおでこから頭の天辺までが禿げ上がった小っちゃなおっちゃんが腰を下ろした。日本語が上手で見た目は中国人みたいだけど、立派なタイ人なんだよ。昔からの知り合いだ。俺の歌を、気に入ってくれた数少ない一人だからな。

 ある人を探しているんだ。おっちゃんなら知っていると思ってさ。

 ふん! また厄介ごとに首を突っ込んでいるのか。あんたも懲りないな。言っておくがな、タイ人を敵に回すなよ。この辺でも最近、新宿から流れたタイ系マフィアが幅を利かせ始めているんだからな。

 おっちゃんは身を乗り出し、額を俺の顔に近づけた。ふんっ! と鼻をならし、ヤムウンセンのエビをつまんで口の中に放り投げた。

 そんなことは百も承知ってことか。まぁあんたのことだ。上手くやるとは思うがな、あまりこの街に刺激を与えないでくれよな。

 俺はただ、あぁと息をこぼして頷くだけだ。そんなことはわかっているが、そう思い通りにはいかないのがこの街の常なんだよ。

 ヨーロッパ系の顔をした大きな赤ん坊を抱いたタイ人女性。それだけ言えばわかるだろ? どこにいても目立つはずだからな。これだけ探して見つからないってことは、誰かが匿っているのか、国に帰ったかのどちらかだ。俺は、まだこの辺りにいると思っているんだけどな。

 俺はおっちゃんの顔を見ず、ヤムウンセンとビールを口に放りながら喋っていた。少しの間を置き、少しの嘘を混ぜながらな。なんせ俺は、少しも探し回っていなかったんだよ。

 ・・・・あれを探しているのか。あんたは本当に鼻が効くな。

 おっちゃんはそう言うと、椅子に深く背を凭れかけ、懐からタバコを取り出し、火を点け、煙をブワッと吹き出した。

 場所は教えてやるよ。まぁ、二人のことはあんたに任すが、問題は一緒にいる奴だな。あいつはそうだな、警察にでも放り投げとけばいいだろ。ああいうのが俺たち善良なタイ人の評判を下げているんだよ。

 そう言うと、店主に紙とペンを借り、簡単な地図と、そこに暮らす男の名前をタイ語とカタカナで記した。

 あんたがどんな風に関わっているのか知らないが、俺たちに迷惑はかけないでくれよ。まぁ、あんたならそんなこと分かっているだろうがな。

 おっちゃんは立ち上がり、皿に残っていた最後のエビを摘み、じゃあまたなと、エビを食べながら消えて行った。

 俺はすぐ、地図に記された団地に向かった。事態は案外とこんがらがっていたな。その部屋に、その友達はいなかったが、一人の中年タイ人がいたんだ。俺が話を聞く前に、俺の顔を見て逃げ出したよ。そいつは俺の顔を知っていたようだ。しかし、俺のことを探偵かなにかと勘違いしていたようだ。自分を捕まえに来たと思ったらしい。馬鹿げた話だ。悪いことをしている奴は、その後ろめたさでいつ何時でも不安を抱えて生きているんだなって感じたよ。

 俺はそいつを捕まえ、取り敢えずはその友達のことだけを聞き出した。簡単に吐き出してくれたよ。本来ならそこでお終いにしてもいいんだが、おっちゃんの言葉が気になった。あの言い方には裏がある。そう思った俺は、そいつを交番の二人に突き出したんだ。捕まえるつもりはなかったよ。そいつの正体を知ろうとしただけだ。

 結果、そいつはタイ人街でも迷惑扱いされていたチンケな犯罪者だった。この街のタイ系マフィアからも煙たがれていたんだ。違うグループの下っ端だったらしいな。日本人と偽装結婚をしてこの街にやってきたそうだ。ヤクザにもなれないチンピラに数百万を払って日本での戸籍を得たそうだ。そして更に、犯罪を重ねていた。盗んだクレジットカードの番号で、ネットで買い物をし、転売して儲けを得ていた。その商品の受け取り先に、その友達を住まわしていたんだ。困ったタイ人を見つけては、そこに住まわせ、受け取りをさせていた。警察に踏み込まれても自分だけは逃れようとのセコく浅はかな考えだよ。それまで上手くいっていたのは、たまたまだったんだ。奴は俺が突き出さなくても、数日後には捕まる予定に入っていたそうだ。逮捕のための証拠集めをしている最中に、俺からの連絡があったってわけだ。俺は、やっぱり運がいいようだ。

 しかし、その友達と赤ん坊に会うことはできたが、それでお終いとはならなかった。彼女は、奴の言うあの人の元には帰らないという。赤ん坊を一人で育てるつもりのようだ。国へ帰るのか? との質問には、曖昧に言葉を濁していたよ。

 俺は悩んだね。どうするべきなのか。正直、俺一人では答えが出せなかった。そこで俺は、奴のことを少し調べ、会いに行くことにしたんだ。

 奴はやっぱり、面白い。けれど、その秘密を知って、俺の悩みは深くなった。奴は、男じゃなかったんだ。奴もまた、性転換をしていた。多少の違和感はあったが、俺には男にしか見えなかったよ。

 奴が義理の姉さんから信頼されていたのは、姉と同じ穴のムジナだったからだ。そう思えば、色々納得できることがある。

 奴は俺の話を聞き、やはり俺のように悩んだよ。一応言っとくが、俺が奴の秘密を知っていることは伝えていない。

 僕が話をしにいけば、それでいいかな? 結果は不安だけど、あの人を連れて行くよりはいいよね?

 奴はそう言い、笑顔を浮かべた。俺に一緒に来てくれとの合図だったらしい。俺たちはそのまま、その友達と赤ん坊に会いに行ったよ。

嫌な事件に発展していく予感はあったよ。男と女の関係に赤ん坊が絡めば、普通に終わるとは思えないからな。

 その友達には、会えなかった。俺はその後も、一度も会っていない。なんていうか、予定通りだったんだろうな。俺が会いに行った直後にはもう、消えていたんだ。もともと荷物なんてなく、赤ん坊だけを抱えて逃げて行った。行く先は、名古屋だった。俺の調べじゃなく、奴が調べたんだ。首都圏を除けば、名古屋に一番多くのタイ人が暮らしているそうだ。

 まぁ色々あったけど、今はこれでいいんだと思うよ。

 奴がここに戻ってきたのは、最後に会ってから三ヶ月後のことだった。

 あれからあの人を名古屋まで連れて行ったんだ。義理の姉さんも一緒にね。あの人の友達はさ、名古屋に暮らす友達の家で世話になっていたよ。なんて言っていたかよくは知らないけどさ、親戚だって僕には説明したよ。いとこの奥さんのお兄さん? あの人とは初対面だったそうだけどね。二人はさ、なんだか怒鳴り合いながら話をしていたよ。僕は義理の姉さんとさ、隣の部屋で赤ん坊の面倒を見ていたんだ。哀しいよな。義理の姉さんはさ、目に一杯の涙をためて、鼻を真っ赤にさせてすすっていたよ。

 奴にはその話の内容がわからなかった。義理の姉さんにも、敢えて尋ねたりはしなかった。けれどなんとなく、想像はついたようだ。

 あの人は、赤ん坊を国に連れて帰ることにしたんだ。その友達とは、これからも会うことはないんじゃないかな。二人はさ、別れたわけじゃないんだよ。それだけは絶対嫌だと、その友達が言ったんだ。日本の国籍が欲しいんだってさ。それまでは、形だけでも夫婦でいる必要があるんだって。なんだか嫌になるよね。どんな形でもさ、愛があればそれでいいと思うんだけどさ、愛がないと、哀しすぎるよ。

 俺は奴の表情に、女を見つけてしまった。愛があれば形なんてどうでもいいか・・・・ そう簡単じゃないから、形にこだわるんだろうな。奴もそれは承知しているんだろうな。愛があるならさ、心が男でも女でも、見た目や身体つきとかも、どうでもいいんじゃないかって思うんだ。どんな形でもさ、産まれたままを受け入れればいいんだよ。それこそが愛なんだと、俺は思うよ。こんな言い方は乱暴だけどさ、結局、性転換もさ、形に拘っているだけなんだからな。

 今回はさ、本当にお世話になったね。ここの噂を聞いて会いに来たんだけど、本当に助かったよ。今度会いに来るときはさ、違った形でってのがいいかもね。

 奴はそんな言葉を残して消えていった。

 奴の言うあの人は、日本に戻って生活をしている。今ではホルモン注射をやめ、女性らしくとはいかないが、自分らしく生きているようだ。義理の姉さんとの関係も良好で、国の家族ともそれまで通りに戻ったという。年に何度か、子供に会うため国に帰っているそうだ。それ以外にも毎日、連絡はしているようだけどね。子供は家族全員で育てている。母親がメインで、兄弟たちが手伝っている。姉が二人に兄が一人いるって言っていたよ。大きな姪っ子もいるそうだ。

 その友達は名古屋で暮らし続けている。会うことはないが、連絡は向こうから一方的に来るそうだ。日本人になるまでは、絶対につながりを消さないつもりなんだろうな。義理の姉さんが言っていたが、奴の言うあの人はさ、ちょっと男っぽいところはあったが、中身は女の子だと言っていたよ。その友達の言葉に促されて、取り返しのつかないことをしたと、嘆いていた。

 詳しい話は、ここにやってきた義理の姉さんから聞いたんだ。奴が来た数日後にやってきた。

 色々ありがとう。彼女の言葉は、少し片言で、可愛らしい。その姿も、さすがは元モデルだ。二度目の出会いだったが、一度目は状況が状況で、彼女の表情は暗く、俺にも余裕がなかったから、あまり印象には残っていなかったんだ。けれどこの日の彼女は、とても印象的だった。奴から聞いていた話以上の女性だ。奴が惚れるのも、奴の言うあの人が憧れるのも無理がない。俺だって惚れてしまうよ。

 これからもたまに、会いに来るね。彼女はそう言い、笑顔を残して消えていく。奴の兄貴は相当いい男なんだろうな。そんなことを考え、彼女の後ろ姿を見送っていた。

 いい女だなって思うよね?

 俺の前ではなく、隣にチョコンと腰を降ろす影がそう言った。長い間ここに座っているけど、初めての体験だったよ。俺から誘った場合は別だけど、勝手に横に座ったのは、奴だけだ。

 今日はまた、いい女が続くものだな。俺のその言葉に、奴がはにかむ様子が感じられた。奴はこの日、自分らしい姿に戻っていたんだ。

 それって嫌味かな? それとも本気? だったらその気になっちゃうかもよ。

 なにを言っているんだと思ったが、意外に可愛いのは事実だよ。もともと奴は、男の姿のときから可愛らしい顔立ちだった。その声も、不自然に中性的だった。

 あんたは知っていたんだろ? 僕が女だってさ。奴がそう言ったが、俺は笑顔を見せるだけで頷きはしなかった。それでも真意は伝わったんだろうな。

 僕さ、これからはこうやって、自由に生きようかなって思うんだ。女でいるのも、悪くないものだよ。まぁさ、男になりたければいつでもなれるんだしさ、自分らしくいるって、意外に簡単だったんだよね。男になるって決めたときさ、もう二度と女には戻れないんだって覚悟していたけど、それって無意味だったんだよ。僕は女として産まれたんだからさ。心が男とかどうとか、そんなのはどうでもいんだよね。この身体を受け入れて生きればいいんだよ。・・・・ってことにさ、ようやく気がついたんだ。

 今回は本当に難しい問題だったよ。この結末が最善なのかどうかは、俺には分からない。まぁ、分かるつもりもないんだ。当人にしか分からない問題だからな。

 けれどさ、言い方を変えれば、俺だってお前だって、誰にだって共通して抱えている問題でもある。心の問題を抱えずに生きていくのは難しい。

 今回は報酬がないかもなって、諦めていたんだ。それでも俺は構わない。金のためだけにここにいるわけじゃないからな。けれどまぁ、俺は運がいいんだ。

こいつをお前にってよ。

 そんな言葉と同時に、剥き出しの札束が三つ、飛んできた。

 お前はやっぱり鼻が効くな。オヤジが感謝していたよ。

 俺が顔を上げると、ちっちゃいけれど貫禄あるおっちゃんの姿があった。

 またいつでもヤムウンセンでも食いに来いよ。なるべく事件のないときに、ゆっくりとな。

 おっちゃんはそう言うと、踵を返した。俺はその背中に声をかけた。たまにはおっちゃんのおごりで頼むよ。

 おっちゃんは右手を上げ、禿げ上がった頭をぼりぼり掻いた。きっと、ぶつくさ独り言でも言っていたんだろうな。すれ違う人が、怪訝な表情を浮かべていたからな。お前の方が金を持っているじゃねぇかとか、なんとかな。

 俺への報酬は、タイ人街マフィアのボスからだった。俺が警察に突き出したあいつから、敵対する新興グループの全滅へと繋がったんだ。

 この街には多くの外国人が暮らしている。俺は思うよ。そんなことはどうでもいいんじゃないかって。そんなことよりもさ、この街には、色んな人間が暮らしている。そう言うことなんだ。

 こういう仕事をしているからなのか、俺は思うよ。人ってさ、誰もがたかだか人間で、誰もが似たようなものなんだ。けれどさ、誰一人として同じ人間なんていない。誰もが独立した個性を持っているんだ。みんなバラバラなんだよ。そんなバラバラな個性がこの世界で共同生活をしているんだ。だからこの世は面白い。そういうことなんだよ。

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